8/20に阪神 尼崎センタープール前~武庫川駅間の高架下に保存中の旧阪神600形、1141形を撮りました。
1枚目は、尼崎センタープール前~武庫川駅間の高架下にある阪神の教習所に保存されている右側は604(野上電鉄モハ24の返還車)、左側は1150(野上電鉄モハ32の返還車)です。
1994年の野上電鉄の廃線後に阪神に返還された際、阪神の旧塗装に復元されています。
2枚目は、604の前面のアップです。
大正時代に関西の私鉄電車で流行していた5枚窓の前面デザインが特徴的です。
3枚目は、1150の前面のアップです。
4枚目は、1150の側面です。
この時期に登場した阪神の車両は800番台、1000番台ともに側面の大きな一段下降窓ですが、多くの車両に採用された上部の幕板部の明かり窓を撮ることができました。
なお、左側のコンクリート柱間に見えるZパンタは野上電鉄時代に交換されていたましたが、阪神に返還後も復元用の菱形パンタグラフが入手できなかったためか、そのままとなってます。
先の投稿で武庫川団地に保存されている赤胴車を紹介しましたが、近接する尼崎市内の阪神の保存車も、この機会に訪問しました。
尼崎センタープール前駅から武庫川駅寄りにある阪神の教習所に2両の吊掛車が保存されています。
道路との境界にフェンスがあるだけでなく、敷地内の車両の周囲にもフェンスがあり、金網の網目にレンズを合わせて撮っても車両の周囲のフェンスが入ってしまいます。
滅多に公開されることがないようですが、公開される機会があれば見に行きたい車両です。
601形は1924(大正13)年に阪神では初めて半鋼製車体を採用された371形として、20両が登場しました。
だたし、スタイルは当時の関西の私鉄電車で流行していた木造車で採用されていた前面5枚窓で、やや古典的でした。
阪神での前面5枚窓は、この後に登場した401形(後の801形)との2形式だけです。
登場時には青系の塗装だったそうですが、後に現在の茶色系の塗装に変更されてます。
1929(昭和4)年には601形に形式変更され、戦時中から戦後直後にかけて事故や戦災で半数近い8両が損傷を受けて廃車となりましたが、1947~49(昭和22~24)年に1000番台の形式に近い前面3枚窓の車体で復旧されたため、かなりスタイルが異なっていました。
1954(昭和29)年~以降の大型車の導入に伴い、1956~60(昭和31~35)年に全車引退しています。
604は1961(昭和36)年に車体のみ野上電鉄に譲渡され、阪急1形の車体流用であったモハ23の車体交換に流用されて、1994年の野上電鉄の廃線まで運用されました。
自分も学生時代に野上電鉄で車庫内に留置中の姿を撮ったことがありますが、当時は菓子メーカーの広告車となっていました。
1141形は1920~21(大正9~10)年に登場した木造車の300番台の形式から鋼体化された1000番台の形式の一部で、1936(昭和11)年に最後まで残っていた木造車から鋼体化された10両が登場しています。
同時期に登場していた急行電車用の800番台の形式は前面の貫通扉が全面ガラス張りに近い縦長の折戸で斜めに取り付けられた手すりが店の入口のように見えるため喫茶店と呼ばれていたそうですが、普通運用が主体の1000番台の形式ではオーソドックスな貫通扉でした。
一部の車両は戦時中から戦後直後にかけて事故や戦災で損傷を受けて廃車となりましたが、後に復旧された際には明かり窓は埋められて復旧しています。
1150は1000番台の形式としては最後まで現役で、1963(昭和36)年に休車となり、1964(昭和39)年に車体のみ野上電鉄に譲渡され、1994年の野上電鉄の廃線まで運用されました。
この車両も学生時代に野上電鉄で車庫内に留置中の姿を撮ったと思いますが、車体塗装はクリーム色とオレンジ色のツートンカラーの塗分けでした。
1枚目は、尼崎センタープール前~武庫川駅間の高架下にある阪神の教習所に保存されている右側は604(野上電鉄モハ24の返還車)、左側は1150(野上電鉄モハ32の返還車)です。
1994年の野上電鉄の廃線後に阪神に返還された際、阪神の旧塗装に復元されています。
2枚目は、604の前面のアップです。
大正時代に関西の私鉄電車で流行していた5枚窓の前面デザインが特徴的です。
3枚目は、1150の前面のアップです。
4枚目は、1150の側面です。
この時期に登場した阪神の車両は800番台、1000番台ともに側面の大きな一段下降窓ですが、多くの車両に採用された上部の幕板部の明かり窓を撮ることができました。
なお、左側のコンクリート柱間に見えるZパンタは野上電鉄時代に交換されていたましたが、阪神に返還後も復元用の菱形パンタグラフが入手できなかったためか、そのままとなってます。
先の投稿で武庫川団地に保存されている赤胴車を紹介しましたが、近接する尼崎市内の阪神の保存車も、この機会に訪問しました。
尼崎センタープール前駅から武庫川駅寄りにある阪神の教習所に2両の吊掛車が保存されています。
道路との境界にフェンスがあるだけでなく、敷地内の車両の周囲にもフェンスがあり、金網の網目にレンズを合わせて撮っても車両の周囲のフェンスが入ってしまいます。
滅多に公開されることがないようですが、公開される機会があれば見に行きたい車両です。
601形は1924(大正13)年に阪神では初めて半鋼製車体を採用された371形として、20両が登場しました。
だたし、スタイルは当時の関西の私鉄電車で流行していた木造車で採用されていた前面5枚窓で、やや古典的でした。
阪神での前面5枚窓は、この後に登場した401形(後の801形)との2形式だけです。
登場時には青系の塗装だったそうですが、後に現在の茶色系の塗装に変更されてます。
1929(昭和4)年には601形に形式変更され、戦時中から戦後直後にかけて事故や戦災で半数近い8両が損傷を受けて廃車となりましたが、1947~49(昭和22~24)年に1000番台の形式に近い前面3枚窓の車体で復旧されたため、かなりスタイルが異なっていました。
1954(昭和29)年~以降の大型車の導入に伴い、1956~60(昭和31~35)年に全車引退しています。
604は1961(昭和36)年に車体のみ野上電鉄に譲渡され、阪急1形の車体流用であったモハ23の車体交換に流用されて、1994年の野上電鉄の廃線まで運用されました。
自分も学生時代に野上電鉄で車庫内に留置中の姿を撮ったことがありますが、当時は菓子メーカーの広告車となっていました。
1141形は1920~21(大正9~10)年に登場した木造車の300番台の形式から鋼体化された1000番台の形式の一部で、1936(昭和11)年に最後まで残っていた木造車から鋼体化された10両が登場しています。
同時期に登場していた急行電車用の800番台の形式は前面の貫通扉が全面ガラス張りに近い縦長の折戸で斜めに取り付けられた手すりが店の入口のように見えるため喫茶店と呼ばれていたそうですが、普通運用が主体の1000番台の形式ではオーソドックスな貫通扉でした。
一部の車両は戦時中から戦後直後にかけて事故や戦災で損傷を受けて廃車となりましたが、後に復旧された際には明かり窓は埋められて復旧しています。
1150は1000番台の形式としては最後まで現役で、1963(昭和36)年に休車となり、1964(昭和39)年に車体のみ野上電鉄に譲渡され、1994年の野上電鉄の廃線まで運用されました。
この車両も学生時代に野上電鉄で車庫内に留置中の姿を撮ったと思いますが、車体塗装はクリーム色とオレンジ色のツートンカラーの塗分けでした。