国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

ロシア極東旅行記:ハバロフスク編

2007年09月05日 | ロシア・北方領土
現在、旅行でロシア極東に滞在している。最初に訪問したのはハバロフスクである。

出発は新潟空港から。ダリアビア航空のツポレフ214型の飛行機で移動した。ロシアの飛行機と言うことで老朽化した飛行機かと思っていたら、驚いたことに、機体の下半分の貨物室は小型のコンテナが使用されており、乗客の預けた荷物は飛行機はそこに収納されていたようである。



ビジネスクラス12人(2-2配列)+エコノミークラス138人(3-3配列)の合計150人乗りで座席は8割方埋まっていた。機体のサイズも貨物収納方式もエアバス社のA321とほぼ同等だと思われる。

出発の遅れに加えてロシア到着後の入国審査・荷物受け取りで待たされ、空港の外に出たのは現地時間23時をとうに過ぎていた。当然ながら空港から市街地に向かうトロリーバス(運賃約50円)は終わっており、タクシー以外に交通機関はない。居合わせた日本人に聞くと深夜のタクシーの相場は30ドルというが、たった10km程度の距離とロシアの物価を考えると高い。タクシーの運転手はこちらの足下を見てか、50ドルとふっかけてくる。厳しい価格交渉の末、650ルーブル(約3500円)で決着した。ホテルに到着したのは午前0時を廻っていた。


翌日は夕方にウラジオストク行きの夜行列車で移動するまでの数時間、博物館やアムール川の川辺を廻って過ごした。極東博物館にはハバロフスク周辺で発掘されたマンモスの牙、先住民の作った石器や土器、動物の骨で作られた矢尻、動物の骨と筋で作られた釣り針などが展示されていた。渤海・金・清などの時代の展示もあった。

ハバロフスク市街地から見るアムール川の川幅は1kmぐらいだろうか?ただ、対岸は川の中州の島かもしれない。その奥に見える山は方向から考えてロシアのユダヤ自治州だろう。



日本の川と違って水の流れはほとんど分からない。川辺の砂浜では海と同じように波が打ち寄せていた。印象としては、川というより湖(例えば琵琶湖の南湖や霞ヶ浦、宍道湖など)の様に感じられた。遊泳禁止らしき看板のせいか、あるいは肌寒さのためかはわからないが、泳いでいる人も日光浴している人も見かけない。



川岸にある船着き場で遊覧船乗り場を発見したが、客が少なすぎるのでもっと集まるまで出航しないとのこと。がっかりして川岸を歩いていると、中露国境確定交渉で最後まで問題になり結局東西二分割されたボリショイ・ウスリースキー島に行く船を発見した。





ボリショイ・ウスリースキー島には幾つか船着き場がある様だが、地図と時刻表を見ると島の東端(島を二分する中露国境からは一番遠い)にあるP・ウスリースキーという船着き場への便が一日7便と豊富なのでそこに行くことにした。





船は全長20m程度だろうか?客は30-40人程度は乗っており、船室と甲板はほぼ満席だった。平日の昼間と言うこともあり、乗客の多くは中高年の男女だが、比較的荷物は少なかった。皆、島にあるダーチャ(別荘)に行く客らしい。料金は16ルーブル(約80円)で、出航してから20分程度ですぐにボリショイ・ウスリースキー島に到着した。





島といっても東西30kmもある巨大な島なので、大陸と区別が付かない。舳先から浜辺に渡された長さ数m、幅50cm程度の板の上を怖々歩いて上陸した。



船着き場の周囲には森に囲まれて沢山の家が見えた。ただ、塀や屋根が板張りの粗末な家が多く、冬季に寒さを凌ぐのは難しそうであった。基本的に夏場の別荘+農場なのだろう。



上陸した人々はすぐに各家々に散っていた。



入れ違いに船に乗り込んだ人々は、ダーチャで収穫したと思しき野菜などを抱えていた。次の船が3時間後らしいこと、船着き場から中露国境まで十数km離れておりとても歩いて行けないことから、私も島での滞在を十数分で切り上げてハバロフスクの街に戻った。

カフェでたまたま一緒になったロシア人に話を聞いた所では、ハバロフスクの人口の半分は中国人だという。しかし、街には東洋人らしき人々はほとんど見かけない。中国人はどこにいて何をしているのかと聞くと、バザールで働いているのだという。いくら何でも人口の半分ということはないだろうし、都市伝説の類ではないかと思われるが、中国人に対するロシア人の恐怖感を示している様にも思われた。

中露国境確定交渉では、中国側は国際航路の原則に従ってボリショイ・ウスリースキー島全てを中国領土にするように主張したらしい。もしこの主張をロシアが飲めば、私が訪れたP・ウスリースキーという船着き場付近の集落まで中国領土となり、ハバロフスクは中露国境の街になる筈だった。さすがにロシアは中国の主張に頑強に抵抗し、島の東西二等分で決着させているが、ハバロフスクが中露国境に余りに近接している危険性は変わりない。ロシア極東の政治の中心地であり、シベリア鉄道の重要な拠点でもあるこの街の未来はどうなるのだろうか、などと考えながらウラジオストク行きの夜行列車でハバロフスクを後にした。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大英帝国=国際金融資本の世... | トップ | ロシア極東旅行記:ウラジオ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿