つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

最初の音

2013-11-15 01:18:15 | 日記
湯島の菊まつり。
3年前に友人と一緒に行って以来、翌年からは友人が遠方に引っ越してしまったためひとりで行っている。

菊の種類や、重たい花の頭を支える白い針金の支柱、一つひとつに付けられた賞、鈴なりにかかっている絵馬、猿の大道芸、狭い場所に並んだ少しの屋台、奇妙な和服の人形に飾り付けられた小ぶりの菊、おじさんおばさんの団体。
全体に咲いている菊の数も1つも違わないのではないかというくらい、毎年同じ光景がある。

行ったときにはもう夕暮れで、iPhoneを取り出してフラッシュを点けたり点けなかったりしながら立派な菊の花を撮る。

今日行って気づいたことがあった。
まだそれについて私はちゃんとは受け入れていないし、そんなに大それたことでもないかもしれないし、でもなんだか心がざわざわとした。
全般的に私が一番恐れていると言ってもいいことの類だ。

私、花に飽きてきたかもしれない。
飽きた、という表現が正しいのかはわからない。

これまでどんなに花にどきどきしてきただろう。
るんるんと花屋に行って、かわいい子を見つけては連れ帰り、長い時間花の写真ばかり撮っていた。
撮った花の写真たちを見返せば、その時の情景までが一緒に思い出せたし、私は自分で撮る花たちが好きだった。
遠く北海道まで花畑も見に行くし、自ら行きたいところの一番が花畑だった。
東信さんのフラワーアレンジメントも追いかけたし、東さん主催の教室にも行ったし、分厚い花集も買った。

その度に、あー好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ、と生々しく本気で思ってきた。
芍薬の中に入れるのなら、虫になりたいと本気で思っていた。
何度もなんども、花を見てぎゅうっとなってきた。

確かに今でも好きは好きだけれど、ものすごくどきどきするというようなことがなくなった。
先日退職のお花をいただいたときもそうだった。
大好きな花束をいただいて、奇声かため息か漏らすところが、そういうふうにはならなかった。
私は私に、あれ?と思った。
このことには少し前から薄々気付いていたけれど、怖いので無意識に見ないようにしてきたような気がする。

花畑には何度でも行きたいし、生花は私の部屋に彩りをもたらし続けるだろうけれど。
花の写真もまだまだ撮るだろうけれど。

今日、寸分の狂いもない湯島の菊まつりに出向いて、それは隠せない事実として突きつけられた。
嬉々と写真を撮っていたけれど、嬉々具合が全然違う。
私のことだから、私が一番よく分かる。

本当は、私は結構このことに怯えている。
そしておそらく人が想像する以上に私はこのことをものすごく悲しんでいる。
誰の慰めも、自分の慰めさえも効かない。
飽きてしまうということ、感動しなくなってしまうということ。

飽きないように努力してもたぶん無駄。
感じようと努力しても多分無駄。

自分の心なのに、自分で操れない。

でも私は、好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ、と思えるものに、触れたくて、その中に入りたくて、味わいたくて、それを理由に生きている。
それなのに、その一片を失くしてしまうのはある種の失恋なのではないかと思う。

今私が、好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ、と思っているものたちもそのような時が来るのだろうか。
新しくて良いものを探し続けて、いくつもいくつも、自分に合わないと投げ捨て続けるのだろうか。
またその途中で私の心を引っ掴んで離さないくらい、好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ、という何かが現れるだろうか。

飽きてしまうことに怯えて、それを小出しにして出し惜しみしながら味わうようなことは馬鹿の極みだ。

心が言うことを一生懸命聴いてあげるしかない。
それが、今の私にとって、「強く生きる」ということかもしれない。

それを無視し続ければ、本当に感動することに立ち会ったときに心がジャンプしなくなってしまうだろう。
私のもの、私の心。