アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

渋沢栄一の実験論語処世談を読む

2024-07-03 20:04:09 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎魂年齢が若い

(2021-05-31)

 

渋沢栄一は、老子や禅は読まないそうだ。その点では、西郷隆盛や勝海舟に比べると、魂年齢が若い。西郷隆盛や勝海舟も相当に禅で行けているのに比べると、人生への洞察は未だしの感がある。

 

渋沢栄一は、論語を座右の銘として処世してきた。彼は易はこれから学ぶなどと云っているので、孔子の域には達していない。

 

最近のスピリチュアルに関心のある人向けに言えば、四書五経の中で、ストレートで究極を説いているのは、大学、中庸、書経。あの世とこの世の構造を描いているのは易経。

 

孔子は晩年大悟したと思われるのだが、それ以前の言行は論語に多く拾われているものの、禅家、道家から見れば、この世にまだ未練が残っている段階であって、自分を死ぬ準備はできていない。

 

そんな具合だから、荘子においては孔子の言行は突っ込みどころ満載のトピック提供者として重宝されている。

 

孔子もその生涯で最後は論語レベルに飽き足らず易経に進んだ。禅にも老荘にも関心を持てないようであれば、転生の最終ターンではない。

 

NHKの大河ドラマで出口王仁三郎でもやれば面白いのだが、旧内務省の流れでそうはなるまい。

 

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冥想修行者の人生観

2024-07-03 06:33:27 | 人と神の「実際のところ」

◎神である自分と人間である自分の両様の自分を生きる人生観

 

冥想修行者の人生観とは、覚者の人生観に近づくことである。思想、信教の自由の下では、人間の人生観など他人に教えてもらうものではないと思っているのだろうが、その自分の考えの9割以上が外からきたものであるからには、その人生観とは現代のあらゆる形でのマインド・コントロールの結果であって、いわば自分の人生観は、「自分の」ではなく、どこかの知らない他人の人生観の複合物であろう。

 

人間には、社会人・肉体人としての公生活とあらゆるとんでもない思いまで含む私生活がある。

だが、ジェイド・タブレットに示した通り、本来人は、神である自分と人間である自分の両様の自分を生きるべきものである。本来あるべき人生観とは、『時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。』。

 

この立場から出て来た会話が、達磨が梁の武帝に「私がしてきた仏教支援策はどんな功徳があるだろうか」と問われ、「無功徳」と言い放った事例や、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、これに対し大徳寺の宗峰妙超が「王法不思議、仏法と対坐す」と言い返した例がある。

 

ところが、生活にも不安なく、地位も名誉も問題のない天皇陛下ですら、神事がまず先と教えてもらわねばならなかった。第84代順徳天皇の著された「禁秘御抄」の冒頭に、「凡(およ)そ禁中の作法まず神事、後に他事」とあるように天皇も神事がまず先だった。人々も食べられるなら、神事すなわち冥想がまず先。仲哀天皇は、冥想修行を怠けて、結果がよろしくなかったという例まで古事記に載っている。

 

西洋占星術のホロスコープは、上半球が公生活、下半球が私生活で、12室のカテゴリーは、人生上の出来事の区分をすべて網羅しているなどと感心していてはいけない。神として生きる自分の視点が全体の中に隠されているが、そのことがホロスコープには欠落しているのだ。神として生きる自分には、

宿命もカルマの改善もそこからの解脱も含め、あらゆる可能性がある。それには、チート技はないが、方法はある。

 

だが、その修行の仕方は、調子に乗って図に乗れば、パエトーンのようにあっという間に叩き落とされるのが常であり、すべてを棄てることが求められるシーンが必ずあるものである。

 

また見神者、菩薩の人生観には、見るべきものがある。

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