唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天寶六~九載  西暦750~53年

2020-07-31 10:00:42 | Weblog
天寶六載  西暦747年
-------------------------------------
正月辛巳,殺北海郡太守李邕、淄川郡太守裴敦復。
林甫の政敵誅滅は則天並で徹底しています。玄宗は女狂いなので言いなりです。

四月、王忠嗣固辭兼河東朔方節度;許之。
林甫は自派以外の功績のある者を徹底的に排除します。忠嗣は危険を察知していますが、結局逃れられず失脚します。

十一月丁酉,殺戸部侍郎楊慎矜及其弟少府少監楊慎餘、洛陽令楊慎名。
慎矜等は理財に長けていて、玄宗の欲求に応じて信任を得てきます。そうすると林甫の排除対象となり粛清されます。楊貴妃・高力士以外は林甫の独裁に耐えられないのです。

天寶七載  西暦748年
-------------------------------------
四月辛丑,左監門大將軍、知内侍省事高力士加驃騎大將軍。
宮廷内は力士、廷外は林甫[貴妃の親族楊國忠はこの時点では格下]の支配下にあり、玄宗は遊び狂って言いなりでした。全体としては平和で外寇も少なく経済的に繁栄していましたので、余計な政策は必要なかったのでしょう。

天寶八載  西暦749年
-------------------------------------
六月乙卯,隴右節度使哥舒翰及吐蕃戰于石堡城,敗之。
大きな犠牲[数万]を払ながらも石堡城[千人規模]を取りました。しかしここを抑えた者が隴右を支配するのです。

この当時、精兵はすべて辺境防衛に動員され、京師も諸州も軍備は空虚でした。

十一月丁巳,幸御史中丞楊釗[國忠]莊。
楊氏一族[國忠等]が急速にのし上がってきました。林甫は危惧しましたがどうにもなりません。

天寶九載  西暦750年
-------------------------------------
四月己巳,御史中丞宋渾坐贓巨萬,流潮陽。
力をつけてきた楊國忠は林甫派の排除を始めました。

五月乙卯,賜安祿山爵東平郡王。唐將帥封王自此始。
八月丁巳,以安祿山兼河北道采訪處置使。
林甫は奚・契丹には雑胡出身の安祿山、吐蕃には突騎施の哥舒翰、西域には高句麗出身の高仙芝を起用し大軍を預けていました。従来の說では功績がある漢人を使うと宰相の地位が脅かされる、蕃人は宰相になれないというものてすが、祿山の反乱という結果による逆説とも思えます[翰や仙芝は反していませんし]。
軍事は有能な蕃人に任せるのが一番だったのではと思います。あとは統制の問題です。林甫の生きているうちは禄山も懼れはあっても反意はなかったでしょう。そして兵力の集中と権限の拡大しすぎは問題でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天寶三~五載 西暦744~46

2020-07-30 10:00:42 | Weblog
天寶三載  西暦744年
-------------------------------------
正月丙申,改年為載。
この歳から天寶末まで「年」を「載」に変えます。

八月丙午,回紇拔悉蜜攻突厥,殺烏蘇米施可汗,來獻其首。
突厥が衰え、回紇が力を得てきます。

九月甲戌,復以楊慎矜為御史中丞,充諸道鑄錢使。
李林甫は不得意な財政を楊慎矜に任せます。

十二月甲午、戸部尚書裴寬,貶睢陽太守。
林甫は玄宗の信任厚い寬を、海賊を平定してきた裴敦復に誣告させ除きます。

天寶四載  西暦745年
-------------------------------------
正月丙戌,王忠嗣及突厥戰於薩河内山,敗之。
回紇とともに突厥の止めを刺します。

五月、林甫は裴敦復を嶺南に追いはらい、不服な敦復を淄川太守に貶します。

八月壬寅,冊楊太真為貴妃。

九月、隴右節度使皇甫惟明與吐蕃戰于石堡城,為虜所敗。
石堡城奪回戦は失敗しました。

九月,契丹、奚皆殺其公主以叛。
幽州節度使となった安禄山は功績を上げるため、契丹、奚を圧迫し反させました。

天寶五載  西暦746年
-------------------------------------
四月庚寅,李適之罷。丁酉,門下侍郎陳希烈同中書門下平章事。
林甫は政敵適之を逐い、無能無害な希烈を相棒に据えました。

七月,殺括蒼郡太守韋堅、播川郡太守皇甫惟明。
林甫は功績を挙げた堅を誣告して左遷し殺しました。それにより自分が擁立に反対した太子の韋妃を巻き込み、廃太子を目論みました。結果として韋一族は陥れることができましたが、玄宗の信任厚く寵姫楊貴妃と結ぶ高力士が守る太子を廃することはできません。さすがに玄宗も二度目の廃太子には同意しません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天寶元~二年  西暦742~43年

2020-07-29 10:00:01 | Weblog
天寶元年  西暦742年
-------------------------------------
開元が三十年となり長すぎると考えたのか、道教の影響を受けた天寶に改元します。唐朝は姓が「李」であり「老子」の末裔という名目で道教を尊重するのです。

正月甲寅,陳王府參軍田同秀言:「玄元皇帝降于丹鳳門通衢。」
二月丁亥,群臣上尊號曰開元天寶聖文神武皇帝。
老耄した玄宗に官僚達が迎合します。

中書令為右相,東都為東京,北都為北京,州為郡,刺史為太守。
名称の変更が相継ぎます。諸州刺史も太守と呼称されます[乾元元年まで]

三月以長安令韋堅為陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。
太子妃一族の韋堅が起用され、京師の食糧問題の解決が計られます。

各地に節度使が置かれ、傭兵49万が配置されます。それだけの大軍を維持するのは大きな財政的負担ですが、税制整備は不十分で、今の日本のようで、国家全体としては繁栄していますが政府財政は破綻しかけています。しかし玄宗は女[楊貴妃]狂いで、国政は李林甫任せです。
ただ兵制が整備されたので対外的には則天以来の弱兵を脱しています。

七月辛未,牛仙客薨。八月丁丑,刑部尚書李適之為左相。
うなずき役の仙客が亡くなり、林甫は適之を補充します。林甫は悪役ですが、玄宗好みの文学者を排除し、行政能力のあるものを登用し、わがままな官僚達を統制して、広大な唐帝国をなんとか維持しようとしています。彼の生きている間はなんとかなっているのです。

十二月戊戌,隴右節度使皇甫惟明及吐蕃戰于青海,敗之。
庚子,河西節度使王倕克吐蕃漁海、游奕軍。
朔方軍節度使王忠嗣及奚戰於紫乾河,敗之,遂伐突厥。
王忠嗣が活躍し始めます。

天寶二年  西暦743年
-------------------------------------
正月乙卯,作升仙宮。三月壬子,享于玄元宮。改西京玄元宮曰太清宮,東京曰太微宮。
玄宗は道教に狂っています。

李林甫は領吏部尚書となりましたが、実務は侍郎宋遙、苗晉卿に任せています。
ところが文学好きの玄宗が、合格者の首席を再試験してみるとまったく解答できないような人物であったため、遙や晉卿は左遷されます。文学者を排除して実務者を登用したい林甫の方針でしょうか。

四月加韋堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。
黄河と京師を結ぶ新運河が完成しました。しかしこれだけではまだ漕運は解決しません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元二十六~二十九年  西暦738~741年

2020-07-28 10:00:11 | Weblog
開元二十六年  西暦738年
-------------------------------------
正月壬辰,李林甫兼隴右節度副大使。五月乙酉,兼河酉節度副大使。
二月乙卯,牛仙客兼河東節度副大使。
宰相が節度使を兼任しますが、遥領で赴任するわけではありません。

三月吐蕃寇河西,崔希逸敗之,鄯州都督杜希望克其新城。
裏切られた吐蕃の反撃が始まりました。

六月庚子,立忠王璵為皇太子。
李林甫は武惠妃の子壽王瑁を皇太子に勧めます。しかし惠妃の死後、自省した玄宗は言いなりにならず悩みます。そして宦官高力士の「推長而立,誰敢復爭!」=「年長の子[母の家柄は関係するが]を立てれば問題は起きない」という言葉に従い忠王璵を立てます。廃された王皇后は忠王を自分の子のようにかわいがっていた関係もあります。林甫は当然不服で、何度も疑獄を起こし、太子を廃そうとしますが、力士は擁護して守り抜きます。

九月庚子,益州長史王昱及吐蕃戰于安戎城,敗績。
大敗です。西川では吐蕃や雲南蠻が攻勢をかけてきます。

開元二十七年  西暦739年
-------------------------------------
八月乙亥,磧西節度使蓋嘉運敗突騎施于賀邏嶺,執其可汗吐火仙。
西域では唐軍は好調で突騎施を大破し、要地碎葉城を制圧しました。

八月壬午,吐蕃寇邊河西、隴右節度使蕭炅敗之。
吐蕃は本格的に侵攻してきましたが撃退しました。

開元二十八年  西暦740年
-------------------------------------
三月壬子,益州司馬章仇兼瓊敗吐蕃,克安戎城。五月癸卯,吐蕃寇安戎城,兼瓊又敗之。
兼瓊は内応させ、要地を奪取しました。慌てた吐蕃が奪回しようとしましたが失敗しました。

十月甲子,幸溫泉宮。以壽王妃楊氏為道士,號太真。
有名な楊貴妃の登場です。息子壽王の妃を取り上げて妾にするという不道徳な行為ですので、形式的に道教に出家[仏教だと髪を剃る必要があるのと、則天を連想させます]させたわけです。貴妃は武惠妃に似ていたそうです。

開元二十九年  西暦741年
-------------------------------------
十一月庚戌,司空邠王守禮薨。辛未,太尉寧王憲薨,追冊為皇帝。
甥と兄が相継いで亡くなりました。色ボケで遊び人の玄宗もこの辺で死ねば名君のうちに入ってもよかったのですが、あと十五年も老害を続けます。

十二月癸未,吐蕃陷石堡城。
吐蕃が要地を奪回しました。形勢が逆転しようとしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元二十三~二十五年  西暦735~737年

2020-07-27 10:00:02 | Weblog
開元二十三年  西暦735年
-------------------------------------
特記する事項がないのは、国家にとっても民衆にとっても良いことです。

開元二十四年  西暦736年
-------------------------------------
三月乙丑,朔方河東節度使信安王禕貶衢州刺史
幽州張守珪、朔方信安王禕など対外軍事行動に功績をあげた諸将は、文官官僚から猜疑され、中央の要職登用されることがありません。またなにかと理由をつけては左遷される傾向がありました。

玄宗はなにかに脅えて東都から京師へ戻ろうとしますが、耀卿達から農事の妨げになると反対されます。林甫は玄宗に迎合し帰還することになります。

十一月壬寅,裴耀卿、張九齡罷。
李林甫兼中書令,朔方軍節度副大使牛仙客為工部尚書、同中書門下三品。
玄宗は政治に飽き、それでいて財政優先で皇帝権を制約する耀卿、九齡達が煙たくなります。それに乗じて林甫は先任宰相を逐い、有能ですが吏員出身の仙客を引き上げて独裁体制をひきます。宮廷のことがわからない仙客はただ追認するだけです。

開元二十五年  西暦737年
-------------------------------------
三月辛卯,河西節度副大使崔希逸及吐蕃戰于青海,敗之。
この時期吐蕃とは和を結んでいて平和共存を保っていたのですが、玄宗の命を受けて希逸が吐蕃将乞力を奇襲して破ります。信頼関係が崩れ吐蕃との和約が破綻します。

四月辛酉,殺監察御史周子諒。

五月乙丑,廢皇太子瑛及鄂王瑤、光王琚為庶人,皆殺之。
武惠妃は、皇太子と二王が謀叛を企てていると誣告させます。宰相李林甫はまったく太子を弁護せず(德宗に対する李泌とは大違いです)、かえって煽り立て、老耄した玄宗は簡単にだまされて誅殺してしまいます。皇太子以下は玄宗の治政には倦んでいたかもしれませんが、謀叛を起こす気持ちも勢力もなかったようです。林甫は自分の地位を強化するため軽薄な玄宗を煽動し、何度も疑獄事件をでっちあげます。

十二月丙午,惠妃武氏薨,贈謚貞順皇后。
皇太子以下を粛清した当人の武惠妃が頓死します。大半の官僚や宮廷で嫌われていたので毒殺かも知れません。自分の子壽王を立太子する夢は消えます。玄宗は夢から醒めて自分が間違って皇太子以下を殺したことを悟ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元二十~二十二年  西暦732~34年

2020-07-26 10:00:42 | Weblog
開元二十年  西暦732年
-------------------------------------
正月乙卯,信安郡王禕為河東河北道行軍副元帥,以伐奚、契丹。
三月己巳,信安郡王禕及奚、契丹戰於薊州,敗之。
奚・契丹の反乱を一応抑えました。まだまだ鎮圧ではありません。

九月乙巳,渤海靺鞨寇登州,刺史韋俊死之,左領軍衛將軍蓋福慎伐之。
渤海が勢力を拡大し始めました。

玄宗は潞州・太原・汾陰と遊び歩いて京師に戻りました。

開元二十一年  西暦733年
-------------------------------------
三月乙巳,宰相裴光庭薨。
甲寅,尚書右丞韓休為黄門侍郎同中書門下平章事。
一応功績があった光庭がなくなり、諫言好きの休を起用しました。

閏月癸酉,幽州副總管郭英傑及契丹戰於都山,英傑死之。
契丹は突厥と結び反撃し、唐軍を破ります。

九月、京師に戻りましたが、水害のため關内の食糧問題は深刻で、
東都に戻らねばなりません。裴耀卿は根本的な解決策として江淮か
らの漕運の強化を提唱します。

十二月丁巳,蕭嵩、韓休罷。裴耀卿,張九齡:同中書門下平章事。
頑迷な休と嵩は論争することが多く、すっかり嫌になった嵩は辞職
します。玄宗はついでに休も辞めさせます。実務は耀卿が担当します。

開元二十二年  西暦734年
-------------------------------------
正月己巳,如東都。
食糧対策に東都へ向かいます。

五月戊子,佞臣李林甫が相となります。
武惠妃と通じています。財政的能力はありませんが、人事に通じています。

六月壬辰,幽州節度使張守珪俘奚、契丹以獻。
乙巳,張守珪及契丹戰,敗之,殺其王屈烈。
守珪は契丹の実力者可突干を滅ぼし、北邊を安定化することに成功しました。

七月、裴耀卿為江淮、河南轉運使,于河口置輸場。
京師食糧問題の解決に向けて本格的に漕運の強化に励みます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元十七~十九年  西暦729~31年

2020-07-25 10:00:06 | Weblog
開元十七年  西暦729年
-------------------------------------
二月丁卯,巂州都督張守素破西南蠻,拔昆明及鹽城,殺獲萬人。
三月瓜州都督張守珪、沙州刺史賈師順擊吐蕃大同軍,大破之。
三月甲寅,朔方節度使信安王禕攻吐蕃石堡城,拔之。
唐軍が連続して勝利を収めました。特に石堡城[現在の青海省湟源県日月郷石城山]は要衝で、河西隴右支配を左右する拠点です。以降吐蕃は全力をあげて回復をめざし、唐軍と激戦を続けます。

六月甲戌,源乾曜、杜暹、李元紘罷紘。宇文融,裴光庭為同中書門下平章事
暹と元紘は争って事ごとに異同を申し立て、乾曜は観望するという状況でした。財政に知識のある融と光庭が登用されてきました。

九月壬子,宇文融坐貶汝州刺史,凡為相百日而罷。
融は全力で財政再建に努めました。それは官僚・貴族層の既得権を大きく侵害するものでしたので抵抗は大きく、官僚達は偽造錢による混乱を言い立て、軍功ある信安郡王を誣告したとの理由で失脚させてしまいました。国家の利益と貴族層の利益が対立したわけです。さらに官僚達は融に収賄の罪をきせて流罪にし殺しました。それだけ自分達の利を侵されたことへの憎しみが強かったのでしょう。玄宗としては「お前達がいろいろ言うから融を却けたが、国庫は空っぽのままじゃないか」と嫌みをいうのがせいぜいでした。

開元十八年  西暦730年
-------------------------------------
正月辛卯,裴光庭為侍中。
執政は光庭です。彼も融とは違う方向[人事操作で行政効率を上げる]で財政再建に努めます。

四月乙卯,築京師外郭。

五月己酉,奚、契丹附於突厥。
契丹の実権者可突干を冷遇したことから、帰服していた奚、契丹が反しました。

六月丙子,忠王濬為河北道行軍元帥。
九月丁巳,忠王濬兼河東道諸軍元帥。
忠王は名前ばかりで、出陣のまねごとをしただけです。

開元十九年  西暦731年
-------------------------------------
正月,殺瀼州別駕王毛仲。
内外閒廄監牧都使王毛仲は、玄宗即位前からの武装奴隷で、極めて信任が厚く、太平公主の乱にも活躍し、宮廷の厩や騎兵の事を総覧し、多くの禁軍将軍と結び、内廷にも出入りしていました。急速に力をつけた高力士達宦官も彼には威圧されてきました。そこで力士達は玄宗に、毛仲が将軍達と朋党を組み武力を握っている危険性や、その傲慢さを誣告し、玄宗の猜疑心をあおり失脚させ殺しました。禁軍の将軍達も排斥されましたが必要なのでやがて戻されていきました。内廷は宦官達[特に高力士]の独占する場所になりました。

正月、吐蕃使者稱公主求《毛詩》、《春秋》、《禮記》。
七月癸丑,吐蕃請和。
形勢が悪く、反撃態勢が整っていない吐蕃はしきりに和[交渉]を求めました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元十四~十六年  西暦726~728年

2020-07-24 10:00:37 | Weblog
開元十四年  西暦726年
-------------------------------------
二月,邕州獠梁大海反,遣内侍楊思勖發兵討誅。
思勖は宦官であるが、武略があり残虐で、京観[討ち取った敵をつみあげるなどして塚を作り、戦勝の記念碑にする]や、人肉食を好んだ。主に南蛮や獠の討伐で活躍しました。

四月、御史大夫崔隱甫に収賄を弾劾され張說が失脚しました。

玄宗は武惠妃を皇后にしようとしたが、官僚達は反対して皇后待遇ということにおちつきました。

開元十五年  西暦727年
-------------------------------------
正月辛丑河西、隴右節度使王君奐及吐蕃戰于青海,敗之。
吐蕃は唐朝を対等として交渉しようとしていたため、不満な玄宗は対吐蕃戦の勝利を喜びました。

九月丙子,吐蕃寇瓜州,閏月庚子,寇安西。
吐蕃が反撃してきました。唐朝は13万の兵を動員して防衛に当たらせました。

五月癸西,上悉以諸子慶王潭等領州牧、刺史、都督、節度大使、大都護、經略使,實不出外。
親王諸王の牧・都督・刺史を遥領[名目だけ]とし、常に京師の住居に留めて赴任させないようにしました。以降親王と子孫達は飼い殺しになり、宦官の支配下に入ります。王府の官員も名称だけの名誉官となりました。唐朝の滅亡時に皇族の存在感がないのはこのためです。

開元十六年  西暦728年
-------------------------------------
正月乙卯,瀧州首領陳行范反,伏誅
再び楊思勖の登場です。六万人ほど殺し皮を剥ぎました。

七月,張志亮、蕭嵩克吐蕃大莫門城。八月辛卯,及吐蕃戰于祁連城,敗之。
十一月癸巳,蕭嵩為兵部尚書、同中書門下平章事。
対吐蕃防衛で功績をあげた蕭嵩が宰相となりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元十一~十三年  西暦723~25年

2020-07-23 10:00:57 | Weblog
開元十一年  西暦723年
-------------------------------------
正月次潞州,次並州,如汾陰,祠後土
玄宗は河東を徘徊しています。

二月癸亥,張說兼中書令。
文人張說が執政となりました。

二月、大同軍為太原以北節度使,領太原他十州
太原に河東節度使が置かれ北邊防禦にあたります。唐の兵制が傭兵化していきます。

九月,壬申,吐谷渾帥衆詣沙州降,河西節度使張敬忠撫納之
吐谷渾[タングート]が吐蕃の圧迫から逃れて帰属してきました。

開元十二年  西暦724年
-------------------------------------
四月壬寅,詔傍繼國王禮當廢而屬近者封郡王。
則天時に唐の諸王家は断絶させられ、子孫は嶺南に流されました。神龍以降、生き残った子孫を再び王に封じてきましたが、いろいろと詐称があり混乱してきました。そこで正統の王系にだけ限定するという処置がとられました。

七月己卯,廢皇后王氏為庶人。十月,庶人王氏卒。
女に弱く暗愚な玄宗は武惠妃に惑わされ、糟糠の妻王皇后を疑い廃しました。王皇后は高宗皇后王氏と違い、後宮での評判は良く、武惠妃は孤立し、官僚達も則天の再来を懼れて警戒しました。主宰相張說は文人としては優秀ですが、封禪などせ玄宗に迎合するのみで政治家としては無能でした。

開元十三年  西暦725年
-------------------------------------
二月庚申,以御史中丞宇文融兼戸部侍郎
宇文融は財政再建のため、官僚寺社の持つ荘園を調査し、公民や公田の回収に努めました。当然として貴族階級の敵意を買いました。

四月丙辰,置集賢殿。以張說知院事,右散騎常侍徐堅副之
治政は宰相に丸投げし、玄宗は文化・学問の振興に励んでいます。

十一月庚寅,封于泰山
封禪[天下が泰平であることを感謝する儀式]にむかいます。赤字財政のことなど気にしていません。この時代、唐朝全体としては繁栄していましたが、漕運の不備による食糧欠乏、貨幣の不足による混乱、自社貴族による荘園化、府兵制の完全崩壊による傭兵化など、政治体制としては末期的症状を示していました。それに対して一部官僚は対策を講じていましたが、玄宗には危機感はまったくありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元九~十年  西暦721~22年

2020-07-22 10:00:03 | Weblog
開元九年  西暦721年
-------------------------------------
正月,括田。
免税の貴族寺院の荘園に逃亡する農民(逃戸)が増えて、公田は荒廃し、残る農民の租税負担は増大するという悪循環が生じていました。国家財政の再建の為に逃戸の追及が必要となりましたが、それをする官僚達こそ逃戸の受益者でした。

宇文融等が括田を実施、八十万人を見つけたと称していますが、大半は州縣のごまかしでした。

四月庚寅,蘭池胡康待賓寇邊。
突厥の一族蘭池胡が反しました。

四月戊戌,敕:「京官五品以上,外官剌史、四府上佐,各舉縣令一人,視其政善惡,為舉者賞罰。」
地方官の引き締めを強化していますが、名門貴族は地方官になりたがりません。

十月癸亥,天兵軍節度大使張說為兵部尚書、同中書門下三品。
玄宗初期の政治への熱意も薄れ、姚崇・宋璟が退役し、張說の時代となってきました。

開元十年  西暦722年
-------------------------------------
正月丁巳,如東都。
京師の食糧事情(關内では自給できなかった)から東都へ行幸することが増えてきました。

八月甲戌,杖秘書監姜皎六十,流欽州,弟吏部侍郎姜晦貶春州司馬。
武惠妃に耽溺した玄宗が、王皇后を廃そうとした案が洩れ、姜皎に責任転嫁しました。
[武后を廃そうとした高宗が失敗し、上官儀に責任を押しつけたことに似ています]

九月己卯,京兆人權梁山反,伏誅。
留守にしている京師で名門の子弟を中心に軍乱が起き、驚いた留守王志愔は頓死しました。乱の根は深いものでしたがあまり追及せず収めました。

九月癸未,吐蕃攻小勃律國,北庭節度使張孝嵩敗之。
孝嵩は吐蕃を大破し、吐蕃は少しおとなしくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元五~八年  西暦717~20年

2020-07-21 10:00:48 | Weblog
開元五年  西暦717年
-------------------------------------
正月辛亥,如東都。
久しぶりの東都行幸[玄宗としては始めて]ですのでいろいろ手違いがおこります。

三月庚戌,制復置營州都督于柳城,兼平盧軍使
奚・契丹が帰服してきたので再建されました。

四月己丑,皇子嗣一卒,追立為夏王。
武攸止の娘武惠妃の子供です。女にはだらしない玄宗の寵姫となり専権を振るうようになります。

七月壬寅,隴右節度使郭知運及吐蕃戰,敗之。
吐蕃は講和を持ちかけては侵攻してきます。徐々に対吐蕃戦も戦況が好転してきました。

開元六年  西暦718年
-------------------------------------
二月戊子,移蔚州橫野軍于山北,屯兵三萬,為九姓之援
突厥から帰服してきた回紇を安撫するためです。

十一月東都より戻ってきます。

開元七年  西暦719年
-------------------------------------

開元八年  西暦720年
-------------------------------------
正月辛巳,宋璟、蘇頲罷。源乾曜,張嘉貞為同中書門下平章事。
偽造銭の横行により江淮の銭の価値が激動し、璟達は現実を無視[銅銭の需要にたいして供給が追いつかないため、低品質の悪銭が偽造される]してただ偽造厳禁政策を取り、摘発に励みました。飢饉もあり、貴族・民衆の不満は高まり解任されました。嘉貞が執政です。しかし厳禁をやめるだけで再び悪銭が流通するようになりました。

二月戊戌,子敏卒。贈懷王。
これも武恵妃の子です。

五月丁卯,源乾曜為侍中,張嘉貞為中書令。
貴族の子弟は地方官になることを嫌う傾向が強かったので、乾曜は率先して子供を地方官に出し、他の者達にも強制しました。

九月,突厥寇甘、涼,涼州都督楊敬述及突厥戰,敗績。
壬申,契丹寇邊,王晙檢校幽州都督、節度河北諸軍大使,黄門侍郎韋抗為道朔方行軍大總管,以伐之。
朔方王晙の失策と、突厥の再結集により再び辺境が不穏になってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元三~四年  西暦715~16年

2020-07-20 10:00:48 | Weblog
開元三年  西暦715年
-------------------------------------
正月丁亥,立郢王嗣謙為皇太子
嗣謙[瑛]は第二子趙麗妃の子である。

突厥からどんどん帰順者がでてきました。

四月庚申,突厥部三姓葛邏祿來附。右羽林軍大將軍薛訥為源州鎮軍大總管,源州都督楊執一副之;
右衛大將軍郭虔瓘為朔州鎮軍大總管,并州長史王晙副之。以備突厥。
衰微してきた対突厥対策が進んだ。

九月壬戌,薛訥為朔方道行軍大總管,太僕卿呂延祚、靈州刺史杜賓客副討突厥。

十月甲子,如鳳泉湯。十一月己卯,至自鳳泉湯。乙酉,幸溫湯。甲午,至自溫湯。
毎年の如く冬期中心に温泉通いが始まります。溫湯=温泉宮=楊貴妃で有名な華清宮です。

開元四年  西暦716年
-------------------------------------
正月、王皇后の妹の夫長孫昕等が御史大夫李傑と争い殴打しました。傑は御史大夫もの高官が殴打をうけた恥辱を「体に受けた傷はなおるが、衣冠に受けた侮辱は耐えがたい」と直訴し、玄宗は昕を杖殺し、百官に謝しました。

正月丙午,鄶王嗣真為安北大都護、陝王嗣升為安西大都護、二王皆不出閣。諸王遙領節度自此始。
親王を節度大使としました。いずれも遥領[名称のみ]で、実務は副大使が行います。

二月癸酉,松州都督孫仁獻及吐蕃戰,敗之。

六月甲子,太上皇崩。
睿宗が亡くなりました。退位後の睿宗は政治に関心がなく影の人でした。

六月癸酉,拔曳固斬突厥可汗默啜首來獻。
拔曳固は回紇鉄勒部の一部です。默啜はこれを討ち勝利したのですが、油断して殺されました。

七月丁丑,吐蕃請和。八月辛未,奚、契丹降。
唐を軽侮していた情勢をみて周辺諸国が和を求め始めました。吐蕃とは対等の関係なので「請和」ですが、格の低い奚、契丹は「降」です。

十一月己卯,盧懷慎罷。
清廉だけが取り柄だった懷慎が辞し、同じく凡庸な源乾曜に代わりました。

閏月己亥,姚崇、源乾曜罷。
刑部尚書宋璟為吏部尚書兼黄門監,紫微侍郎蘇頲同紫微黄門平章事。
崇は敏腕でしたが、子供達は父の権威をふりかざし貪汚を重ねていました。玄宗はそれを知り譴責し、懼れた崇は璟に執政を譲りました。伴食のほうは乾曜が頲に代わります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開元二年  西暦714年

2020-07-19 10:00:51 | Weblog
開元二年  西暦714年
-------------------------------------
正月甲申,并州節度大使薛訥同紫微黄門三品,以伐契丹。
則天時代に離反した奚や契丹を帰順させようとしています。

二月突厥寇北庭,都護郭虔瓘敗之。
突厥可汗默啜は子同俄を派遣して北庭都護を攻めますが失敗します。

閏二月、王晙を安北大都護、朔方道行軍大總管とし突厥防衛を固めます。

姚元之達は、邪魔になる功臣劉幽求、鐘紹京等を失脚させ追い払いました。

三月己亥,阿史那獻か碎葉等鎮を陥し西突厥可汗都擔を捕らえました。
獻は名前から言っても突厥の帰服した一族です。

四月辛巳,突厥可汗默啜復遣使求昏
五月、吐蕃相坌達延遺宰相書,請先遣解琬至河源正二國封疆,然後結盟。
玄宗即位後蕃族対策が成功していきます。吐蕃は以前の有利な国境設定の追認を求めてきました。

六月丁巳,以宋王成器兼岐州刺史,申王成義兼幽州刺史,幽王守禮兼虢州刺史。
玄宗は兄弟仲が良く、集まって宴飲することが多かったのですが、官僚達はそれを危ぶみ、諸王を外にだすことを求めた。諸王は赴任はするが政務は長史以下が専決し単なるおかざりでした。

七月庚子,薛訥及奚、契丹戰於灤河,敗績。
まだまだ唐軍は弱く、蕃軍に殲滅され、訥は逃げ帰りました。

七月丁未,僻地房州で襄王重茂がなくなりました。殤皇帝と贈られました。

八月乙亥,吐蕃寇邊,薛訥攝左羽林軍將軍,為隴右防御大使,右驍衛將軍郭知運為副,以伐之。
十月甲子,薛訥及吐蕃戰于武階,敗之。
吐蕃が洮州・蘭州・渭州に侵攻してきたため、これを討ちました。訥は前回の失策を償うため力戦し撃破しましたが決定的な勝利ではありません。

鄯州都督楊矩が以前、黄河九曲の地を吐蕃に譲り、そのため吐蕃の勢力が増大したことを咎められ自殺しました。

突厥黙啜可汗は老衰し、諸部はあいついで反して唐朝に通じてきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先天二年/開元元年七月~  西暦713年

2020-07-18 10:00:39 | Weblog
先天二年/開元元年七月~  西暦713年
-------------------------------------------------------
七月乙丑,始聽政。
「始」と書いてあるように実際の朝政を執り始めたのはここからです。

七月甲戌,毀天樞。
則天の遺物を完全廃棄しました。

八月壬寅,宋王成器為太尉,申王成義為司徒,邠王守禮為司空。
形式的官職ですが兄弟を手厚く待遇します。

十月癸卯,講武於驪山。
流郭元振於新州,給事中唐紹伏誅。
対外敗戦が続く軍を引き締める為に兵二十万を動員しました。しかし行軍は惨めなほど混乱して体をなしませんでした。玄宗は激怒して宰相兵部尚書郭元振を解任し、給事中知禮儀事唐紹を誅しました[殺すつもりはなかったようですが]。もはや府兵制の残骸ではどうしようもなかったようです。自分に責任はないと思っていた元振は流され途中で憤死しました。

十月甲辰,同州刺史姚元之為兵部尚書同中書門下三品。
朝政を執ったもののどのように進めてよいかわからぬ玄宗は、経験不足な劉幽求や張說には頼らず、則天時代よりの老臣で果断な姚元之を登用しました。元之は太平公主との闘争時に玄宗に裏切られたことがあるので、多くの注文をつけて全権委任を要求しました。

元之が郎官人事を上奏すると、玄宗は返事もせずにそっぽを向いています。再度上奏しても同様で、元之は動揺して退出します。側近宦官高力士が玄宗に「あれは宰相にたいして取るべき態度ではないでしょう」と諫めると、玄宗は「そうではない、政治は元之に委任した。国家の大事ならともかく、中級官吏の人事などはいちいち上奏する必要はない」と答えたそうです。

十二月庚寅,大赦,改元「開元」,改中書省為紫微省,門下省為黄門省,侍中為監。
玄宗も則天の孫ですので、結構名称に拘ります。

十二月癸丑,劉幽求罷。貶張說為相州刺史。
甲寅,黄門侍郎盧懷慎同紫微黄門平章事。
姚元之[賜名崇]は邪魔な二人を排除し、無害な懷慎に代えました。当時宰相は政事堂で食膳を賜って食事する慣習であった、懷慎は誠実だが治政には無能で、元之のうなずき役でしかなかったようです。そのため食事するためにだけいる宰相[伴食宰相]と言われたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄宗前史

2020-07-17 10:00:17 | Weblog
玄宗前史
----------------------------
隆基は睿宗の第三子で、則天に殺された竇氏が母です。六人兄弟[成人したのは五人]。

垂拱三年閏正月、傀儡皇帝睿宗の子として楚王となりましたが、長壽二年臘月、則天に母竇妃達が殺され兄弟達とともに降されて臨淄郡王になりました。

性英武で騎射に通じ、学問も一応できたそうです。

則天時代は衛尉少卿や潞州別駕[潞州時代の旧宅は飛龍宮になりました]などを体験しています。

神龍元年の復唐には関係していません。

その後、京師内外を巡遊し、豪傑や若手軍人との交遊を深めて、手なずけていったようです。

景龍四年[景雲元年]六月には叔母太平公主や劉幽求、鍾紹京などと萬騎兵を率いて韋后一族の討滅に大きな功績を上げています。

殿中監兼知内外閑廄檢校隴右群牧大使押左右萬騎となり、封平王,同中書門下三品。
[親王でありながら兵権を握り、宰相に連なっています。]

睿宗が即位すると、兄宋王成器[睿宗が傀儡皇帝であった時は皇太子]の譲りをうけて皇太子となりました。成器や他の兄弟との軋轢はなかったようです。

その後、先天元年八月まで、叔母太平公主との闘争が続きます。則天の娘である太平公主は果断有能で行政能力があり、英武ではあっても経験不足で遊び人の皇太子は圧迫されていました。

八月、いちいち面倒になった睿宗は嫌になり、皇太子[玄宗]に譲位します。しかし太平公主が巻き返し優柔不断な睿宗に実権を残し、玄宗は傀儡皇帝扱いになります。

その後、先天二年七月まで、太平公主の攻勢が続き、宰相・官僚の大半も公主側につきます。
しかし一部官僚と若手軍人達は玄宗派であり、七月軍事行動を起こして、太平公主、岑羲、蕭至忠、竇懷貞等を殺害し実権を握りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする