6日、DCでトランプ支持派によるデモが予告どおり行われ、暴徒化した一団が連邦議会議事堂に乱入、阻止しようとした警官を含めて5人が死亡する事件が起きた。前代未聞の事態である。6日は議会が大統領選挙の投票結果を承認する手続きが行われる予定で、トランプはそれを潰そうと狙ったのだが、共和党議員から寝返りが出て承認は無事行われ、トランプが糾弾され孤立化する展開となった。その後、ツイッター社が7日にトランプのアカウントを一時凍結、さらに8日に永久凍結する衝撃が起きる。週明けの11日には民主党が弾劾決議案を下院に提出、同時にペンスに対してトランプの大統領罷免を求める決議案を出し、24時間以内に罷免するよう迫る息詰まる進行となっている。年明けからアメリカ政治が激動した。日本国内のマスコミ報道やネットの記事投稿では、この事件をトランプのクーデター未遂として断定し総括する本質的な議論がなく、隔靴掻痒で脱力の気分にさせられる。政治ジャーナリズムの基本的な視角と水準がない。これは典型的なクーデター未遂の政治であり、トランプが杜撰なクーデターに失敗した図だ。
トランプの思惑は、デモ隊の圧力によって共和党議員の過半と大勢を選挙結果不承認に導き、ペンスを不承認の判断に追い込み、連邦議会での承認成立を潰すことだった。あわよくばペロシなど民主党幹部を包囲拘束して、全共闘や解同やしばき隊がやるような、集団で威嚇恫喝して暴力的に吊し上げる嗜虐行為まで悪巧みしていたのかもしれない。トランプが失敗した理由は、動員できたデモ隊の頭数が決定的に少なかったからである。報道では、議会に押しかけた人数は数千人とされている。たった数千人のデモ参加者ではクーデターは成功しない。トランプの目的を達成するためには、ルーマニアでチャウシェスクを失脚させたほどのボリュームの、数十万人の親トランプの群衆が議事堂を押し囲む必要があった。年末に計画され布告された6日の「ワイルドなデモ」は、動員人数こそが鍵であり焦点だったが、呆気ないほどの少人数しか集まらず、暴徒による議会突入と乱暴狼藉という、アルメニアで行われた程度の些末で卑小な騒ぎで終わった。不首尾を見たトランプは逃げに回り、逃げに回ったトランプを民主党と連邦政府・連邦警察が追い詰めるバトルとゲームの顛末になっている。
トランプと反トランプ側との攻防は選挙後からずっと続いていたが、集票結果に難癖をつけて巻き返す作戦が奏功せず、破綻し、徐々にトランプ側が後退する形勢になっていた。11月の時点では、ジョージア州上院の決選投票は共和党有利という下馬評が流れ、最悪でも1議席は取ってトリプルブルーを阻むだろうと予想されていた。だが、情勢の空気は徐々に変わり、トランプへの支持が弱まり、2議席とも民主党が接戦を制する結果となる。勝負を賭けた「ワイルドなデモ」、すなわち暴動・クーデターの扇動は空振りに終わり、政局はトランプ失脚という方向に傾くことになった。8日のツイッターアカウントの永久停止は重大な場面で、戦略弾の砲撃と炸裂の瞬間だった。機を逃さず攻めに出た反トランプ側の渾身の一撃と言えるだろう。トランプの権力の源泉はツイッターであり、ツイッターこそがトランプの権力装置だったからだ。まさに失権。まさに無力化。トランプは反撃できないまま守勢に立たされ、20日に向けての政治時間で主導権を握れない窮地にある。反トランプ側が手を狭め、匍匐前進して距離を詰めている。トランプ派の司令部を攻略し、トランプに降伏を迫る刻一刻の政局となっている。
おそらく、反トランプ側はトランプの逮捕を政治目標にしている。アメリカ政治の今後のフォーカルポイントはトランプ逮捕である。恩赦と引き換えの辞任という、ニクソンとフォードのときの妥協的決着はないと私は予想する。アメリカの病んだ政治の再生は、トランプの逮捕投獄によってトランプを悪として全否定すること、そして、トランプの政治的影響力を殺滅することで国民統合と倫理復活を図るしかない。それ以外の問題解決の方法はない。外科手術しかない。トランプの白旗降伏とは、トランプが逮捕起訴を受け入れることだ。罪人としてギブアップすることだ。そこへ反トランプ側が追い詰めている。ニクソンの場合は、弾劾の理由は不正・犯罪といういわば個人的な問題だった。トランプの場合は、トランプが辞任して引退し隠遁すれば万事片づくという問題ではない。トランプの背後にはトランプ主義者の岩盤の存在があり、しかもその勢力が全米で数千万人規模に及ぶほど巨大だ。今は曖昧ではあるけれど、トランプ党には理念と目的と意思があり、それを実現するにはトランプというカリスマを欠くことができない。トランプ党の理念は、野党になることで先鋭になり鮮明になってしまう。その流れの放置は、アメリカを分断から分裂へ、内戦と解体へ追い込んでしまう。
アメリカの分裂と解体を阻止するためには、トランプを政治的に排除し殲滅しなくてはならない。逮捕したとしても、そこで闘争が止むわけではく、そこからアメリカ政治は新たな苦悶と葛藤が始まるに違いないが、アメリカ政治の再生のチャレンジとしては、トランプという癌に外科手術のメスを入れ、レーザーで癌細胞を焼き、辛くて消耗する副作用に耐える抗癌治療を続けるしかない。トランプ主義の信者たちに、トランプがいかに国益を毀損する愚かな疫病神であり、市民社会を破滅に導く公共敵であり、そのイデオロギーがいかに邪悪で害毒であるかを教え諭して、洗脳と盲信から解放するしかない。今後、政治のプロセスとしてそうした厳しい行程が見通される。いずれにしても、アメリカ政治はトランプ以前のマイルドな世界に戻ることはない。茨の道だ。
今回のクーデター未遂事件を、世界の人々は、特に南米やアジアの新興国・途上国の人々はどう見たことだろう。かかる醜い政治の混乱や迷走と並行して、アメリカはコロナの収束・制御に失敗している。世界で最も感染者数が多いのがアメリカで、死者数が多いのがアメリカだ。世界一の富裕な経済大国で、ワクチンの開発も率先して進めているアメリカが、インドやブラジルよりも多い感染者と死者を出し、ワーストの記録更新を続けている。1年も経ったのに、アメリカは最悪国の位置から脱出できず、右往左往して、医療崩壊と経済縮小の禍を続けている。この現実は、アフリカなど途上国の人々からは不思議な光景に見えるだろう。その一方、コロナの制御に成功しているのは中国で、どう見ても中国の感染対策の方が科学的・公衆衛生的に優れている。成果を見事に出しているし、教科書に忠実な防疫行政を行っていて、早期検査・早期隔離・早期診断・早期治療のシステムが成功裡に動いている。それを可能にする圧倒的な科学技術力のリソースを持ち、知恵と勇気のある現場の人材と結束力を持っている。コロナと対抗する底力が確かで、対策の指針に誤りや迷いがない。その力を自国の対策だけにとどめるのではなく、貧しい国々にマスクや防護服を無償で提供し、開発したワクチンを供給してやっている。この中国とアメリカのコントラストを、途上国・新興国の庶民はどう評価するだろう。
今回の事件について辺見庸は、「議会占拠を米国民主主義の崩壊などと息まなくても、United States of America にそもそもデモクラシーなどあったかいなと疑るほうが、この際、至当でありんす」と言い、辛辣な批評を加えている。私はそこまで言うつもりはないが、現代日本の異常な「リベラル・デモクラシー」礼賛と、過剰な「アメリカン・デモクラシー」拝跪の精神態度に対して、冷や水を浴びせる出来事にはなっただろうと効果を思う。日本のアメリカ民主主義への盲目的な信仰は、サティアンで狂気するオウム信者の視野狭窄の如きであり、冷戦前の東欧諸国で見られたソビエト社会主義に対する崇拝と追従そのものだ。その「認識」は今はすっかり「普遍的に確立」してしまったが、25年前は決してそうではなかった。25年前の日本人は、アメリカ民主主義の体制と思想を絶対視したりはせず、それを民主主義の一類型として相対視して捉えていた。日本の政治のめざすべき理想像などと言って仰いでいたのは、前原誠司など一部にすぎなかった。当時の日本の思想的指導者は司馬遼太郎だが、司馬遼太郎がアメリカ民主主義をどう考えていたかを想像すれば、私の主張の自己内検証になるだろう。今回の事件について、リバタリアンとコミュニアタリアンがどうのと理屈を並べて弁舌を立てる内田樹の言説商売よりも、彼の国にデモクラシーなんぞあるのかいと突き放す辺見庸の冷笑と罵倒の方が、私には当を得た反応のように感じられる。
トランプの思惑は、デモ隊の圧力によって共和党議員の過半と大勢を選挙結果不承認に導き、ペンスを不承認の判断に追い込み、連邦議会での承認成立を潰すことだった。あわよくばペロシなど民主党幹部を包囲拘束して、全共闘や解同やしばき隊がやるような、集団で威嚇恫喝して暴力的に吊し上げる嗜虐行為まで悪巧みしていたのかもしれない。トランプが失敗した理由は、動員できたデモ隊の頭数が決定的に少なかったからである。報道では、議会に押しかけた人数は数千人とされている。たった数千人のデモ参加者ではクーデターは成功しない。トランプの目的を達成するためには、ルーマニアでチャウシェスクを失脚させたほどのボリュームの、数十万人の親トランプの群衆が議事堂を押し囲む必要があった。年末に計画され布告された6日の「ワイルドなデモ」は、動員人数こそが鍵であり焦点だったが、呆気ないほどの少人数しか集まらず、暴徒による議会突入と乱暴狼藉という、アルメニアで行われた程度の些末で卑小な騒ぎで終わった。不首尾を見たトランプは逃げに回り、逃げに回ったトランプを民主党と連邦政府・連邦警察が追い詰めるバトルとゲームの顛末になっている。
トランプと反トランプ側との攻防は選挙後からずっと続いていたが、集票結果に難癖をつけて巻き返す作戦が奏功せず、破綻し、徐々にトランプ側が後退する形勢になっていた。11月の時点では、ジョージア州上院の決選投票は共和党有利という下馬評が流れ、最悪でも1議席は取ってトリプルブルーを阻むだろうと予想されていた。だが、情勢の空気は徐々に変わり、トランプへの支持が弱まり、2議席とも民主党が接戦を制する結果となる。勝負を賭けた「ワイルドなデモ」、すなわち暴動・クーデターの扇動は空振りに終わり、政局はトランプ失脚という方向に傾くことになった。8日のツイッターアカウントの永久停止は重大な場面で、戦略弾の砲撃と炸裂の瞬間だった。機を逃さず攻めに出た反トランプ側の渾身の一撃と言えるだろう。トランプの権力の源泉はツイッターであり、ツイッターこそがトランプの権力装置だったからだ。まさに失権。まさに無力化。トランプは反撃できないまま守勢に立たされ、20日に向けての政治時間で主導権を握れない窮地にある。反トランプ側が手を狭め、匍匐前進して距離を詰めている。トランプ派の司令部を攻略し、トランプに降伏を迫る刻一刻の政局となっている。
おそらく、反トランプ側はトランプの逮捕を政治目標にしている。アメリカ政治の今後のフォーカルポイントはトランプ逮捕である。恩赦と引き換えの辞任という、ニクソンとフォードのときの妥協的決着はないと私は予想する。アメリカの病んだ政治の再生は、トランプの逮捕投獄によってトランプを悪として全否定すること、そして、トランプの政治的影響力を殺滅することで国民統合と倫理復活を図るしかない。それ以外の問題解決の方法はない。外科手術しかない。トランプの白旗降伏とは、トランプが逮捕起訴を受け入れることだ。罪人としてギブアップすることだ。そこへ反トランプ側が追い詰めている。ニクソンの場合は、弾劾の理由は不正・犯罪といういわば個人的な問題だった。トランプの場合は、トランプが辞任して引退し隠遁すれば万事片づくという問題ではない。トランプの背後にはトランプ主義者の岩盤の存在があり、しかもその勢力が全米で数千万人規模に及ぶほど巨大だ。今は曖昧ではあるけれど、トランプ党には理念と目的と意思があり、それを実現するにはトランプというカリスマを欠くことができない。トランプ党の理念は、野党になることで先鋭になり鮮明になってしまう。その流れの放置は、アメリカを分断から分裂へ、内戦と解体へ追い込んでしまう。
アメリカの分裂と解体を阻止するためには、トランプを政治的に排除し殲滅しなくてはならない。逮捕したとしても、そこで闘争が止むわけではく、そこからアメリカ政治は新たな苦悶と葛藤が始まるに違いないが、アメリカ政治の再生のチャレンジとしては、トランプという癌に外科手術のメスを入れ、レーザーで癌細胞を焼き、辛くて消耗する副作用に耐える抗癌治療を続けるしかない。トランプ主義の信者たちに、トランプがいかに国益を毀損する愚かな疫病神であり、市民社会を破滅に導く公共敵であり、そのイデオロギーがいかに邪悪で害毒であるかを教え諭して、洗脳と盲信から解放するしかない。今後、政治のプロセスとしてそうした厳しい行程が見通される。いずれにしても、アメリカ政治はトランプ以前のマイルドな世界に戻ることはない。茨の道だ。
今回のクーデター未遂事件を、世界の人々は、特に南米やアジアの新興国・途上国の人々はどう見たことだろう。かかる醜い政治の混乱や迷走と並行して、アメリカはコロナの収束・制御に失敗している。世界で最も感染者数が多いのがアメリカで、死者数が多いのがアメリカだ。世界一の富裕な経済大国で、ワクチンの開発も率先して進めているアメリカが、インドやブラジルよりも多い感染者と死者を出し、ワーストの記録更新を続けている。1年も経ったのに、アメリカは最悪国の位置から脱出できず、右往左往して、医療崩壊と経済縮小の禍を続けている。この現実は、アフリカなど途上国の人々からは不思議な光景に見えるだろう。その一方、コロナの制御に成功しているのは中国で、どう見ても中国の感染対策の方が科学的・公衆衛生的に優れている。成果を見事に出しているし、教科書に忠実な防疫行政を行っていて、早期検査・早期隔離・早期診断・早期治療のシステムが成功裡に動いている。それを可能にする圧倒的な科学技術力のリソースを持ち、知恵と勇気のある現場の人材と結束力を持っている。コロナと対抗する底力が確かで、対策の指針に誤りや迷いがない。その力を自国の対策だけにとどめるのではなく、貧しい国々にマスクや防護服を無償で提供し、開発したワクチンを供給してやっている。この中国とアメリカのコントラストを、途上国・新興国の庶民はどう評価するだろう。
今回の事件について辺見庸は、「議会占拠を米国民主主義の崩壊などと息まなくても、United States of America にそもそもデモクラシーなどあったかいなと疑るほうが、この際、至当でありんす」と言い、辛辣な批評を加えている。私はそこまで言うつもりはないが、現代日本の異常な「リベラル・デモクラシー」礼賛と、過剰な「アメリカン・デモクラシー」拝跪の精神態度に対して、冷や水を浴びせる出来事にはなっただろうと効果を思う。日本のアメリカ民主主義への盲目的な信仰は、サティアンで狂気するオウム信者の視野狭窄の如きであり、冷戦前の東欧諸国で見られたソビエト社会主義に対する崇拝と追従そのものだ。その「認識」は今はすっかり「普遍的に確立」してしまったが、25年前は決してそうではなかった。25年前の日本人は、アメリカ民主主義の体制と思想を絶対視したりはせず、それを民主主義の一類型として相対視して捉えていた。日本の政治のめざすべき理想像などと言って仰いでいたのは、前原誠司など一部にすぎなかった。当時の日本の思想的指導者は司馬遼太郎だが、司馬遼太郎がアメリカ民主主義をどう考えていたかを想像すれば、私の主張の自己内検証になるだろう。今回の事件について、リバタリアンとコミュニアタリアンがどうのと理屈を並べて弁舌を立てる内田樹の言説商売よりも、彼の国にデモクラシーなんぞあるのかいと突き放す辺見庸の冷笑と罵倒の方が、私には当を得た反応のように感じられる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます