顯慶四年(659年.斉明五年) 2007-02-13 19:26:45 | Weblog 四月ついに大尉長孫無忌が追放された。また宰相于志寧も罷免され、 朝廷は武后派一色となった。 無忌の一族やその党派の官僚は流されるん左遷された。 八月李義府が復活した。 十月皇太子を元服させ、監國させることにし、高宗は東都へ向かった。 十一月賀魯部の残党が蜂起した。
顯慶三年(658年.斉明四年) 2007-02-12 10:45:39 | Weblog 正月龜茲の残党が平定された。 二月長安に戻った。 五月安西都護府を龜茲に進出させ。旧高昌は西州都督府とした。 六月高麗を攻撃した。 十一月宰相杜正倫と李義府が帝前で争い両者とも左遷された。 義府は武后の寵臣であるので左遷地も近所であった。 建国の功臣尉遅敬が死んだ。
顯慶二年(657年.斉明三年) 2007-02-11 09:34:39 | Weblog 閏正月洛陽へ移動した。 長安から洛陽へ移動する主な理由としては食糧の不足があった。關中の 長安付近は人口が多く、食糧を自給できない、そのため江南からの貢納 を受けやすい洛陽に朝廷が移動して就食するわけである。 蘇定方が賀魯部を討伐した。 八月長孫無忌派の宰相韓瑗・來濟が褚遂良を弁護したため左遷された。 これにより朝廷は武后派が大勢を占めた。 十一月蘇定方が賀魯部を破り可汗を捕らえた。 十二月洛陽を東都とした。
顯慶元年(656年.斉明二年) 2007-02-10 22:48:47 | Weblog 正月皇太子忠が廃され、武后の子弘が皇太子となった。 八月賀魯部が勢力を回復したため、程知節による討伐が始まった。 九月各州の格付けを戸数により行った。 十一月皇子顯[中宗]が生まれた。 龜茲の残党も蜂起し賀魯に附いた。
永徽六年(655年.斉明元年) 2007-02-09 17:56:03 | Weblog 正月武氏の子を王に封じた。 新羅より求めがあり、国力も回復してきたため高麗討伐の声があがった。 二月程名振に高麗を攻撃させた。 五月程知節に突厥の賀魯部を討たせた。 六月廃皇后の議が起こり、廷議が紛糾した。 七月武氏派の李義府が抜擢され宰相となり、 九月強硬な反武氏派の褚遂良が失脚した。 十月王皇后は廃位となり[十一月に殺される]、武氏が皇后となった。 朝廷では長孫派が劣勢となり、許敬宗など武后派が勢力を増した。
永徽五年(654年.白雉五年) 2007-02-08 08:40:19 | Weblog 内廷においては武氏が勢力を増し、王皇后は追い込まれていった。 四月回教勢力ペルシアを滅ぼし、王子卑路斯が支援を求めてきた。 閏四月宮城が洪水に襲われ、三千人が死んだ。 六月皇后外戚の柳奭が武氏に逐われ失脚した。 実権者である長孫無忌は内廷の勢力争いと軽視して傍観していた。 この年は豊作で米価が暴落した。
永徽四年(653年.白雉四年) 2007-02-07 19:48:10 | Weblog 正月長孫無忌等の貴族派は、太宗の娘高陽公主の不行跡から発した 房遺愛等の謀議を拡大して。司徒荊王元景・司空呉王恪・江夏王道 宗など皇族派を誅殺した。宰相宇文節・将軍執矢思力も流された。 十月浙江で女陳碩眞が挙兵したが、十一月鎮定された。 張行成・高季輔などの師傅達がなくなり、朝廷は長孫派一色となった。 この年西突厥で継承紛争がおき内乱となった。
永徽三年(652年.白雉三年) 2007-02-06 18:04:51 | Weblog 正月梁建方・契苾何力は處月部を牢山に撃破した。 褚遂良が赦され宰相に戻った。 四月趙孝祖が白水蠻を撃破し鎮定した。 七月王皇后が押す陳王忠が皇太子となった。 十二月濮王泰[魏王]が死んだ。 戸数が380万に回復してきたが、隋代は870万であった。
永徽二年(651年.白雉二年) 2007-02-05 18:03:39 | Weblog 正月突厥阿史那賀魯が自立を図り反し強勢となった。 外戚柳奭[王皇后の舅]が宰相となった。 七月賀魯は北庭を襲撃し、その勢力はますます強まった。 梁建方・契苾何力が討伐に向かった。 八月には南部で白水蠻が背いた。 十二月處月部が反し賀魯に附いた。 この年も晉州付近の地震は続いていた。
永徽元年(650年.白雉元年) 2007-02-04 08:47:43 | Weblog 正月皇后に王氏が冊立された。 四月前年より続いて晉州に地震が続いた。 六月突厥車鼻可汗が太宗の死により自立を図ったが勢力は微弱で 九月には討伐された。 十一月長孫無忌ととともに高宗を託されて褚遂良が貪欲により左遷された。
貞觀二十三年(649年.大化五年) 2007-02-01 11:43:57 | Weblog 三月より太宗の病状が悪化した。 五月宰相李世勣が理由なく左遷された。警戒されたためである。 まもなく太宗が崩御し、皇太子治[高宗]が即位した。 宰相陣も変化し、于志寧・高季輔・張行成など高宗の師傅が登用された。 そして外戚である長孫無忌は大尉となり実権を握った。 後継体制が整ったので李世勣は高宗により再び登用されることになった。 八月より河東・河中方面で地震が多発した。