・元逵は會昌3年[843年]昭義劉稹征討に北面招討澤潞使として協力した。
・大中9年[855年]元逵は卒し、子の紹鼎が嗣いだ。成徳の牙軍は魏博や
幽州とは違い同一家系の承継を重んじる気風が強かった。
・大中11年[857年]紹鼎は突然死んだ。彼は節制がなくむやみに人を殺傷
したために牙軍から嫌われ軍乱の危機が迫っていた。
弟の紹懿がなんとか継承することができた。
・咸通7年[866年]紹懿は卒し、紹鼎の子景崇が嗣いだ。
・中和2年[882年][3年説もある]景崇は卒し、幼少の鎔(10歳)が嗣いだ。
成徳は長く王家の統治と平和が続き、軍は軟弱化していた。
・光啓元年[885年]幽州李可擧と義武王處存を攻めたが河東李克用の来援に大敗した。
・大順元年[890年]唐朝・宣武朱全忠・幽州李威らと河東李克用を攻めたが戦果はなかった。
・大順2年[891年]克用に攻められ大敗したが、幽州李威に助けられた。
・景福元年[892年]幽州李威と克用を攻めたが堯山に大敗し、克用に従うことになった。
・景福2年[893年]幽州李威が弟籌に逐われてきた。鎔はこれを厚遇したが
威は反って成徳を奪おうとし、牙軍に攻められて殺された。
・光化3年[900年]朱全忠に攻められて敗れ、全忠に従うことを約した。
以降後梁建国までその麾下に入った。
・天祐2年[905年]武順軍と改號した。
・大中9年[855年]元逵は卒し、子の紹鼎が嗣いだ。成徳の牙軍は魏博や
幽州とは違い同一家系の承継を重んじる気風が強かった。
・大中11年[857年]紹鼎は突然死んだ。彼は節制がなくむやみに人を殺傷
したために牙軍から嫌われ軍乱の危機が迫っていた。
弟の紹懿がなんとか継承することができた。
・咸通7年[866年]紹懿は卒し、紹鼎の子景崇が嗣いだ。
・中和2年[882年][3年説もある]景崇は卒し、幼少の鎔(10歳)が嗣いだ。
成徳は長く王家の統治と平和が続き、軍は軟弱化していた。
・光啓元年[885年]幽州李可擧と義武王處存を攻めたが河東李克用の来援に大敗した。
・大順元年[890年]唐朝・宣武朱全忠・幽州李威らと河東李克用を攻めたが戦果はなかった。
・大順2年[891年]克用に攻められ大敗したが、幽州李威に助けられた。
・景福元年[892年]幽州李威と克用を攻めたが堯山に大敗し、克用に従うことになった。
・景福2年[893年]幽州李威が弟籌に逐われてきた。鎔はこれを厚遇したが
威は反って成徳を奪おうとし、牙軍に攻められて殺された。
・光化3年[900年]朱全忠に攻められて敗れ、全忠に従うことを約した。
以降後梁建国までその麾下に入った。
・天祐2年[905年]武順軍と改號した。