唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成徳節度使 その5

2012-01-31 10:32:55 | Weblog
・元逵は會昌3年[843年]昭義劉稹征討に北面招討澤潞使として協力した。
・大中9年[855年]元逵は卒し、子の紹鼎が嗣いだ。成徳の牙軍は魏博や
幽州とは違い同一家系の承継を重んじる気風が強かった。
・大中11年[857年]紹鼎は突然死んだ。彼は節制がなくむやみに人を殺傷
したために牙軍から嫌われ軍乱の危機が迫っていた。
弟の紹懿がなんとか継承することができた。
・咸通7年[866年]紹懿は卒し、紹鼎の子景崇が嗣いだ。
・中和2年[882年][3年説もある]景崇は卒し、幼少の鎔(10歳)が嗣いだ。
成徳は長く王家の統治と平和が続き、軍は軟弱化していた。
・光啓元年[885年]幽州李可擧と義武王處存を攻めたが河東李克用の来援に大敗した。
・大順元年[890年]唐朝・宣武朱全忠・幽州李威らと河東李克用を攻めたが戦果はなかった。
・大順2年[891年]克用に攻められ大敗したが、幽州李威に助けられた。
・景福元年[892年]幽州李威と克用を攻めたが堯山に大敗し、克用に従うことになった。
・景福2年[893年]幽州李威が弟籌に逐われてきた。鎔はこれを厚遇したが
威は反って成徳を奪おうとし、牙軍に攻められて殺された。
・光化3年[900年]朱全忠に攻められて敗れ、全忠に従うことを約した。
以降後梁建国までその麾下に入った。
・天祐2年[905年]武順軍と改號した。
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成徳節度使 その4

2012-01-30 10:46:50 | Weblog
・王承宗が元和15年[820年]卒すると、牙軍は弟承元を擁立しようとした。しかし承元は唐朝に帰順して
義成節度使となり、魏博節度使田弘正が転任することになった。
・田弘正は魏博軍二千を引き連れて赴任したが、憲宗皇帝の死後を引き継いだ無能な穆宗皇帝と経略のない
宰相達は経費を惜しんで戻させた。
・長慶元年[821年]幽州で朱克融(滔の孫)軍乱が起こり節度使張弘靖が幽囚され、呼応して成徳でも
王廷湊が反し、弘正を殺し自立した。
・唐朝に従う牛元翼(深冀節度使に任命)は李寰や傅良弼とともに廷湊と戦うが、遊猟や建築を好む穆宗
皇帝には定見はなく、場当たりの討伐を命じるだけであり、反乱は成功し。
長慶二年[822年]廷湊は成徳節度使に任ぜられた。
・廷湊は強硬な反唐朝派であり、親唐朝派を徹底して攻撃し、元翼等は鎭をすてて奔った。
・太和2年[828年]廷湊は自立した横海李同捷を支援して反した。太和3年魏博將兀志沼を唆して反させ
たが鎮圧され、形勢不利と見て帰順した。
・その後も反抗的な姿勢を継続したが、太和8年[834年]卒して、子の元逵が嗣いだ。
このころ唐朝はすでに河北三鎭に関しては自立を認める方針であり問題はおきなかった。
・元逵は廷湊の方針を改め、唐朝とは親和策を講じていった。
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成徳節度使 その3

2012-01-29 12:20:43 | Weblog
・元和4年[809年]憲宗皇帝は王承宗の成徳継承を認める代わりに、徳棣二州を保信軍節度使として
承宗一族の薛昌朝に与えるという妥協案を出した。しかし承宗は分割案を認めず昌朝を捕らえて叛した。
・憲宗皇帝は宦官吐突承璀を招討使として追討したが、承璀には將才がなく、昭義節度使盧従史は成徳
魏博に内通し、他の諸鎭も戦意なく敗戦が続いた。
・元和5年[810年]承璀はやむなく、内通していた昭義盧従史を捕殺して、これに責任を押しつけて
戻った。承宗は六州を維持することに成功したが、憲宗皇帝は深くこれを憎んだ。
・元和7年[812年]魏博で田弘正が立ち親唐朝体勢をとり、幽州劉總も唐朝に通じた。そのため河北
で孤立した承宗は淄青李師道と連携して警戒を強めた。
・元和10年[815年]承宗・師道は対藩鎭強硬派の宰相武元衡を京師で暗殺した。憲宗皇帝は激怒し
後任に主戦派の裴度を起用し、河東・幽州・河陽・昭義・魏博・幽州・義武などに討伐を命じた。
・しかし淮西呉元濟征討と並立し、淄青李師道の支援を得た承宗は善戦し、かえって義武渾鎬(かんの子)
を破るなど成果はあがらなかった。
・元和12年[817年]淮西呉元濟征討に全力を尽くすため、成徳招討は停止された。
・元和12年[817年]末元濟が誅されると、承宗は懼れて魏博田弘正をたよって憲宗皇帝に謝罪した。
・元和13年[818年]4月弘正の懇願をうけて、徳棣二州を献じ、実子二人を人質に送り、麾下の諸州
の官吏を唐朝の任命にするという条件で赦された。
・これにより唐朝は残る淄青李師道討伐に専念することになった。
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成徳節度使 その2

2012-01-28 08:22:00 | Weblog
・王武俊は幽州朱滔・魏博田・淄青李納らと唐朝に反旗を翻し、趙王を名乗ったが李惟岳の乱によって
荒廃した成徳節度使の再建を第一としており、あくまで独立をしようとする姿勢は乏しかった。
・興元元年[784年]宗皇帝が赦令を出し、成徳節度使[恒冀深趙徳棣の六州]が安堵されると武俊は
唐朝に復帰し、昭義李抱眞とともに朱滔を大破した。
・貞元元年[785年]子の士眞が徳棣観察使に任ぜられた。
・宗皇帝はすっかり弱気になり藩鎭融和策をとり、武俊もその後もつかず離れずの関係を続けていた。
貞元17年[801年]武俊が卒すると、士眞が嗣いだ。彼には観察使の実績があるため唐朝は認めざる得なかった。
・元和4年[809年]士眞が卒し、子の承宗が嗣ごうとしたが、対藩鎭政策を強硬方針に転換させた憲宗
皇帝はこれを簡単に認めようとはしなかった。
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成徳節度使 その1

2012-01-27 10:52:42 | Weblog
・寶應元年[762年]史朝義の恆州節度使張忠志は趙定深恆易五州をもって副元帥僕固懷恩に歸順し、
旧領を与えられ恆州刺史成軍節度使に任ぜられて、李寶臣と賜名された。
唐朝は乱に疲弊しており早期の終結を望んでいたためである。
・魏博田承嗣・相衛薛嵩・盧龍李懷仙等と結び半独立体制を作っていった。
・大暦三年[768年]盧龍李懷仙が殺され、朱希彩が自立した。寶臣はこれを伐ったが勝てなかった。
・大暦十年[775年]魏博田承嗣が反した。寶臣は淄青李正己とともに唐朝方について承嗣を破り
滄州を得たが追いつめることはしはなかった。
・寶臣は晩年麾下の諸将を疑うこが多く、諸将は動揺していた。建中二年[781年]寶臣が卒し、
子惟岳が自立したが唐朝は認めず、周囲の諸鎭に追討を命じた。
・易州張孝忠・趙州康日知は帰順し、支援してくれた魏博田悦は河東・昭義軍に敗北し形勢は不利に
傾き、建中三年[782年]正月ついに將王武俊が裏切り惟岳は誅された。
・張孝忠は易定・康日知は深趙、王武俊は恒冀を与えられ、幽州朱滔は徳棣を加増された。滔は深州
を望んでいたが、遠隔の徳棣を与えられたことに怒り、王武俊もまた不満であり共に反した。
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河東節度使 その6

2012-01-26 10:45:46 | Weblog
・李克用の率いる沙陀騎兵軍は強くまともに対抗できる勢力はなかったが、河東の兵力は
小さく経済力も低かった。また克用は酒乱であり、経世的な能力はなく、幕僚には恵まれ
なかったため地域的な戦闘では勝利を収めながら、戦略的には押され続けるという状況であった。
・景福元年[892年]克用は義武王處存とともに成徳王鎔・幽州李威を堯山に大破した。
・景福二年[893年]成徳王鎔を再び破ったが、幽州李威の救援があり退いた。
・乾寧元年[894年]3月叛した邢州李存孝を誅し、12月幽州李籌を滅ぼし、
劉仁恭を留後として統治させた。
・乾寧二年昭宗皇帝の依頼により邠寧王行瑜・鳳翔李茂貞を伐ち、行瑜を誅した。
河東・昭義・幽州・河中・義武・成徳が麾下に入り、天平・泰寧も通じ克用の勢力はこの
時期最大となった。
・その後乾寧4年[897年]幽州劉仁恭が裏切って自立し、成徳が朱全忠に付くなど勢力
は衰えていった。
・光化元年[898年]李罕之が裏切って潞州を取り朱全忠についた。光化二年[899年]
これを奪還し孟遷に与えたが、天復元年遷は裏切り全忠についた。しかも女婿河中王珂
が油断を突かれて包囲され全忠に降った。
・天復元年[901年]全忠は鳳翔を攻囲したが、克用はこの背後をつくことが出来なかった。
・天祐三年[906年]全忠將丁會が潞州をもって降ってきたが、全忠の勢力に押されたまま
唐末を迎えることになった。

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河東節度使 その5

2012-01-25 10:31:25 | Weblog
・廣明元年[881年]、黃巢が京師に迫り、北邊では沙陀李國昌・克用父子が反乱していた。
2月混乱の極地にあった河東節度使に宰相鄭従讜は自ら選んだ幕僚と共に赴任した。
従讜は温厚でしかも辣腕であり、牙軍の有力者を撫して登用し、乱者を巧みに排除してまも
なく鎮めることに成功した。
・中和二年[882年]には李克用を帰順させ京師回復に送り込むことに成功した。2
・中和三年[883年]京師回復に大功をあげた李克用は河東節度使に任じられた。
克用はその後潞州を制圧するなど急速に勢力を伸ばした。
・中和四年[884年]克用は深怨のある宣武朱全忠を伐とうとしたが唐朝はこれを止めた。
・光啓元年[885年]河中王重榮を支援して、宦官田令孜が動員した邠寧・鳳翔など唐朝軍を破った。
・龍紀元年[889年]邢州孟方立を攻め、邢州を傘下に収めた。
・大順元年[890年]朱全忠が主唱した討伐軍(宰相張濬の率いる邠寧や華州など唐朝軍や、
幽州・成徳など河北勢、朱全忠)の包囲攻撃を受けたが、唐朝軍を大破し、潞州に入った朱全忠軍を撃退した。
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河東節度使 その4

2012-01-24 10:33:14 | Weblog
・貞元11年[795年]自良が卒し、監軍王定遠の策謀により李説が留後となった。
そのため定遠が専権を極めて軍乱が生じた。
・その後鄭儋-嚴綬-范希朝と精彩のない節度使が続き王鍔に至った。
・元和11年[816年]宰相張弘靖が赴任し、14年[819年]には裴度を始めとして李程・
令狐楚など宰相か、李光顔・李聴・李載義という高位の将軍が任ぜられる要地となっていった。
・しかし會昌年間[841年~]からは格下の武将や文官の赴任地に戻っていった。
會昌2年[842年]劉沔は衰亡して逃避してきた回紇を伐ち一定の功績をあげた。
・會昌3年[843年]からの昭義劉稹討伐では、4年正月に軍乱が起こり節度使李石
が逐われることがあった。
・大中~咸通年間[847年~]には小粒の節度使が短期間で交代することが続き、
牙軍は不満を募らせていった。
・乾符5年[878年]正月には軍乱が起こり、節度使竇澣は解任された。
8月反乱した沙陀を討伐中の新任の曹翔が病死して軍乱が再発。
12月新任の崔季康は沙陀に敗北し、6年正月またも軍乱が起きて殺された。
・乾符6年[879年]赴任してきた李侃は統制できず逃げ帰り、
次の李蔚は到着まもなく死に、次の康傅圭も廣明元年[880年]2月乱殺された。
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河東節度使 その3

2012-01-23 10:50:03 | Weblog
・郭子儀が絳州の乱を鎮定すると、河東の軍乱の黒幕である辛雲京(自立して節度使となっていた)はたちまち
鎮圧者側に寝返った。史朝義征討のため唐朝はそれを認めざるえなかった。
・廣徳元年[763年]副元帥僕固懷恩がようやく河北を平定するが、雲京は宦官勢力とつながり懷恩追い落としに動いた。
・廣徳二年[764年]雲京は使相となり大暦三年[768年]卒するまで唐朝に恭順であった。
・雲京の没後宰相王縉が河東軍を慰撫し一応安定した。
・河東は地理的に河北の軍乱には必ず関与する位置にあるため唐朝は人選に苦慮したが大暦年間は人をえることができなかった。
・大暦10年[775年]の田承嗣の反乱には節度使薛兼訓はたいした働かず、13年[778年]回紇の侵入には節度留後鮑防は敗北し、
14年の馬燧の就任まで低迷していた。
・建中2年[781年]魏博田悦・成徳李惟岳の乱に対して、馬燧は昭義李抱眞とともに活躍し、臨洺で田悦軍を大破した。
・建中3年[782年]には洹水で再び田悦を大破したが、幽州朱滔が叛し、賊の連合軍に連愜山では敗北した。
・燧は興元元年[784年]には副元帥となり河中李懷光の征討にあたり、貞元元年[785年]これを誅した。
・貞元3年[787年]吐蕃主戦派の鳳翔李晟を失脚させ、和約を図ったが、水の會盟で吐蕃が裏切ったためならなかった。
燧はそのため河東節度使を解任され名目的な宰相(司徒)に祭り上げられた。後任は部下の李自良であった。
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河東節度使 その2

2012-01-22 12:40:25 | Weblog
河東・朔方・幽州・河西・隴右・劍南・安西・北庭・平盧等安史の乱以前に
建鎭された諸藩については安史の乱以降を「2」として記載する。
以前の「1」部分は後日まとめて記述する予定です。
・河東節度使は北邊の抑えであり。唐朝の建国の地であると共に鉄製品(武器)の主要な産地という側面
も持っていた。領域は太原遼嵐石汾代忻朔蔚雲九州と広いが山間の地が多く貧寒である。
・天寶10年[751年]より河東節度使は安禄山が幽州・平盧とともに兼任していたが常駐はしていなかった。
・天寶14年[755年]11月禄山が叛し、配下に太原尹楊光翽を襲撃させて殺させた。
・至徳元年[756年]朔方節度使郭子儀は副使李光弼を推薦し河東節度使として太原を守らせた。
禄山は史思明を派遣し攻撃を重ねたが、光弼は守りきり、反って河北へ進入し禄山を脅かした。
・至徳二年[757年]光弼は賊將蔡希を大破して河東への侵攻をあきらめさせた。
・乾元二年[759年]3月光弼は軍紀が厳しく滏水で官軍が潰滅した時も光弼軍は崩れずに撤退を完了した。
・7月敗戦した郭子儀に代わり李光弼が征討副元帥となった。關内潞沁節度使王思禮が河東に転任した。
・王思禮もまた軍紀を統制したために河東軍はよく整備されていたが。上元二年思禮が卒し、
管崇嗣が嗣ぐと急速に緩んだ。
・唐朝は引き締めのために景山(文官)を派遣したが厳酷なだけで軍士は強い不満を抱いた。
・元年[761年]5月絳州で都統李國貞が乱殺されると、河東軍も乱して景山を殺し征討軍は崩壊する危機を招いた。

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邠寧節度使 その5

2012-01-21 15:43:06 | Weblog
・節度使となった王行瑜は増長し、鳳翔李茂貞・華州韓建と結んで唐朝を威嚇し
尚書令など高位を要求した。
・景福二年[893年]三者は京師に乱入し、宰相杜譲能を殺すなど横暴を極めた。
・乾寧二年[895年]7月河東李克用等は行瑜等の非を糾弾し、京師に侵攻してきた。
行瑜軍はたちまちに敗走し、茂貞・建は急遽謝罪した。
・11月敗走した行瑜は殺されて、一時期邠寧は唐朝に回復された。
・乾寧四年[897年]頃、鳳翔李茂貞は邠寧を勢力下に収めて、李繼徽(茂貞の仮子)
を節度使とした。
・天復元年[901年]朱全忠の鳳翔攻囲に際して、繼徽は敗北し全忠に降り、
楊崇本と本名にもどった。
・天祐元年[904年]全忠に妻(人質となっていた)を寝取られたことに怒った崇本は、
茂貞配下に戻り、三年[906年]京師を攻撃したが敗北した。
・その後も邠寧は茂貞勢力下であった。
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邠寧節度使 その4

2012-01-20 17:57:22 | Weblog
・廣明元年[881年]黃巢による京師制圧時に邠寧節度使も混乱し、中和元年[882年]2月將王玫は
巢に味方して邠寧節度使を名乗った。しかし4月には將朱玫が王玫を殺し、唐朝方に復帰した。
・中和二年[883年]朱玫は、2月河南都統諸谷防遏使、6月に京城西北面行營都統となり、
京師回復に貢献し中和三年にはその功績により使相となった。
・中和四年[885年]静難軍節度と賜號された。
・光啓元年[886年]宦官田令孜の命により、河中王重榮を攻めるが、援軍の李克用に敗北して逃げ
帰った。反って光啓二年[887年]朱玫は鳳翔李昌符等と図り、
田令孜とその傀儡僖宗皇帝を逐って嗣襄王を皇帝に擁立した。
・朱玫は將王行瑜に興元の僖宗皇帝を攻撃させた。しかしその専権を李昌符は妬み強調しなくなった。
・田令孜が引退したことによりね河中王重榮や河東李克用も僖宗皇帝を支持したため朱玫は劣勢となった。
・12月興元を攻撃していた將王行瑜は寝返って京師に戻り、朱玫を殺して節度使に任ぜられた。
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邠寧節度使 その3

2012-01-19 19:20:48 | Weblog
・元和二年[807年]西川劉闢の乱を鎮定した高崇文が諸軍都統を兼ねて転任してきた。
邠寧は關内の諸鎭のうちで朔方に代わり最も有力であり、
対吐蕃の前線として常に緊張を求められていた。
・崇文は元和4年[809年]卒した。その後神策系を中心とした武将の赴任先として続く、
閻巨源・李光顔・高霞寓・李聴などがみられる。
・吐蕃の侵攻も元和以降は下火となり、太和年間[827年~]以降は前線としての緊張
感も低下していった。
・大中5年[851年]党項が乱し、宰相白敏中は自ら節度使兼都統として鎮定にあたった。
しかし赴任とともに乱は治まるなど不明瞭な処理で、実際は次の節度使畢諴が寧州に
移治して党項を慰撫することにより収まったようである。
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邠寧節度使 その2

2012-01-18 19:09:16 | Weblog
・大暦14年[779年]郭子儀は太尉となって引退し、朔方・河中・振武・邠寧は配下達に分割された。
邠寧節度使が再置され李懷光が河中とともに統治した。
・建中4年[783年]李懷光配下の韓遊瓌は朱に囲まれた奉天城を救援したが敗北した。
・興元元年[784年]李懷光が叛すると韓遊瓌が節度使となり、征討にしたがった。
・貞元2年[786年]吐蕃が来寇し激戦となった。
・貞元3年[787年]遊瓌の子欽緒が謀叛に連座したが、遊瓌は罪に問われなかった。
・貞元4年[788年]吐蕃の来寇に際して軍の統治が困難となった遊瓌は鎭を棄てて帰京した。
軍乱が起こったが将軍張獻甫は赴任することができた。
・貞元9年[793年]諸軍と協力して鹽州城を築いた。これにより吐蕃の侵入は困難となった。
・貞元12年[796年]獻甫は亡くなり、將楊朝晟が昇格した。宗皇帝時代は節度使の長期留
任と軍の意向による後任決定が続き、唐朝の力は虚弱であった。
・貞元13年[797年]楊朝晟は邠寧軍のみの力で、方渠・合道・木波の三城を築き、吐蕃の
侵攻路を閉鎖した。これにより京師は安泰となった。
・貞元17年[801年]朝晟が亡くなると再び継承の軍乱が起こった。結果として高固が立った。

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邠寧節度使 その1

2012-01-17 21:21:54 | Weblog
・至徳元年[757年]7月安史の乱に際して採訪使を移して慶州に關内節度使が設置されたようである。
前蒲州刺史呂崇賁が初代節度使であるが混乱期であり機能したとは思えない。12月には王思禮に交代した。
・思禮は郭子儀などと共に京師回復につとめ、乾元元年[年]には敵に捕らえられた程千里のあとを嗣い
で潞沁節度使を兼任するようになった。
・乾元二年[759年]思禮は河東節度使に移り、朔方節度使より分離した形で邠寧節度使[邠寧慶鄜坊丹
延原九州]が置かれた。
・上元元年[790年]宦官勢力に敬遠された朔方郭子儀がお飾り的立場で節度使となったが、
邠寧・鄜坊の節度副使達が実務にあたっていた。
・その後短期に臧希譲・張蘊らが交代したが節度使としての実力は乏しく、廣元年[年]には
吐蕃の攻撃をうけて陥落した。
・廣徳二年[764年]安西行軍節度使白孝が邠州に入り吐蕃の攻撃に耐えた。
・大暦元年[766年]同じく安西系の馬璘が節度使となり連年続く吐蕃の侵攻に対する防戦に努めたが、
形勢は極めて不利であった。
・大暦三年[768年]邠寧単独では吐蕃の侵攻を防ぐには力が足りず、馬璘は原節度使を分鎭して移動し、
強力な朔方・河中軍を率いる郭子儀が邠寧慶の三州を管轄して防衛の責任に当たることになった。
邠寧の旧安西軍は貧寒の地である原に移ることは不満で軍乱を起こしたが鎮圧された。
郭子儀は河中に本拠を置き、吐蕃侵攻時には邠州や奉天に進出するという形を取った。
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