いよいよ今世紀=21世紀編です。昨日一昨日の勢いで書くと最低2日以上掛かりそうなので、さぁーーっと書きます(爆
それまで「音楽家のリスク」を一切考えずに批評&評論を延々と続けてきた(垂れ流してきた?)私高本が初めて「主宰」した演奏会である。 川上敦子の本領が最大限に発揮された演奏会になった。 聴きに来てもいなくて、ごちゃごちゃ言う人は来年早々くらいにCD発売するから、購入して聴いてから言って下さい(爆
初めての「冬の北海道」で、やたら道で滑って転んだ記憶ばかりが多い。元々弱い頭も打った様子で、記憶が定かでないが、とにかく「音更の冬は厳しい」ことが印象深い。 懇親会に行ったら、皆様がにこやかで「フツーうじゃん」の表情していたことが今でも記憶に残っていますが。
「日本組曲」の「盆踊」を伊福部昭先生&川上敦子の出身校 = 『音更小学校』のピアノで弾いて、録音を持って 東京の伊福部昭先生宅へ持って行ったのが、確か同月。川上敦子 と共に、尾山台の坂道を「ここで合っているよね?」と言いながら(不安と共に?)下って行ったことを憶えています。寒かったです。
続けて「伊福部昭先生89才誕生日コンサート」を音更で開催。北海道開墾以来の快挙だったと思う。「日本組曲」のオリジナル版が初めて鳴った日でもある。(終曲に市販楽譜には間違いがある)
この演奏会が、文化功労者受賞の伊福部昭先生を実質的に褒め称える演奏会となった。川上敦子の演奏が冴え亘った! (← これが 最終だった)
キャンセルした川上敦子のピンチヒッターとして、私高本生涯のテーマかも知れない『シューベルトピアノ全曲』第1回を演奏してくれた。
スクリャービン → ショパン → シューベルト の曲順。私高本の準備不足は明らか。 CDも間に合わなかったし(川上敦子のデビューでは間に合わせた)。 スクリャービンは良かったが、ショパンはちょっと問題あり。
・・・で、祈るように聴いたシューベルトが信じられないほど素晴らしかった。何でだろ? よくワカラン。
数日前から、相当心配していた。二子玉川高島屋でご令嬢の 伊福部玲 さんと会話したこともウスボンヤリとしたアホな頭に思い浮かぶ。何話したのか? は思い出せない。2月8日死去。
・・・で、既に決まっていた「2006年5月31日 東京文化会館リサイタル」について、川上敦子 → 佐伯周子 に変更したことは(大半の人にはどうでもいいことだろうが)私高本にとっては印象深い。 心労の余り、伊福部昭先生と共に居なくなってしまいそうだったほどやつれていた 川上敦子 も、先日の音更のリサイタルを開催できるほど回復しており、本当にうれしい限り! 伊福部昭音楽を伝えてる伝道師になって下さい。
・・・で、「亡くなった近々の5月の31日の演奏会」をどうするかが、プロデューサー = 私高本秀行 に科せられた課題となった。 まあ、普通に考えれば「中止」なんでしょう。 その時に「弾けますよ!」と言ってくれたのが佐伯周子。 技巧的に難しい曲ばかりなので、1ヶ月弱見守っていたが
であった。う~ん、「デイリー」 → 「PMJ」もこの時期である。
信じられない速さの駆け足で「21世紀のPMJ」を見たが、(私高本自身も信じられないことに)
である。 マジ? う~ん、明日以降の PMJ は佐伯周子次第かも知れない(爆
統計を取ると、「主観」が後退し、「客観」が前に出てくる。私高本が 佐伯周子 以前にはどんなに罵倒を浴びても決して降ろさなかった看板 = 「旧デイリー」 を佐伯周子登場と共にあっさり降ろしてしまった。
佐伯周子は、個人的には、『もっと良い演奏があるのでは?』と思う瞬間が多いが、川上敦子と 1廻りくらい違う(佐伯周子の方が若い)ので、熟慮ばかりを求めるのでは、私高本がプロデューサー失格となる。佐伯周子の指が廻るか廻らないかは「曲で聴いてみなくてはワカラン」である。 少々「相性が強いタイプのピアニスト」である。 やや、誇張したことを言う瞬間(があるような気がする)が、通常の人間が推測できないようなスピード『曲を仕上げる』能力がある。潜在的なモノかも知れない。 私高本にはワカラン。 来年 8月8日の演奏会をキチンと「シューベルトファン」納得の水準にしてほしい、が今の偽らざる願いである。仕上がりの速さに自信があるからか、既に取り組んでいるのか? まだなのだろうか? 佐伯周子 よ、答えてほしい(爆
21世紀の転機
転機4:川上敦子デビュー = 2001年4月28日
それまで「音楽家のリスク」を一切考えずに批評&評論を延々と続けてきた(垂れ流してきた?)私高本が初めて「主宰」した演奏会である。 川上敦子の本領が最大限に発揮された演奏会になった。 聴きに来てもいなくて、ごちゃごちゃ言う人は来年早々くらいにCD発売するから、購入して聴いてから言って下さい(爆
転機5:2003年2月 北海道音更町立音更小学校創立100周年式典
初めての「冬の北海道」で、やたら道で滑って転んだ記憶ばかりが多い。元々弱い頭も打った様子で、記憶が定かでないが、とにかく「音更の冬は厳しい」ことが印象深い。 懇親会に行ったら、皆様がにこやかで「フツーうじゃん」の表情していたことが今でも記憶に残っていますが。
「日本組曲」の「盆踊」を伊福部昭先生&川上敦子の出身校 = 『音更小学校』のピアノで弾いて、録音を持って 東京の伊福部昭先生宅へ持って行ったのが、確か同月。川上敦子 と共に、尾山台の坂道を「ここで合っているよね?」と言いながら(不安と共に?)下って行ったことを憶えています。寒かったです。
続けて「伊福部昭先生89才誕生日コンサート」を音更で開催。北海道開墾以来の快挙だったと思う。「日本組曲」のオリジナル版が初めて鳴った日でもある。(終曲に市販楽譜には間違いがある)
転機6:2004年5月16日 すみだトリフォニーホール「伊福部昭個展」
この演奏会が、文化功労者受賞の伊福部昭先生を実質的に褒め称える演奏会となった。川上敦子の演奏が冴え亘った! (← これが 最終だった)
転機7:佐伯周子デビュー 2004年8月22日
キャンセルした川上敦子のピンチヒッターとして、私高本生涯のテーマかも知れない『シューベルトピアノ全曲』第1回を演奏してくれた。
スクリャービン → ショパン → シューベルト の曲順。私高本の準備不足は明らか。 CDも間に合わなかったし(川上敦子のデビューでは間に合わせた)。 スクリャービンは良かったが、ショパンはちょっと問題あり。
・・・で、祈るように聴いたシューベルトが信じられないほど素晴らしかった。何でだろ? よくワカラン。
転機8:2006年2月8日 伊福部昭先生死去 → 5月31日 川上敦子の心労降板 と 佐伯周子 の代打
数日前から、相当心配していた。二子玉川高島屋でご令嬢の 伊福部玲 さんと会話したこともウスボンヤリとしたアホな頭に思い浮かぶ。何話したのか? は思い出せない。2月8日死去。
・・・で、既に決まっていた「2006年5月31日 東京文化会館リサイタル」について、川上敦子 → 佐伯周子 に変更したことは(大半の人にはどうでもいいことだろうが)私高本にとっては印象深い。 心労の余り、伊福部昭先生と共に居なくなってしまいそうだったほどやつれていた 川上敦子 も、先日の音更のリサイタルを開催できるほど回復しており、本当にうれしい限り! 伊福部昭音楽を伝えてる伝道師になって下さい。
・・・で、「亡くなった近々の5月の31日の演奏会」をどうするかが、プロデューサー = 私高本秀行 に科せられた課題となった。 まあ、普通に考えれば「中止」なんでしょう。 その時に「弾けますよ!」と言ってくれたのが佐伯周子。 技巧的に難しい曲ばかりなので、1ヶ月弱見守っていたが
仕上がりが 川上敦子以上!
であった。う~ん、「デイリー」 → 「PMJ」もこの時期である。
信じられない速さの駆け足で「21世紀のPMJ」を見たが、(私高本自身も信じられないことに)
最も大きな影響を与えたのは 佐伯周子!
である。 マジ? う~ん、明日以降の PMJ は佐伯周子次第かも知れない(爆
統計を取ると、「主観」が後退し、「客観」が前に出てくる。私高本が 佐伯周子 以前にはどんなに罵倒を浴びても決して降ろさなかった看板 = 「旧デイリー」 を佐伯周子登場と共にあっさり降ろしてしまった。
佐伯周子は、個人的には、『もっと良い演奏があるのでは?』と思う瞬間が多いが、川上敦子と 1廻りくらい違う(佐伯周子の方が若い)ので、熟慮ばかりを求めるのでは、私高本がプロデューサー失格となる。佐伯周子の指が廻るか廻らないかは「曲で聴いてみなくてはワカラン」である。 少々「相性が強いタイプのピアニスト」である。 やや、誇張したことを言う瞬間(があるような気がする)が、通常の人間が推測できないようなスピード『曲を仕上げる』能力がある。潜在的なモノかも知れない。 私高本にはワカラン。 来年 8月8日の演奏会をキチンと「シューベルトファン」納得の水準にしてほしい、が今の偽らざる願いである。仕上がりの速さに自信があるからか、既に取り組んでいるのか? まだなのだろうか? 佐伯周子 よ、答えてほしい(爆