大暦7年幽州節度使朱希彩を殺して自立した朱泚は、唐朝に心を寄せ、大暦9年には兵を率いて入朝し、対吐蕃防衛にあたりました。留守は弟滔が守っています。
そして劍南への吐蕃侵攻や涇原兵乱の鎮圧にもあたり、鳳翔隴右節度使を兼任しています。率いてきた幽州兵は各鎭に配置され、神策諸軍にも信望が高かったのです。
ところが弟滔の反乱により兵権を解かれ、太尉として位は高いですが幽閉の状態で鬱々としていたのです。
泚とともに反旗を翻した諸将は
検校司空同平章事李忠臣[宰相として遇されていまが、兵権が欲しくて鬱々としていました]
司農卿段秀實[反乱は本意では無く、泚を殺そうとします]
太僕卿張光晟[回紇を破った功績を認めてもらえず憤懣を抱いていました]
涇原節度使姚令言
涇原のみならず、關内の神策諸軍のかなりが朱泚の蜂起に応じます。
反対に奉天城に逃亡した德宗皇帝には支持が集まりません。
唯一期待した鳳翔節度使張鎰は部下の李楚琳に殺されてしまいます。
德宗は行在都虞候渾瑊とともに奉天城に籠もりますが、朱泚が大軍をもって攻撃し、救援軍も撃破され、落城の危機に瀕します。唐朝は滅亡寸前です。
河北に派遣されていた朔方節度使李懷光・神策節度使李晟は、朱泚の乱を聞きただちに京師に戻ろうとします。義武軍節度使張孝忠・昭義節度使李抱眞・河東節度使馬燧・深趙觀察使康日知が残って朱滔・王武俊・田悦と対峙するのです。滔は南下して河陽・東都を窺いますが、そのためには、張孝忠・康日知をかたづけなければいけません。それに反乱連合も固めなければいけないわけです。
朱滔と李希烈は北南の覇王、田悦・王武俊・李納は王を名乗り、王府を開くことになりました。
李懷光は軍を率いて急行して入關し、危機に瀕した奉天城に迫り、朱泚を魯店に大破します。これにより包囲が解け、泚は京師に引き籠もります。
淮西李希烈は北上し、援軍が来ない永平李勉・哥舒曜を破り、ついに汴州・鄭州を陥します。東都は危機に瀕します。
最悪の時期は脱しましたが、まだまだ危機が続くわけですが、翌興元元年正月にまたまた転機が訪れるのです。
そして劍南への吐蕃侵攻や涇原兵乱の鎮圧にもあたり、鳳翔隴右節度使を兼任しています。率いてきた幽州兵は各鎭に配置され、神策諸軍にも信望が高かったのです。
ところが弟滔の反乱により兵権を解かれ、太尉として位は高いですが幽閉の状態で鬱々としていたのです。
泚とともに反旗を翻した諸将は
検校司空同平章事李忠臣[宰相として遇されていまが、兵権が欲しくて鬱々としていました]
司農卿段秀實[反乱は本意では無く、泚を殺そうとします]
太僕卿張光晟[回紇を破った功績を認めてもらえず憤懣を抱いていました]
涇原節度使姚令言
涇原のみならず、關内の神策諸軍のかなりが朱泚の蜂起に応じます。
反対に奉天城に逃亡した德宗皇帝には支持が集まりません。
唯一期待した鳳翔節度使張鎰は部下の李楚琳に殺されてしまいます。
德宗は行在都虞候渾瑊とともに奉天城に籠もりますが、朱泚が大軍をもって攻撃し、救援軍も撃破され、落城の危機に瀕します。唐朝は滅亡寸前です。
河北に派遣されていた朔方節度使李懷光・神策節度使李晟は、朱泚の乱を聞きただちに京師に戻ろうとします。義武軍節度使張孝忠・昭義節度使李抱眞・河東節度使馬燧・深趙觀察使康日知が残って朱滔・王武俊・田悦と対峙するのです。滔は南下して河陽・東都を窺いますが、そのためには、張孝忠・康日知をかたづけなければいけません。それに反乱連合も固めなければいけないわけです。
朱滔と李希烈は北南の覇王、田悦・王武俊・李納は王を名乗り、王府を開くことになりました。
李懷光は軍を率いて急行して入關し、危機に瀕した奉天城に迫り、朱泚を魯店に大破します。これにより包囲が解け、泚は京師に引き籠もります。
淮西李希烈は北上し、援軍が来ない永平李勉・哥舒曜を破り、ついに汴州・鄭州を陥します。東都は危機に瀕します。
最悪の時期は脱しましたが、まだまだ危機が続くわけですが、翌興元元年正月にまたまた転機が訪れるのです。