◎すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じ
第六身体アートマンを宇宙全体と置いているが、それでは無とは何か。
OSHOバグワンも宇宙全体は無、なにもかもなしだと言っている。これを一言で言ってのける人(一休、至道無難、ダンテス・ダイジ)もいて、それで納得できない人は傾聴すべきだろう。
『存在と非存在、無とすべて、そうしたものは一見反対だが、実際は同じものを意味している。
すべてと無は、同じものを意味する。 辞書上では反対だが、生においては反対ではない。たとえ ば、「私はすべての人々を愛する」というのと、「私は誰も愛さない」というのは同じ意味だ。特定の誰彼を愛して初めて、違いが現れる。すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じだ。 そこに違いはない。
違いというものは、つねに程度問題であり、相対的だ。両極端には程度がない。 「全」と「零」 には程度がない。全を零と呼ぶこともできれば、零を全と呼ぶこともできる。だから内なる空間 の呼び方は、悟った人間それぞれによって違っている。たとえば、空、シュンニャ、無、非存在、 アナートマ、と呼ぶ人もいれば、絶対的存在、梵(ブラフマン)、アートマン、至高我、と呼ぶ人もいる。 どちらでも同じだ。一方は肯定的で、他方は否定的だ。片やすべてを包含し、片やすべてを排除する----そのどちらかしかない。 相対的な用語では叙述できないから、絶対的な用語が必要となる。この相矛盾する両極端は、どちらも絶対的な用語だ。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P293-294から引用)