アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティ-1-冥想を教えなかったこと

2023-10-29 06:56:03 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-07

◎青春期の水平の道-7

 

クリシュナムルティで問題なのは、只管打坐での悟りを説きながら、その境地がどのようなものかは盛んに語るが、冥想つまり只管打坐によってそこに到達するとは言わなかったこと。それが結果的に彼への賛同者が少なかった原因になっている。

クリシュナムルティは、自分の死の直前にあたって、自分の成し遂げたことの理解者がとても少ないと嘆いている。

 

なぜクリシュナムルティがそう考えたかと言えば、心理状態が坐相を決めるという側面があったからではないかと思う。只管打坐における身心脱落が発生する坐相というのは特定のものだが、それを教え込んでも実際に何百万種あるうちの坐相のうちの身心脱落が発生する坐相が実現するには、師匠が教え込んだだけでは実現せず、自分自身が準備できているタイミングでないと起きないのではないかと思う。

只管打坐の姿勢というは単純なだけに、この時代なら多数の肉体センサーを用いて坐る姿勢を矯正するマシンや、鉄骨などでその人にあった坐相に背骨や首などを矯正する座椅子のようなものまで製造できるようになっていると思う。だが、それが成功しない理由は、自分自身が悟りに堪えられるに至っていないからだと思う。

冥想修行とは、畢竟悟りに堪えられる肉体と心理を作り上げていくことなのだ。

つまりクリシュナムルティは、逆に悟りに堪えられる肉体と心理が出来上がれば、自ずと悟りは起こると見ていたから、只管打坐という冥想を勧めることはなかったのだろう。

 

クリシュナムルティの著作は数少なく講演録が大半である。講演録は御多聞に漏れず、聴衆の質が低ければ、その内容はそれに対応して低いものになる。だから彼の本については読むべき本は選ばなければならない。

 

クリシュナムルティは、ある現実を理解するロジックを取れば、自ずととある心理状態が発現し、そうすればやがて真理がやってくるかの如き説明をしている。事実彼には、頻繁に真理がやってきた。ところが、彼の説明するところのある現実理解のロジックでは必ず割り切れないところにぶちあたる。そこで、ぶち当たったきりで止まる場合と、元に戻っていく場合と、真理がやってくる場合の三通りがある。すんなり真理がやってくる人は稀なのだが、彼はそう思わなかったのだろう。

そのようなことは、クリシュナムルティやダンテ・ダイジ(著書の巻頭で『クリシュナムルティがちゃんと世に聞き入れられれば、この本を出す必要がなかった』と彼に言及)などの大物覚者にとっては常識だろうが、われら凡俗にとってはそうはいかない。それにたどり着く方法、すなわち冥想法が必要なのである。

水平の道の冥想では、至る所に只管打坐がちらつく。

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