月曜日に、「敬老の日」。
土曜日に、「高齢者虐待」1万2千600件の発表。
子供のころ、いじめに会い、年老いて虐待され、お前ら何考えとるんじゃい。ええかげんにせんかい! do aho.ahon*tare.doduitaroka!
「爺問題」卒業して、花や鳥を愛で、伝統文化の染や織、きものの話をすることにした吉天のブログは、またもや「爺問題」に憤りをぶっつけなければならなくなった。
虐待にも、それぞれ事情があってのことだとは存じるが、介護疲れ、認知症の対応、経済事情などで、肉体的虐待に、心理的虐待、介護放棄、などなど。当事者でないと分からない悩みや苦しみ。
生き地獄のような毎日から、周囲の人々が力をあわせて何とか救い出せないものか。
昔の日本には、「恥の文化」があって、つとめて『恥』をかかないよう日頃から自重して暮らした。ところが、近年差別用語として多くの言葉が消え去り、あからさまに、ののしられる事もなく、優しい言葉に置き換えられ、何をしようとも、何があっても、辱めを受けたり、『恥』を掻いたりしなくても済むようになった。
人権が尊重される代わりに、人々が「恥」を恥と思わなくなった。
卑近な例が、「ボケ」である。いつの間にか「認知症」といわれ偉くなったような気でさえいるが、「ボケ」はボケである。
「このボケ」といわれることが恥ずかしくて、呆けないように自分の頭を活性化して生きてきた。「認知症か、まァ、いいや。」その方が楽に生きられる。結果、進行して要介護にいたる。
ほかの差別用語も、この「ボケ」と「認知症」に置き換えると、恥を知る以前と「恥」を忘れた後に帰結する。
すべての差別用語を、昔のままの言葉に戻すと このブログは、攻撃で炎上する。(たいしたブログでもないので、そんなこたァーないが)
「人に後ろ指、指されるようなことはするな」こんな意見する親もいなくなった。
「恥ずかしいと思わんか。」 「ベツニ~」で済む平和?な世の中は、それで、ええんちゃう。
今度の総理、総裁は、仲良しクラブはやめて貰いたい。
国や民のために、全力を傾注してもらいたい。くれぐれも、途中で放りだすような「恥」知らずにならぬよう。