アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

科挙不合格組、不登校組-3-空海

2023-10-22 06:41:07 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-03-03

 

空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦で誕生。桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父、阿刀大足(あとのおおたり)から詩や漢語、儒教を学んでいた。15歳になると阿刀大足に誘われ平城京へ上り、氏寺の佐伯院で学問に精進。

18歳の空海は叔父大足を家庭教師にした受験勉強が実り、大学寮の明経科(高級官僚になるための学校)に入学。

それなりに一生懸命学んでいたが、大学寮での勉学に飽き足らず19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。不登校になったのだ。以後、入唐までの空海の足取りは不詳である。

 

20歳で空海は、親戚の反対を押し切り、奈良大安寺の高僧・勤操(ごんぞう)のもとで出家。さらに彼から、虚空蔵菩薩求聞持法を伝えられた。

空海は、奈良県の大峯山や、阿波の大瀧ガ嶽など名山や石窟で修行。土佐の室戸崎で虚空蔵菩薩のマントラを百万遍唱える修行をしていたところ、明星が口の中に飛び込んできた。これが小悟と思われる。

明星を見ることが悟りであったとする例は、釈迦、クリシュナムルティであり、「太陽」ではないことにこだわらなくてよいように思う。

 

虚空蔵菩薩求聞持法とは

ノウボーアーカーシャギャラバヤ オンアリカマリボリソハカ

という虚空蔵菩薩の真言を日に一万遍、百日間唱え続け、同時に印契を結び、虚空蔵菩薩を観想し、牛酥(牛乳を煮詰めて濃くしたもの)を加持するもので、成就すれば牛酥が霊気を発したり、光を放ったり、煙が立つなどの奇瑞があり、その牛酥を食すると超人的な記憶力を得て、一度聞いたことはその言葉も意味も決して忘れないというもの。

空海が虚空蔵菩薩求聞持法の典拠としたものは、善無畏訳「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」とされ、今残っている最古の求聞持法テキストは、覚禅鈔(求聞持同異説)か阿娑縛抄(第百四)(承澄作)とされる。

このテキストに、蝕とヨーグルトのことやら、虚空蔵菩薩のイメージ・トレーニング(観想)をしながら、マントラ百万遍を唱えることが書かれてある由。

またその中に毎日早朝(後夜)、明星を拝む手順があるが、朝に金星を拝めるのは一年のうち半分だけなので、蝕日を満行の日とし、また金星が朝出ている時期を修行期間に当てるという当時ではかなり高度な天文知識がないと修行期間の設定すらできなかったのではないだろうか。

山岳修行という点では、役行者没後百年ほどということで、役行者直伝のエッセンスを伝える者がまだ残っていた頃なのだろう。同時代の最澄もまだ堂宇のない比叡山で竹を編んだ筒みたいな庵で修行した。

山岳ということで言えば、笹目秀和の出会った崑崙山中の年齢500歳の仙人が思い起こされるが、彼は地のパワースポットで修行する人物であり、同様に空海の時代も山岳の各所に地のパワースポットがあり、それを利用した修行があったのではないかと想像する。

もっとも田中陽希のグレートトラバースで感じたのは、人は3日間、水も食料もなければ、生きていけないということ。山であれば水場は限られ、雨露をしのいで冥想する場所もさらに乏しく、さらに五穀など望むべくもなく、木の実、草の根などで露命をつなぎつつ修行していたのだろう。

それらの条件は、塩沼亮潤大阿闍梨の成し遂げた大峯千日回峰行とは全く異なったものだったのではないかと想像する。

 

また虚空蔵菩薩求聞持法のマントラ百万遍というが、それはマントラという点では、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経と同じであって、それで引き起こされる、

  1. マントラシッディ
  2. すべてがそのマントラである世界
  3. トランス

というような状況が想定されるが、おそらくは、トランス経由でクンダリーニ・ヨーガ的究極に至る指導に沿って修行が行われたのだろうと思う。記憶力増強というのは、虚空蔵菩薩求聞持法の狙いの極く一部なのだろう。

 

ところが明星感得後、空海は大日経を当たり、自分が究極に達していないことを知った。

かつ日本では、適当な指導者がいなかったことから、空海は803年唐に入り、804年12月23日に長安に入った。

これは、ダンテス・ダイジがインド入りし、大聖ババジにクンダリーニ・ヨーガの奥秘を開示してもらったことに似ている。

805年5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安の青龍寺の恵果和尚を訪ねた。恵果は、初対面の席で、以前から空海が来ることを知り待ちわびており、会えてうれしいと伝え、自分の寿命が尽きようとしているのに密教の奥義を伝授する者がいないので困っていたので、早速伝授を始めようと伝えた。空海は大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受ける。さらに8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。

これが、長安修行のピークであって、この時、大日如来(ニルヴァーナ)に到達したものと思われる。

このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

果たして805年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。恵果に師事できたのは、初対面時の予言どおり約半年だけだった。

 

806年空海は、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具などを持って帰国。

809年、空海はまず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月和気氏の私寺であった高雄山寺に入った。

以後の空海は、嵯峨天皇の帰依を梃子に、東寺を真言密教の道場とし、高野山を開いたなど事績は多い。

就中、承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を行ったが、これはいまだに継続しており、古神道家の天皇家が真言密教をもバックボーンとする嚆矢となったことは端倪すべきではない。

 

空海は、亡くなる三年前から、五穀断ちをしている。832年12月12日に「深く世味を厭ひて、常に坐禅を務む」となり、五穀を食べないで、メディシーションだけをやる状態となって、残り2年ほどを過ごすのである。

こうして冥想三昧の2年が経過し、835年の正月に水や飲み物も受け付けなくなった。困惑した弟子たちは、なおも水や飲み物を勧めるが、空海は、「やめなさい、やめなさい、人間の味を使わないで下さい」と峻拒する。

十万枚大護摩供でも、断水七日が限度であるが、空海は3月21日に亡くなるまで、凡そ2か月、これを続けるのである。

熟達したクンダリーニ・ヨーギは、肉体を変成して「霞を食べて」も生きられるものだというが、水分をとらなくなる正月の時期には、既にそういう肉体に変成し終えていたのだろう。

あれだけ超能力を使いこなせる空海のことだから、肉体の変成などはお茶の子だったのだろう。最後の数年を冥想に生きたのは、一流の神秘家として当然の生き方だったのだろう。列仙伝などの仙人を思わせる行状ではある。既に肉体に執着なく、アストラルな生き方が中心になっていたのだろうか。

3月21日に右を下にして亡くなるのだが、空海としては、肉体を残す死に方を選んだということになろう。水分も取らずに生きられるのだから、やろうと思えば屍解もできただろうが、殊更に肉体を残して死んで見せたところに、空海の意図を感じる。まことにクンダリーニ・ヨーギである。

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