●【生前退位】平成30年11月に大嘗祭を挙行へ 通常国会で法整備不可欠に(1/3ページ) - 産経ニュース 2016.10.16 01:30
天皇陛下の「お気持ち」ご表明を受け、政府は、天皇陛下から皇太子さまへの皇位継承に伴う重要な儀礼である「大嘗祭(だいじょうさい)」を平成30年11月に執り行う方向で検討に入った。準備に1年近くかかるため、来年(29年)の通常国会で皇室典範改正を含む法整備を行わねば間に合わなくなる。17日に始まる有識者会議でも論点の一つとなる見通し。
天皇陛下は8月8日に公表された「お気持ち」のビデオメッセージで「2年後には平成30年を迎えます」などと語り、在位30年を節目としての「生前退位」をにじませられた。
退位に伴う皇太子さまへの皇位継承でもっとも重要となる大嘗祭は、天皇が即位後初めて行う新嘗祭を指す。その中心的儀礼である「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」では、天皇が「悠紀殿(ゆきでん)」と「主基殿(すきでん)」で自ら新穀を供え、神々とともに食し、五穀豊穣に感謝するとともに、国家・国民の安寧を祈念する。これにより「神格」を得て完全な天皇になるとされる。
この前に行われる「即位の礼」は、皇位継承を内外に示す国事行為で、外国王室の戴冠式にあたる。
大嘗祭の時期は、戦前に皇位継承に関する法令を定めた「登極令」(昭和22年廃止)に「即位ノ礼及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ」とある。天皇陛下が平成2年11月22、23両日に大嘗祭を執り行った際も登極令を踏襲された。
大嘗祭を行うには、新穀を育てる特別の水田(斎田)2カ所を準備する必要があり、同じ年の2~3月に亀卜(亀甲を用いた占い)で斎田を決める「点定の儀」が行われる。
斎田は京都以東から「悠紀田」を、京都以西から「主基田」をそれぞれ選定する。平成の大嘗祭では、悠紀田が秋田県五城目町で、主基田は大分県玖珠町で選ばれた。
天皇崩御を受けて、皇太子が即位する際は、崩御直後に三種の神器を受け取って即位(践祚)し、1年間喪に服す。即位の礼や大嘗祭の準備を進めるのは喪が明けた後となる。このため、大正天皇の即位の礼と大嘗祭が営まれたのは大正4年11月、昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が営まれたのは昭和3年11月だった。
現行の皇室典範は連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和22年、大幅に改ざんされ、皇室の主要儀礼は憲法20条(政教分離)に抵触するとして国家から切り離された。
このため、平成の即位の礼に際し、海部俊樹内閣(当時)は平成元年12月の閣議口頭了解で、大嘗祭を「皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」としながらも、国事行為ではなく皇室行事とする見解を示した。大嘗祭の費用も皇室活動に伴う公的経費「宮廷費」から支出された。
宮内庁によると、平成2年11月12日に皇居で行われた「即位礼正殿の儀」には、約160カ国の祝賀使節を含め内外から2480人(うち外国人474人)が参列した。大嘗祭では22日の「悠紀殿供饌(ぐせん)の儀」には727人、23日の「主基殿供饌の儀」には520人が参集した。
http://www.sankei.com/premium/news/161016/prm1610160031-n1.html
●即位の礼 - Wikipedia
・明治天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承した。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。
明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使われた高御座は内裏とともに焼失していたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[4]は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。
慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。
明治の大礼…総費用4万3800両 伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日)
神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日)
紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日)
即位の礼 同年8月27日(同年10月12日)
大嘗祭 明治4年11月17日(1871年12月28日)東京で行われた。
・大正天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
大正天皇の即位の礼
皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であったため、欠席した。貴族院に在職中だった柳田國男も参列し、大嘗祭についての提言を残している[5]。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。
大正の大礼…総予算853万8357円(当時の金額) 即位の礼 1915年(大正4年)11月10日
大嘗祭 同年11月14日・15日
・昭和天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
1928年(昭和3年)11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。
11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。
天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。
・今上天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
今上天皇の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年(平成2年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。
即位の礼にあたり、式典の警備・要人警護には昭和天皇の大喪の礼での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官、警察官が動員され徹底した検問などが行われた。この警備の特別予算は54億円に上ったとされる。高御座の輸送に当たっては、過激派テロリストによる妨害を防ぐため、陸上自衛隊のヘリコプター(CH-47J)で隠密に行われた[6]。
即位を祝う饗宴の儀は、宮殿豊明殿で11月12日から行われ、15日迄計7回、延べ3,500人の賓客が招かれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC
●人生は冥土までの暇潰し 青州で思ふ(3)
【追記4】
世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号に、「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事がある。平城京を取り上げ、大極殿の写真も掲載されていたと記憶していたので、平城京のモデルとなった北魏のことも書いてあると記憶していたのだが、どうやら亀さんの記憶違いであった。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1250.html
●巻頭言 いよいよ大和へ、そして吉野へ ── 還都への動き
(世界戦略情報「みち」平成21年(2009)10月1日第302号)
・今年平成二一年九月二三日、産経新聞に大きな写真付の小さな記事が掲載された。
(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090923/acd0909230044000-n1.htm)
記事の見出しは、
壮麗「大極殿」全貌現す
となっている(右の写真は上記産経新聞ホームページより)。文化庁によって復元が進められてきた平城宮の中心的建築物「平城宮第一次大極殿正殿」の素屋根(蔽い屋根)が前日二二日に撤去され、その金色の鴟尾(しび)と丹塗柱(にぬりばしら)が目にも鮮やかな大極殿の全容をヘリコプターから写真に撮ったという記事である。
一枚の大きな写真には、その大極殿を奥側の上半分に、手前の下半分には同じく復元された朱雀門が写っている。来年平成二二年正月元旦から始まるという「平城遷都一三〇〇年祭」開幕のちょうど一〇〇日前に当たる日に全貌が明らかにされたのである。
・「平城遷都一三〇〇年祭」については来年一年限りで終わるお祭り騒ぎであり、今ここに触れる要を感じない。鳴物入りで採択された大会マスコットの「せんとくん」がてんで不人気で、地元有志から新たに「まんとくん」が提案され両者が喧嘩したとか仲直りをしたとか、どうでもよい話である。
大事なことは、第一次大極殿を復元した文化庁の意図が何であれ、我々の前に紛れもなく祭政一致のまつりごとの場が出現したということだ。大和へ、そして吉野への還都を願う者にとって「平城宮第一次大極殿正殿」は還都への確かな象徴である。
・今上陛下は平成一九年正月歌会始において、
務め終え 歩み速めて 帰るみち 月の光は 白く照らせり
という御製を下された。大御心を推察するのは畏れ多いことながら、御製が常に勅であることに鑑みれば、御製は大和への還都を指示されているのではなかろうか。寡聞のとても及ぶところではないが、月の光に照らされた白いみちとは、真宗関係の説法でよく引用される善導大師の「二河白道」の比喩とは関係なく、和歌の言葉で大和路のことだという。陛下は「歩み速めて」そのみちをお帰りになると御製に示されたのである。
・去る九月二八日、陛下は皇居内水田において五月にお手植えになった粳米ニホンマサリと餅米マンゲツモチの稲を刈られた。今号常夜燈にもあるように、高天原からの天孫の降臨に際して「神さまと同じ食べものを食べるように」と親心から態々持つて行くことを勅で指示されたのが「齋庭(ゆには)の穂(いなほ)」=稲なのであった。すなわち、米こそは、収穫量においても栄養価においても、また深い味とコバルト色に輝く美しいその姿においても、日本文明が育んだ究極の食物であり、磨き上げた芸術品であると言ってよい。そのために費やされたわが先祖たちの労苦がどれほどのものであろうと、米作りの中心には常に変わることなく今上さまの型示しがあったのだ。米作りはまつりごとと暮らし(日本ではそれは一つだった)の中核にあって、労苦であるとともに尽きせぬ喜びでもあったのである。
・周囲に高厦群れなす徳川千代田城の中の水田で稲刈りをされる陛下のお姿を何とも痛々しいと思うのは私だけであろうか。江戸を東京と改称し怒濤の西洋文明に抗してすでに百四十有余年、それは今上さまをあるべきみやこから拉致し、東京行宮に押し込め奉った長い年月でもある。だが、来年平成二二年は皇紀二六七〇年の大きな節目、この時に平城宮大極殿は用意された。一日も早く行宮を解き、「歩み速めて」の大和御還幸を願うばかりである。★
http://michi01.com/tendoh/302ktg_26691001.html
●平城宮跡へようこそ - 平城宮跡ガイド::スタッフブログ::平城宮跡の散策(3)
復原第一次大極殿
大極殿は、奈良時代に元旦朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する建物でした。
中には天皇が座る玉座である高御座(たかみくら)が復原されています。
平成13年(2001)から9年の歳月をかけて平成22年(2010)に完成しました。
第一大極殿の南側からの眺めは壮大ですばらしいです。
毎日ライトアップが行われています。夜間は中に入れないのですが、遠くからでもその姿は闇夜に幻想的に浮かび上がり、とても美しいです。
http://heijo-kyo.com/blog/2015/12/post-380.html
●http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1447912180436/files/3-4.pdf
●国営平城宮跡歴史公園とは? |国営平城宮跡歴史公園ってどういうものなの?|国営飛鳥歴史公園事務所|国土交通省 近畿地方整備局
基本計画平面図
段階整備の方針
平城宮跡には、これまでの経緯の中で、宮跡内に道路や鉄道、文化財の調査研究施設等が設けられています。これらは将来的に移設、移転することになりますが、その途中段階においても可能な限り来園者の利便性を損なわずに本公園が担うべき機能を発揮できるよう、関係機関との連絡調整を密にし、段階的な整備、開園を進めていきます。
http://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/about/about.html
●高御座 - Wikipedia
京都御所の高御座
平城京の復原第一次大極殿で復元された高御座
高御座(たかみくら)は、天皇位を象徴する[1]玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接に結びついている[2]。京都府京都市の京都御所に常設されている。
概要[ソースを編集]
平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。
平安時代にあっては、天皇着座の際、摂関家の藤原兼家が近侍していたとの記載が史書にみられるものの、即位式の際には摂関は高御座後方の北廂東幔内にて控えるのが例であり、天皇に御笏を献じる一時を除けば高御座に足を踏み入れることはなかった[3]。しかし、院政成立後の堀河天皇即位の際には摂政の藤原師実が、鳥羽天皇即位の際にはやはり摂政藤原忠実が高御座の中層にまで登っており、以後、摂政職にある者が高御座に登壇するしきたりとなった。遅くとも鎌倉時代の後期には高御座に着座した新帝に摂政が印明を授ける即位灌頂がおこなわれるようになった[4]。
現在の高御座は、大正天皇即位の際に、古式に則って制作された物であるが、玉座は茵(しとね)から椅子に代わり、新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。こんにち京都御所の紫宸殿に常設されており、春・秋の一般公開時に見ることが出来る。
構造と外形[ソースを編集]
高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。伊勢奉幣のさいの子安殿の御座や清涼殿神事のさいの天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する[5]。
高御座と皇居[ソースを編集]
調度品としての「高御座」の保管場所そのものから天皇の正式な在所を権威づけるだけの伝統的・文献的根拠は明確ではない。仁藤敦史によれば古代日本では高御座と京職などの存在することが首都の要件であったとする[6]。高御座は天皇の所在地を示すものという見方があり、これに従えば古代から大極殿に高御座は常設されていたとなるが、延喜式や中世の史料によれば高御座は組み立て式で、即位や朝賀などの重要な儀式のときだけ使われ、終われば撤去されるものであったとされる[7]。
高御座の成立は大極殿の成立より早いと見られているが、国家的儀式を大内裏大極殿で開催されるようになってからは大極殿で、大極殿の廃絶後は様々な殿舎で行われ、中世では太政官庁、南北朝の代には天皇即位の際に南朝・北朝ともで設営されていた。後柏原天皇(1464-1528)が紫宸殿で即位式をおこない高御座は紫宸殿に移され、以降高御座は紫宸殿にある[8]。天明の大火(天明8年、1788年)のさいには焼失してしまっている[9]。
現在も高御座は、京都御所内の紫宸殿に安置されている。近代に入ってからも、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の即位の大礼は、高御座のある京都御所で行われた。今上天皇の際は、警備上の問題[10]から、東京の皇居で即位の礼が行われたが、高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ばれ[11]、大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7
●奈良のJR関西線新駅設置へ高架化認可 アクセス道整備も 奈良 - 産経ニュース 2016.7.27 07:05更新
県は26日、JR関西線、奈良-郡山駅間(約4・8キロ)の新駅設置をめぐり、JR線の一定区間の高架化と、新駅と幹線道路を結ぶ道路整備の事業認可を国土交通省から受けたと発表した。県は新駅も含め、事業認可期間の平成36年度の完成を目指す。
事業認可は19日付。高架化されるのは、JR関西線の奈良市大森町~同八条4丁目の区間1880メートルで、事業費約130億円の6割を国が補助。残り52億円は県と奈良市が半分ずつ負担する。
整備される道路は、大宮通の新大宮交差点から工事中の京奈和自動車道・大和北道路(仮称)の奈良インターチェンジ(IC)間を結ぶ幹線道路として計画されている「西九条佐保線」のうち、奈良市大安寺2丁目~三条栄町区間の1533メートル。北側約500メートル部分は25年度に事業化されており、国道24号の渋滞緩和や、京奈和道や新駅への円滑なアクセスにつながると期待される。
荒井正吾知事は26日の定例会見で、「新駅は奈良市南部の観光拠点になる」と指摘。また、「周辺は交通の結節性が良くなるため、アリーナなど集客施設の適地になる」とし、「地元のプロバスケットボールチーム『バンビシャス奈良』も要望しているが、アリーナがあればスポーツやイベントなども開催できる。民間投資を招く立地環境を整え、新駅周辺を『副都心化』していきたい」と述べた。
http://www.sankei.com/region/news/160727/rgn1607270024-n1.html
●新皇居は京都府精華町の祝園分屯地に、皇族の関西移住で悠仁親王は奈良女子大附属に転校へ - 国際情勢の分析と予測
平城京跡地の国営平城宮跡歴史公園はその南側の住宅地や農地を含めて何故かけいはんな学研都市に含まれている。以前から疑問に思っていたが、今回の記事でその疑問が氷解した。日本支配階層は遠大な計画のもとにけいはんな学研都市を設置しているのだ。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/abf0bc54a9ec8253d5519e0717f63f73
●秋篠寺訪問記:秋篠宮の名の由来、廃帝淳仁天皇と徳仁親王の廃太子、道鏡の役を演じる雅子妃と愛子内親王 - 国際情勢の分析と予測
秋篠寺や秋篠川は平城京跡歴史公園のすぐ西~北西に位置する。礼宮は将来平城京で即位することを前提に秋篠宮の名を天皇から賜ったのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/c3dc6597ecb07f18c0990e72e2facc12
【私のコメント】
10月16日の産経新聞が、2年後の平成30年(西暦2018年、皇紀2678年)11月の大嘗祭を報道した。以前からブログ記事で触れているように、秋篠宮が新天皇、悠仁親王が皇太子に、浩宮は廃太子となっていることだろう。とするならば、恐らく11月23日の大嘗祭の直前の11月上旬・中旬に新天皇の即位の礼も行われるはずである。その場所はどこだろうか?
以前から本ブログでは京都府精華町の祝園分屯地の新皇居建設を予想しているが、2年間では皇居の工事完成は無理だろう。今上天皇が東京で即位の礼を行ったのは異例であり、明治・大正・昭和の三天皇は皆京都御所で即位している。しかし、世界の指導国家の一つとなり多数の外国元首が参列する一大行事を行うには今の京都市街地は交通・警備の面で問題がある。賓客は車で移動と思われるが京都の道路は狭く、高速道路も無い。更に、京都御所は狭く、参列可能な人数に限界がある。でも、今上天皇と同様に東京の皇居で大嘗祭と即位の礼を行うのでは、米軍占領下の異常な体制の継続になってしまう。準備行事の多い大嘗祭は東京でも良いが、即位の礼はやはり京都で行うべきではないだろうか?日本支配階層は即位の礼を一体どこで行うつもりなのだろうか?
ブログ「人生は冥土までの暇潰し」の「青州で思ふ(3)」を見ていると、世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事が紹介されている。記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容である。そして、奈良・吉野への還都が主張されている。吉野や平城京周囲の奈良市には新皇居に適した広い土地はほとんどないし、土地やアクセス道路を今から建設するのは時間も金もかかる。奈良・吉野への還都はあり得ないと従来私は考えてきた。しかし、少し調べてみて考えが変わった。
①平城京跡地は国営平城宮跡歴史公園となっており、復元された大極殿の周囲には建造物の無い広い敷地が確保されている。その南には朱雀大路もある。長安の都を模した伝統的な日本の都の構造が復元されているのだ。更に、即位の礼に必要不可欠な高御座も京都御所の他に平城京復元大極殿で二つ目が準備されている。ここで即位の礼を行うなら、日本が中国文明の伝統を引き継いだ国であるというメッセージを全世界に発信することになる。周囲の建物も京都御所より少なく警備も容易だろう。
②国営平城宮跡歴史公園はその南側の住宅地や農地を含めて何故かけいはんな学研都市に含まれている。先端技術研究や住宅開発を平城京跡地で行うとは考えられない。しかし、学研都市はその設立目的の一つに首都機能の移転をうたっている。平城京の復元大極殿を新たな宮殿としてそこで即位の礼を含めた多くの宮中行事を行う計画があり、周辺地区の乱開発や土地投機を防止する目的で学研都市が構想・設立されたと考えるべきだろう。新天皇一家が平城京歴史公園に住むことは不可能では無いが、敷地は決して広くなく、多くの外国賓客が訪問できるスペースを確保するためにも、住む場所は祝園分屯地にするのではないかと想像する。平城京跡地のすぐ西側には秋篠川が流れており、その上流には秋篠寺がある。秋篠宮が設立された時点で、東京の皇居から平城京跡地に宮殿を移すことが決定されたのだと思われる。『みち』で触れている吉野については、最近の開発計画が無いことから考えて、祝園分屯地の隠蔽が目的ではないかと想像する。
③7月に奈良市の関西線新駅建設が決定された。平城京跡地に近く、京奈和自動車道のICも併設される。JRの最寄り駅として整備するのだろう。リニア新幹線の新駅併設は不可能では無いが、北陸新幹線の新駅併設はルートが東に寄りすぎて困難なので、従来の予想通り精華町になると思われる。また、奈良市街地では京奈和自動車道の地下工事に並行して、平城京跡地を横切る近鉄奈良線の移設工事も行われる筈である。
『みち』で触れている様に、京都や奈良の宮殿を住居として祭祀を行ってきた天皇を東京に連れ出して江戸城跡地の皇居に居住させるという明治維新以後の状況は異常である。京都でも桃山城や二条城という城があるがそこは秀吉や徳川将軍が本拠としていた。城は武士の住処であって皇室の住処では無いのだ。それは平成30年に終わるのである。
また、平成30年11月には悠仁親王が立太子すると思われる。平成31年3月にお茶の水女子大附属小学校を卒業した後、4月に奈良女子大附属中等教育学校に進学するならば、奈良近辺での新皇居の建設が間に合わない。悠仁親王を含めた秋篠宮一家は奈良の迎賓館的存在であり奈良公園の一角にある奈良ホテル等にしばらく仮住まいすることになるだろう。あるいは、祝園分屯地等の新皇居完成を待って平成34年3月にお茶の水女子大附属中学を卒業後に奈良女子大附属中等教育学校に編入するのかもしれない。現在の附属小4年生、2年後の中等教育学校入試で選抜される新入生は皇太子の御学友として人選を行う必要があろう。
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天皇陛下の「お気持ち」ご表明を受け、政府は、天皇陛下から皇太子さまへの皇位継承に伴う重要な儀礼である「大嘗祭(だいじょうさい)」を平成30年11月に執り行う方向で検討に入った。準備に1年近くかかるため、来年(29年)の通常国会で皇室典範改正を含む法整備を行わねば間に合わなくなる。17日に始まる有識者会議でも論点の一つとなる見通し。
天皇陛下は8月8日に公表された「お気持ち」のビデオメッセージで「2年後には平成30年を迎えます」などと語り、在位30年を節目としての「生前退位」をにじませられた。
退位に伴う皇太子さまへの皇位継承でもっとも重要となる大嘗祭は、天皇が即位後初めて行う新嘗祭を指す。その中心的儀礼である「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」では、天皇が「悠紀殿(ゆきでん)」と「主基殿(すきでん)」で自ら新穀を供え、神々とともに食し、五穀豊穣に感謝するとともに、国家・国民の安寧を祈念する。これにより「神格」を得て完全な天皇になるとされる。
この前に行われる「即位の礼」は、皇位継承を内外に示す国事行為で、外国王室の戴冠式にあたる。
大嘗祭の時期は、戦前に皇位継承に関する法令を定めた「登極令」(昭和22年廃止)に「即位ノ礼及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ」とある。天皇陛下が平成2年11月22、23両日に大嘗祭を執り行った際も登極令を踏襲された。
大嘗祭を行うには、新穀を育てる特別の水田(斎田)2カ所を準備する必要があり、同じ年の2~3月に亀卜(亀甲を用いた占い)で斎田を決める「点定の儀」が行われる。
斎田は京都以東から「悠紀田」を、京都以西から「主基田」をそれぞれ選定する。平成の大嘗祭では、悠紀田が秋田県五城目町で、主基田は大分県玖珠町で選ばれた。
天皇崩御を受けて、皇太子が即位する際は、崩御直後に三種の神器を受け取って即位(践祚)し、1年間喪に服す。即位の礼や大嘗祭の準備を進めるのは喪が明けた後となる。このため、大正天皇の即位の礼と大嘗祭が営まれたのは大正4年11月、昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が営まれたのは昭和3年11月だった。
現行の皇室典範は連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和22年、大幅に改ざんされ、皇室の主要儀礼は憲法20条(政教分離)に抵触するとして国家から切り離された。
このため、平成の即位の礼に際し、海部俊樹内閣(当時)は平成元年12月の閣議口頭了解で、大嘗祭を「皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」としながらも、国事行為ではなく皇室行事とする見解を示した。大嘗祭の費用も皇室活動に伴う公的経費「宮廷費」から支出された。
宮内庁によると、平成2年11月12日に皇居で行われた「即位礼正殿の儀」には、約160カ国の祝賀使節を含め内外から2480人(うち外国人474人)が参列した。大嘗祭では22日の「悠紀殿供饌(ぐせん)の儀」には727人、23日の「主基殿供饌の儀」には520人が参集した。
http://www.sankei.com/premium/news/161016/prm1610160031-n1.html
●即位の礼 - Wikipedia
・明治天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承した。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。
明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使われた高御座は内裏とともに焼失していたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[4]は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。
慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。
明治の大礼…総費用4万3800両 伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日)
神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日)
紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日)
即位の礼 同年8月27日(同年10月12日)
大嘗祭 明治4年11月17日(1871年12月28日)東京で行われた。
・大正天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
大正天皇の即位の礼
皇室典範・登極令制定後、初めてとなった大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は親王(澄宮崇仁親王)を懐妊中であったため、欠席した。貴族院に在職中だった柳田國男も参列し、大嘗祭についての提言を残している[5]。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。
大正の大礼…総予算853万8357円(当時の金額) 即位の礼 1915年(大正4年)11月10日
大嘗祭 同年11月14日・15日
・昭和天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
1928年(昭和3年)11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。
11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。
天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。
・今上天皇の即位の礼・大嘗祭[編集]
今上天皇の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年(平成2年)1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。
即位の礼にあたり、式典の警備・要人警護には昭和天皇の大喪の礼での3万2000人を大きく上回る3万7000人の皇宮護衛官、警察官が動員され徹底した検問などが行われた。この警備の特別予算は54億円に上ったとされる。高御座の輸送に当たっては、過激派テロリストによる妨害を防ぐため、陸上自衛隊のヘリコプター(CH-47J)で隠密に行われた[6]。
即位を祝う饗宴の儀は、宮殿豊明殿で11月12日から行われ、15日迄計7回、延べ3,500人の賓客が招かれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC
●人生は冥土までの暇潰し 青州で思ふ(3)
【追記4】
世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号に、「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事がある。平城京を取り上げ、大極殿の写真も掲載されていたと記憶していたので、平城京のモデルとなった北魏のことも書いてあると記憶していたのだが、どうやら亀さんの記憶違いであった。
http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1250.html
●巻頭言 いよいよ大和へ、そして吉野へ ── 還都への動き
(世界戦略情報「みち」平成21年(2009)10月1日第302号)
・今年平成二一年九月二三日、産経新聞に大きな写真付の小さな記事が掲載された。
(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090923/acd0909230044000-n1.htm)
記事の見出しは、
壮麗「大極殿」全貌現す
となっている(右の写真は上記産経新聞ホームページより)。文化庁によって復元が進められてきた平城宮の中心的建築物「平城宮第一次大極殿正殿」の素屋根(蔽い屋根)が前日二二日に撤去され、その金色の鴟尾(しび)と丹塗柱(にぬりばしら)が目にも鮮やかな大極殿の全容をヘリコプターから写真に撮ったという記事である。
一枚の大きな写真には、その大極殿を奥側の上半分に、手前の下半分には同じく復元された朱雀門が写っている。来年平成二二年正月元旦から始まるという「平城遷都一三〇〇年祭」開幕のちょうど一〇〇日前に当たる日に全貌が明らかにされたのである。
・「平城遷都一三〇〇年祭」については来年一年限りで終わるお祭り騒ぎであり、今ここに触れる要を感じない。鳴物入りで採択された大会マスコットの「せんとくん」がてんで不人気で、地元有志から新たに「まんとくん」が提案され両者が喧嘩したとか仲直りをしたとか、どうでもよい話である。
大事なことは、第一次大極殿を復元した文化庁の意図が何であれ、我々の前に紛れもなく祭政一致のまつりごとの場が出現したということだ。大和へ、そして吉野への還都を願う者にとって「平城宮第一次大極殿正殿」は還都への確かな象徴である。
・今上陛下は平成一九年正月歌会始において、
務め終え 歩み速めて 帰るみち 月の光は 白く照らせり
という御製を下された。大御心を推察するのは畏れ多いことながら、御製が常に勅であることに鑑みれば、御製は大和への還都を指示されているのではなかろうか。寡聞のとても及ぶところではないが、月の光に照らされた白いみちとは、真宗関係の説法でよく引用される善導大師の「二河白道」の比喩とは関係なく、和歌の言葉で大和路のことだという。陛下は「歩み速めて」そのみちをお帰りになると御製に示されたのである。
・去る九月二八日、陛下は皇居内水田において五月にお手植えになった粳米ニホンマサリと餅米マンゲツモチの稲を刈られた。今号常夜燈にもあるように、高天原からの天孫の降臨に際して「神さまと同じ食べものを食べるように」と親心から態々持つて行くことを勅で指示されたのが「齋庭(ゆには)の穂(いなほ)」=稲なのであった。すなわち、米こそは、収穫量においても栄養価においても、また深い味とコバルト色に輝く美しいその姿においても、日本文明が育んだ究極の食物であり、磨き上げた芸術品であると言ってよい。そのために費やされたわが先祖たちの労苦がどれほどのものであろうと、米作りの中心には常に変わることなく今上さまの型示しがあったのだ。米作りはまつりごとと暮らし(日本ではそれは一つだった)の中核にあって、労苦であるとともに尽きせぬ喜びでもあったのである。
・周囲に高厦群れなす徳川千代田城の中の水田で稲刈りをされる陛下のお姿を何とも痛々しいと思うのは私だけであろうか。江戸を東京と改称し怒濤の西洋文明に抗してすでに百四十有余年、それは今上さまをあるべきみやこから拉致し、東京行宮に押し込め奉った長い年月でもある。だが、来年平成二二年は皇紀二六七〇年の大きな節目、この時に平城宮大極殿は用意された。一日も早く行宮を解き、「歩み速めて」の大和御還幸を願うばかりである。★
http://michi01.com/tendoh/302ktg_26691001.html
●平城宮跡へようこそ - 平城宮跡ガイド::スタッフブログ::平城宮跡の散策(3)
復原第一次大極殿
大極殿は、奈良時代に元旦朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する建物でした。
中には天皇が座る玉座である高御座(たかみくら)が復原されています。
平成13年(2001)から9年の歳月をかけて平成22年(2010)に完成しました。
第一大極殿の南側からの眺めは壮大ですばらしいです。
毎日ライトアップが行われています。夜間は中に入れないのですが、遠くからでもその姿は闇夜に幻想的に浮かび上がり、とても美しいです。
http://heijo-kyo.com/blog/2015/12/post-380.html
●http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1447912180436/files/3-4.pdf
●国営平城宮跡歴史公園とは? |国営平城宮跡歴史公園ってどういうものなの?|国営飛鳥歴史公園事務所|国土交通省 近畿地方整備局
基本計画平面図
段階整備の方針
平城宮跡には、これまでの経緯の中で、宮跡内に道路や鉄道、文化財の調査研究施設等が設けられています。これらは将来的に移設、移転することになりますが、その途中段階においても可能な限り来園者の利便性を損なわずに本公園が担うべき機能を発揮できるよう、関係機関との連絡調整を密にし、段階的な整備、開園を進めていきます。
http://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/about/about.html
●高御座 - Wikipedia
京都御所の高御座
平城京の復原第一次大極殿で復元された高御座
高御座(たかみくら)は、天皇位を象徴する[1]玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接に結びついている[2]。京都府京都市の京都御所に常設されている。
概要[ソースを編集]
平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。
平安時代にあっては、天皇着座の際、摂関家の藤原兼家が近侍していたとの記載が史書にみられるものの、即位式の際には摂関は高御座後方の北廂東幔内にて控えるのが例であり、天皇に御笏を献じる一時を除けば高御座に足を踏み入れることはなかった[3]。しかし、院政成立後の堀河天皇即位の際には摂政の藤原師実が、鳥羽天皇即位の際にはやはり摂政藤原忠実が高御座の中層にまで登っており、以後、摂政職にある者が高御座に登壇するしきたりとなった。遅くとも鎌倉時代の後期には高御座に着座した新帝に摂政が印明を授ける即位灌頂がおこなわれるようになった[4]。
現在の高御座は、大正天皇即位の際に、古式に則って制作された物であるが、玉座は茵(しとね)から椅子に代わり、新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。こんにち京都御所の紫宸殿に常設されており、春・秋の一般公開時に見ることが出来る。
構造と外形[ソースを編集]
高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。伊勢奉幣のさいの子安殿の御座や清涼殿神事のさいの天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する[5]。
高御座と皇居[ソースを編集]
調度品としての「高御座」の保管場所そのものから天皇の正式な在所を権威づけるだけの伝統的・文献的根拠は明確ではない。仁藤敦史によれば古代日本では高御座と京職などの存在することが首都の要件であったとする[6]。高御座は天皇の所在地を示すものという見方があり、これに従えば古代から大極殿に高御座は常設されていたとなるが、延喜式や中世の史料によれば高御座は組み立て式で、即位や朝賀などの重要な儀式のときだけ使われ、終われば撤去されるものであったとされる[7]。
高御座の成立は大極殿の成立より早いと見られているが、国家的儀式を大内裏大極殿で開催されるようになってからは大極殿で、大極殿の廃絶後は様々な殿舎で行われ、中世では太政官庁、南北朝の代には天皇即位の際に南朝・北朝ともで設営されていた。後柏原天皇(1464-1528)が紫宸殿で即位式をおこない高御座は紫宸殿に移され、以降高御座は紫宸殿にある[8]。天明の大火(天明8年、1788年)のさいには焼失してしまっている[9]。
現在も高御座は、京都御所内の紫宸殿に安置されている。近代に入ってからも、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の即位の大礼は、高御座のある京都御所で行われた。今上天皇の際は、警備上の問題[10]から、東京の皇居で即位の礼が行われたが、高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ばれ[11]、大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7
●奈良のJR関西線新駅設置へ高架化認可 アクセス道整備も 奈良 - 産経ニュース 2016.7.27 07:05更新
県は26日、JR関西線、奈良-郡山駅間(約4・8キロ)の新駅設置をめぐり、JR線の一定区間の高架化と、新駅と幹線道路を結ぶ道路整備の事業認可を国土交通省から受けたと発表した。県は新駅も含め、事業認可期間の平成36年度の完成を目指す。
事業認可は19日付。高架化されるのは、JR関西線の奈良市大森町~同八条4丁目の区間1880メートルで、事業費約130億円の6割を国が補助。残り52億円は県と奈良市が半分ずつ負担する。
整備される道路は、大宮通の新大宮交差点から工事中の京奈和自動車道・大和北道路(仮称)の奈良インターチェンジ(IC)間を結ぶ幹線道路として計画されている「西九条佐保線」のうち、奈良市大安寺2丁目~三条栄町区間の1533メートル。北側約500メートル部分は25年度に事業化されており、国道24号の渋滞緩和や、京奈和道や新駅への円滑なアクセスにつながると期待される。
荒井正吾知事は26日の定例会見で、「新駅は奈良市南部の観光拠点になる」と指摘。また、「周辺は交通の結節性が良くなるため、アリーナなど集客施設の適地になる」とし、「地元のプロバスケットボールチーム『バンビシャス奈良』も要望しているが、アリーナがあればスポーツやイベントなども開催できる。民間投資を招く立地環境を整え、新駅周辺を『副都心化』していきたい」と述べた。
http://www.sankei.com/region/news/160727/rgn1607270024-n1.html
●新皇居は京都府精華町の祝園分屯地に、皇族の関西移住で悠仁親王は奈良女子大附属に転校へ - 国際情勢の分析と予測
平城京跡地の国営平城宮跡歴史公園はその南側の住宅地や農地を含めて何故かけいはんな学研都市に含まれている。以前から疑問に思っていたが、今回の記事でその疑問が氷解した。日本支配階層は遠大な計画のもとにけいはんな学研都市を設置しているのだ。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/abf0bc54a9ec8253d5519e0717f63f73
●秋篠寺訪問記:秋篠宮の名の由来、廃帝淳仁天皇と徳仁親王の廃太子、道鏡の役を演じる雅子妃と愛子内親王 - 国際情勢の分析と予測
秋篠寺や秋篠川は平城京跡歴史公園のすぐ西~北西に位置する。礼宮は将来平城京で即位することを前提に秋篠宮の名を天皇から賜ったのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/c3dc6597ecb07f18c0990e72e2facc12
【私のコメント】
10月16日の産経新聞が、2年後の平成30年(西暦2018年、皇紀2678年)11月の大嘗祭を報道した。以前からブログ記事で触れているように、秋篠宮が新天皇、悠仁親王が皇太子に、浩宮は廃太子となっていることだろう。とするならば、恐らく11月23日の大嘗祭の直前の11月上旬・中旬に新天皇の即位の礼も行われるはずである。その場所はどこだろうか?
以前から本ブログでは京都府精華町の祝園分屯地の新皇居建設を予想しているが、2年間では皇居の工事完成は無理だろう。今上天皇が東京で即位の礼を行ったのは異例であり、明治・大正・昭和の三天皇は皆京都御所で即位している。しかし、世界の指導国家の一つとなり多数の外国元首が参列する一大行事を行うには今の京都市街地は交通・警備の面で問題がある。賓客は車で移動と思われるが京都の道路は狭く、高速道路も無い。更に、京都御所は狭く、参列可能な人数に限界がある。でも、今上天皇と同様に東京の皇居で大嘗祭と即位の礼を行うのでは、米軍占領下の異常な体制の継続になってしまう。準備行事の多い大嘗祭は東京でも良いが、即位の礼はやはり京都で行うべきではないだろうか?日本支配階層は即位の礼を一体どこで行うつもりなのだろうか?
ブログ「人生は冥土までの暇潰し」の「青州で思ふ(3)」を見ていると、世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事が紹介されている。記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容である。そして、奈良・吉野への還都が主張されている。吉野や平城京周囲の奈良市には新皇居に適した広い土地はほとんどないし、土地やアクセス道路を今から建設するのは時間も金もかかる。奈良・吉野への還都はあり得ないと従来私は考えてきた。しかし、少し調べてみて考えが変わった。
①平城京跡地は国営平城宮跡歴史公園となっており、復元された大極殿の周囲には建造物の無い広い敷地が確保されている。その南には朱雀大路もある。長安の都を模した伝統的な日本の都の構造が復元されているのだ。更に、即位の礼に必要不可欠な高御座も京都御所の他に平城京復元大極殿で二つ目が準備されている。ここで即位の礼を行うなら、日本が中国文明の伝統を引き継いだ国であるというメッセージを全世界に発信することになる。周囲の建物も京都御所より少なく警備も容易だろう。
②国営平城宮跡歴史公園はその南側の住宅地や農地を含めて何故かけいはんな学研都市に含まれている。先端技術研究や住宅開発を平城京跡地で行うとは考えられない。しかし、学研都市はその設立目的の一つに首都機能の移転をうたっている。平城京の復元大極殿を新たな宮殿としてそこで即位の礼を含めた多くの宮中行事を行う計画があり、周辺地区の乱開発や土地投機を防止する目的で学研都市が構想・設立されたと考えるべきだろう。新天皇一家が平城京歴史公園に住むことは不可能では無いが、敷地は決して広くなく、多くの外国賓客が訪問できるスペースを確保するためにも、住む場所は祝園分屯地にするのではないかと想像する。平城京跡地のすぐ西側には秋篠川が流れており、その上流には秋篠寺がある。秋篠宮が設立された時点で、東京の皇居から平城京跡地に宮殿を移すことが決定されたのだと思われる。『みち』で触れている吉野については、最近の開発計画が無いことから考えて、祝園分屯地の隠蔽が目的ではないかと想像する。
③7月に奈良市の関西線新駅建設が決定された。平城京跡地に近く、京奈和自動車道のICも併設される。JRの最寄り駅として整備するのだろう。リニア新幹線の新駅併設は不可能では無いが、北陸新幹線の新駅併設はルートが東に寄りすぎて困難なので、従来の予想通り精華町になると思われる。また、奈良市街地では京奈和自動車道の地下工事に並行して、平城京跡地を横切る近鉄奈良線の移設工事も行われる筈である。
『みち』で触れている様に、京都や奈良の宮殿を住居として祭祀を行ってきた天皇を東京に連れ出して江戸城跡地の皇居に居住させるという明治維新以後の状況は異常である。京都でも桃山城や二条城という城があるがそこは秀吉や徳川将軍が本拠としていた。城は武士の住処であって皇室の住処では無いのだ。それは平成30年に終わるのである。
また、平成30年11月には悠仁親王が立太子すると思われる。平成31年3月にお茶の水女子大附属小学校を卒業した後、4月に奈良女子大附属中等教育学校に進学するならば、奈良近辺での新皇居の建設が間に合わない。悠仁親王を含めた秋篠宮一家は奈良の迎賓館的存在であり奈良公園の一角にある奈良ホテル等にしばらく仮住まいすることになるだろう。あるいは、祝園分屯地等の新皇居完成を待って平成34年3月にお茶の水女子大附属中学を卒業後に奈良女子大附属中等教育学校に編入するのかもしれない。現在の附属小4年生、2年後の中等教育学校入試で選抜される新入生は皇太子の御学友として人選を行う必要があろう。
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http://my.shadowcity.jp/2016/10/post-10085.html
トランプ氏が「ゲティスバーグ演説」、就任後100日の計画を発表
ゲティスバーグはエーブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)大統領が米国統合を目指し南北戦争の重要な演説を行った地。トランプ氏陣営は、米大統領選を17日後に控えた22日、そのゲティスバーグでトランプ氏が行った45分間の演説を同氏の「最終弁論」と位置付けた。
5時間前
『バブルとは成るもの、ではなく、創るもの、である』
おはようございます。原田武夫です。
週末、いかがお過ごしでしょうか?
本日は日曜日ですので、先日から始めているIFIS株・投信コラムをアップデート致しました。
「バブルとは成るもの、ではなく、創るもの、である」
金融庁が新しい金融行政方針を打ち出しています。あたかも「地銀いじめ」を加速化しているようにも見えますが、本当にそうなのでしょうか?
是非、ご覧ください。
そして・・・拡散を!!
http://column.ifis.co.jp/toshicolumn/haradatakeo/60616
3期目の続投を視野
2016/10/23 2:00
【北京=日経】中国共産党の習近平総書記(国家主席)は党の最高指導部の定年を延長する検討に入った。現在は「68歳で引退」との指導部内のルールがある。習氏自身が69歳となり2期10年の任期を終える2022年の次々期党大会でも引退せず、3期目の続投を視野に入れる。長期の政権掌握で一党支配体制を強化する狙いがある。
ロシアが、世界に類例のない無線電子兵器=ハイテク兵器
を無効化する兵器を開発、米国は、早くも「ギブアップ」
◆〔特別情報1〕、
「ロシアが新たな物理原理にもとづく世界に類例のない無線電子兵器を開発」―この兵器開発史上、画期的な兵器が米国とロシアとの政治関係を根本的に変えてきた。「無線電子兵器」は、「搭載機器、航空機、無人機に非直接的な物理的作用を及ぼしハイテク兵器を無効化する」という。このため、米オバマ大統領は、任期満了まであとわずか、3か月足らずを残して、危機状態に直面して、もはや「死に体」である。ロシアが、この兵器の開発に成功したので、米国のペンタゴン(国防総省)、CIAはもとより、オバマ政権のバイデン副大統領、カーター国防長官らは、「米ロ、米中戦争が勃発すれば、ロシアが勝つ。米国は完敗だ」と早くも「ギブアップ」している。折しも米国は、大統領選挙の終盤戦を迎えているけれど、この危機をどう乗り切るかである。
ゲティスバーグはエーブラハム・リンカーン大統領が
米国統合を目指し南北戦争の重要な演説を行った地
内戦勃発!?
上げは下げの為、下げは上げの為、現在優勢に
見えるヒラリーは急転直下で下げられるだろう
総額8.8兆円
2016/10/23 11:09
【ニューヨーク=日経】米通信大手のAT&Tは22日、米メディア大手のタイムワーナーを買収すると発表した。買収総額は約854億ドル(約8兆8600億円)。携帯電話事業が伸び悩むなか、映画やニュースまで幅広いコンテンツを抱えるタイムワーナーを取り込み、複合メディア企業への転換を目指す。インターネットの普及を背景に通信・放送の垣根を越えた企業統合が本格化しはじめた。
タイムワーナー株を1株当たり107.5ドル(21日終値は89.48ドル)で取得する。半分を現金で、半分をAT&T株で支払い、2017年末までの買収を目指す。買収総額は今年のM&A(合併・買収)では最大。
目力すごい 立派な眉毛を持つ三毛猫に、思わずひれ伏してしまいそう
誰かに似てるな (^_^;)
日本と英国、初めて日本の基地で空軍演習実施
2016年10月23日10:02
バカ野郎、無礼だぞ、生意気な、下民の分際で!
「今年のノーベル文学賞に選ばれた米シンガー・ソングライターのボブ・ディラン氏が沈黙を続けていることに対し、選考主体のスウェーデン・アカデミーのメンバーが21日、スウェーデン公共放送SVTのインタビューで「無礼かつ傲慢だ」と強く批判した。」
ノーベル賞は、誰かを指名して一方的に受賞させるものだから、
どうするのか、どう考えるのかは授賞者の勝手のような気がするんだが・・
一方、選考者側は、「ホレ、名誉を授けるぞ」 「ホレ、カネをやるぞ」 「俺たちの仲間になれよ」
「えっ、いらない?」 「はぁ、何言ってんだ、いらないって」
「世界的な名誉、大金をやるといってんだぞ、この下民が!」
「よろこんで受け取れよ、クソ野郎!」
「ますます、いらないって?」
「このバカ、無礼だぞ、下民の分際で、エリートサマに楯突くのか、この野郎!」