唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史16

2020-12-13 10:00:11 | Weblog
天祐三年[906]
◎.正月 李簡は宣州を攻め、防衛体制ができない王茂章は錢鏐のもとに奔った。

◎. 茂章の反乱により、睦州で孤立した陶雅は歙州に戻り、錢鏐が睦州を取った。

◎.2月 陳璋も婺州を棄てて逃げ、錢鏐軍は婺州を取り、衢州を攻めた。

◎.3月 楊渥將陳知新は岳州を陥し刺史となった。

◎.4月 江西鎮南節度使鍾傳が卒し、子の匡時が嗣いだが、養子の江州刺史延規は不満で淮南に通じた。

◎.5月 昇州刺史秦裴が西南行營都招討使となり鐘匡時を討った。

◎.7月 秦裴は洪州を包囲し、饒州刺史唐寶が降った。

◎.8月 陳璋は衢州も棄て、將周本が迎えて撤退させた。

◎.9月 秦裴は洪州を陥し、鐘匡時を捕らえた。楊渥は鎮南節度使を兼任し、裴を洪州制置使とした。

天祐四年/後梁開平元年[907]
◎.正月 楊渥は驕侈で周囲の諫言を聞かなかった。左、右牙指揮使張顥、徐温は諫言が聞かれないので、起兵して渥の側近を殺害し、「兵諫」とし、渥の実権を奪った。軍政は顥、温の二人が握った。

渥は天祐五年8月に殺害され、弟の隆演が徐温の傀儡として嗣いだ。
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淮南節度使史15

2020-12-12 10:00:11 | Weblog
天祐二年[905]
◎.正月 朱全忠軍は壽州に迫ったが取れず、2月に戻った。

◎.正月 將王茂章が潤州を陥し、安仁義が敗死した。

◎.正月 錢鏐軍が睦州を攻めたが敗北した。

◎.2月 劉存は鄂州を陥し、杜洪は殺された。存が鄂岳観察使となった。

◎.4月 將陶雅が衢、睦兵と錢鏐麾下の婺州を攻めた。

◎.8月 全忠は山東趙匡凝が行密と連携したことを怒り、將楊師厚に唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥させた。9月 匡凝は敗れて淮南へ奔った。

◎.11月 將陶雅、陳璋は婺州を陥し、雅を江南都招討使,歙婺衢睦觀察使とした。濠州團練使劉金が卒し、子の仁規を知濠州とした。

◎. 楊行密は重病となり、長子の宣州觀察使楊渥を召還した。渥は軽薄で人望がないため、軍府の属僚は危ぶんだが、左右牙指揮使徐温、張顥等は渥への継承を薦めた。潤州團練使王茂章が代わって宣州觀察使となった。

◎.10月 山東・荊南を平定した全忠は、さらに淮南北部へ侵攻したが、光州・壽州攻撃には失敗し、11月に帰還した。

◎. 揚州に戻った楊渥が淮南節度留後に自立した。

◎.11月. 呉武忠王楊行密が薨じた。宣諭使李儼は楊渥を淮南節度使東南諸道行營都統兼侍中弘農郡王にした。すでに唐朝は朱全忠の支配下にあるのでこのような決定は自作である。

◎.12月 陳詢は睦州を棄てて逃げ、淮南招討使陶雅が代行した。

◎. 無能な渥はさっそく騒動を起こし、宣州時代の側近部下を取り戻そうとした。觀察使王茂章は応じなかったので、渥は馬步都指揮使李簡に追討させた。

◎. 湖南馬殷軍が行密の死に乗じて侵攻してきたが、牙内指揮使楊彪が撃退した。
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淮南節度使史14

2020-12-11 08:08:07 | Weblog
◎.5月 朱全忠より杜洪支援を要請された荊南成汭は全軍を率いて東下した。しかしその隙に湖南馬殷將許德勳と、朗州雷彥威將歐陽思に突かれ、根拠地江陵を陥され掠奪された。汭の將士は動揺し帰還を求めたが、汭は聞かずに、行密將李神福と戦い敗死した。

◎.6月 全忠嫡子友寧は大軍を率いさせ、登州を攻めた。王師範、王茂章は迎撃して戦い、友寧は敗死した。全忠は愕然として自ら急行してきた。

◎.7月 全忠の大軍に敵わず、茂章は勇戦したが撤退した。

◎.8月 寧國節度使田頵が潤州團練使安仁義とともに全忠に通じて反した。頵は行密の旧友であったが、積極拡張策を好み、領土の保全安定を望む行密と対立していった。安仁義は沙陀出身の騎將であった。奉國節度使朱延壽もまたこれに通じた。延壽の姉は行密夫人であった。

◎.9月 行密は延壽を騙して呼び寄せて殺した。

◎.9月 將李神福は田頵軍を吉陽磯に破った。

◎.9月 王師範は全忠に降った。行密は内乱により支援する余裕がなかった。

◎.10月 將台濛が田頵軍を蕪湖で潰滅させた。

◎.10月 行密は錢鏐に支援を求め、鏐軍も田頵を攻めた。

◎.12月 田頵が敗死した。台濛が宣州觀察使となった。

天復四年/天祐元年[904]
◎.3月 行密は鏐の子を還して親和し、又李神福に杜洪を攻めさせた。

◎.8月 李神福が病死し、舒州團練使劉存[泌陽人]が代わって杜洪招討使となった。この月、宣州觀察使台濛も病死し、行密子渥が宣州觀察使となった。

◎.11月 光州が反して全忠に附き。全忠は自ら杜洪の支援に穎州まで南下した。

◎.12月 錢鏐下睦州州刺史陳璋が反して行密に附いた。
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淮南節度使史13

2020-12-10 18:09:51 | Weblog
光化二年[899]
◎.正月 楊行密は朱瑾に徐州を攻めさせたが落とせなかった。

◎.7月 楊行密は全忠領域の海州を取った。

◎.10月 淄青節度使王師範支配下の沂、密州が反し、行密は平定に助力した。

光化三年[900]
◎.是歲 楊行密が兼侍中となる。

天復元年[901]
◎.8月 浙江錢鏐が殺されたと誤報をうけ、行密は李神福に本拠地の杭州を攻撃させた。

◎.10月 李神福は錢鏐軍を破り將顧全武を捕らえた。

天復二年[902]
◎.3月 昭宗皇帝は朱全忠を牽制するため、張濬の子李儼を江淮宣諭使とし、楊行密を東面行營都統兼中書令呉王として全忠を討つように命じた。また麾下の朱瑾を領淄青平盧節度使,馮弘鐸を領徐州武寧節度使,朱延壽を領淮西奉國節度使。

◎.4月 楊行密は顧全武と秦裴の捕虜交換を行った。錢鏐は大いに喜んだ。

◎.6月 昇州を以って行密に帰した領武寧節度使馮弘鐸は、富強であり強力な水軍を持っていたが、自らの地位に不安であった。宣州寧國節度使田頵とはお互いに不仲であり、行密の命に従わず、頵を討とうとしたが葛山に大敗した。弘鐸は遁走し海賊となろうとしたが行密は慰撫し淮南節度副使として遇した。

◎.6月 全忠領域の宿州を攻めたが克てなかった。

◎.8月 浙江錢鏐の將徐綰[旧孫儒將]等が宣州田頵と結託して反し、鏐は危機に瀕した。頵は行密に無断で拡張路線に走っていた。9月鏐は行密に子を人質を出して救援を求めた。12月行密は頵に帰還を求め、応じなければ宣州を取り上げると通告したため、頵は綰等を引き連れて退却し、鏐は危機を脱した。

天復三年[903]
◎.正月 淄青王師範が朱全忠の鳳翔包囲[昭宗皇帝を李茂貞が拉致していた]の背後を突き、各地で蜂起させたが大半は失敗した。しかも茂貞は全忠に講和を求め、昭宗を引き渡そうとしていた。全忠は危機を知って、茂貞を滅ぼすことを諦め、妥協することにした。

◎.2月 行密は朱瑾を東面諸道行營副都統同平章事,昇州刺史李神福達を鄂岳行營招討使として鄂岳杜洪を攻撃させた。

◎.3月 昭宗皇帝を確保した全忠は全軍を率いて王師範を攻めた。

◎.4月 王師範は行密に支援を求め、將王茂章が派遣された。
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淮南節度使史12

2020-12-07 09:17:20 | Weblog
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楊行密は盧州の人で州将となり勇敢で功績があったが、都將に疎まれ逐われるはめになり、返って反して刺史郎幼復をも逐った。高駢は淮南押牙知廬州事に追認し、やがて盧州刺史となった。
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◎.8月 楊行密は淮南節度使同平章事となり、麾下の田頵は知宣州留後、安仁義は潤州刺史となった。
そして孫儒軍の残党から選抜して精鋭軍を作った。

景福二年[893]
◎.7月 楊行密は廬州を陥し、裏切った蔡儔を殺した。儔は行密の父母の墓を破壊していたが、行密は儔家の墓を保存した。

◎. 行密は歙州・舒州と勢力を広めていった。

乾寧元年[894]
◎. 武昌節度使杜洪と黄州を争った。

乾寧二年[895]

◎. 朱全忠の勢力下の泗州・壽州を得た。

◎. 皇帝となろうとした浙東董昌を討とうとした浙西錢鏐を牽制して蘇州・杭州を攻めた。

乾寧三年[896]
◎. 北部では蘄州を取り、東部では蘇州を取った。

乾寧四年[897]
◎.2月 朱全忠に敗北した泰寧節度朱瑾が、李克用將の李承嗣・史儼と亡命してきた。行密は瑾達を保護し全忠と全面的に争うことになった。行密軍は歩兵・水軍は整備されていたが、騎兵は弱体であったが沙陀[李承嗣・史儼]の参入により飛躍的に強化されることになった。

◎.鄂岳節度杜洪と、浙江錢鏐は朱全忠方に付き、行密征討を求めた。

◎.10月 全忠は將龐師古以下7万以上の大軍を南下させ、行密を討とうとした。

◎.11月 行密は朱瑾とともに清口で師古軍を迎撃して潰滅させた。師古は敗死した。

乾寧五年/光化元年
◎. 全忠勢力下の山東節度趙匡凝は行密の勝利を聞き、通じようとしたが全忠に攻撃され断念した。また蔡州奉國軍節度崔洪も行密に通じようとし牽制された。
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淮南節度使史11

2020-12-06 09:45:18 | Weblog
◎.10月 楊行密の揚州包囲が続き、秦彥・畢師鐸は飢え揚州を棄てて走った。行密は入城し淮南節度留後を自称した。

◎.11月 東都を棄てて南下してきた秦宗衡・孫儒[黄巣を嗣いだ秦宗權の配下、宗衡は弟]の大軍が淮南に侵攻してきた。秦彥、畢師鐸は合流した。朱全忠と争って不利であった宗權は召還したが、情勢をみた孫儒は従わず宗衡を殺して揚州に迫った。

◎.閏11月 唐朝は宣武節度朱全忠を檢校太尉兼侍中兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察等使行營兵馬都統/東南面招討使として兼任させた。全忠は將李璠を留後として淮南に派遣し、行密を節度副使とした。

◎. 朱全忠と対立する徐州感化軍節度使時溥は、李璠の領内通過を阻止した。

光啓四年/文德元年[888]

◎.正月 孫儒は秦彥、畢師鐸等を殺し軍を併せた。

◎.2月 朱全忠は楊行密を淮南留後に推薦した。

◎.4月 孫儒が揚州を陥した。

◎.8月 楊行密は秦彥が去った宣州[趙鍠が拠っていた]を攻めた。

龍紀元年[889]
◎.6月 楊行密は宣州を取った。しかし孫儒は行密の本拠盧州を攻め、刺史蔡儔は裏切って降った。

◎. 楊行密・孫儒・錢鏐は浙西諸州を互いに陥しあった。

大順元年[890]
◎.2月 朱全忠將龐師古は南下し孫儒と戦ったが敗れた。しかしあまり本気で戦ったとは思えない。
行密はそれに乗じて潤州・常州を攻めた。

◎.6月 孫儒は朱全忠に通交を求め、全忠は儒を淮南節度使に推薦したが、すぐ敵対関係に戻った。

◎.12月 孫儒は攻勢に出て蘇・潤州を取った。

大順二年[891]
◎. 孫儒は和・滁州で行密と戦った。孫儒軍は黄巣・秦宗權以来流賊で統治能力がなく、勇戦して諸州を陥すが保持することができず、寇掠できるものが尽きると放棄するしかない。

◎.7月 孫儒は食が尽きて揚州を放棄し、周辺の掠奪に出た。

景福元年[892]
◎.6月 孫儒軍は飢え、儒も疾となり大敗して殺された。残軍は劉建鋒、馬殷に率いられて湖南に走った。

◎.7月 行密が揚州に入った。揚州はすっかり荒廃していたが、行密は再建に努めた。
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淮南節度使史10

2020-12-05 12:05:37 | Weblog
◎. 高駢は鎮海節度使時の正月、將張璘や梁纘に黄巢を討たせて、秦彥、畢師鐸、李罕之、許勍など數十人を降らせて自分の配下にしていた。

◎. また8月に自ら全軍を率いて嶺南に拠る黄巣を討ちたいと上奏したが、巣を軽視し懐柔できると考えていた宰相達は許可しなかった。

◎.10月 文官の宰相王鐸は巢を討とうとして都統として荊南節度となったが、先鋒の湖南李係が敗北するとたちまち江陵を捨てて遁走した。

◎.12月 鐸は更迭され、駢の支持者盧攜が宰相に復帰した。

廣明元年[880]
◎.正月 淮南將張潾は黃巢戰を大雲倉に破った。

◎.3月 高駢は諸道兵馬行營都統となり黄巣を討つ主将となった。

◎.5月 張潾は饒州を制圧し、信州に迫ったが黃巢に大敗して戦死した。

◎.7月 黃巢は揚子江を渡り淮南麾下の滁、和二州を陥した。意気阻喪した駢は疾と称して救援しなかった。

◎.10月 黃巢は河南から東都へ進撃し、12月京師を陥した。駢は傍観するだけだった。

廣明二年/中和元年[881]
◎.正月 黄巣に逐われ僖宗皇帝は成都へ逃亡した。駢へ救援の要請が相継いだが、駢は麾下への事前褒賞を求めるだけだった。

◎.2月 高駢を京師回復の為の京城東面都統とした。

◎.5月 駢は黄巣を討つとして、麾下8万、舟2千を東塘に結集させた。

◎.9月 結局、浙西周寶や浙東劉漢宏の協力が得られない、占いの結果が悪いなどを言い立てて出兵を取りやめた。もはや駢には気力が無く朦朧していた。

◎. 駢の統制はきかなくなり、麾下の石鏡鎮將董昌は勝手に杭州ょ占有し、刺史路審中を逐った。

◎.是歲 霍丘鎮使王緒は壽、光二州を陥し占有した。

中和二年[882]
◎.正月 宰相王鐸は、高駢に討伐の意志がまったくないとして、諸道行営都統を罷免し自らが就任した。駢にはなお諸道鹽鐵転運使だけが残された。

◎. 駢は耄碌し、方士呂用之達のいいなりとなり、諫言する諸将達を排斥していった。

◎.5月 駢は兼侍中となるが、諸道鹽鐵転運使を解任され財政権を失った。不満な駢は貢賦を上納しなくなった。

◎.7月 洪州を占拠した鍾/鐘傳を駢の推薦により江西觀察使とした。また

◎.是歲 駢の領域統制は完全に弛緩し、廬州將楊行密は刺史郎幼復を逐い、和州刺史秦彥は宣歙觀察使竇潏を逐って自立した。

中和三年[883]
◎.4月 將張瓌は復州を、8月 將韓師德は岳州を 10月 賊許勍は滁州を取った。

光啓二年[885]
◎.5月 朱玫が僖宗皇帝に代わって襄王を皇帝につけ、檢校太尉兼侍中淮南節度使高駢を太師兼中書令充江淮鹽鐵轉運等使諸道行營兵馬都統に任じ、右都押牙和州刺史呂用之を檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任じた。駢は喜んで命を奉じた。

光啓三年[886]
◎.4月 呂用之の専横に耐えられなくなった兵馬使畢師鐸は反乱し、高駢を捕らえ、用之を逐った。師鐸は黄巣降將である。

◎.5月 師鐸は駢を幽閉したが、自分では軍を統制できないと思い、兄貴分の宣歙觀察使秦彥を招いた。彥もまた黄巣降將である。

◎. 逐われた呂用之は、盧州刺史楊行密等と組んで揚州を包囲した。

◎. 彥は宣州兵3万を率いて東下が途中で敗北し半ばを失ったが、揚州に入り淮南節度使と称した。

◎.8月 揚州は包囲され師鐸・彥軍は飢えて行った。

◎.9月 形勢が不利となった秦彥達は、高駢が利用されるのを懼れて族滅した。
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淮南節度使史9

2020-12-02 12:42:19 | Weblog
咸通十年[869]
◎.正月 龐勛を南方から征討していた軍人右神武大將軍馬舉が揚州都督府司馬充淮南行營招討使となった。その後權知淮南節度事になったと見られる。

◆.咸通10.濠州隷武寧軍

◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった淮南節度使檢校司空平章事上柱國涼國公食邑三千戸令狐綯は太子太保分司に左遷された。

◎.9月 徐州南面招討使檢校尚書左僕射右神武大將軍權知淮南節度事扶風縣開國伯食邑一千戸馬舉[字?]が檢校司空兼揚州大都督府長史淮南節度副大使知節度事となった。

咸通十一年
◎.11/12月 檢校尚書右僕射汴州刺史宣武軍節度觀察等使李蔚[字茂休]が檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事となった。乱で荒れ果てた淮南の復興にあたり善政を敷いた。馬舉がどうなったかは記録が無い。

乾符元年
◎.4月 淮南節度使李蔚は吏部尚書となりまもなく宰相に昇格した。

◎.10月 僖宗が即位し牛派の蕭倣、崔彥昭が登用され、李派の流れである宰相劉鄴[字漢籓]が檢校左僕射同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察副大使知節度事として出た。

乾符四年~六年
王仙芝・黃巢が河南、山南、淮南を大掠し、征討と称する官軍はさらに大掠して郡邑は荒廃していった。

乾符六年
◎.10月 檢校司空兼鎮海軍節度蘇常杭潤觀察處置江淮鹽鐵轉運江西招討等使高駢が檢校司徒同平章事揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度事江淮鹽鐵轉運江南行營招討等使,進燕國公食邑三千戸となった。駢は雲南蠻を安南で大破した実績があり、劍南西川・荊南・浙西と移鎭して黄巣達から要地を防衛する役割を与えられていた。彼は強力な軍を持ち賊軍を討滅しようと意気込んでいたが、どちらかといえば旧式の軍人であった。
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淮南節度使史8

2020-12-01 09:22:23 | Weblog
◎.劍南西川節度使杜悰が再任された。 

◎. 淮南は飢饉となり民は流亡したが、名門貴族であるだけの杜悰は遊宴に明け暮れ対策をとろうとしなかった。

大中九年[855]
◎.7月 衰亡していく唐朝の政治をなんとか立て直したいと努力していた宣宗皇帝は呆れて、杜悰を太子太傅分司に左遷したが、やがて東都留守に任じた。皇帝権力は弱く貴族達への配慮は欠かせなかった。

◎.7月 唐朝の財源である淮南の治政を安定させるため信任厚い宰相.博陵縣伯崔鉉を檢校司空/司徒同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事.魏国公とした。宣宗は宴を賜い激励した。

大中十二年[858]
◎.8月 南部で軍乱が続き、隣接する宣州で將康全泰が乱して、宣歙観察使鄭薫が逐われた。節度使崔鉉が宣歙觀察使を兼任し、宋州刺史温璋を宣州團練使として鎮圧に向かわせた。このころ南部では雲南蠻が蠢動したが、方鎭は長期の平和により觀察使達の収奪により、牙軍の待遇は悪く、弱体化して遊民の集団と化して軍紀はないも同然だった。嶺南→湖南→江西→宣歙→容管と次々に軍乱が起こった。

◎.10月 康全泰や其黨四百餘人が誅された。レベルが低い雑軍の乱軍は、山東などの正規軍に次々と鎮圧されたが、治政方針の転換はされず崩壊した雑軍が残るだけであった。

◆.大中12.淮南節度増領申州.未幾申州復武昌軍

大中十四年/咸通元年[860]
◎. 浙東で賊帥裘甫が乱を起こし、王式が征討にあたり淮南軍も出兵した。この時期吐蕃や回紇などが江淮に移住させられていたらしく、式は騎兵として活用した。

咸通三年[862]
◎.8月 王式が倨傲な徐州武寧軍の牙軍を誅殺し、その濠州を淮南節度領に、あとは宿泗都團練觀察使とした。

◆.咸通4.淮南節度増領濠州

◎.冬 淮南節度使崔鉉は荊南節度使に移り、長らく宣宗皇帝のもとで専権をふるっていた宰相令狐綯が、懿宗皇帝に免ぜられて同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事となって赴任した。

咸通五年[864]
◎.正月 令狐綯は子の滈が収賄で諌官から弾劾されている事に抗議した。収賄は事実であったが滈は父の代理として行ったもので、懿宗はやむを得ず諌官達を貶した。

咸通九年[868]
◎.9月 桂州に屯していた徐州兵[首領は龐勛]達が勝手に離任して帰還しようとし、浙西を過ぎて淮南に入った。都押牙李湘はこれを討とうとしたが、臆病で姑息な令狐綯は騒乱を望まず通過させた。勛達は徐州に戻り大乱を起こした。
◎.11月 乱は拡大し、康承訓等が征討することになり、都將袁公弁などが淮南兵を率いて参加した。
◎.12月 李湘が泗州を救援にしたが大敗した。

咸通十年[869]
◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった令狐綯は太子太保分司に左遷された。
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