◎ジェイド・タブレット-05-05
◎青春期の水平の道-5
塩沼亮潤大阿闍梨は、さらっと書いてあるので気がつきにくいが、回峰行中に黄金色に光り輝く世界に入り、空中に大日如来やいろいろな観音様が宙に浮いているのを目撃したのが、見仏である。
また同じく、あたり一面が金剛色に輝いており、眼前にダイヤモンドの山があり、そこで二人の天女が30センチくらいの袋にダイヤモンドの塊を2、3個入れてくれた。これは親鸞が女人から玉をもらう故事に似ている。
もう一つ、身長三メートルくらいのぼろぼろの衣を着て杖を持った仙人が空中に出現し、「金(かね)の御嶽(みたけ)金の御嶽と言う愚か者どもよ、ここは神の御嶽なり」と言うなりすーっと消えていった由。金峯山に金の鉱脈があるという伝説には出口王仁三郎も新月の光(八幡書店/木庭次守編)で触れているが、時が来ないと掘り出せないとしている。
歩きながらトランスに入り、このような神秘体験を得るのは既に世俗の欲をほとんど卒業した証拠。だが、何かをやるために出生してきてはいる。
土砂降りの雨の中で、おにぎりに雨が当たり米粒が崩れ落ちながら食べている時に、「自分はなんて幸せなんだろう。食べるものも家も風呂もあるが、そうでなく命の危険に晒されて生きている人も多い。」などと感じて、涙が止まらなかった。これはアナハタ・チャクラが開いたということ。わざわざそれを書いているのは、本人にとってもインパクトがあったということ。
なお回峰行の初期における彼の神秘体験には、2、3人の餓鬼に石を投げられたことや、武士の亡者に身体を押さえつけられ、首を絞めて殺されそうになったが、必死で亡者の手首にかじりつくことで体制を入れ替え命拾いしたことも書いてある。
いずれにせよ、どんな素敵な神秘体験も千日回峰行満行したことも、それにこだわっていない態度が素晴らしいことだと思う。「人生生涯小僧のこころ/塩沼亮潤/致知出版社」は、そういう書きぶりである。
そういう方だから、布団をかぶって泣いたなどと書けるのだ。