唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十年(815年.弘仁五年)

2006-10-31 20:26:28 | Weblog
二月嚴綬は磁丘で淮西軍に大敗した。
三月淄青李師道は、淮西を支援するためゲリラ隊を派遣し東都の倉庫を焼き払った。このため東都の人心は動揺した。
六月成徳王承宗は、部下を京師に派遣して強硬派宰相武元衡を暗殺させた。これにより征討をやめさせようという方策であったが、憲宗は激怒し、強硬派の裴度を宰相として任用しさらに態度を硬化させた。
八月東都でさらに李師道派が蜂起したがなんとか鎮圧することができた。
十月淮西征討体制が再編成され、山東節度使を分割し唐に高霞寓、襄復に李遜を置き、主将には宣武節度使韓弘をおいた。また成徳王承宗・淄青李師道征討も開始された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和九年(814年.弘仁四年)

2006-10-31 17:53:34 | Weblog
正月振武軍乱は簡単に鎮圧され、牙軍のきままを抑える政策がとられた。
九月朝廷につかず離れずの態度を示していた淮西節度使呉少陽が死亡し、子の元濟が自立して反朝廷の態度を明らかにした。
十月忠武李光顔・荊南袁滋・山東嚴綬などに対淮西の配置が行われて、嚴綬を主将として征討が開始された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和八年(813年.弘仁三年)

2006-10-30 19:33:51 | Weblog
淄青・淮西は形勢不利と見て憲宗のご機嫌伺いを行ったが、憲宗はこれを拒否して強硬態度を示した。
二月西川節度使より武元衡が宰相に戻り強硬派が力を増し、魏博田弘正を懐柔して王承宗包囲体制を作っていった。
十月北辺の振武軍節度使李進賢の失政により軍乱が起こった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和七年(812年.弘仁二年)

2006-10-30 17:54:59 | Weblog
七月には遂王宥[後の穆宗]が立太子した。
八月には魏博節度使田季安が亡くなり、子の懷諫が嗣いだが幼少でもあったため統制がとれず、牙軍は十月一族の田興を立てた。
通常朝廷は自立したものを認める場合はいったん留後とし、軍の正式要請を待って節度使とするのが慣例であったが、憲宗は宰相李絳の提案によりいきなり節度使として認めた。
もともと儒学の徒であり、自分の正統性を危惧していた田興[賜名され弘正]は感激し朝廷に忠誠を誓うことになった。
このため河北の藩鎭は魏博・幽州・義武・横海の朝廷派が優勢となり、成徳・淄青らの反朝廷派は危機感をもつことになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和六年(811年.弘仁元年)

2006-10-29 13:28:44 | Weblog
前年の敗戦にたいする論争が活発となり、宦官批判も噴出した。
財政再建のために官僚への給与改定や、江南地方の軍備縮小などなど内政改革も行われていった。
閏十二月には張伯靖が叙州[黔中]で反乱をおこし、
都では皇太子寧が亡くなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和五年(810年.大同四年)

2006-10-29 08:54:26 | Weblog
吐突承璀の成徳討伐は、昭義軍節度使盧従史の非協力もあり敗戦が続いた。
周囲の藩鎭もいつもどおりはかばかしい戦いをせず、賞賜ばかりを要求し成果はろくにあがらなかった。
吐突承璀は盧従史に責任を押しつけ解任したが、結局王承宗を赦すことになり、憲宗の方針は後退することになった。
河北の藩鎭においては幽州・義武・横海などが朝廷側であり、成徳・魏博・淄青が反朝廷側であった。
ところが十月義武軍節度使張茂昭が易定二州を朝廷に獻じて帰服してきた。義武軍は河北の小鎭ではあるが、成徳の西北を直轄で抑えることになり、朝廷は有利な体制を築けることになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和四年(809年.大同三年)

2006-10-28 11:17:42 | Weblog
三月成徳節度使王士眞が亡くなった。憲宗は恒例となっていた世襲をゆるさず、王承宗に圧力を加えた。そのため承宗は成徳節度使の領州六のうち、徳・棣二州を献上することで認可を求めた。憲宗もそれをゆるしたのだが、承宗は違約して二州を渡さなかった。
そのため十月成徳討伐が宣言されたが、主将は意外にも宦官吐突承璀であり、世論[といっても官僚の世界だけであるが]は沸騰した。
十一月には札付きの淮西節度使呉少誠が死亡し、部将呉少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は反抗姿勢をすこしゆるめ、憲宗は成徳討伐中でもあり一応就任を認めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和三年(808年.大同二年)

2006-10-28 08:27:12 | Weblog
嶺南の黄洞蠻の平定はさらに進んだ。
九月自立傾向であった山東節度使于頔が入朝し名誉宰相の司空になった。
六月には勇猛な蛮族沙陀[後唐建国の李克用の祖先にあたる]族が吐蕃から離れて帰服して朔方軍に配属された。臨城の築城もあり対吐蕃に関しては十分な防禦体制が確立された。
内政においては軍費集積のために地方官の進奉が奨励され、民衆の生活は苦しくなっていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和二年(807年.大同元年)

2006-10-27 22:07:09 | Weblog
正月には宰相陣も李吉甫や武元衡といった対藩鎭強硬派が台頭してきた。
十月大きな税源である浙西地方の鎭海節度使李が反乱をおこしたが、すぐ部下に見捨てられ誅殺された。
前代の宗の姑息な政策のため、浙西程度の藩鎭でも勝手しほうだいであったが、憲宗はそれをゆるさない方針を貫いたことによる反乱であった。
また嶺南でも黄洞[西原]蠻の討伐が進んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元和元年(806年.延暦24年)

2006-10-27 18:17:18 | Weblog
憲宗はついに決断し、西川劉闢を討伐することにした。
従来の緩慢な藩鎭軍の動員をせず、親衛である神策軍を、若手の将軍高崇文に率いさせて剣南地方に突入させた。
崇文は三月に東川節度府を奪回し、九月には劉闢を捕らえ誅殺した。
剣南地方は安禄山の乱でもしめされるように唐の後背地であり自立をゆるすことはできなかったのである。
また韓全義引退の後、夏綏に拠った楊惠琳も討滅され、安黄節度使伊愼[正月鄂岳に統合]・武寧節度使張愔[十一月に王紹が赴任]も入朝して朝廷の威権が回復傾向に入った。
閏七月山東地方の強鎭である淄青節度使李師古が死亡し、弟師道が嗣ぐことになったが、朝廷はまだ影響を及ぼすことができなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元二十一年・永貞元年(805年.延暦23年)

2006-10-26 19:02:59 | Weblog
正月宗が亡くなり、順宗が待望の即位をしたがすでに重病であり政務を満足に取ることができなかった。
そこで側近の王叔文が、王伾・劉禹錫・柳宗元・程异など少壮官僚達とともに新政に乗り出した。
宦官軍權の排除や停滞した政治の改革が矢継ぎ早に指令された。しかし抵抗勢力が強くなかなか浸透しなかった。
順宗の健康は悪化していくばかりであり、皇太子の即位を望む声が強く、八月には順宗は退位して上皇となり、憲宗が即位した。
憲宗は宦官吐突承璀の影響を受け、宦官の軍權を元に戻したが、政治改革については精力的におこなった。しかし前帝の側近王叔文や取り巻きの少壮官僚は左遷され姿を消した。
また八月には対吐蕃の重鎮西川節度使韋皐が亡くなり、その幕僚の劉闢が自立した。憲宗は即位早々この対策に逐われることになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元二十年(804年.延暦22年)

2006-10-26 19:01:56 | Weblog
正月、勇名をうたわれた天徳防禦使李景略が亡くなった。軍は判官任迪簡を擁立し朝廷は相変わらず追認をつづけた。
宗の健康状態の悪化もあり政務はまったく停滞し、姑息な対応策を重ねていくことになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十九年(803年.延暦21年)

2006-10-26 18:07:03 | Weblog
宗も老齢化し、政務も姑息を極め・人事も停滞し沈滞した雰囲気が続いている。相変わらず節度使が死ぬと、行軍司馬が昇格する人事[行軍司馬は軍の意向を伺ってから任命される]が続いていて、中央の威令は届かない。このような状況で皇太子[順宗]周辺に現状に不満をもつ若手官僚が集まりつつある。
正月安南、閏十月鹽州で反乱が起きるが大勢に影響するものではなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十八年(802年.延暦20年)

2006-10-25 18:48:13 | Weblog
宗皇帝は敗戦に懲りて再び蓄財に向かい、各地から進奉という名称の寄付[国庫に入らず皇帝に直接行く]を盛んに取り立てた。
各地の節度使にも、王鍔を初めとして財源を開発できるものを任命するようにしていた。
十月京師近辺の鄜坊節度使王栖曜が亡くなり、恒例の軍乱が起こった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十七年(801年.延暦19年)

2006-10-25 17:42:49 | Weblog
淮西軍に徹底的に敗戦した韓全義が戻ってきたが、宦官達は共同責任を問われることを懼れて宗皇帝をごまかした。かえって皇帝は全義の功績を賞しょうとしたが、さすがに全義は恥じて夏綏節度使に逃げ戻っていった。淮西の呉少誠も勝ったとはいえ損害も多く、現状維持を図って手じまいすることにした。
五月京師近郊の有力藩鎭である邠寧節度使楊朝晟が亡くなり、後任を巡って恒例の軍乱が続いた。
河北では六月成徳節度使王武俊が死んだが、その子士眞がすでに実権を継承していたため混乱はなかった。
九月西川の韋皐は吐蕃を破り、対吐蕃戦の代表者としての権威を確立していった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする