●双子都市、ブラゴベッシェンスクと黒河
ブラゴベッシェンスクは人口100万人弱のアムール州の州都である。人口約22万人だから日本で言うと山梨県の甲府市か、あるいは福井県の福井市ぐらいの規模だろうか。ただ、街は道路が非常に広く、一区画も縦横共に100-200m程度あって土地を非常に贅沢に使っている。この点は北海道の町と少し似ている。冬場の雪対策なのかもしれない。
この町の最大の特徴は、アムール川を挟んで中国黒竜江省の黒河(ヘイヘ)市と隣接していることである。ブダペストやミネアポリス・セントポールと同様の双子都市であるが、国境を挟んでおりかつ移民の流入が問題になっている状況を考えると、サンディエゴとティファナの関係に似ている様に思われる。私の泊まったホテルはアムール川に面しており、部屋の窓から黒河の市街地が眺められるという絶好の場所であった。ホテルの客は中国人の団体客が半分ぐらいだろうか。ホテルに併設されたカジノの客はほとんどが中国人だった。
ホテルからアムール川沿いの道を西(川下)に向かって歩くと数分で黒河への連絡船の船着き場に到着する。船着き場はロシア人の担ぎ屋とそれを待ち受けている中国人・ロシア人の運び屋で溢れかえっていた。恐らくバザールで売る商品なのだろう。ただ、この船着き場にいる中国人たち(風貌・話し声から考えてアジア系ロシア人とは考え難い)がどの様な資格でロシアに滞在しているのかが非常に気になるところだ。官憲の目と鼻の先という場所で堂々と作業していることを考えると不法滞在とは考え難い。船着き場の工事現場でも中国人らしき労働者が多く見かけられた。中露間の何らかの取り決めで一定数の中国人労働者を受け入れているのだろうか?
●ブラゴベッシェンスクと満州・中国
ブラゴベッシェンスクの町の歴史はアジアと切り離せない。アムール川北岸を清がロシアに割譲した1856年のアイグン条約が結ばれたのは黒河近郊のアイグンである。1900年の北清事変(義和団の乱)の際にはこの町に済んでいた中国人(漢民族)が多数虐殺されると言う事件が起きている(ブラゴベッシェンスク市内の州立博物館に関連展示あり)。ロシア革命の際には日本軍が反革命勢力を支援するために進駐している。また、第二次大戦末期にはこの町は満州へのソ連軍侵入の拠点となった。アムール川沿いのレーニン広場には当時の軍艦が1945という数字と共に展示されていた。そして、ソ連崩壊後はこの町は中国製雑貨のロシアへの流入の一大拠点となっている。黒河市との距離の近さを考えれば、この町はアジアと関わるロシアを象徴する町と言えるだろう。多数の安価な工業製品を大量に生産し輸出する中国、安い賃金で勤勉に働く中国人を大量に密入国させる中国はロシアにとって脅威以外の何者でもないはずだ。
このようなロシア側の対中恐怖感は、満州が中国の一部であることが最大の原因である。逆に言うと、ソ連が満州国を攻撃し滅亡させたことが原因と言える。漢民族とは異なる満州族の皇帝を擁する満州国は中国とは別の国家であり、それがもし今日も存在しているならば、満州国はモンゴルと同様の中露間の緩衝国家になっていたことだろう。その場合、ロシアが中国から受ける恐怖感は大きく減少していたはずだ。
他の国家と同様、現在のロシアでは第二次大戦は連合国側である自国が正義の側であるという公式価値観が卓越している。軍事に関する博物館では1941-1945の数字と共に多数のソ連軍関連の展示が行われているし、それ以外にも1945年の勝利を祝う建造物が町中に点在している。しかしながら、少なくとも極東に関する限りソ連が第二次大戦で勝利したことは緩衝国家満州国の滅亡を引き起こし、結果として1960年代のダマンスキー島事件に代表される中露対立や現在の中露国境での「人口の浸透圧」問題を深刻化させている。ソ連の対日戦勝は結果としてソ連・ロシアに安全保障上の大きな損害を与えたとも言えるだろう。
●日本の国益の観点から日露戦争を再評価する
同様のことは日本の日露戦争での戦勝にも言える。南樺太はアムール川の河口に近く、それ故にロシアの安全保障上重要な地域であったと思われる。日露戦争での日本の勝利が、南樺太の奪還を目的とする未来の第二次大戦でのソ連の参戦を引き起こしたとも言えるのだ。また、日本とロシアが戦ったこと自体が日露両国の友好を破壊している。日本が日露戦争当時行った対露工作はロシア帝国内部の少数民族の独立運動を引き起こしており、ロシア帝国の崩壊と国際金融資本に支配された共産党によるロシア乗っ取り=ソ連建国の引き金となった。
もしロシア革命が起きていなかったならば、第二次大戦前の中国での反日感情暴発に対してロシアは日本と手を結んで対処してくれたことであろう。そのロシアが革命により国際金融資本に乗っ取られてしまったことは日本にとって致命傷であった。ロシア革命の引き金の一つが日露戦争でのロシア敗北であることを考えれば、日本の対露戦勝は結果として日本に安全保障上の大きな損害を与えたとも言えるだろう。我々日本人もまた、「日露戦争での日本の勝利は世界の有色人種に自信を与えた」という自尊史観から決別して、冷静に日本の国益の観点から日露戦争を再評価する必要があるのではないだろうか。
勝利の栄光を何としても手に入れたいという欲望は洋の東西を問わず非常に強いものであると思う。しかし、日本には勝利の危険さを戒める諺がある。勝利に慢心した気の緩み、勝者への妬みの危険さを示す「勝って兜の緒を締めよ」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などがそれに相当する。そして、「損して得取れ」というように、敗北の中で実益を追求することをよしする考えもある。
西洋の戦略が「敗北を恐れ、勝利を研究し追求する」ものであるとすれば、日本的戦略は「勝利を恐れ、敗北を研究し追求する」ものであるように思われる。日本に於いては、画期的な大勝利は屈辱の中に隠され、大勝利をもたらした偉大な指導者は汚名を着せられて失意の中で世を去るもので無くてはならないのではないか。その様な戦略を日本の支配階層は実行してきたし、現在も実行している様に私は想像(妄想)している。日本の支配階層は日露戦争が日本の国益に反していたことを理解しており、それを隠すために「世界の有色人種に自信を与えた」と主張し続けているのではないか、というのは私の勘ぐり過ぎだろうか?
●ブラゴベッシェンスクからアジアを眺める
壁越しに聞こえてくる隣室の中国人客の五月蠅い話し声を聞きながら、ホテルの客室の窓からアムール川とその対岸の黒河市街地を眺めつつこんなことを私は考えていた。中露国境の町ブラゴベッシェンスクからアジアを眺めると、日本から眺めた時とは違ったものが見えてくるからだ。地政学に関心のある皆さんには、ブラゴベッシェンスク訪問を是非お勧めしたい。
ブラゴベッシェンスクは人口100万人弱のアムール州の州都である。人口約22万人だから日本で言うと山梨県の甲府市か、あるいは福井県の福井市ぐらいの規模だろうか。ただ、街は道路が非常に広く、一区画も縦横共に100-200m程度あって土地を非常に贅沢に使っている。この点は北海道の町と少し似ている。冬場の雪対策なのかもしれない。
この町の最大の特徴は、アムール川を挟んで中国黒竜江省の黒河(ヘイヘ)市と隣接していることである。ブダペストやミネアポリス・セントポールと同様の双子都市であるが、国境を挟んでおりかつ移民の流入が問題になっている状況を考えると、サンディエゴとティファナの関係に似ている様に思われる。私の泊まったホテルはアムール川に面しており、部屋の窓から黒河の市街地が眺められるという絶好の場所であった。ホテルの客は中国人の団体客が半分ぐらいだろうか。ホテルに併設されたカジノの客はほとんどが中国人だった。
ホテルからアムール川沿いの道を西(川下)に向かって歩くと数分で黒河への連絡船の船着き場に到着する。船着き場はロシア人の担ぎ屋とそれを待ち受けている中国人・ロシア人の運び屋で溢れかえっていた。恐らくバザールで売る商品なのだろう。ただ、この船着き場にいる中国人たち(風貌・話し声から考えてアジア系ロシア人とは考え難い)がどの様な資格でロシアに滞在しているのかが非常に気になるところだ。官憲の目と鼻の先という場所で堂々と作業していることを考えると不法滞在とは考え難い。船着き場の工事現場でも中国人らしき労働者が多く見かけられた。中露間の何らかの取り決めで一定数の中国人労働者を受け入れているのだろうか?
●ブラゴベッシェンスクと満州・中国
ブラゴベッシェンスクの町の歴史はアジアと切り離せない。アムール川北岸を清がロシアに割譲した1856年のアイグン条約が結ばれたのは黒河近郊のアイグンである。1900年の北清事変(義和団の乱)の際にはこの町に済んでいた中国人(漢民族)が多数虐殺されると言う事件が起きている(ブラゴベッシェンスク市内の州立博物館に関連展示あり)。ロシア革命の際には日本軍が反革命勢力を支援するために進駐している。また、第二次大戦末期にはこの町は満州へのソ連軍侵入の拠点となった。アムール川沿いのレーニン広場には当時の軍艦が1945という数字と共に展示されていた。そして、ソ連崩壊後はこの町は中国製雑貨のロシアへの流入の一大拠点となっている。黒河市との距離の近さを考えれば、この町はアジアと関わるロシアを象徴する町と言えるだろう。多数の安価な工業製品を大量に生産し輸出する中国、安い賃金で勤勉に働く中国人を大量に密入国させる中国はロシアにとって脅威以外の何者でもないはずだ。
このようなロシア側の対中恐怖感は、満州が中国の一部であることが最大の原因である。逆に言うと、ソ連が満州国を攻撃し滅亡させたことが原因と言える。漢民族とは異なる満州族の皇帝を擁する満州国は中国とは別の国家であり、それがもし今日も存在しているならば、満州国はモンゴルと同様の中露間の緩衝国家になっていたことだろう。その場合、ロシアが中国から受ける恐怖感は大きく減少していたはずだ。
他の国家と同様、現在のロシアでは第二次大戦は連合国側である自国が正義の側であるという公式価値観が卓越している。軍事に関する博物館では1941-1945の数字と共に多数のソ連軍関連の展示が行われているし、それ以外にも1945年の勝利を祝う建造物が町中に点在している。しかしながら、少なくとも極東に関する限りソ連が第二次大戦で勝利したことは緩衝国家満州国の滅亡を引き起こし、結果として1960年代のダマンスキー島事件に代表される中露対立や現在の中露国境での「人口の浸透圧」問題を深刻化させている。ソ連の対日戦勝は結果としてソ連・ロシアに安全保障上の大きな損害を与えたとも言えるだろう。
●日本の国益の観点から日露戦争を再評価する
同様のことは日本の日露戦争での戦勝にも言える。南樺太はアムール川の河口に近く、それ故にロシアの安全保障上重要な地域であったと思われる。日露戦争での日本の勝利が、南樺太の奪還を目的とする未来の第二次大戦でのソ連の参戦を引き起こしたとも言えるのだ。また、日本とロシアが戦ったこと自体が日露両国の友好を破壊している。日本が日露戦争当時行った対露工作はロシア帝国内部の少数民族の独立運動を引き起こしており、ロシア帝国の崩壊と国際金融資本に支配された共産党によるロシア乗っ取り=ソ連建国の引き金となった。
もしロシア革命が起きていなかったならば、第二次大戦前の中国での反日感情暴発に対してロシアは日本と手を結んで対処してくれたことであろう。そのロシアが革命により国際金融資本に乗っ取られてしまったことは日本にとって致命傷であった。ロシア革命の引き金の一つが日露戦争でのロシア敗北であることを考えれば、日本の対露戦勝は結果として日本に安全保障上の大きな損害を与えたとも言えるだろう。我々日本人もまた、「日露戦争での日本の勝利は世界の有色人種に自信を与えた」という自尊史観から決別して、冷静に日本の国益の観点から日露戦争を再評価する必要があるのではないだろうか。
勝利の栄光を何としても手に入れたいという欲望は洋の東西を問わず非常に強いものであると思う。しかし、日本には勝利の危険さを戒める諺がある。勝利に慢心した気の緩み、勝者への妬みの危険さを示す「勝って兜の緒を締めよ」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などがそれに相当する。そして、「損して得取れ」というように、敗北の中で実益を追求することをよしする考えもある。
西洋の戦略が「敗北を恐れ、勝利を研究し追求する」ものであるとすれば、日本的戦略は「勝利を恐れ、敗北を研究し追求する」ものであるように思われる。日本に於いては、画期的な大勝利は屈辱の中に隠され、大勝利をもたらした偉大な指導者は汚名を着せられて失意の中で世を去るもので無くてはならないのではないか。その様な戦略を日本の支配階層は実行してきたし、現在も実行している様に私は想像(妄想)している。日本の支配階層は日露戦争が日本の国益に反していたことを理解しており、それを隠すために「世界の有色人種に自信を与えた」と主張し続けているのではないか、というのは私の勘ぐり過ぎだろうか?
●ブラゴベッシェンスクからアジアを眺める
壁越しに聞こえてくる隣室の中国人客の五月蠅い話し声を聞きながら、ホテルの客室の窓からアムール川とその対岸の黒河市街地を眺めつつこんなことを私は考えていた。中露国境の町ブラゴベッシェンスクからアジアを眺めると、日本から眺めた時とは違ったものが見えてくるからだ。地政学に関心のある皆さんには、ブラゴベッシェンスク訪問を是非お勧めしたい。
当時、黒河からブラゴ・ベスチェンスクにアムール川の渡し舟を使ってノービザ日帰り旅行ができると聞いて行ったのですが、外国人は対象外でブラゴ・ベスチェンスクを黒河から眺めるだけでした。
どうしても行きたかったらビザを取って来いと言われたのですが、その前の年ソ連旅行をした時に取ったバウチャ(ソ連ビザ)の面倒くささを思い出してあきらめました。
黒河は石炭を燃やしたにおいが町中に充満し、なんとなく乾いた殺伐とした雰囲気の町でしたが、そこから見る対岸は白いお城のような建物がキラキラ光っているように見えました。
中国の雑貨とソ連の毛皮をバーター取引するためにノービザ日帰り旅行で来たソ連人が黒河にはいっぱいいました。
なぜか私の顔を見て「タバリシ」「ハラショー」などと声をかけ袖を引っ張る中国人や私の腕をつかんで「このSEIKOの時計と俺の毛皮と交換しろ」と言ってくるソ連人に辟易し早々と町を後にしたのを覚えています。
今はずいぶんと変わっていることでしょうね。
> このようなロシア側の対中恐怖感は、満州が中国の一部であることが最大の原因である。逆に言うと、ソ連が満州国を攻撃し滅亡させたことが原因と言える。漢民族とは異なる満州族の皇帝を擁する満州国は中国とは別の国家であり、それがもし今日も存在しているならば、満州国はモンゴルと同様の中露間の緩衝国家になっていたことだろう。その場合、ロシアが中国から受ける恐怖感は大きく減少していたはずだ。
いつもながら、斬新な発想ありがとうございます。ソ連の対日参戦の大きな目的は緩衝国である満州国を存続させないことにあったというのは、実に面白い視点です。第2次世界か大戦の勝利が、結局中ソ(中露)緩衝地帯を失い対立する運命を導くことにあったということになります。米国の極東戦略の変遷をみると、これは重要な視点と思われます。
> 日本が日露戦争当時行った対露工作はロシア帝国内部の少数民族の独立運動を引き起こしており、ロシア帝国の崩壊と国際金融資本に支配された共産党によるロシア乗っ取り=ソ連建国の引き金となった。
> もしロシア革命が起きていなかったならば、第二次大戦前の中国での反日感情暴発に対してロシアは日本と手を結んで対処してくれたことであろう。そのロシアが革命により国際金融資本に乗っ取られてしまったことは日本にとって致命傷であった。ロシア革命の引き金の一つが日露戦争でのロシア敗北であることを考えれば、日本の対露戦勝は結果として日本に安全保障上の大きな損害を与えたとも言えるだろう。我々日本人もまた、「日露戦争での日本の勝利は世界の有色人種に自信を与えた」という自尊史観から決別して、冷静に日本の国益の観点から日露戦争を再評価する必要があるのではないだろうか。
一時的な勝利が戦略的には敗北であるという例になるでしょうか。
このときの日本も国際金融資本の命令で戦略をしばられていたので、戦争に突入しないのは難しいと思われます。ただ日本海海戦に勝利していれば、ロシアに降伏を迫れることはないでしょう。しかし、大陸の陸戦で勝ってしまった。陸戦に勝利できず。もし、南満州鉄道や半島の利権をロシアに渡すようになっていれば、歴史は大きく変ったと思われます。この場合にはロシア史も大きく変ったことでしょう。しかしこのケースは大陸に日本勢力は存在せず、中国では反日運動ではなく、反ロシア運動となったと思われます。ヨーロッパでオーストリア、ドイツにも王政が続いている可能性もあり、第2次世界大戦はまったく違う構図になったと思われます。実ははるか昔にこのような反省が密かに行われ、日米戦が計画立案されたのかもしれません。
日本の政局が動いてきました。どうも大連立が予定されているという感じがますますしています。予想される衆院選で小沢氏は意図的に勝利はしないのではという気がしています。また第2次世界大戦の歴史的な再評価が必要ですが、最近瀬島氏が亡くなり、関係者がほぼ全員故人となりましたので、こちらも近い将来表に現れてくると思われます。
このときの日本も国際金融資本の命令で戦略をしばられていたので、戦争に突入しないのは難しいと思われます。ただ日本海海戦に勝利していれば、ロシアに降伏を迫れることはないでしょう。しかし、大陸の陸戦で勝ってしまった。陸戦に勝利できず。もし、南満州鉄道や半島の利権をロシアに渡すようになっていれば、歴史は大きく変ったと思われます。この場合にはロシア史も大きく変ったことでしょう。しかしこのケースは大陸に日本勢力は存在せず、中国では反日運動ではなく、反ロシア運動となったと思われます。ヨーロッパでオーストリア、ドイツにも王政が続いている可能性もあり、第2次世界大戦はまったく違う構図になったと思われます。実ははるか昔にこのような反省が密かに行われ、日米戦が計画立案されたのかもしれません。
日露戦争の陸戦で日本が敗北、あるいは引き分けていたらどうなっていたか、という仮定は重要だと思います。日本は日露戦争の戦費として膨大な資金を欧米諸国で借り入れていました。日露戦争の陸上戦闘で苦戦すれば戦争継続のための資金借り入れが不能になり敗北が避けられず、その結果借金の担保として鉄道・主要企業などを国際金融資本に乗っ取られて欧米諸国の植民地に転落する危険があったと思われます。このような危惧故、日本は日露戦争で何としても勝利する必要があり、わざと負ける、あるいは痛み分けという決着は選択の余地がなかったのでしょう。
あるいは日本とロシアは戦争の裏で交渉を行い、日本の植民地化を避けるためにロシアに陸戦でわざと負けてくれるように頼んでいたのかもしれません。ロシアが本気で陸戦を戦い続ければ日本の敗北は確実でした。
では、日露戦争前に伊藤博文の日露協商案が採択され、日本が英国と手を切ってロシアと同盟していたらどうなったかという仮定も重要だと思われます。当時のロシアは工業化が遅れており、決して一流国家ではありませんでした。ロシアが急速に工業化するのは革命後に国際金融資本の支援を受けた1930年代以降です。従って、日露同盟は国際金融資本によって粉砕されてしまった可能性が強いでしょう。
このような力関係を背景に、日本はやむなく英国の言いなりになって日露戦争を実行したのだと私は想像しています。
二段上くらいからのご指摘ありがとうございます。
> 日本は日露戦争の戦費として膨大な資金を欧米諸国で借り入れていました。日露戦争の陸上戦闘で苦戦すれば戦争継続のための資金借り入れが不能になり敗北が避けられず、
> あるいは日本とロシアは戦争の裏で交渉を行い、日本の植民地化を避けるためにロシアに陸戦でわざと負けてくれるように頼んでいたのかもしれません。ロシアが本気で陸戦を戦い続ければ日本の敗北は確実でした。
上段の部分がまさに当時の日本の戦略上の問題点です。当時のロシア軍がこの日本の最大のアキレス腱を問題とするような軍事戦略をとらなかったのかは謎です。ちょうど100年後にあたる2004年か5年にロシアで日露戦争の検討をした際にこの点が不可解となっていたのでした。下段は史実の裏付けはなく推測と思われますが、あり得るかもしれません。
また大陸での陸戦を負けつつ早く終わらせる戦略はありえますが、英国の力なしでこのことを行うにはロシアとでき試合をするしかないと思われます。
> その結果借金の担保として鉄道・主要企業などを国際金融資本に乗っ取られて欧米諸国の植民地に転落する危険があったと思われます。
やはり史実通りが考えられる最大の勝利だったが、後の解釈を間違えたということになるでしょうか。
> 日露戦争前に伊藤博文の日露協商案が採択され、日本が英国と手を切ってロシアと同盟していたらどうなったかという仮定も重要だと思われます。
> 従って、日露同盟は国際金融資本によって粉砕されてしまった可能性が強いでしょう。
この面は検討していなかったです。具体的な方法が思い浮かびませんが、日本国内で英国、ロシアで代理戦争的な内戦が起こったかもしれません。