●秋篠寺 - Wikipedia
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
歴史[編集]宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている(一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたとも言う)。
宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。
宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。
(日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた[1]。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。[2]人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った[3]。)
(翌年3月『宮中でしきりに奇怪な事が起こるため』再び「大祓」を行い、僧六百人を招き大般若経を転読させた。宝亀8年9月、ついに内大臣・藤原良継が亡くなった。11月には天皇御自身が、そして12月には皇太子(山部親王、後の桓武天皇)までもが病気になった)。
秋篠寺に関する文献で、『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入した、という記述がある(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。
その翌年の天応元年(781年)、ついに富士山までもが噴火(富士山の噴火史)し、12月、光仁天皇は崩御されるに至った。勅願から5年後のことである。
『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われたことが見える。勅願寺であるが故に皇室とも関わりの深い寺院である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%AF%A0%E5%AF%BA
●秋篠寺
礼宮さまは,平成2年のご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜りました。その当時、妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ておられるという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れました。また、昨年(2006)には、秋篠宮家の長男、悠仁(ひさひと)さまが誕生されます慶事がありお寺は賑わいましたが今は静寂な境内で感動を覚えるお寺に戻っております。
秋篠寺といえば伎芸天で、美しい魅力尽きない伎芸天像に憧れてわざわざ大和まで来られる女性が引きも切れないことは異例です。特にキャリアーウーマンには絶大な人気を誇っております。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/akisinoderano.htm
●My Life Log: 秋篠寺の仏像
秋篠寺で有名なのは、伎芸天像とならんで大元帥明王像がある。秘仏で通常は大元明王院に祀られている。
大元帥明王は、画像が殆どで仏像姿はここだけである。猛烈な怒りの表現をしており、官立系の寺院で祀られる。国家大難時にのみ持ち出されて大難除去を祈る。(だから普段は仕舞っておける図像が多い) 高野山 西南院、 京都 醍醐寺、東寺 には図像、秋篠寺立像を含めて4像が現存している。これら4像とも13-14世紀に作られている、即ち元寇の大難の時期にあたり、国家安穩を祈祷したものである。
それ以来、大元帥法は宮中のお正月に行われる年中行事となっている。
日本は歴史に残る大難の時だ。 この時代こそ、薬師如来と大元帥明王の出番ではないのか。
http://mylifesytle.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html
●天智天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
●天武天皇 - Wikipedia
天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
概要[編集]舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。
名[編集]名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯[編集]出生年[編集]天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時年齢を記し、舒明天皇13年(641年)時点での天智天皇の年齢を記して生年を計算可能にしているのが、むしろ例外的である[5]
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である[6]。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた[7]。
1974年に作家の佐々克明がこの違いをとらえ、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている[8]。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王との間にもうけた子で、天智天皇の異父兄である。
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世[編集]天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。
葬儀[編集]10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇であ
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
●てげてげ 2008/05/10(土) 飯山一郎
天武天皇は,済州島の御方である!
http://grnba.com/iiyama/more3.html
【私のコメント】この記事は参考として引用したものであり、私は天武天皇が済州島出身かどうかは疑問と思っている。
●安史の乱 - Wikipedia
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
背景[編集]安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。
史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
挙兵[編集]李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。
安禄山軍の構成[編集]盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らとが参画した[2]。
当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。
洛陽陥落と燕国建国の宣言[編集]唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[3]。
唐軍の状況[編集]唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。
哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
長安制圧[編集]唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]。
唐の敗走[編集]パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[5]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
唐、ウイグルへの援軍要請[編集]756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する[6]。10月に、オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。
756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[7]。
葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[8]。
安禄山の暗殺[編集]一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。
安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。
唐・ウイグル連合軍による奪回戦[編集]粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する[9]。
757年9月、葛勒可汗は太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[10]。
唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[11]、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。
757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて安軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。
郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。
11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[12]。
翌758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ[13]、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。759年4月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である[14]。
史思明[編集]759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される[15]。
史朝義討伐[編集]762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する[16]。
762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。
唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた[17]。
劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる[18]。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。
なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。
その後[編集]この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。
唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。
日本への影響[編集]このような唐の動乱の影響は海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている[25]。
更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
●淳仁天皇 - Wikipedia
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
経歴[編集]人物[編集]天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
聖武天皇の遺言によって立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に廃された道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により4日後の同年4月4日(4月26日)に立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。
践祚[編集]天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。政策は、唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。また、仲麻呂主導の政権は平城宮の改築を実施し、それに伴って天皇は小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としている。
ところが、保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[1]。
追放[編集]天平宝字8年(764年)9月に恵美押勝の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。廃位と同時に、上皇は重祚して称徳天皇となった。一方先帝である淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)を奉られることはなかった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない[2]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
●井上内親王 - Wikipedia
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。
経歴[編集]養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。
光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。
宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●酒人内親王 - Wikipedia
酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。
略伝[編集]宝亀元年(770年)、父白壁王(光仁天皇)が即位したため、11月6日に三品に叙せられる。宝亀3年(772年)3月2日には母の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、5月27日には連座して弟の他戸親王も皇太子を廃されてしまうが、この一連の事件の最中である11月13日、突如19歳で伊勢の斎王に卜定、潔斎のためしばらく籠もる宮として春日斎宮に住まうことになる。同5年(774年)9月3日、潔斎を終えて伊勢へ下向、翌6年(775年)4月27日、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により退下した。
帰京後に自分の母と弟の幽閉と死によって皇太子の座についた異母兄山部親王(後の桓武天皇)の妃(ひ)となったが、その背景として斎王卜定と同じく、井上内親王・他戸親王派の抱き込みを狙った山部親王側の政治的配慮があるのではないかとも疑われている[1]。[要出典]なお、信憑性にはやや欠けるものの、『水鏡』に光仁天皇が酒人内親王の立太子を検討していたとの記述があり、事実であれば桓武天皇やその周辺にとっては警戒すべき存在であったことになる。宝亀10年(779年)に朝原内親王を産むが、この朝原内親王ものちに斎王に卜定されたため、祖母・母・娘と3代にわたり斎王を勤めたことになる。朝原内親王が弘仁8年(817年)に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の弘仁14年(823年)1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している[2]。この遺言状で、内親王は養子にした式部卿、大蔵卿、安勅内親王の3親王に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、ともに埋葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、と述べ、天長6年8月20日、76歳で薨じた。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は政争に翻弄された波乱のものであったといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●朝原内親王 - Wikipedia
朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月14日))は、桓武天皇の皇女。母は妃酒人内親王。伊勢斎王、のち平城天皇妃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%8E%9F%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●欧州のユダヤ系王族男子による名誉革命型の皇室乗っ取りの危険はないか? - 国際情勢の分析と予測 2006年08月22日
私は「愛子女帝」を諦めていないのは、小和田恒氏ではなく、ユダヤ金融資本=イルミナティだと思います。ユダヤ金融資本出身者(具体的には、欧州の王族男子)を愛子女帝の夫にして、日本の皇室を乗っ取ってしまうのが目的ではないかと思います。
名誉革命では、1688年にイングランド王ジェームズ二世の反対派に招請されてオランダの統領であるオレンジ公ウィリアムが妻メアリー(ジェームズ二世の娘)と共に英国に出兵、ジェームズ二世の亡命後にウィリアム三世とメアリー二世が共同統治者になっています。ウィリアム三世はオランダの統領を兼任していました。当時ユダヤ商人の本拠地であったオランダの首長が英国王を兼ね、王室を乗っ取った訳です。同じ事が日本の皇室でも起きることが危惧されます。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/f2d7d27f15dd824247443bce4538da4d
【私のコメント】
三連休を利用して旅行してきた。目的地は京都府南部の精華町・木津川市の学研都市と、奈良市にある秋篠寺である。前者は私がかつてブログ記事で新皇居予定地として取り上げた場所であり、その現地視察が目的であった。内容は改めて後日記事にする予定である。今回の記事のテーマは秋篠寺である。
車で学研都市から西大寺に向かう途中に秋篠寺がある。駐車場に車を止め門をくぐると、境内は鬱蒼とした木々が生い茂り、木々の根元は一面に苔が覆っていてまるで絨毯の様である。受付で参観料を払って中に入る。庭の中の本堂にある「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」が第一の目的であった。
文仁親王は平成2年に結婚した後に天皇陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名である「秋篠」に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜った。その当時、紀子妃殿下の横顔が、伎芸天像に似ているという評判が立ったという。確かに伎芸天像の眉は紀子妃殿下の眉にそっくりである。その後、秘仏の大元帥明王を見たかったのだが一年に一回しか見れないとのことで断念、本堂入り口の受付で販売していた写真集で我慢する。優美な伎芸天像とは対照的な筋肉質の男性象で、怒りに満ちあふれた表情である。連休というのに参拝者は私の他に3人だけ。いずれも目的と思われる伎芸天像の前の長椅子に座って仏像を長時間眺めていた。帰りがけに本堂の入り口の受付と寺の入り口の受付の両方で「よくお参りいただきました」とお礼を言われたことに感動した。
さて、この記事の目的は単なる観光案内ではない。大元帥明王が元寇という国難の時期に作られている。目的は国難から日本を守るためと考えて間違いない。現在の日本もまた国際金融資本支配下の米軍に敗北し占領され、ごく最近にも大地震や原発事故という悲惨な経験をしている。今ほど大元帥明王の力が必要な時期は無いのだ。
日本は元寇・第二次世界大戦敗北の他にもう一つ、合計で建国以後3回の国難を経験している。最初は西暦660年の百済(日本と同じ扶余族で兄弟の国であった)滅亡と663年の白村江の戦いの敗北である。その後に壬申の乱で天智天皇は病死(恐らく暗殺された)、大友皇子=弘文天皇も恐らく殺され、勝った大海人皇子が天武天皇に即位している。天武天皇の男系子孫が途絶えて天智天皇の子孫の光仁天皇が即位し、以後は天智天皇の子孫だけが皇統となっている。この光仁天皇が廃后・廃太子しその後死去(恐らく暗殺)した自分の妻子の井上内親王と他戸親王(母が45才の時生まれており、実子ではない可能性もある)の祟りを恐れて作ったのが秋篠寺であるようだ。この井上内親王は天武天皇の女系の子孫であり、他戸親王は女系を挟んだ天武天皇の子孫ということになる。この二人を殺し、井上内親王の娘・孫も子を残すことなく世を去ったことで天武天皇の血統は皇統から永遠に排除されたのである。
天武天皇は親新羅政策を採っており井沢元彦の「逆説の日本史」では新羅系ではないかとされている。飯山一郎氏の言う「済州島=沈羅系」よりも恐らく正しいだろう。新羅は超大国唐と朝鮮半島で対立しており、日本を味方に付けることは死活的に重要であったからだ。天智天皇は自分の二人の娘(一人は持統天皇)を天武天皇の后とし、もう一人の娘は天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の后としている。天武天皇が恐るべき実力者であったからこそ3人の娘を后にしたのだ。天武天皇は生まれた年が不明で兄の筈の天智天皇より年長との話もあり、実は全く血縁のない新羅系渡来人であった可能性は十分あるだろう。
ここで私が想像するのは1688年の英国の名誉革命である。天武天皇=オレンジ公ウィリアム、天智天皇=ジェームス二世、持統天皇=メアリー二世と擬えれば、壬申の乱とは日本版名誉革命であることがわかる。イングランドが対岸の大陸の小国オランダに国を乗っ取られたのと同様に、日本は壬申の乱で対岸の大陸の小国新羅に国を乗っ取られたのだ。これは、唐の侵略の脅威に対抗するには新羅と同盟するしかないという現実的な判断でもある。唐は支配階層が鮮卑拓跋という遊牧民族であり、元と同様の遊牧民族による制服王朝である。それ故に軍事力も強大であった。白村江の戦いは第一次の元寇なのだ。
天武天皇と持統天皇の間では恐らく、天皇の后は天智天皇の子孫にすることで日本の皇室の血統を女系ではあるが維持することで合意があったのだと思われる。「持統天皇」という名前は、新羅系に天皇の地位を乗っ取られた苦しい状況の中で、女系で天智天皇の血を守り続けたことを意味しているのだ。天武天皇崩御後は草壁王子が皇太子でありながら天皇になれず、母の持統天皇や妃の元明天皇が皇位を継いでいるなど、露骨に天武天皇の男系子孫を皇位から異物として排除する動きが見られる。皇室の菩提寺である泉涌寺で天武系天皇が奉られていないのとよく合致する。唐の脅威に対抗するには、日本の皇室が新羅系と百済・日本系の共同統治であるかのように唐に見せつけることが必要不可欠である。ただ、形式上は共同統治と見せかけながらも可能な範囲で、異国・異民族の新羅の影響力を排除したいと日本政府が考えていたのだろう。
さて、755年から763年の安史の乱で超大国唐は一挙に弱体化し、日本侵略の危険はほぼ消滅した。玄宗がやむを得ず寵愛する楊貴妃を殺したとされる事件である。この時の日本の天皇は天武天皇系列の最後の男系天皇である淳仁天皇(在位758-764年)である。淳仁天皇は孝謙天皇=称徳天皇に764年に廃位を宣告され、脱走後捕まり765年に病死している(恐らく暗殺)。この廃位の764年の前年には唐・ウイグル(モンゴル高原を支配)。その他の西域商人などが関与した国際的事件である安史の乱が終結、その後唐の弱体化につけこんだ新たな外敵チベットの侵入と首都長安占領が起きている。この状況を見た日本政府は、もはや唐による日本侵攻の脅威はなくなり、日本の皇室に新羅系天皇を置くことで唐に対する抑止力とする必要がなくなったと考えたことだろう。一年間のタイムラグは不安定な航海での情報伝達に「かかった時間と考えられる。その後井上内親王と他戸親王(新羅が日本での影響力拡大を狙って送り込んだスパイ?)を殺すことで新羅系女系皇族も排除されていき、長かった国難は終わりを告げるのである。
私が知る範囲では、淳仁天皇の廃位と安史の乱の関連性は指摘されていない。大海人皇子の正体も不明なままである。ただ、状況証拠を積み上げ論理的思考でそれらを組み合わせると深い関連が疑われる。日本史は従来日本国内だけで完結した歴史として扱われてきたが、実際には国際情勢を深く反映している筈である。そして、それが「新羅系王族による日本国乗っ取り」という屈辱的な事態であるが故に入念に隠蔽され、国内で完結した嘘の日本史が流布されてきたのだろう。淳仁天皇の廃位を行った未婚の女帝・孝謙上皇=称徳天皇は道鏡との姦通説で有名だが、これは天武系から天智系への皇統移転を正当化するための世論操作ではないかと想像する。雅子妃は現代の道鏡である。
秋篠寺は第一の国難である白村江の敗戦と天武王朝に関連して設立され、第二の国難である元寇にも大元帥明王を通じて深く関係している。秋篠宮は泉涌寺を守る会の会長を務めることからも分かるように、今上天皇や皇太子が恐らく南朝系=長州系天皇であるのとは異なり北朝系=孝明天皇の血を引いていると思われる。明治維新以来皇室が二系となってしまったことは明治維新以来現在まで続く第三の国難に深く関係している。秋篠宮の名は国難に立ち向かってきた秋篠寺から取られたのだ。それは、秋篠宮が国難に立ち向かい解決する指導者として天皇陛下から指名されたことを意味する。現皇太子の徳仁殿下は恐らく淳仁天皇と同様の行方を辿り廃太子となるシナリオであろう。このような「秋篠」の言葉が持つ深い意味合いに気付いたが故に私はこの度秋篠寺を訪れたのであった。このブログの読者の皆さんも是非秋篠寺を訪れられることをお勧めする。
日本の第一の国難は安史の乱によって終わった。現在の第三の国難は、9月17日発表のFOMCや9月18日のスコットランド独立投票、9月20日のG20財務大臣・中央銀行総裁会議、11月9日のカタルーニャ独立投票等の結果次第だが、国際金融資本の劇的な弱体化によって終わりそうな気配である。これは現代版の安史の乱に他ならないのだ。長く辛い国難の日々はもうすぐ終わる。読者の皆さんも私も、秋篠宮を中心にしてもう少しの間、皆で団結して国難に立ち向かっていこう!!!
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秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
歴史[編集]宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている(一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたとも言う)。
宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により天武天皇の男系が断絶した。藤原百川は左大臣・藤原永手らとともに天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)を即位させ、天智天皇皇孫の井上内親王を母とする他戸親王が皇太子に立てられた。しかし 宝亀3年(772年)、皇后が天皇を呪詛したとの嫌疑により廃后され、連座する形で親王もまた廃太子された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。一連の事件は、他戸親王に代わって皇太子に立てられた山部親王(のちの桓武天皇)と藤原百川、藤原蔵下麻呂ら藤原式家の陰謀によると言われ、暗殺説も根強い。
宝亀6年(775年)、即位に関わった藤原蔵下麻呂が42歳で没する。さらに翌年にも天変地異が相次ぎ、怨霊を恐れた天皇は秋篠寺建立の勅願を発することとなった。
(日照り、飢饉、異常な風雨、落雷、地震が続いた[1]。宝亀7年5月、朝廷は「大祓」を余儀なくされたが、それでも天変地異は衰えず9月26日には、「瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ち降り積もってくる」という不思議な現象が起こり、二十日余りも続いた。[2]人々は、讒言による死で廃后・廃太子は怨霊となられたのだと恐れ慄き、廃后は龍になって祟っているのだ、という噂まで立った[3]。)
(翌年3月『宮中でしきりに奇怪な事が起こるため』再び「大祓」を行い、僧六百人を招き大般若経を転読させた。宝亀8年9月、ついに内大臣・藤原良継が亡くなった。11月には天皇御自身が、そして12月には皇太子(山部親王、後の桓武天皇)までもが病気になった)。
秋篠寺に関する文献で、『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入した、という記述がある(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。
その翌年の天応元年(781年)、ついに富士山までもが噴火(富士山の噴火史)し、12月、光仁天皇は崩御されるに至った。勅願から5年後のことである。
『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われたことが見える。勅願寺であるが故に皇室とも関わりの深い寺院である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%AF%A0%E5%AF%BA
●秋篠寺
礼宮さまは,平成2年のご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜りました。その当時、妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ておられるという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れました。また、昨年(2006)には、秋篠宮家の長男、悠仁(ひさひと)さまが誕生されます慶事がありお寺は賑わいましたが今は静寂な境内で感動を覚えるお寺に戻っております。
秋篠寺といえば伎芸天で、美しい魅力尽きない伎芸天像に憧れてわざわざ大和まで来られる女性が引きも切れないことは異例です。特にキャリアーウーマンには絶大な人気を誇っております。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/akisinoderano.htm
●My Life Log: 秋篠寺の仏像
秋篠寺で有名なのは、伎芸天像とならんで大元帥明王像がある。秘仏で通常は大元明王院に祀られている。
大元帥明王は、画像が殆どで仏像姿はここだけである。猛烈な怒りの表現をしており、官立系の寺院で祀られる。国家大難時にのみ持ち出されて大難除去を祈る。(だから普段は仕舞っておける図像が多い) 高野山 西南院、 京都 醍醐寺、東寺 には図像、秋篠寺立像を含めて4像が現存している。これら4像とも13-14世紀に作られている、即ち元寇の大難の時期にあたり、国家安穩を祈祷したものである。
それ以来、大元帥法は宮中のお正月に行われる年中行事となっている。
日本は歴史に残る大難の時だ。 この時代こそ、薬師如来と大元帥明王の出番ではないのか。
http://mylifesytle.blogspot.jp/2011/05/blog-post.html
●天智天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
●天武天皇 - Wikipedia
天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。
概要[編集]舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。
名[編集]名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である[3]。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説[4]、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯[編集]出生年[編集]天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時年齢を記し、舒明天皇13年(641年)時点での天智天皇の年齢を記して生年を計算可能にしているのが、むしろ例外的である[5]
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である[6]。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた[7]。
1974年に作家の佐々克明がこの違いをとらえ、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている[8]。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王との間にもうけた子で、天智天皇の異父兄である。
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世[編集]天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。
葬儀[編集]10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇であ
壬申の乱[編集]天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った[27]。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら[28])朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
●てげてげ 2008/05/10(土) 飯山一郎
天武天皇は,済州島の御方である!
http://grnba.com/iiyama/more3.html
【私のコメント】この記事は参考として引用したものであり、私は天武天皇が済州島出身かどうかは疑問と思っている。
●安史の乱 - Wikipedia
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
背景[編集]安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。
史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
挙兵[編集]李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。
安禄山軍の構成[編集]盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らとが参画した[2]。
当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。
洛陽陥落と燕国建国の宣言[編集]唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[3]。
唐軍の状況[編集]唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。
哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
長安制圧[編集]唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]。
唐の敗走[編集]パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[5]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
唐、ウイグルへの援軍要請[編集]756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する[6]。10月に、オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。
756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[7]。
葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[8]。
安禄山の暗殺[編集]一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。
安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。
唐・ウイグル連合軍による奪回戦[編集]粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する[9]。
757年9月、葛勒可汗は太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[10]。
唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[11]、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。
757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて安軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。
郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。
11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[12]。
翌758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ[13]、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。759年4月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である[14]。
史思明[編集]759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される[15]。
史朝義討伐[編集]762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する[16]。
762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。
唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた[17]。
劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる[18]。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。
なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。
その後[編集]この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。
唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。
日本への影響[編集]このような唐の動乱の影響は海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている[25]。
更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
●淳仁天皇 - Wikipedia
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。
経歴[編集]人物[編集]天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻真人山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
聖武天皇の遺言によって立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に廃された道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により4日後の同年4月4日(4月26日)に立太子された。この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。
践祚[編集]天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。
だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。政策は、唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。また、仲麻呂主導の政権は平城宮の改築を実施し、それに伴って天皇は小治田宮や保良宮に行幸して事実上の仮の宮殿としている。
ところが、保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する[1]。
追放[編集]天平宝字8年(764年)9月に恵美押勝の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。
乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。廃位と同時に、上皇は重祚して称徳天皇となった。一方先帝である淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)を奉られることはなかった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力もあって、このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない[2]。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
●井上内親王 - Wikipedia
井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。
経歴[編集]養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。
光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には他戸親王が立太子される。
宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
宝亀4年(773年)10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●酒人内親王 - Wikipedia
酒人内親王(さかひとないしんのう、天平勝宝6年(754年) - 天長6年8月20日(829年9月25日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。光仁天皇の皇女。母は皇后井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。
略伝[編集]宝亀元年(770年)、父白壁王(光仁天皇)が即位したため、11月6日に三品に叙せられる。宝亀3年(772年)3月2日には母の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、5月27日には連座して弟の他戸親王も皇太子を廃されてしまうが、この一連の事件の最中である11月13日、突如19歳で伊勢の斎王に卜定、潔斎のためしばらく籠もる宮として春日斎宮に住まうことになる。同5年(774年)9月3日、潔斎を終えて伊勢へ下向、翌6年(775年)4月27日、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により退下した。
帰京後に自分の母と弟の幽閉と死によって皇太子の座についた異母兄山部親王(後の桓武天皇)の妃(ひ)となったが、その背景として斎王卜定と同じく、井上内親王・他戸親王派の抱き込みを狙った山部親王側の政治的配慮があるのではないかとも疑われている[1]。[要出典]なお、信憑性にはやや欠けるものの、『水鏡』に光仁天皇が酒人内親王の立太子を検討していたとの記述があり、事実であれば桓武天皇やその周辺にとっては警戒すべき存在であったことになる。宝亀10年(779年)に朝原内親王を産むが、この朝原内親王ものちに斎王に卜定されたため、祖母・母・娘と3代にわたり斎王を勤めたことになる。朝原内親王が弘仁8年(817年)に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の弘仁14年(823年)1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している[2]。この遺言状で、内親王は養子にした式部卿、大蔵卿、安勅内親王の3親王に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、ともに埋葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、と述べ、天長6年8月20日、76歳で薨じた。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は政争に翻弄された波乱のものであったといえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●朝原内親王 - Wikipedia
朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう、宝亀10年(779年) - 弘仁8年4月25日(817年5月14日))は、桓武天皇の皇女。母は妃酒人内親王。伊勢斎王、のち平城天皇妃。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%8E%9F%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
●欧州のユダヤ系王族男子による名誉革命型の皇室乗っ取りの危険はないか? - 国際情勢の分析と予測 2006年08月22日
私は「愛子女帝」を諦めていないのは、小和田恒氏ではなく、ユダヤ金融資本=イルミナティだと思います。ユダヤ金融資本出身者(具体的には、欧州の王族男子)を愛子女帝の夫にして、日本の皇室を乗っ取ってしまうのが目的ではないかと思います。
名誉革命では、1688年にイングランド王ジェームズ二世の反対派に招請されてオランダの統領であるオレンジ公ウィリアムが妻メアリー(ジェームズ二世の娘)と共に英国に出兵、ジェームズ二世の亡命後にウィリアム三世とメアリー二世が共同統治者になっています。ウィリアム三世はオランダの統領を兼任していました。当時ユダヤ商人の本拠地であったオランダの首長が英国王を兼ね、王室を乗っ取った訳です。同じ事が日本の皇室でも起きることが危惧されます。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/f2d7d27f15dd824247443bce4538da4d
【私のコメント】
三連休を利用して旅行してきた。目的地は京都府南部の精華町・木津川市の学研都市と、奈良市にある秋篠寺である。前者は私がかつてブログ記事で新皇居予定地として取り上げた場所であり、その現地視察が目的であった。内容は改めて後日記事にする予定である。今回の記事のテーマは秋篠寺である。
車で学研都市から西大寺に向かう途中に秋篠寺がある。駐車場に車を止め門をくぐると、境内は鬱蒼とした木々が生い茂り、木々の根元は一面に苔が覆っていてまるで絨毯の様である。受付で参観料を払って中に入る。庭の中の本堂にある「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」が第一の目的であった。
文仁親王は平成2年に結婚した後に天皇陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名である「秋篠」に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜った。その当時、紀子妃殿下の横顔が、伎芸天像に似ているという評判が立ったという。確かに伎芸天像の眉は紀子妃殿下の眉にそっくりである。その後、秘仏の大元帥明王を見たかったのだが一年に一回しか見れないとのことで断念、本堂入り口の受付で販売していた写真集で我慢する。優美な伎芸天像とは対照的な筋肉質の男性象で、怒りに満ちあふれた表情である。連休というのに参拝者は私の他に3人だけ。いずれも目的と思われる伎芸天像の前の長椅子に座って仏像を長時間眺めていた。帰りがけに本堂の入り口の受付と寺の入り口の受付の両方で「よくお参りいただきました」とお礼を言われたことに感動した。
さて、この記事の目的は単なる観光案内ではない。大元帥明王が元寇という国難の時期に作られている。目的は国難から日本を守るためと考えて間違いない。現在の日本もまた国際金融資本支配下の米軍に敗北し占領され、ごく最近にも大地震や原発事故という悲惨な経験をしている。今ほど大元帥明王の力が必要な時期は無いのだ。
日本は元寇・第二次世界大戦敗北の他にもう一つ、合計で建国以後3回の国難を経験している。最初は西暦660年の百済(日本と同じ扶余族で兄弟の国であった)滅亡と663年の白村江の戦いの敗北である。その後に壬申の乱で天智天皇は病死(恐らく暗殺された)、大友皇子=弘文天皇も恐らく殺され、勝った大海人皇子が天武天皇に即位している。天武天皇の男系子孫が途絶えて天智天皇の子孫の光仁天皇が即位し、以後は天智天皇の子孫だけが皇統となっている。この光仁天皇が廃后・廃太子しその後死去(恐らく暗殺)した自分の妻子の井上内親王と他戸親王(母が45才の時生まれており、実子ではない可能性もある)の祟りを恐れて作ったのが秋篠寺であるようだ。この井上内親王は天武天皇の女系の子孫であり、他戸親王は女系を挟んだ天武天皇の子孫ということになる。この二人を殺し、井上内親王の娘・孫も子を残すことなく世を去ったことで天武天皇の血統は皇統から永遠に排除されたのである。
天武天皇は親新羅政策を採っており井沢元彦の「逆説の日本史」では新羅系ではないかとされている。飯山一郎氏の言う「済州島=沈羅系」よりも恐らく正しいだろう。新羅は超大国唐と朝鮮半島で対立しており、日本を味方に付けることは死活的に重要であったからだ。天智天皇は自分の二人の娘(一人は持統天皇)を天武天皇の后とし、もう一人の娘は天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の后としている。天武天皇が恐るべき実力者であったからこそ3人の娘を后にしたのだ。天武天皇は生まれた年が不明で兄の筈の天智天皇より年長との話もあり、実は全く血縁のない新羅系渡来人であった可能性は十分あるだろう。
ここで私が想像するのは1688年の英国の名誉革命である。天武天皇=オレンジ公ウィリアム、天智天皇=ジェームス二世、持統天皇=メアリー二世と擬えれば、壬申の乱とは日本版名誉革命であることがわかる。イングランドが対岸の大陸の小国オランダに国を乗っ取られたのと同様に、日本は壬申の乱で対岸の大陸の小国新羅に国を乗っ取られたのだ。これは、唐の侵略の脅威に対抗するには新羅と同盟するしかないという現実的な判断でもある。唐は支配階層が鮮卑拓跋という遊牧民族であり、元と同様の遊牧民族による制服王朝である。それ故に軍事力も強大であった。白村江の戦いは第一次の元寇なのだ。
天武天皇と持統天皇の間では恐らく、天皇の后は天智天皇の子孫にすることで日本の皇室の血統を女系ではあるが維持することで合意があったのだと思われる。「持統天皇」という名前は、新羅系に天皇の地位を乗っ取られた苦しい状況の中で、女系で天智天皇の血を守り続けたことを意味しているのだ。天武天皇崩御後は草壁王子が皇太子でありながら天皇になれず、母の持統天皇や妃の元明天皇が皇位を継いでいるなど、露骨に天武天皇の男系子孫を皇位から異物として排除する動きが見られる。皇室の菩提寺である泉涌寺で天武系天皇が奉られていないのとよく合致する。唐の脅威に対抗するには、日本の皇室が新羅系と百済・日本系の共同統治であるかのように唐に見せつけることが必要不可欠である。ただ、形式上は共同統治と見せかけながらも可能な範囲で、異国・異民族の新羅の影響力を排除したいと日本政府が考えていたのだろう。
さて、755年から763年の安史の乱で超大国唐は一挙に弱体化し、日本侵略の危険はほぼ消滅した。玄宗がやむを得ず寵愛する楊貴妃を殺したとされる事件である。この時の日本の天皇は天武天皇系列の最後の男系天皇である淳仁天皇(在位758-764年)である。淳仁天皇は孝謙天皇=称徳天皇に764年に廃位を宣告され、脱走後捕まり765年に病死している(恐らく暗殺)。この廃位の764年の前年には唐・ウイグル(モンゴル高原を支配)。その他の西域商人などが関与した国際的事件である安史の乱が終結、その後唐の弱体化につけこんだ新たな外敵チベットの侵入と首都長安占領が起きている。この状況を見た日本政府は、もはや唐による日本侵攻の脅威はなくなり、日本の皇室に新羅系天皇を置くことで唐に対する抑止力とする必要がなくなったと考えたことだろう。一年間のタイムラグは不安定な航海での情報伝達に「かかった時間と考えられる。その後井上内親王と他戸親王(新羅が日本での影響力拡大を狙って送り込んだスパイ?)を殺すことで新羅系女系皇族も排除されていき、長かった国難は終わりを告げるのである。
私が知る範囲では、淳仁天皇の廃位と安史の乱の関連性は指摘されていない。大海人皇子の正体も不明なままである。ただ、状況証拠を積み上げ論理的思考でそれらを組み合わせると深い関連が疑われる。日本史は従来日本国内だけで完結した歴史として扱われてきたが、実際には国際情勢を深く反映している筈である。そして、それが「新羅系王族による日本国乗っ取り」という屈辱的な事態であるが故に入念に隠蔽され、国内で完結した嘘の日本史が流布されてきたのだろう。淳仁天皇の廃位を行った未婚の女帝・孝謙上皇=称徳天皇は道鏡との姦通説で有名だが、これは天武系から天智系への皇統移転を正当化するための世論操作ではないかと想像する。雅子妃は現代の道鏡である。
秋篠寺は第一の国難である白村江の敗戦と天武王朝に関連して設立され、第二の国難である元寇にも大元帥明王を通じて深く関係している。秋篠宮は泉涌寺を守る会の会長を務めることからも分かるように、今上天皇や皇太子が恐らく南朝系=長州系天皇であるのとは異なり北朝系=孝明天皇の血を引いていると思われる。明治維新以来皇室が二系となってしまったことは明治維新以来現在まで続く第三の国難に深く関係している。秋篠宮の名は国難に立ち向かってきた秋篠寺から取られたのだ。それは、秋篠宮が国難に立ち向かい解決する指導者として天皇陛下から指名されたことを意味する。現皇太子の徳仁殿下は恐らく淳仁天皇と同様の行方を辿り廃太子となるシナリオであろう。このような「秋篠」の言葉が持つ深い意味合いに気付いたが故に私はこの度秋篠寺を訪れたのであった。このブログの読者の皆さんも是非秋篠寺を訪れられることをお勧めする。
日本の第一の国難は安史の乱によって終わった。現在の第三の国難は、9月17日発表のFOMCや9月18日のスコットランド独立投票、9月20日のG20財務大臣・中央銀行総裁会議、11月9日のカタルーニャ独立投票等の結果次第だが、国際金融資本の劇的な弱体化によって終わりそうな気配である。これは現代版の安史の乱に他ならないのだ。長く辛い国難の日々はもうすぐ終わる。読者の皆さんも私も、秋篠宮を中心にしてもう少しの間、皆で団結して国難に立ち向かっていこう!!!
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楊貴妃については他の記事でも触れています。既にお読みかもしれませんがご紹介しておきます。
●オーストリアの逆襲 - 国際情勢の分析と予測
●世界的美女の楊貴妃は日本にいた? 日本各地に伝わる楊貴妃伝説とは・・・ 更新日: 2013年08月25日 宮間乃祭人さん
http://matome.naver.jp/odai/2137732147835357201
12月15日に予定されているプーチン訪日は安倍首相の本籍地・先祖の出身地である山口県長門市に予定されている。宿泊地は大谷山荘との噂である。12月1日から16日まで宿泊予約受付が停止されていることから間違いないだろう。ところで、安倍首相の本籍地のすぐ近くの油谷には「楊貴妃の里」があり、ここに唐から楊貴妃が流れ着いたとされる。その他、熱田神宮や泉涌寺など皇族関連の寺社にも楊貴妃関連の墓や像がある。これらは、安史の乱とは自然に発生した者では無く、唐を弱体化させる為に日本が作り出したものであり、楊貴妃は日本政府系の工作員であったことを示唆する。高句麗・百済の滅亡後に日本に移住した旧支配階層達や呉や越などの旧支配階層を中心とする日本の皇族が協力して楊貴妃を後宮に送り込み玄宗皇帝を夢中にさせて超大国唐を一挙に衰退させたのだ。安史の乱が西暦755-763年で、756年に玄宗が首都長安を脱出して四川省に落ち延び、楊貴妃が殺され玄宗も失意の中で退位したとされる。今から丁度1260年前に日本は第一の国難を脱出したのだ。
そして今、国際金融資本の巨大な金融バブルが弾けてフェニキア・カルタゴ・ベネチア型の金融資本主義が大東亜共栄圏の攻撃により倒れ、日本が国難から解放されようとしている。そして、安史の乱や元寇とは異なり、全世界が国際金融資本の支配から解放されることになる。干支が一回りする60年を21倍した1260年は神武天皇の即位年をさかのぼって決定する際に利用されるなど重要な意味合いを持つ。安史の乱から1260年後の皇紀2676年の今年に国際金融資本を滅亡させるというスケジュールは恐らく日本政府が決定したのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/6e8f8f55cc9b70a87d80ed26420cbc44
他国(唐)の皇妃が、皇室の菩提寺で、しかも観音様として祀られています。
この如何にも奇妙な現実が示すもの。
唐の弱体化(安史の乱)を、この楊貴妃がもたらしたものと考えれば納得ができます。
唐の弱体化は、同盟国新羅への支配力低下をもたらし、ひいては新羅による日本への影響力低下をもたらします。
敵国の弱体化は、自国にとっては有利に働きます。
この安史の乱を引き起こした一因となったと言われている楊貴妃。
傾国の美女は、日本にとってはまさに救世主でもあったわけです。
如何にも奇妙な存在だった楊貴妃観音像。
謎が解けました。
東京のとある駅で明治天皇のお孫さんと待ち合わせをし、タクシーで名無し先生の事務所まで行ったのです。
2016年11月22日の東日本大震災の余震と言われている地震ですが、これにはさすがに驚きました。
2011年3月11日の地震は完全にあっち系の人たちが起こした人工地震だということは名無し先生から何度も聞いていますが、それがまた仕掛けられたのかと・・・
でも、一番びっくりしたことは、世の中は○○○宮とシオニストの戦いであるということを教えていただいたことです。
トランプとクリントンの戦いはマジで○○○宮とシオニストの戦いであったわけです。
残念ながら、どちらともベルファシです。
言うまでもなく、クリントンがシオニストで、トランプは南部の勢力です。
そして、○○○宮の勢力はスパルタから来ています。
映画300のスパルタです。
彼らが散らばって世界の王家になりました。
日本の皇居は、バチカン同様、日本ではありません。
当然、そこに住む方々も日本人ではありません。
名無し先生、すごかったですよ・・・ でっかいんです。
皆様にお伝えできることは逆に少なくなると思われますが、その情報の一つ一つにこだわるのではなく、大局的に考えることが重要と思います。
例えば、○○宮に当てはまる言葉はなんでもいいんです。
そう言う国際的なスパルタ発祥のグループが、日本とか、中国とかを超越して支配しています。
彼らはアジアだけではなく世界中にいます。
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-337.html
こんにちは、今回はハーバード大学とカラスの日常について
ハーバード大学には、ある特別クラスがあります。
ブルー・ブラッド教育と呼ばれています。
ジョンソン&ジョンソンの一族等が通うクラスです。
全部で13講座ありますが、9講座より後の10講座〜13講座の部分は特殊血族しか受けられません。
9講座までは、血族の付き人に限って出席できます。
名無し先生の部下でその講座を9講座まで受けた人物がいます。
家庭教師として出席しましたが、その後の授業が何なのか分からず大きな?を持ち続けていました。
名無し先生に出会い、簿外資金の仕組みを知り、初めて米国内ヘッセン陣営のカラクリを悟り、先生の部下になった訳です。
ということで、9講座から後を受講する血族には、この資金の仕組みが明かされているという事。
少なくとも、ジョンソン&ジョンソンの一族等は知っている。
私はこのブログで、この資金の存在のみを書いていますが、仕組みまでは書いていません。
ですが、私は、ハーバードのブルーブラッド10講座以降を受講した事になります(笑)。
この仕組みを知る者達が、ベルファシの一部と国際秩序維持派。
このベルファシ側にブローカーとして存在するのがロスチャイルドや、バークレイズといった人間や組織。
その元締めがヘッセン=ナッサウなのです。
ヘッセン=ナッサウの手下は日本にも多く存在し、近◎閥、九◎閥といった日本のオーナー。
その下にいろんな色のカラスがいます。
そして、私たちがテレビで目にする政治家のような著名人を動かしています。
田母神氏は上に九◎が居るだけの話。
九◎閥も近◎閥も自身の利益中心で動いているので、ポリシーはないんです。
どちらも危ない事は平気でやります。
近◎閥の危なさはイエズス会譲りの危なさ。
九◎閥はメーソン譲りの危なさ。
この両者は日本国を権益の主体としているから、卍党の様な外来種には既得権を持たせない。
だから中国にネオ満州国を作って利権を獲得すると言ってるんです、卍党一派は・・・・
九◎閥も近◎閥、どちらが強いかというと、近◎が強いそうです。
日本国の既得権益者としては、近◎閥が強いということです。
それともう一つが一◎閥
これがカラスの3トップ
田母神氏とか安倍総理は九◎の気分次第で、すぐ代役が立ちます。
細川、小泉は近◎の気分次第
こういう日本の仕組みを打開する手段を持ってない一般人の人生は馬鹿馬鹿しいものです。
しかし、国際秩序維持派の存在はそれよりも強いのです。
だって、世界経済を回すのは彼らなのですから。
ちなみに、この金塊を切り崩して売っている訳では有りませんよ。
金塊が有るから、各国に資金を入れられる訳です。
まあ日本は、なんだかんだ言っても、まだ何とかなる範疇でしょう。
その先の魑魅魍魎、ヘッセン=ナッサウは恐竜サイズで対峙する訳ですから大変です。
カラスの実動部隊ような存在はフィリピンにも、もちろん存在します。
しかもフィリピン人ばかりでは無く、韓国人がいます。
スービックという、元米軍基地が有った港には韓国企業、ハンジンが幅を利かせています。
ヒュンダイの会長の弟だか兄かがやってます。
韓進グループの歴史は第二次世界大戦後の1945年11月1日、趙重勲(チョ・ジュンフン)が韓進商事を設立した当時に遡る[1]。当初はトラック運送業を行い、1956年11月に在韓米軍の第8軍から軍需物資輸送業務を請け負ったことを皮切りに米軍との関係を強めた。1966年3月にはアメリカ国防総省との間で、ベトナムで戦うアメリカ軍の陸・海・空軍すべてに対して物資輸送を請け負う契約を結んだ。戦地であるベトナム国内での危険な輸送で韓進は急成長を遂げた。
主なグループ企業
* 大韓航空 Korean Air Lines Co.,LTD (KRX : 003490) - 航空部門
* 韓進海運 Hanjin Shipping Co.,LTD (KRX : 000700) - 海運部門
* 韓進交通 Hanjin Transportation Co.,LTD (KRX : 005430) - 陸運部門
* 韓国空港 Korea Airport Service Co.,LTD (KRX : 005430) - 航空部門
特区の中の開発を・・・ハンジンの労働者はかなり劣悪な条件で働いています。
死者も出しています。
ハンジンの子会社がイントラムーロスという、旧スペインの当時の街路と要塞跡が残っている場所で陸上運輸、武器販売のライセンスを持ってます。
そこの社長をしてるフィリピン人の叔父が軍の元将軍です。
個人の軍隊も持っている。
韓国人がフィリピンで大きい顔をする時は、ここがバック。
日本でもそういった韓国人が存在するのは、パチンコ、芸能界、マスコミ等々が韓国・朝鮮人支配で有名ですね。
ところで若いカラスはいったい普段は何をやってると思いますか?
上野公園のそばに◎◎寺というのがあり、そこがカラスの修行所兼、宿泊所。
あとは上野駅から東にずっと行ったところにある超有名な◎◎寺。
若いカラスは朝早く起きて、始発でそれぞれの担当場所に行きます。
そして易者をやるんです。
易者を各地でやって情報収集をする訳です。
ガード下で易者を見つけたら、カラスと疑ってみてください。
一般にネットででるのは、鞍馬寺や下賀茂神社ですよね?
実際はそんな処で俸公衆(カラス)を探しても誰も見つけられないんです。
意外と近いところにいるんです。
また、修行と言うと滝業や断食を想像するんでしょうけど、易者になって諜報活動の練習代に一般人を使うとは誰も思ってもいないでしょう・・・
どう大衆を扇動するかが役目なのですから・・・
その意味では、フランス革命前のジャコバン党とイエズス会がやっていたマッチポンプと、やる事は同じですからね。
民衆に不安や不満をつのらせ、革命機運を煽る等・・・
それでは
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-283.html
「ネイティブの朝鮮人という説の根拠があれば教えてください」
にお答えします。
専門家ではありませんので、
わかる範囲でお答えします。
○ 上代の史部が「朝鮮系渡来人またはその子孫」であることは、歴史学の常識です。
この点については、そもそも反対説がありません。
日本への漢字伝来は、朝鮮というフィルターを通過したものです。
この点についての参考文献は、
「漢字伝来」(岩波文庫)など、
枚挙に暇がありません。
○ 森先生の「β群日本人筆記説」は、
お読みになればわかったと思いますが、
たいした根拠がありません。
森先生も、新羅系の漢文体であることを認識しています。
○ 朝鮮系渡来人とその二代目の教養は漢字であり、
その音韻は、朝鮮音で把握したものです。
彼らが日本語を耳で聞いて漢字に落とし込むわけですが、
そのときには、日本語の音韻を朝鮮漢字音に応じて把握します。
この結果として、β群の漢文には、
朝鮮漢文の特徴がきれいに現れるわけです。
その特徴は、
「訓読み」
「和臭」
「上代特殊仮名遣い」
「音韻のアルタイ語族的特徴」
です。
この点については、
「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」
が分かりやすいです。
ご一読を。
○ 特に上代特殊仮名遣いと朝鮮語母国語者との音声学的関連は、
きわめて興味深いものです。
○ 日本書紀のβ群の主筆記者が朝鮮語話者(ネィティブまたは二代目)であったとすると、
そして、主として百済系亡命知識人であったとすると、
日本書紀に、皇室の朝鮮起源を示唆する記載を、
「それとなく」混入させるのは自然です。
○ 梅原氏などは、皇室が日本書紀を権威付けに使っていると指摘しているわけですが、
朝鮮系知識人にも同様の動機があるわけです。
歴史書は、梅原氏のようにひとつの立場に偏ることなく、
プレーンに見るべきだと思いますね。
奈良を中心とした現在の皇室は地方勢力だったと思います。
しかし九州王朝は百済にのめりこみすぎて
白村江の戦いで破滅した。
その後、唐軍が九州にやってきて
九州勢力を殲滅してしまった。
権力の空白と、唐の傀儡政府という問題で
九州から奈良に中心が移る。
倭は日本となり、天智天皇が初代天皇になった。
後の壬申の乱は太平洋戦争のような大事件で
王子様の言うように天智天皇は弟ではない
得体のしれない人物であると。
新羅の傀儡でしょうか。
これらを記録した日本書紀はあたかも
奈良は昔から日本の中心で、日本は
外国勢力から独立した国だと歴史を捏造した。
そんな風に思うわけです。
不正投票疑惑や、独立派が刺され死亡で暴動か。
やはり、独立するまで終わらないかも。
ロ・シ・ア・だ・よ!
オーソドックスなものです。
同様の見解をとる文献学者は多いでしょう。
なぜなら、日本書紀の「一書」の記載を追っていくと、
自然にスサノヲを始めとする朝鮮貴族の渡来を示唆する記載があるからです。
しかし、日本書紀の記述の性質については、
一つ踏まえておかないといけない点があります。
日本書紀を筆記した人間の出自です。
「日本書紀の謎を解く」(森 博達)を一読されることをお勧めします。
現在では、日本書記のかなりの部分を記述したのが中国語のネィティブであることが、立証されています。
また、残りの部分を記述したのは、朝鮮語のネィティブであるとしか考えられません。
特に、問題の日本書紀の神話部分を記述したのは、
中国語ネィティブではないことがわかっているので、
朝鮮系帰化人です。
帰化人には、スサノヲ関係の記述に、朝鮮由来の記述を混入させる動機があるわけです。
Feasgar math! (フェズガ-マ!) もしかして「山紫に水清き‥」の先輩かな?! それはそうと、国難の正体を考えれば、今回の安史の乱は戦後レジュ-ムの解体=連合国(United Nation)解体 & 銭湯"白肌の湯"(フェニキア/カルタゴ/ハザ-ル勢力)の弱体化だと思います。キムチと陶器は捨て駒でしょう。もちろん敷島からは完全駆除しなといけませんが‥‥
今回のスコットランド独立投票はエゲレス崩壊の狼煙、終わりの始まりです。敷島人と同じく失われた10支族の血を少しもつゲ-ル/ノルマン/ル-シ-のスコットランドが独立し、Mary Queen of Scotの血をひく正統Stuart朝がグレ-トブリテンを治めて欲しいものです。
話かわって、敷島人が好きなエゲレス的もの、スコッチウ井スキ-、ゴルフ、蛍の光、バグパイプ、キルト、タ-タン、古城‥‥これら全部スコットランドなんですね。
自分はなぜかトンペイ区欠の人と相性がいいみたいで、当地ユニオンジャック - セントアンドリュ- = ? でもいろいろお世話になってます。きょうはスコットランド系ォサ-ンとゴルフをしながら、ぁゃしぃ与太話を少ッチ‥‥ クラブハウスのスクリ-ンに流れていたAuld Lang Syne (オ-ルド ラング サイン) にスコットランド系1000万の心意気を感じました。
Slinte mhath! Slaint mhor! (スラ-ンジヴァ-! スラン-ジヴォ-!) 『Auld Lang Syne』『Scotland, the Brave』を紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=OIb7zfhTuvM#t=196
きっこやコシミズや阿修羅板住民のことか。
陸軍系が来るんだろうが。
中枢の親衛隊や諜報組織と核を持参して日本に帰ってくるという意味ではないか?
上記の3つは占領国である日本が持ち得ていないもの。
占領国であるために持ち得ないこの3つを残置謀国である北朝鮮で育て続けたって事だろう。
権力者を守るための親衛隊、情報を守る諜報組織、国を守る核兵器。
横槍投稿になり申し訳ないが。
>だから、米英が金融市場崩壊で経済的に破綻すれば自動的に米軍が撤退し、北朝鮮から亡命政権が日本に戻ってきて日本が独立を回復できます。
これ、ひょっとして、北朝鮮(もしくは統一朝鮮)の日本侵攻ってことですか?
北が日本の親日国家になり同盟を結ぶまでならともかく、これは完全に売国の言動ですよ?
これがprinceofwales1941さんの本音ってことですかね?
平成=平氏の利権は金融
財務省に平将門の首塚あり
美濃部亮吉も同じく顔が似てる
防衛省は旧尾張藩にある
小野田寛郎陸軍少尉曰く
「満州に亡命政権ができそれが南下反抗したのをベトナム戦争と理解した」
ルバング島近辺の米軍機の確認について
塚本誠憲兵大佐から井田正孝氏(日本の一番長い日)まで入社してる
博報堂が海軍系
東アジア共同体関連の協賛に名を連ねてる
コペルニクス的転回で親韓から嫌韓、殺韓に世論を変えた。何より北朝鮮に対して風当りが変わったのが素晴らしい。恐らく今後の流れは
米軍の韓国撤退、選挙による親北派大統領の誕生、南北共催冬季五輪、南北和平条約締結と北軍の南常駐、南北統一選挙による金正恩統一朝鮮大統領就任、親日国家統一朝鮮民主主義人民共和国の誕生となるだろう。
パソナの子会社に、防衛省利権を狙っている会社がある。
パソナが防衛省を掌握?
ttp://youtu.be/FzXzImHWMqc
傭兵を使った工作を思考する、現代的ステルス戦を想定している。
単なる、利権目当てで愛国詐欺ならお笑いもんだ。
あんまり日本のことを本気で考えてるとは思えんのだが。
キーワード
ケケ中、南部、パソナ、創価、安倍、小野寺、防衛省、自衛隊、ベネフィットワン
何でも金だから。
女を使って、日本の名だたる企業の社長秘書、技術開発部門、財務部門などに派遣社員を派遣し、経営層をたらしこんでいる奴がいる。情報はダダ漏れ。
当然アメリカへも筒抜けで、国ごとお安く金玉を握られてる始末。
憂国
これは敵である国際金融資本を騙して油断させるための嘘という見方もできるかと思います。
>つまり独立国家となるために政治的独立をしたいが軍が無いため出来ず、軍が欲しいが政治的独立をしていないため軍を持てない、という事になるのでは。
そんなに難しいことはないでしょう。日本は大東亜戦争で本土から撤退して平壌の亡命政権を中心に犯罪国家米英と戦い続けています。日本が独立国家ではないのは米英の占領下にあるからです。だから、米英が金融市場崩壊で経済的に破綻すれば自動的に米軍が撤退し、北朝鮮から亡命政権が日本に戻ってきて日本が独立を回復できます。ちょうど、ノルマンディーに連合国軍が上陸してフランスのヴィシー政権が崩壊しドゴールがロンドンからフランスに上陸して新政権を樹立したことに似ています。
安倍がやりたいのは徴兵制よりもPMC(民間軍事会社)の育成だろ。
unknown2014-09-19 22:49:37です。
分かりやすい状況説明に感謝。
おかげですっきりしました。
その米軍、米国内の内部対立の構図は日本の敗戦時(あくまでも建前上の)からずっとあり今でも変わらない事は当然だが、
昭和天皇による「米軍による占領は長いほうが良い」という発言はそう言った意味なのだろう。
つまり米国内もしくは米軍内の親大東亜共栄権勢力の力を借りた、という事なのだろう。
となるとそうする理由を考えなくてはならないが、やはり日米共通の敵が存在することになり、それは欧州貴族階層と国際支配階層がそうなんだろう。
その米軍の存在(武力)と憲法9条(法力)と自虐史観(国民感情)の3つによって戦後の日本は戦火から守られてきたのだな。
もちろん米軍を国内に引き入れることによって防衛力は手にするものの、その同じ米軍内の反日勢力によって被害を被ることもあったが、総合的なプラマイではやはりプラスが大きかったのだろうな。(それはそうだ、絶滅させられるよりはよほどマシ)
私は学生時代から長らく左翼勢力の自虐史観による若者への悪影響や民族概念の希薄化に憤っていたが、そのような戦略に感づいてからはそれを抑えるようにした。
これもマイナスは多いが絶対的なプラスのためなのだな。
それがここ最近で安部の軍保有の動向や役目を果たした朝日による愛国自爆によって一気に気運が反対側になったという事は、いよいよ「また欧米の手先となってしまう」危険性なく独立国家として復活できるという事なのだろうか。
やはりプリンスの言うとおり全世界同時的に欧州貴族階層、国際支配階層が崩壊しつつあるのか。
たしかに辻褄はよく合う。
だからこそプリンスも良い意味で感情的になっているのだろうな。
・・とは言いつつも同時に、これは希望的観測に従った見方であり、本当はその真逆で再び日本が国際支配階層によって戦火に巻き込まれようとしている(抽象戦に負けた)のではないか、とも疑ってしまうが・・。
仮にこの流れが本当に日本独立の流れだとしても、
それには課題が多くまた慎重に成功させなければいけないかなり繊細な戦略ではないかと私は思う。
というのも、
・独立国家となるためには政治的に独立をする必要があり(日本は政治の主権を奪われておりスパイだらけ)、
・その政治的独立をするためには軍隊(というより核)を保有しなくてはならないのであり(そうでないと政治家は脅迫され放題で主権はなくスパイも追い出せない)、
・ではその軍隊を保有するには、まず政治的独立をしていないと脅迫や騙しやスパイらの工作によって先のように軍隊を暴走させられてしまうという矛盾、ジレンマがある。
つまり独立国家となるために政治的独立をしたいが軍が無いため出来ず、軍が欲しいが政治的独立をしていないため軍を持てない、という事になるのでは。
これを解決するには、
この2つは同時並行で達成しなければ意味がない事になる。(どちらか片方がフライングした時点で国を潰される)
今の流れのままでは仮に日本が阿部によって憲法9条を脱ぎ捨て軍保有をしたところで、軍保有と同時にその政治的独立の下準備は出来ているのか、という疑問がある。
独立できるかもしれない、だが失敗したら日本全滅という極めて繊細な状況にいま日本はいるのかもしれない。
9条改正によって軍隊を所有しつつ、同時に敵対勢力による軍隊の暴走への誘導をかわす。
この非常に繊細な同時戦略を本当に実現できるのだろうか。
政治的独立と、軍と核の保有と、諜報組織の保有をしなくてはならず、また同時的に達成しなくてはならない事を考えると、課題が多く難しい。
政治的独立(買収)、軍(米軍と自衛隊)と核(北朝鮮)、諜報組織(まさかの創価学会?)がそれに当たるのだろうか。
まとまりのない文章で失礼。
スコットランドを見習えばいい。
少しずつ前進して行けばいいのに。
バチカンは反国際金融資本だが、
極東のイスラエルとも言える国際金融資本の作品とも言える韓国に行ったのは意味が解らん。
朴クネが残置諜者で南の滅亡後の亡命先でも相談してたのか?
あとアジア大会後に北はついにやるかもね。
http://www.afpbb.com/articles/-/3026450
AFP 2014年09月19日 16:25 発信地:ロンドン/英国
【9月19日 AFP】デービッド・キャメロン(David Cameron)英首相は19日、英 北部スコットランド(Scotland)の独立が歴史的な住民投票で否決されたこと を受けて記者会見し、英国全土で自治権を拡大すると約束した。
18日に投開票されたスコットランド独立の是非を問う住民投票は、独立賛成が 150万票を獲得したものの、反対票がこれを上回り、スコットランドの英国残留 が決まった。
ロンドン(London)・ダウニング街10番地(Number 10 Downing Street)の首 相官邸前で行った記者会見でキャメロン首相は、スコットランド独立問題は 「一世代の間」は一段落したとの見方を示し「今こそ、われわれ連合王国が一致 団結して前進する時だ」と訴えた。
首相はまた、「スコットランドの人々が地方行政においてより大きな権限を得 るのと同様に、イングランド(England)、ウェールズ(Wales)、北アイルラ ンド(Northern Ireland)の人々も、より大きな裁量権を得なければならない」
と述べ、地方分権の促進を約束した。
スコットランドは自治権拡大で独立への一歩を踏み出した。
ハッタ=秦氏
インドネシアもこんなもん
英国領マラヤは尾張徳川家が狙ってた
どうせ南朝藤原式家平氏(金融資本)対北朝藤原北家
の対立だろう
明治維新で全社が負けたから駄々こねてるのさ
藤原共栄圏の真相
この可能性についてはどうなのだろうか。
米国は一枚岩ではありません。国際金融資本・多国籍企業などの支配階層が米軍に命令して地震兵器・原発事故・民間航空機撃墜・国際法違反のイラク侵略などの犯罪行為を実行させており、米軍はそれを嫌がっていて激しい対立があるものと思います。米軍の内部の心ある者は日本などと組んで国際金融資本と戦っている事でしょう。
日本は第二次大戦の敗戦国となる事で憲法第九条を手に入れ、日清日露戦争のように欧米のアジア侵略の先兵という役目を拒否することができるようになりました。これは米英など国際金融資本系国家が第二次大戦で日本を悪の国と呼んだ戦略を逆手に取った巧妙な戦術です。今こそ米英蘭を犯罪国家と全世界が認定し、彼らを占領し犯罪行為関与者を全員処刑し、彼らの憲法に戦争放棄を謳わせるべきです。
朝日新聞や日本社会党、河野洋平や大江健三郎など日本で左翼と呼ばれる人々・勢力は、末端は愚かな人々と思いますが、中枢は北朝鮮はじめアジア各地に残る帝国陸軍の残置諜者と連携して大東亜共栄圏の復活を夢見る旧帝国陸軍系の勢力だと考えています。ただ、本音を言うと米英蘭に敵視され潰されるので、表向きは日本を侵略国家と自己批判してきたのでしょう。そうすると国際金融資本は立場上彼らを潰すことができなくなります。弱者である帝国陸軍遺残勢力が強大な敵である国際金融資本と戦うには敵との正面対決を避け、敵を騙し敵の目を欺くことが必要です。残置諜者国家北朝鮮も、北朝鮮と親密な中国も、日本の侵略を批判するのは表向きのことであり、実際には彼らの政府は親大東亜共栄圏派で占められているはずです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4
外国語[編集]
第十二に、高麗語、貴賀国語、天竺語(梵語)、波斯国語の数の1から10までをカタカナで記している。誤りが多いが、ハングル発明以前の朝鮮語を表音文字で記した貴重な資料となっている。
・大江志乃夫(大江朝臣)
・丸山真男(藤原朝臣/藤原南家)
・鶴見俊輔(藤原朝臣)
藤原氏か賀茂氏の諜報員の集まりだろうな
昭和初期もこの辺に突き上げられたのだろう
東北地方も欧州藤原氏の拠点だし
左翼団体の長に藤原氏が多い
日教組も同じ
旧陸軍→尾張徳川家
旧海軍→天皇の軍隊
だと思う
これがそのまま秩序にならないかね
国家法人日本国政府→日章旗
国家法人日本国政府=旧江戸幕府
財務省は前者が抑えてるのだろう
スコットランドの住民投票で、大規模な不正投票が行われたことは疑いようがありません。↑この写真をご覧ください。YESと書かれた票がNOの票が置かれるべきテーブルの上に置かれています。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/09/20/kiji/K20140920008960790.html
この結果は予想されていた。連合王国の政府は公約通りスコットランドの自治権拡大を実行する義務があり、その点では独立派は部分的に勝利したとも言える。
田中宇が説くように、EUの出現によって国民国家の時代は終わった。国民国家の時代には国家の規模が必要であり、イングランドはスコットランド・ウェールズ・アイルランドを、フランスでは共和制支持の北部が王党派の南部やコルシカ島を、ドイツではプロテスタントのプロイセンがカトリックのバイエルンやバーデン・ビュルテンブルグを、イタリアでは豊かな北部が貧しい南部を、スペインではマドリードがバルセロナを吸収統合することで欧州の大国が成立した。多民族国家であるオーストリアハンガリー二重帝国は多数の小国に分割された。
EUはオーストリアハンガリー二重帝国を復活させ拡大させたものであり、国民国家、一民族一国家とは対立する概念である。長期的には連合王国は分裂してドイツを中心とするEUに吸収されていくことを歴史家「ノーマン・デイビス」が予想している。
今回の投票では独立賛成派が44.65%の得票であった。今後国際金融資本が破産しイングランド銀行が破産し、米英蘭が犯罪国家として断罪され場合によっては怒り狂った日中朝印アラブ露などの連合国の軍隊に占領されて住民が皆殺しとなるティルス・カルタゴ型の破滅を辿る可能性もある。その時、イングランドに滅ぼされた被害者として断罪の対象から抜け出すためにスコットランドが分離独立を再び検討する可能性もあるだろう。
私の見解は、今回の投票は近未来の独立の予行演習という見方である。国際金融資本が崩壊すれば詐欺的金融以外に産業のないイングランドは極貧の犯罪国家となり、スコットランドに見捨てられる。
それは一部あると思う
大江健三郎なんて「大江朝臣」
視野が狭いと広いとはただの優劣の差ではなく、それぞれお互いが一長一短をもつのだと思う。
短視眼的というのは先を見ることや絵をえがくことは苦手だが、目先のことには強いといえる。
だから日本人は目先の技術や戦闘行為には滅法強いのだと思う。
そう言った意味では、超長期的戦略の成功のためには短視眼的な兵隊がなければ不可能と言えるかもしれない。
つまり日本人は視野が狭くあるべきなのだろう。
かと言って今の日本の、テレビにマスコミに安物商品づくめなどの国民を馬鹿にする要素は徹底的に排除するべきである。
そう言った意味で私は、日本人は賢こくて短視眼的な強い国民でなければならないと思う。
ただこれのデメリットは、
それら国民をまとめる役目の超長期的戦略を描くリーダーが不在となると途端に無力になるという点。
またはリーダーを乗っ取られるとその力を利用され望まぬ方向に誘導される点。
例えば今の日本の伝統技術や科学技術もそうであって、技術を打ち出すべき方向性であるヴィジョンが無いためにただの自己満足の世界に終わってしまい、未来を作っていけていない。
それどころかその技術を利用されている始末。
欧米はきっと日本人を自分たちに都合の良い便利な職人集団に仕立てあげようとしているんだろう。
だがいかんせん短視眼的だからそれに気づかない。
英米は、日本を尖兵として大陸へ侵攻させ、利権を奪う気だった。
しかし、ハリマン事件から、太平洋戦争まで、欧米列強は今まで経験したことがないほどの日本からの逆襲、反抗を受けた。その結果として、日本は欧米が、左翼を利用しても、右翼を利用しても、大陸の利権を得るに、日本を活用出来ない状態を作り上げた。負けて勝つ日本の戦略的勝利なのである。
左翼勢力とは戦後日本が再び欧米列強の戦争ビジネスに参加させられないように、日本全体を左巻きにするために天皇家周辺&日本政府自身が作り育てた勢力なのだと思う。
もちろん違う視点から見れば、アメリカが日本が再び牙を自分たちに向かないように、日本全体を左巻きにするために作り育てた可能性だってある。
あるいはその両方、日本とアメリカの利害が合致して共同で作った可能性とてある。
だからまぁ、すかされたというよりお役目を果たしたのではないだろうか。(もちろん左翼活動をしている本人たちはある意味利用されている駒であるのでそのような戦略背景の存在は理解していないだろうが)
欧州貴族の連中がいつであれ日本を破壊したいと狙っている、という事を念頭に考えれば、そうとしか思えない。
そう考えると、
プリンスには悪いが、やはり私は日本と米国が共同戦線を張って英国王室率いる欧州の貴族連合と戦っているとしか思えない。
この可能性についてはどうなのだろうか。
誤用と認めた ・・・と週刊新潮が報道したことを・・・
チャンネル桜で放送していました。
戦後の歴史が書き換えられそうだ。
韓国も中国も 彼らたちの無様な人間資質を これから
どんどんさらけ出されるだろう。
とはいかなかったか。
藤原では
朴氏と藤原氏は行動が似てる
しかし独立を先延ばしにできても絶望的敗勢には変わりない。米国債の買い入れも終わるし株高ももって今年一杯まででしょう。焦点は米英にどんな罰を与えるかだ。
天皇対出雲
この段階であなたが実は反体制であることが分かった
南朝藤原式家平氏の利権は金融
終戦時の陸軍大臣は出雲系の阿南陸軍大将
平成=平氏になる
や欧米を金融で支配してるのは今の日本の体制
それに喧嘩を売ったのが出雲族の集まりの「日本陸軍」
英国陸軍は王室の軍隊ではなく貴族連合軍
海軍と空軍は「王立軍」
旧日本海軍が天皇の軍隊
旧日本陸軍が貴族+出雲系の軍隊
大変失礼をいたしました。
>天智系⊃北朝系=秋篠宮
>天智系⊃南朝系=皇太子
というのが下が天武系の記載ミスかと思い、再質問をさせて頂いた次第です。
間違いです。私の文章をよく読んで下さい。
貴方は理解力が低いと思われるので今後返事はしません。
ご教示ありがとうございます。
まとめると、
扶余族⊃天智系=百済系=南朝鮮(全羅道・済州島系)=北朝系=秋篠宮(孝明天皇)
扶余族≠天武系=新羅系=南朝鮮(慶尚道系)=南朝系=皇太子(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
扶余族⊃高句麗系=北朝鮮・満州族
このような認識でよろしいでしょうか?
あと、現在の日本の企業や政党や歴史上の事件や人物や組織なども加えた方程式分類をはありますでしょうか?
提供:NEWSポストセブン
『週刊ポスト』で平成4年から20年以上にわたり連載が続く歴史ノンフィクション『逆説の日本史』。単行本、文庫本等のシリーズ累計部数がついに500万部を突破したこの大人気作品の原点は、著者・井沢元彦氏が「師」と仰ぐ哲学者・梅原猛氏との「出会い」にあった。今回、2人が出雲王朝の謎について改めて語り合った。
井沢:梅原先生は『葬られた王朝』で、出雲王朝が実在したと述べておられますが、どのような政権だったととらえていらっしゃいますか?
梅原:現在の天皇家につながるのがヤマト王朝ですね。そのヤマト王朝が奈良時代に編纂したのが『古事記』や『日本書紀』です。これら『記紀』に述べられている神話を読んでみますと、ヤマト王朝以前に出雲王朝があったとしか考えられません。
井沢:それは間違いないと思います。
梅原:その出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』を読むと、どうやら朝鮮半島からやってきたらしい。
さらに、出雲王朝でもっとも大切にされていた宝器は銅鐸です。銅鐸は朝鮮半島で使っていた馬の鈴がその原型と考えられます。馬の鈴が大きく立派になって銅鐸になった。だから、出雲王朝というのは朝鮮半島からやって来た人たちの王朝であって、はじめは出雲を中心とした地域を治めていた。
そしてスサノオの子孫のオオクニヌシノミコトが日本をはじめて統一した人物でしょう。東日本はまだ治めてなかったとしても、西日本をほぼ統一した国家をつくっていたはずです。
井沢:つまり、出雲王朝とは先住開拓民による王朝だったのですね。
梅原:その出雲王朝を、南九州からやって来た王朝が滅ぼして新しい統一国家をつくった。これがヤマト王朝だと思います。彼らがもっとも大切にした宝器は銅鏡です。
井沢:「銅鏡」という考古学用語は、大和言葉(漢語などの外来の言葉を除く、日本固有の言葉)でいえば「かがみ」ですね。同様に「銅剣」は「つるぎ」です。ところが、「銅鐸」に対応する大和言葉はないのですね。
梅原:ありません。
井沢:ということは、銅鐸は存在そのものを消されたのでは?
梅原:銅鐸は明らかに破壊されてから埋められたものが、あちこちから出土しています。これは銅鐸の信仰、すなわち出雲王朝の権威を否定したのでしょう。それを行なったのは、言うまでもなくヤマト王朝です。
井沢:ヤマト王朝は、出雲王朝の王であるオオクニヌシを滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけないという“梅原の定理”に従えば、出雲大社はオオクニヌシ鎮魂のための神社、いいかえればオオクニヌシを封じ込めている場所、と言えますね。
梅原:そうです。前代の王朝を鎮魂することは代々の中国の王朝でもやってきたことですしね。
井沢:そうだとすれば、合点がいくことがあります。出雲大社の大きなしめ縄は、撚り方が普通の神社のしめ縄と逆になっているんですね。普通の神社のしめ縄は「外から神殿の中へ入るな」という意味ですが、それが逆に撚ってあるということは、「神殿の中から外へ出るな」ということなのではないかと。
梅原:そうかもしれませんね。
井沢:出雲大社の社殿は十世紀の史料に日本最大の建築であると記されています。推定では高さが約四十八メートルもあって、これは現在の社殿の二倍の大きさです。
これも、かつては多くの歴史学者が否定していました。私は、前王朝の王であるオオクニヌシの怨霊を封じるためには日本最大の社殿を建てる必要があったのだろうから、その説は正しいはずだと書きました(『逆説の日本史 1 古代黎明編』参照)。
すると、平成十二年に出雲大社の境内から鎌倉時代の神殿の巨大な柱が出土したのです。これで、巨大神殿説が正しいことが証明されました。この新発見は神さまが私の正しさを認めてくれたのではないかと思っています(笑い)。
※週刊ポスト2014年9月19・26日号
ttp://news.ameba.jp/201409166/
時事ドットコム:典子さまに1億675万円=千家さんと結婚で一時金-皇室経済会議
高円宮家の次女典子さま(26)が出雲大社(島根県出雲市)権宮司の千家国麿さん(41)と結婚し皇族の身分を離れられるのに当たり、国から支給される一時金の額を決める皇室経済会議が16日午後、宮内庁で開かれ、法定上限額の1億675万円とすることが全会一致で決まった。(2014/09/16-17:02)2014/09/16-17:02
ttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014091600596
★2014年5月27日、高円宮妃、次女典子様と出雲大社の千家国麿氏の婚約は、先住民と渡来してきた天皇家との和解。これまで必ずずらしてきた、出雲大社と伊勢神宮の遷宮の年が平成25年に同じだったのはその理由。
★2014年8月8日、デイビット・ロックフェラーが脳死または死亡
ttp://www.maroon.dti.ne.jp/terii/sakuryaku.html
OECDが多国籍企業の課税逃れ対策、グループ間の利益移転制限 | Reuters
[ロンドン 16日 ロイター] - 経済協力開発機構(OECD)は16日、多国籍企業の課税逃れの防止策に関する報告書を公表した。実行されれば米グーグル(GOOGL.O: 株価, 企業情報, レポート)やアマゾン・ドット・コム(AMZN.O: 株価, 企業情報, レポート)などによる節税行為が困難になる可能性がある。
多国籍企業の課税逃れは社会問題化しており、主要20カ国・地域(G20)は昨年、OECDに対して防止策をまとめるよう要請していた。
課税が強化されれば米大手ハイテク企業が最も大きな打撃を受けるが、製薬会社や消費財メーカーのほか、多くの欧州企業にも影響が及ぶとみられる。
OECDは声明で、報告書の素案は既にG20とOECDの全加盟国の支持を得ているとした。
ただ、今回の報告書は来年にまとめる「課税ベースの縮小と利益移転」への対応策の一部で、加盟国は提案の全体像を確認した上で法制化を検討する見込み。
OECDは今回の提案について、二重課税の回避などを目的とした国際的な税制上の取り決めを多国籍企業が悪用することを防ぐのが目的と説明。OECDの租税部門を率いるパスカル・サンタマン氏は電話会見で「われわれは二重非課税の解消を目指している」と述べた。
報告書は、グループ企業間の取引による利益の移転を制限するよう求めている。
英通信大手ボーダフォン(VOD.L: 株価, 企業情報, レポート)は、ルクセンブルクに拠点を置く子会社が通信機器を購入し、他のグループ企業に売却することで多額の利益を計上しているが、この利益は同国では非課税扱いとなっている。
ttp://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0HC03720140917
井沢元彦氏と哲学者・梅原猛氏の対談は銅鐸文明の出雲王朝を銅鏡・銅剣文明の大和王朝が滅亡させたことを主張する。高円宮家の次女典子さま(26)と出雲大社(島根県出雲市)権宮司の千家国麿さん(41)の結婚はこの約二千年前の戦いの和解を示す画期的事件。
OECDが多国籍企業の課税逃れ対策としてグループ間の利益移転制限に踏み切るがこれは全加盟国の支持を得ているとのこと。もはや米英蘭の政府も国際金融資本が国境を越えて課税逃れを行うことを容認していないことを示す。デビッド・ロックフェラーが8月8日に死去または脳死になったとの未確認情報もあり、もはや国際金融資本は本拠地米英蘭の政府への支配権も失った。
日本がTPP交渉を引き延ばすことは、米国内部の国際金融資本の残党をあぶり出す効果がある。今後彼らは処刑されるだろう。
い・よ・い・よ・だ・ぜ!
失・禁・す・る・な・よ!
大きな間違いです。
扶余族⊃天智系=百済系=全羅道・済州島系
扶余族≠天武系=新羅系=慶尚道系
扶余族⊃高句麗系=北朝鮮・満州族
天智系⊃北朝系=秋篠宮
天智系⊃南朝系=皇太子
今夜は勝利の美酒に酔おう。
我々の夜明けは近い。
今回の記事で一つ不明な点があります。
天智系=百済系=南朝鮮=南朝系=皇太子
天武系=新羅系=北朝鮮=北朝系=秋篠宮
と地政学的になりますが、
当時の唐に対向するために天武系となり、新羅と手を組むというのは、今、日本が中共に対向するために北朝鮮と組むという今の展開と同様ですよね?
となると、天武系が唐の崩壊とともに、天智系に短期間で粛清されたのと同じく、秋篠宮系が中共の崩壊後、粛清される可能性は無いですか?
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/history.htm
それにしてもさすがプリンスと言わざるを得ない
みんなを特攻させて自滅させたところを最後においしくいただくだろう。
帝国軍人のように。
初めてプリンスの人間臭さを見た気がする。
それだけ嬉しさが込み上げているという事か。
私もプリンスの言う状況証拠を論理的思考力で構築する事をよくやっているが、
プリンスのこの記事は恐らく正しいと私も思う。
そういえば、日本の政治の奥深くの住人であると思われる二階堂ドットコムの二階堂氏も、
途端に皇太子夫妻批判をしだしたな(また同時に企業経営者や大企業の幹部がブログで次々と皇太子夫妻批判をしだした。合図でもあったのだろうか?)
もしそうであれば、
秋篠宮に皇位が移ることによって天皇家は東京という牢獄を脱出できるのだろう。
そういった意味では、雅子妃のスクープやスキャンダルはみな計算されているのだろうか?
秋篠宮に皇位が移る正当性を強くするために(特に対国民感情)、わざと批判をされるような事を行っているのだろうか。(直接、皇太子自身が批判をされるような事を行えば、天皇家自体の名誉に傷がつくので妻がそれを行っている?)
もしそうであれば、雅子妃も国難に立ち向かう者として静かにたたえたいところだ。
戦後アメリカにあやかって利益を追求しぶくぶくに太ってきた卑しい売国連中どもも、皇太子夫妻の廃嫡とともに沈んで欲しいものだ。
新しい時代に、古き悪しきものは必要ないので。
後は皇居周辺の皇居を監視する目的のスパイビルの連中どもも、一網打尽にして欲しい。
いらないのは、『のん気』だけだ。
やる時はやる。やることはやる。
修造先生の応援のお陰か分からないが、毎日が楽しい。
修造先生にも感謝です。
松岡修造・有名なシーンを集めてみた。 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pXwEFM4UcFU
prince先生がいるから心強いです。
全くその通りです!!
朝日新聞は自爆し、マスゴミ一層、工藤会も捜索と、在日南朝鮮勢力排除と「除染」は進行中です。
今回の「安史の乱」は「除染活動」「中韓の分裂・消滅」でしょうかね?
本家の菩提寺岡山県旧西大寺に新羅からもらった鐘があるらしい
江戸時代に越前より来ました
三宅久之先生はとは家紋も宗派も岡山出身も同じです
が新羅と関係がるらしいです
藤原北家の拠点なのでしょうか?
神社合祀と平成の大合併で標的にされ岡山市になってしまい西大寺の名称は消えました
僕は支持してます。