●ユーゴスラビア紛争 - Wikipedia
ユーゴスラビア紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった異民族間の対立による内戦である。ソビエト連邦が崩壊する1991年からスロボダン・ミロシェビッチが退陣する2000年まで主要な紛争が継続した。
・概説
第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていた多民族国家のユーゴスラビアでは、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家(または一人のチトー)」といわれるほどの多様性を内包した国家であった。
戦後の世界はアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。1980年にチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではミロシェビッチ(セルビア)やツジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェビッチが大統領となったユーゴの中心・セルビア共和国では、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して90年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。
91年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(十日戦争)、次いでマケドニアが独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。ボスニア・ヘルツェゴビナは92年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
複雑な歴史背景による入り組んだ民族配置は完全には解消されてはいないものの、NATOや国際連合の介入により紛争は収められた。
・内戦一覧
スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
スロベニアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。規模は拡大せずに10日で解決した。十日戦争、或いは独立戦争。
クロアチア紛争(1991年–1995年)
クロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年–1995年)
コソボ紛争(1999年)
マケドニア紛争(2001年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E7%B4%9B%E4%BA%89
【私のコメント】
ベルリンの壁が崩壊した翌々年の1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言することで始まったユーゴスラビア紛争は戦闘こそ終結したものの、今もコソボで深刻な対立を抱えており解決していない。その他、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国でもボスニア人・クロアチア人陣営とセルビア人陣営の間の紛争再発を回避するためにEU軍が展開し続けている。このユーゴスラビア紛争は誰がいったい何のために計画し実行したのかというのが私の長年の疑問であった。
しかし、最近になって私は、米国の次の世界覇権国が中欧の小国オーストリアなのではないかと考え始めている。馬鹿げた考えと笑う人もいるかもしれない。しかし、第二次世界大戦はプロイセンを中心とするプロテスタントドイツを崩壊させる一方でオーストリアとバイエルンというカトリックドイツの中心地が西側に温存されるという点で、オーストリアに非常に有利なものであったと考えられる。ヒトラーがオーストリア出身でミュンヘンで政治活動を開始していることから考えると、ヒトラーはオーストリアの意を受けてドイツに送り込まれた工作員であったとすら考えられるのだ。そして、現在のドイツ首相はヒトラーの娘との噂のあるメルケルであり、フランスの大統領は亡命ハンガリー貴族の息子であるサルコジである。独仏という欧州を牛耳る二大国が、オーストリア・ハンガリー二重帝国の出身者に支配されている、とも考えられるのだ。
しかし、小国オーストリアには、欧州統一の中核に相応しい経済力も政治力も軍事力もない。その小国オーストリアがなぜ米国の次の世界覇権国になれるのだろうか?その答えは、オーストリア・ハンガリー二重帝国(以下、二重帝国と略す)の歴史にあると思われる。他の欧州の大国が軍事力を武器に成立したのとは異なり、二重帝国は主に王族の婚姻によって領土拡大を成し遂げたという特色がある。無論、ポーランド分割戦争に代表される領土獲得戦争も行っているが、同様にポーランド分割に参加したプロイセンがカトリックのポーランド人を迫害したのとは異なり、二重帝国ではポーランド人の文化・言語・宗教が尊重された。帝国内部での民族対立は常に存在したが、それにも関わらず各民族の参加する議会政治が実行され平和が保たれたことが重要である。各民族の文化が尊重された結果、ユダヤ人に対する迫害もロシアなどと比較して少なかったとされることも特筆すべきであろう。
このように、皇帝の元で民族対立を激化させずに議会制民主主義により平和を実現するという二重帝国の存在は、戦争を煽ることにより儲けるという国際金融資本にとっては叩き潰すべき敵であったと想像される。19世紀後半以後、二重帝国の皇族には暗殺や不慮の死が相次ぐ。その代表的なものが、セルビア人過激派によって実行されたサラエボでの皇太子夫妻暗殺であろう。私は、これらの事件は全て国際金融資本によるものであると想像(妄想)している。
しかし、国際金融資本によって実行されたと思われる二度の世界大戦で欧州が廃墟になったことの損失を考えると、二重帝国が民族対立を回避し平和的繁栄を実現したという歴史は非常に魅力的である。私は、二重帝国の復活を願い、それを滅ぼした国際金融資本に対する怨念を持つオーストリア人やハンガリー人に加えて、多民族国家で平和を実現したという実績が欧州諸国の人々に評価され、それによってオーストリアが欧州で国家規模に見合わない巨大な政治力を持つに至ったと想像する。そして、オーストリアは第二次大戦後の欧州を理念によって支配しており、米国の世界覇権崩壊後に欧州が覇権を受け継ぐ事に伴って世界覇権がウィーンに移動しつつあるのだと想像する。つまり、現在のEUとはオーストリア・ハンガリー二重帝国の理念の復活の元に、ドイツ・フランスの二大国が二重帝国を形成した状態なのだ。
この「世界覇権国オーストリア」シナリオを前提に考えると、ユーゴスラビア紛争は非常にわかりやすい。ユーゴスラビアはセルビアが中心となった南スラブ人の国家であったが、第一次世界大戦でオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したセルビアの民族主義は二重帝国の平和にとって非常に危険なものである。従って、セルビア民族主義を徹底的に叩き潰すために、オーストリアによってユーゴスラビア紛争が計画・実行されたのだと私は想像する。いわば、第一次世界大戦に対する復讐、第一次世界大戦の戦争責任に対する処罰と言えるかもしれない。紛争の期間中、セルビア陣営は常に悪者扱いされてきた。そして、セルビアの覇権の元に形成されたユーゴスラビアは解体され、言語や宗教を同じくするモンテネグロまで分離独立したことでセルビアはバルカン半島の小国に落ちぶれた。セルビアの将来を見限って、言語や宗教で近い関係にあるブルガリアの大学に進学するセルビア人高校生も国境沿いで出始めているという。「大セルビア主義」を唱えるセルビア民族主義は根絶されつつあり、バルカン半島に於けるオーストリアの優越が明瞭になりつつあると思われる。EU加盟問題でも、既に加盟済みのスロベニアに加え、クロアチアの加盟交渉が始まっており、近い将来の加盟は確実だろう。セルビアの加盟はモンテネグロやマケドニアより後回しになるかもしれない。
しかし、バルカン半島にはセルビア民族主義の他にオーストリアにとっての重大な敵が存在すると思われる。それは、かつて二度に渡ってウィーンを包囲したオスマントルコの後継国家であるトルコと、トルコによってイスラム化されたボスニア人・アルバニア人である。ボスニア人の文化にはトルコの影響が色濃く残っており、彼らは「イスラム化」されたというよりも「トルコ化」されたと言うべきかと思われる。ボスニアとアルバニアはいわばトルコが欧州内に持つ文化的飛び地であり、ロシアの沿ドニエストル共和国やカリーニングラードと似た状態とも言える。今後トルコが大国化するならば、彼らはボスニアやアルバニアという橋頭堡を利用して再びバルカン半島に勢力を伸ばし、ウィーンを包囲するかもしれない。欧州にはトルコ系移民労働者が多数存在しており、彼らがトルコ政府に呼応して活動する危険すら考えられるのだ。
EUがトルコに対してEU加盟交渉という形で事実上内政干渉しているのは、トルコを敵視するオーストリアやその他のバルカン諸国の総意ではないかと私は想像する。ユーゴスラビアをEUに取り込む前に紛争が必要であったのだとすれば、トルコ問題を解決するためには別の戦争が必要になるかもしれない。恐らくそれはキプロス・ギリシャとトルコの間で戦われ、セルビアやブルガリア、ルーマニア、ロシア、ウクライナなどの東方正教会諸国がギリシャ側に参戦することでトルコは完敗することになるだろう。そして、トルコに親近感を持つボスニアやアルバニアの人々は、欧州とトルコの二者択一の選択を迫られ、トルコ側に付いた人々と東方正教会勢力の間でも戦争が起きるかもしれない。その場合、オーストリアや独仏は建前上は中立を主張するが実際にはセルビアを含む東方正教会勢力を支援するか、あるいは公然と東方正教会を支援することだろう。そして、ボスニアやアルバニア、コソボのイスラム教徒から親トルコ勢力が一掃されることになるだろう。
ユーゴスラビア紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった異民族間の対立による内戦である。ソビエト連邦が崩壊する1991年からスロボダン・ミロシェビッチが退陣する2000年まで主要な紛争が継続した。
・概説
第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていた多民族国家のユーゴスラビアでは、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家(または一人のチトー)」といわれるほどの多様性を内包した国家であった。
戦後の世界はアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。1980年にチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではミロシェビッチ(セルビア)やツジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェビッチが大統領となったユーゴの中心・セルビア共和国では、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して90年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。
91年6月に文化的・宗教的に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(十日戦争)、次いでマケドニアが独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。ボスニア・ヘルツェゴビナは92年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
複雑な歴史背景による入り組んだ民族配置は完全には解消されてはいないものの、NATOや国際連合の介入により紛争は収められた。
・内戦一覧
スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
スロベニアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。規模は拡大せずに10日で解決した。十日戦争、或いは独立戦争。
クロアチア紛争(1991年–1995年)
クロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年–1995年)
コソボ紛争(1999年)
マケドニア紛争(2001年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E7%B4%9B%E4%BA%89
【私のコメント】
ベルリンの壁が崩壊した翌々年の1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言することで始まったユーゴスラビア紛争は戦闘こそ終結したものの、今もコソボで深刻な対立を抱えており解決していない。その他、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国でもボスニア人・クロアチア人陣営とセルビア人陣営の間の紛争再発を回避するためにEU軍が展開し続けている。このユーゴスラビア紛争は誰がいったい何のために計画し実行したのかというのが私の長年の疑問であった。
しかし、最近になって私は、米国の次の世界覇権国が中欧の小国オーストリアなのではないかと考え始めている。馬鹿げた考えと笑う人もいるかもしれない。しかし、第二次世界大戦はプロイセンを中心とするプロテスタントドイツを崩壊させる一方でオーストリアとバイエルンというカトリックドイツの中心地が西側に温存されるという点で、オーストリアに非常に有利なものであったと考えられる。ヒトラーがオーストリア出身でミュンヘンで政治活動を開始していることから考えると、ヒトラーはオーストリアの意を受けてドイツに送り込まれた工作員であったとすら考えられるのだ。そして、現在のドイツ首相はヒトラーの娘との噂のあるメルケルであり、フランスの大統領は亡命ハンガリー貴族の息子であるサルコジである。独仏という欧州を牛耳る二大国が、オーストリア・ハンガリー二重帝国の出身者に支配されている、とも考えられるのだ。
しかし、小国オーストリアには、欧州統一の中核に相応しい経済力も政治力も軍事力もない。その小国オーストリアがなぜ米国の次の世界覇権国になれるのだろうか?その答えは、オーストリア・ハンガリー二重帝国(以下、二重帝国と略す)の歴史にあると思われる。他の欧州の大国が軍事力を武器に成立したのとは異なり、二重帝国は主に王族の婚姻によって領土拡大を成し遂げたという特色がある。無論、ポーランド分割戦争に代表される領土獲得戦争も行っているが、同様にポーランド分割に参加したプロイセンがカトリックのポーランド人を迫害したのとは異なり、二重帝国ではポーランド人の文化・言語・宗教が尊重された。帝国内部での民族対立は常に存在したが、それにも関わらず各民族の参加する議会政治が実行され平和が保たれたことが重要である。各民族の文化が尊重された結果、ユダヤ人に対する迫害もロシアなどと比較して少なかったとされることも特筆すべきであろう。
このように、皇帝の元で民族対立を激化させずに議会制民主主義により平和を実現するという二重帝国の存在は、戦争を煽ることにより儲けるという国際金融資本にとっては叩き潰すべき敵であったと想像される。19世紀後半以後、二重帝国の皇族には暗殺や不慮の死が相次ぐ。その代表的なものが、セルビア人過激派によって実行されたサラエボでの皇太子夫妻暗殺であろう。私は、これらの事件は全て国際金融資本によるものであると想像(妄想)している。
しかし、国際金融資本によって実行されたと思われる二度の世界大戦で欧州が廃墟になったことの損失を考えると、二重帝国が民族対立を回避し平和的繁栄を実現したという歴史は非常に魅力的である。私は、二重帝国の復活を願い、それを滅ぼした国際金融資本に対する怨念を持つオーストリア人やハンガリー人に加えて、多民族国家で平和を実現したという実績が欧州諸国の人々に評価され、それによってオーストリアが欧州で国家規模に見合わない巨大な政治力を持つに至ったと想像する。そして、オーストリアは第二次大戦後の欧州を理念によって支配しており、米国の世界覇権崩壊後に欧州が覇権を受け継ぐ事に伴って世界覇権がウィーンに移動しつつあるのだと想像する。つまり、現在のEUとはオーストリア・ハンガリー二重帝国の理念の復活の元に、ドイツ・フランスの二大国が二重帝国を形成した状態なのだ。
この「世界覇権国オーストリア」シナリオを前提に考えると、ユーゴスラビア紛争は非常にわかりやすい。ユーゴスラビアはセルビアが中心となった南スラブ人の国家であったが、第一次世界大戦でオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したセルビアの民族主義は二重帝国の平和にとって非常に危険なものである。従って、セルビア民族主義を徹底的に叩き潰すために、オーストリアによってユーゴスラビア紛争が計画・実行されたのだと私は想像する。いわば、第一次世界大戦に対する復讐、第一次世界大戦の戦争責任に対する処罰と言えるかもしれない。紛争の期間中、セルビア陣営は常に悪者扱いされてきた。そして、セルビアの覇権の元に形成されたユーゴスラビアは解体され、言語や宗教を同じくするモンテネグロまで分離独立したことでセルビアはバルカン半島の小国に落ちぶれた。セルビアの将来を見限って、言語や宗教で近い関係にあるブルガリアの大学に進学するセルビア人高校生も国境沿いで出始めているという。「大セルビア主義」を唱えるセルビア民族主義は根絶されつつあり、バルカン半島に於けるオーストリアの優越が明瞭になりつつあると思われる。EU加盟問題でも、既に加盟済みのスロベニアに加え、クロアチアの加盟交渉が始まっており、近い将来の加盟は確実だろう。セルビアの加盟はモンテネグロやマケドニアより後回しになるかもしれない。
しかし、バルカン半島にはセルビア民族主義の他にオーストリアにとっての重大な敵が存在すると思われる。それは、かつて二度に渡ってウィーンを包囲したオスマントルコの後継国家であるトルコと、トルコによってイスラム化されたボスニア人・アルバニア人である。ボスニア人の文化にはトルコの影響が色濃く残っており、彼らは「イスラム化」されたというよりも「トルコ化」されたと言うべきかと思われる。ボスニアとアルバニアはいわばトルコが欧州内に持つ文化的飛び地であり、ロシアの沿ドニエストル共和国やカリーニングラードと似た状態とも言える。今後トルコが大国化するならば、彼らはボスニアやアルバニアという橋頭堡を利用して再びバルカン半島に勢力を伸ばし、ウィーンを包囲するかもしれない。欧州にはトルコ系移民労働者が多数存在しており、彼らがトルコ政府に呼応して活動する危険すら考えられるのだ。
EUがトルコに対してEU加盟交渉という形で事実上内政干渉しているのは、トルコを敵視するオーストリアやその他のバルカン諸国の総意ではないかと私は想像する。ユーゴスラビアをEUに取り込む前に紛争が必要であったのだとすれば、トルコ問題を解決するためには別の戦争が必要になるかもしれない。恐らくそれはキプロス・ギリシャとトルコの間で戦われ、セルビアやブルガリア、ルーマニア、ロシア、ウクライナなどの東方正教会諸国がギリシャ側に参戦することでトルコは完敗することになるだろう。そして、トルコに親近感を持つボスニアやアルバニアの人々は、欧州とトルコの二者択一の選択を迫られ、トルコ側に付いた人々と東方正教会勢力の間でも戦争が起きるかもしれない。その場合、オーストリアや独仏は建前上は中立を主張するが実際にはセルビアを含む東方正教会勢力を支援するか、あるいは公然と東方正教会を支援することだろう。そして、ボスニアやアルバニア、コソボのイスラム教徒から親トルコ勢力が一掃されることになるだろう。
http://www.asahi.com/politics/update/1005/TKY200710050342.html
福田首相、1月にダボス会議出席で調整 町村官房長官
2007年10月05日19時29分
町村官房長官は5日の記者会見で、世界の有力な政財界関係者が集う来年1月下旬のスイス・ダボスでの「世界経済フォーラム年次総会」(ダボス会議)に福田首相が出席し、環境問題に取り組む日本政府の姿勢をアピールしたい考えを明らかにした。
1月下旬は通常国会の開会時期と重なるため、町村長官は「国会のお許しがあれば、という大前提つき」とも強調した。
単に新たな航路が出来るだけでなく、今まで手が出せなかった膨大な石油や天然ガスを巡って早くも小競り合いが起きているそうです。ロシア、カナダ、デンマークが、それぞれ北極海の領有を主張しているとのことです。
フランスのサルコジ政権の新たなる解釈ということになるでしょうか。
この説だと第二次世界大戦の解釈はどうなるのでしょうか。
1)ナチスによる大ドイツ主義とバルカン半島侵攻の意味
2)ソ連軍によるベルリン占領と、戦後の東欧国境の変更
3)終戦間際の米軍によるオーストリア占領
この3つくらいが思い浮かびます。
2)と3)は結果的にその後の世界を大きく規定しています。
第二次世界大戦後にEUが創設されるわけですが、
ある意味ドイツが解体されたことがそのきっかけになっているようにも思えます。
しかし、このようなことを裏から工作することは可能でしょうか。国際的なネットワークが必要となり、国際金融資本とは違った勢力となるはずです。(場合によっては重なっているかもしれません。)
間違いなくそのひとつはバチカンでしょう。江田島氏はコメントで昭和天皇とバチカンの関係を示唆しています。
ハプスブルグ王朝とバチカンの関係となるのでしょうか。中世あるいはそれ以上遡る、ヨーロッパの深部は見えるのでしょうか。
第二次世界大戦は国際金融資本内部の対立が原因ではないかと想像しています。国単位で見ると英国の没落・米国の隆盛が目立つことを考えると、米国に拠点を置く一派が英国拠点派から世界の主導権を奪うことを狙ったのではないかとも考えられます。
そして、この国際金融資本の仲間割れに乗じて、オーストリアはドイツからプロテスタントのプロイセンを排除することを狙って、わざと負けるための戦争をヒトラーに仕掛けさせたのではないかというのが私の想像です(前にもコメント欄で書いたことがありますが)。
この場合、戦争開始時点で東西ドイツ分割の境界線がある程度決定されていたことになります。それが可能だとすれば、ヒトラーは米ソ両国(つまり、それを支配している米国本拠の国際金融資本一派)と戦争前に念入りに戦争のシナリオを打ち合わせていたことになるでしょう。そして、戦争がシナリオ通り進んでいるかどうかを米国側と情報交換する場所が必要になります。中立国スイスやバチカンなどがその役割を果たしていた可能性も考えられると思われます。
> 第二次世界大戦は国際金融資本内部の対立が原因ではないかと想像しています。国単位で見ると英国の没落・米国の隆盛が目立つことを考えると、米国に拠点を置く一派が英国拠点派から世界の主導権を奪うことを狙ったのではないかとも考えられます。
国際金融資本として戦争によるリセットは必要だったと思います。その中での英米の対立はおっしゃるとおりで、ナチスを支援していたのは誰かということを考えるとわかりやすいかと思います。
しかしですが、オーストリア進撃を指揮したのがパットンで、彼がマスコミ(つまり国際金融資本)に好かれていたなかったと思います。米軍は常に反国際金融資本であることを考えると、意図的にやったのではないかと疑いたくなるのです。
米軍は進撃速度をコントロールしていたのではないか。
大きなポイントは2つあると思います。ヨーロッパ大陸への上陸作戦の時期とライン川を渡る時期です。上陸作戦は大統領が決裁すると思いますし、作戦としては失敗していないので、当初の「予定」通りでしょうか。ところがライン川の渡河作戦は一度失敗している上に、たったひとつ残った橋を1945年2月に渡っています。パットンの猛進撃がはじまるのはその後です。またドイツ軍も1944年12月に西部戦線で攻勢に出ています。
1944年9月にライン川を渡っていたらとか、1945年2月でライン川を渡れなかったら、としたとき戦後の地図は大きく変ったでしょう。史実は単なる偶然なのでしょうか?
1944年12月のドイツ軍の攻勢をみると、確かにドイツ分割は戦前に決まっていたと思いますが、具体的には戦争の中で決まったと思います。特にオーストリアは予定と違ったのではないかと思うのです。東側に飛び出ているオーストリアは後々、影響を及ぼしています。
また、スターリンが東プロイセンをポーランド領としたのも、単なるランドパワーの習性なのかと疑問に思いたくなるのです。