二月嚴綬は磁丘で淮西軍に大敗した。
三月淄青李師道は、淮西を支援するためゲリラ隊を派遣し東都の倉庫を焼き払った。このため東都の人心は動揺した。
六月成徳王承宗は、部下を京師に派遣して強硬派宰相武元衡を暗殺させた。これにより征討をやめさせようという方策であったが、憲宗は激怒し、強硬派の裴度を宰相として任用しさらに態度を硬化させた。
八月東都でさらに李師道派が蜂起したがなんとか鎮圧することができた。
十月淮西征討体制が再編成され、山東節度使を分割し唐に高霞寓、襄復に李遜を置き、主将には宣武節度使韓弘をおいた。また成徳王承宗・淄青李師道征討も開始された。
三月淄青李師道は、淮西を支援するためゲリラ隊を派遣し東都の倉庫を焼き払った。このため東都の人心は動揺した。
六月成徳王承宗は、部下を京師に派遣して強硬派宰相武元衡を暗殺させた。これにより征討をやめさせようという方策であったが、憲宗は激怒し、強硬派の裴度を宰相として任用しさらに態度を硬化させた。
八月東都でさらに李師道派が蜂起したがなんとか鎮圧することができた。
十月淮西征討体制が再編成され、山東節度使を分割し唐に高霞寓、襄復に李遜を置き、主将には宣武節度使韓弘をおいた。また成徳王承宗・淄青李師道征討も開始された。