天寶六載 西暦747年
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正月辛巳,殺北海郡太守李邕、淄川郡太守裴敦復。
林甫の政敵誅滅は則天並で徹底しています。玄宗は女狂いなので言いなりです。
四月、王忠嗣固辭兼河東朔方節度;許之。
林甫は自派以外の功績のある者を徹底的に排除します。忠嗣は危険を察知していますが、結局逃れられず失脚します。
十一月丁酉,殺戸部侍郎楊慎矜及其弟少府少監楊慎餘、洛陽令楊慎名。
慎矜等は理財に長けていて、玄宗の欲求に応じて信任を得てきます。そうすると林甫の排除対象となり粛清されます。楊貴妃・高力士以外は林甫の独裁に耐えられないのです。
天寶七載 西暦748年
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四月辛丑,左監門大將軍、知内侍省事高力士加驃騎大將軍。
宮廷内は力士、廷外は林甫[貴妃の親族楊國忠はこの時点では格下]の支配下にあり、玄宗は遊び狂って言いなりでした。全体としては平和で外寇も少なく経済的に繁栄していましたので、余計な政策は必要なかったのでしょう。
天寶八載 西暦749年
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六月乙卯,隴右節度使哥舒翰及吐蕃戰于石堡城,敗之。
大きな犠牲[数万]を払ながらも石堡城[千人規模]を取りました。しかしここを抑えた者が隴右を支配するのです。
この当時、精兵はすべて辺境防衛に動員され、京師も諸州も軍備は空虚でした。
十一月丁巳,幸御史中丞楊釗[國忠]莊。
楊氏一族[國忠等]が急速にのし上がってきました。林甫は危惧しましたがどうにもなりません。
天寶九載 西暦750年
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四月己巳,御史中丞宋渾坐贓巨萬,流潮陽。
力をつけてきた楊國忠は林甫派の排除を始めました。
五月乙卯,賜安祿山爵東平郡王。唐將帥封王自此始。
八月丁巳,以安祿山兼河北道采訪處置使。
林甫は奚・契丹には雑胡出身の安祿山、吐蕃には突騎施の哥舒翰、西域には高句麗出身の高仙芝を起用し大軍を預けていました。従来の說では功績がある漢人を使うと宰相の地位が脅かされる、蕃人は宰相になれないというものてすが、祿山の反乱という結果による逆説とも思えます[翰や仙芝は反していませんし]。
軍事は有能な蕃人に任せるのが一番だったのではと思います。あとは統制の問題です。林甫の生きているうちは禄山も懼れはあっても反意はなかったでしょう。そして兵力の集中と権限の拡大しすぎは問題でした。
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正月辛巳,殺北海郡太守李邕、淄川郡太守裴敦復。
林甫の政敵誅滅は則天並で徹底しています。玄宗は女狂いなので言いなりです。
四月、王忠嗣固辭兼河東朔方節度;許之。
林甫は自派以外の功績のある者を徹底的に排除します。忠嗣は危険を察知していますが、結局逃れられず失脚します。
十一月丁酉,殺戸部侍郎楊慎矜及其弟少府少監楊慎餘、洛陽令楊慎名。
慎矜等は理財に長けていて、玄宗の欲求に応じて信任を得てきます。そうすると林甫の排除対象となり粛清されます。楊貴妃・高力士以外は林甫の独裁に耐えられないのです。
天寶七載 西暦748年
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四月辛丑,左監門大將軍、知内侍省事高力士加驃騎大將軍。
宮廷内は力士、廷外は林甫[貴妃の親族楊國忠はこの時点では格下]の支配下にあり、玄宗は遊び狂って言いなりでした。全体としては平和で外寇も少なく経済的に繁栄していましたので、余計な政策は必要なかったのでしょう。
天寶八載 西暦749年
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六月乙卯,隴右節度使哥舒翰及吐蕃戰于石堡城,敗之。
大きな犠牲[数万]を払ながらも石堡城[千人規模]を取りました。しかしここを抑えた者が隴右を支配するのです。
この当時、精兵はすべて辺境防衛に動員され、京師も諸州も軍備は空虚でした。
十一月丁巳,幸御史中丞楊釗[國忠]莊。
楊氏一族[國忠等]が急速にのし上がってきました。林甫は危惧しましたがどうにもなりません。
天寶九載 西暦750年
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四月己巳,御史中丞宋渾坐贓巨萬,流潮陽。
力をつけてきた楊國忠は林甫派の排除を始めました。
五月乙卯,賜安祿山爵東平郡王。唐將帥封王自此始。
八月丁巳,以安祿山兼河北道采訪處置使。
林甫は奚・契丹には雑胡出身の安祿山、吐蕃には突騎施の哥舒翰、西域には高句麗出身の高仙芝を起用し大軍を預けていました。従来の說では功績がある漢人を使うと宰相の地位が脅かされる、蕃人は宰相になれないというものてすが、祿山の反乱という結果による逆説とも思えます[翰や仙芝は反していませんし]。
軍事は有能な蕃人に任せるのが一番だったのではと思います。あとは統制の問題です。林甫の生きているうちは禄山も懼れはあっても反意はなかったでしょう。そして兵力の集中と権限の拡大しすぎは問題でした。