唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

代宗前史+寶應元年 西暦762年

2020-03-31 10:01:43 | Weblog
[代宗即位前史]

安史の乱、皇太子[肅宗]は玄宗と別れ西北に奔り、朔方節度使に拠り擁立されて即位した。廣平王俶は、弟建寧王倓[後に讒言により殺される]よりは能力的に劣っていたが、肅宗の長子であるので天下兵馬元帥として郭子儀等に奉ぜられて乱の平定に貢献した。

優柔不断な肅宗は、強気な妃張氏[後に皇后]と、暗躍する宦官李輔國の間を浮動しながら統治していたが、張皇后の子が幼いため、俶を乾元元年[西暦758年]五月皇太子に立てた、しかしその地位は不安定なものであった。

上元元年[760年]六月、張皇后の子興王が亡くなりやっと太子の地位が定まった。

寶應元年[762年]建巳月玄宗上皇と肅宗皇帝が揃って重病になり、張皇后と李輔國は権力を争って陰謀を巡らした。張皇后は太子を自派に入れようとしたが失敗し、当時の天下兵馬元帥趙王係を擁立しようとした。輔國は程元振とともに太子を擁して先手をうち、皇后と係を殺し太子を即位させた。

寶應元年 西暦762年
建巳月甲寅,玄宗崩于神龍殿,年七十八。
丁卯,肅宗上崩。李輔國等殺皇后、趙王係、兗王僴。
己巳,代宗即位。
宦官に擁立された最初の唐皇帝である。

建巳月甲戌,皇子奉節王适為天下兵馬元帥。
輔國は元帥府司馬となり軍權を掌握し、郭子儀の軍權を解いた。郭子儀は河中において起きた軍乱を鎮圧中であった。
輔國は恃功益橫で、代宗に対して「あなたは宮中で安居していればよい、政治は私がする」と言い放った。さすがに代宗は不服であったが、軍權は輔國にあり当面は委任するしかなかった。

五月庚辰,郭子儀は河中の乱を収拾した。河東で自立した辛雲京も子儀に従い乱人を誅殺した[乱をそそのかしたのは雲京の疑いが強いが]

五月壬午,以李輔國為司空兼中書令。
宦官が宰相となる始例である[というより唯一である。後の専権を極めた宦官達も宰相にはならなかった]

五月甲申,平盧節度使侯希逸為平盧青淄等六州節度使
平盧軍は本来遼東半島にあったが、幽州節度安禄山の反乱に同調せず戦った。しかし孤立したため軍民を引き連れて渤海彎を渡り、山東半島へ移動し淄青節度使に拠ったことに由来する。

五月壬辰,貶禮部尚書蕭華為峽州司馬。
李輔國に同調しない蕭華を宰相から解任し、さらに貶した。

山東來瑱は淮西十六州節度への転任を告げられたが,荒れ果てた淮西に行くことを拒否した。代宗は反乱を懼れて、瑱を山東節度使に戻した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Googleドライブにアップしました。

2020-03-30 04:21:46 | Weblog
今までの 德宗、順宗・憲宗、宣宗史を
Googlドライブに、PDF形式でデータをアップロードしました。
德宗史
順宗憲宗史
宣宗史

リンクをクリックするとPDFが開きます。

次回からは 代宗史 をと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十八~二十一年 西暦802~5年

2020-03-29 10:00:30 | Weblog
正月,韋皐は吐蕃を維州で大破した。雲南蠻との連携も強化され、西川方面からの侵攻はできなくなった。

十月己酉,鄜坊節度使王棲曜薨。將何朝宗謀作亂,裴玢が鎮定。
德宗の姑息策により、軍士は横暴となり、京師近郊の小鎭鄜坊でさえ順当な継承が困難となった。

貞元十九年 西暦803年
-------------------------------
二月己亥,安南牙將王季元逐其觀察使裴泰。
安南[北ベトナム]でも無能な統帥になるとすぐ軍乱が起きた[前帥趙昌は有能で長期留任していた]

三月壬子朔,淮南節度使杜佑が相となる。
行政官としてはそれなりに有能だが、経綸はない。

七月己未,宰相齊抗が疾辭した。
九月丁巳,宰相崔損薨。
十二月庚申,高郢,鄭珣瑜が宰相となった。
德宗末期はすべてが停滞し、姑息な政治が続き、改革を望む少壮官僚達は切歯扼腕し、皇太子[順宗]の時代が来るのを期待していた。
登用された新宰相達は德宗ごのみの凡庸な人材であった。

貞元二十年 西暦804年
-------------------------------
九月太子始得風疾,不能言。
期待されていた皇太子[順宗]が重病となってしまった。父の德宗は当時としては高齢の63歳であり、やはり体調は悪かった。

貞元二十一年 西暦805年
-------------------------------
正月癸巳,德宗皇帝崩于會寧殿,年六十四。
皇太子の病を心配しながら德宗は崩御した。本来は問題の無い継承だが、太子は起き上がることもできず宦官・百官は動揺した。

[德宗とは]
・即位当初は改革・権力の強化をめざしていたが、奉天の乱以降は意欲を失い、ただ表面をごまかす治政に終始した。
・教養は高く、文雅の才のない臣下を軽んじた。
・プライドは極めて高く、執念深い性格で恨みはわすれない。
・信用した臣下は問題があろうと、佞臣とわかってもとことん信用する。
・奉天の乱以降、武臣を信用せず、宦官にのみ信を置き、その専権を招いた。
・極めて吝嗇で、皇帝個人の財産を貯め込む[地方官より進奉という寄付を受ける]
・後半は河北藩鎭は互いに抗争して反唐朝の姿勢はなかった。
・回鶻・雲南蠻と同盟し、吐蕃の侵攻をくい止めた。
・藩鎭は自立傾向が強くなり、唐朝が実質支配する領域は狭いものであった。
 自立[幽州.成徳.魏博.義武.横海.淄青.徐州.宣武.西川]

 全体として非常な暗君だが、暴虐ではないため位を維持できた。また姑息な政治により後半は
 戦乱が少なく唐朝の国力は回復傾向になったと言える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十六~十七年 西暦800~1年

2020-03-28 10:02:19 | Weblog
正月乙巳,夏綏節度使韓全義を淮西征討使とする。
統制がとれず敗北する淮西征討の主帥として、神策軍出身名で、宦官竇文場の強い推薦を得た全義が選ばれた。しかし彼は信望も軍略も無い政治的将軍の上に、宦官達に忖度した優柔不断な人物であった。

五月庚戌,韓全義、呉少誠軍に廣利原で大敗。
無能なうえ、宦官に作戦を左右されていた全義は、勇猛な淮西軍の敵では無かった。

五月辛亥、徐泗濠節度使張建封卒、後任韋夏卿入れず、子の愔が自立。
建封はよく統治し、徐州軍を強化した。病となり後任を求め、文官夏卿が行軍司馬となったが、軍士の対応を誤り軍乱が起き、乱軍は建封の子愔を立てた。
唐朝は文官淮南節度使杜佑に徐泗濠を兼任させたが、結局強力な徐州軍に勝てず、愔を徐州留後として、泗濠二州を切り離すことしかできなかった。

七月、韓全義は淮西軍に五樓でまた大敗し征討軍は潰乱した。

七月庚戌、宰相鄭餘慶が德宗に朋党と猜疑され免ぜられた。

十月、呉少誠は陳州攻撃には失敗し蔡州に還った。
戦闘には次々と勝利したが、申光蔡三州の経済力では継続はできず、少誠は優勢な間に事を収めようとした。宦官達は自分たちの責任問題になることを懼れて事態を収めようとした。

貞元十七年 西暦801年
-------------------------------
正月、甲寅,韓全義至長安。
全義は逃げ帰り、さすがに恥じて病気と称して拝謁しなかった。宦官竇文場達が事態をごまかし処罰されなかった。愚かな德宗は実態を知らず[自尊心から知らなかったことにしたのかも]、全義には淮西が帰服した功績があるとした。唐朝の完敗である。

五月乙酉,邠寧慶節度使楊朝晟が卒し、唐朝は李朝寀を後任としたが、軍士は受けず、自分たちの推挽した高固を就任させた。

六月丁巳,成德節度使王武俊薨。子士眞が継承。
唐朝には成徳に関与する力はないうえに、士眞は徳棣觀察使も歴任した実力者なので自動昇格。

十月庚子,西川韋皋檢校司徒兼中書令,賜爵南康王。
文官出身であったが韋皐は西川節度使として対吐蕃に功績が大きく、雲南蠻とも連携し、半独立の態勢であった。姑息な德宗としては褒賞を与えて慰撫するしかなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十三~十五年 西暦797~99年

2020-03-27 10:06:20 | Weblog
三月、築方渠、合道、木波三城
鹽州城ができて吐蕃の不意の入寇はなくなったが、まだ京師は安全ではなかった。そのため德宗は三城を築城し確実な防衛線を構築しようとした。德宗は邠寧節度使楊朝晟に必要な軍は何万いるかを尋ねた。朝晟は自軍だけで十分と回答した。驚愕した德宗は「鹽州築城には七万を動員した。三城はさらに敵地に近いのだぞ」と問うた。朝晟は「吐蕃は前回に懲りて大軍を動員するはずです。動員している間に築城は完成します。城ができたら簡単には攻撃できません。三城の周囲には大軍を維持する草も水もありません。すぐにあきらめるでしょう」と回答した。言葉どうり朝晟は自軍だけで築城し、吐蕃は来襲したがどうすることもできず諦めた。以降、京師は安全になった。

九月己丑,宰相盧邁が疾により辞した。

貞元十四年 西暦798年
-------------------------------
七月壬申,趙宗儒から鄭餘慶に宰相が代わった。

九月、淮西呉少誠が壽州霍山を侵した。
自立後力をつけてきた少誠は、豊かな周辺部に勢力を広げようとした。ただ山東于頔は武略があり困難なので弱い淮南方面を攻めた。

貞元十五年 西暦799年
-------------------------------
二月丁丑,宣武節度使董晉薨。軍乱殺行軍司馬陸長源。宋州刺史劉全諒が自立。
董晉は横暴な牙軍に柔軟な姿勢で対処してきたが、後任の長源は厳正に取り締まろうとしたために軍乱が起きた。全諒[平盧節度使正臣の子]は乱をそそのかした黒幕である。

三月甲寅,呉少誠遣兵襲唐州。
八月乙未,少誠遣兵掠臨穎
九月丙午,少誠遂圍許州。
淮西軍は侵攻を開始し、特に節度使曲環が亡くなった後の陳許忠武軍を制圧しようとした。

九月庚戌,宣武節度使劉全諒薨。劉玄佐の甥都知兵馬使韓弘が自立。
全諒は淮西少誠と通じ、許州を得ようとしていたが、弘は同ぜず少誠を攻撃した。

十月、山東于頔、安黄伊慎、壽州王宗、陳許上官兌、宣武韓弘が淮西を征討ししばしば破った。
と正史には記載されているが、まともな勝利はない。戦費をかせぐために動いているようにみせかけているだけである。

十二月辛未,渾瑊が河中で卒した。
謹慎小心な瑊は常に德宗のご機嫌を伺い、猜疑を招かないようにしていた。

十二月乙未,諸軍自潰于小殷水,委棄器械、資糧,皆少誠所有。
主将もなくバラバラに征討していた唐朝軍は、淮西軍の反撃にあうと簡単に崩壊し逃走した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元十一~十二年 西暦795~6年

2020-03-26 10:03:22 | Weblog
四月壬戌,陸贄の与党を左遷した。
德宗は猜疑心強く、また執念深いので貶した臣下を赦すと言うことはなかった。また寵愛した臣下は、他から批判されてもあくまで贔屓にするという悪癖もあり、どちらかというと暗君である。ただ文化的教養は高かった。この場合の愛臣は裴延齢である。

四月丙寅,奚寇平州,幽州節度劉濟敗之於青都山。
東北面の防衛は完全に幽州節度任せである。

五月甲申,河東節度使李自良薨。行軍司馬李說為留後。
唐朝管轄下でも有力な節度使が死ぬと、軍乱を懼れて、中央から任命するのではなく、牙軍の状況を配慮して、通常事前に送り込まれたナンバー2の行軍司馬が昇格するという姑息策が通例になっていた。

七月、河東監軍王定遠乱死。
河東軍政は実質宦官の定遠が握っていた。ところが定遠が私怒によって大將を殺したことを咎めた節度使說を追い出そうとして、將士に支持されず失敗したものである。

八月辛亥,侍中馬燧薨。

九月,橫海軍兵馬使程懷信逐節度使懷直,自稱留後。
懷直は唐朝にすり寄っていたが、士卒には厳しかったので、従父兄懷信に追われて京師に奔った。

貞元十二年 西暦796年
-------------------------------
正月、成德王武俊、河中渾瑊をはじめとして、全土の節度使達の検校官を昇進させる。
単なる姑息なご機嫌とりである。使相も乱発した。

四月庚午,魏博節度使田緒卒,子季安自稱留後。
緒が若くして卒したが、妻は嘉誠公主であり、季安はその養子であるので継承は自動的である。

六月乙丑,竇文場、霍仙鳴が左右神策護軍中尉に。
宦官による神策軍の掌握である。この德宗の大失策によりやがて兵権は皇帝から宦官に移行し唐朝の弱体化が始まる。猜疑心の強い德宗が自分に近い宦官に頼ったためである。德宗はやはり愚帝である。

六月己丑,宣武軍節度使李萬榮卒,子乃自稱兵馬使,伏誅。
宣武軍における萬榮の基盤は弱く、子の乃もまた人望がなかった。そのため諸将は動揺し、いち早く東都留守董晉が乗り込んできたため乃の自立は失敗した。老獪な晉は硬軟使い分けて慰撫したので、その死までは一応抑えることができた。

八月丙戌,趙憬薨。賈耽も引き籠もる。
十月甲戌,崔損、趙宗儒が宰相になる。
単なる宰相の補充である、裴延齢の推薦による。

九月甲午,以李景略為豐州都防御使。
河東行軍司馬の景略は人望があり、回鶻の使臣に対しても抑えが効いたため、河東李說が地位を追われることを懼れて分立させた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元九~十年 西暦793~4年

2020-03-25 10:00:23 | Weblog
二月,鹽州城を再築。
二年鹽州城が落ち、城が破壊されて後、吐蕃は朔方と京師を分断し、深く侵入できる
ようになっていた。そこで兵三萬五千人を派遣して鹽州に城を築こうとした。当然吐
蕃も大軍を派して牽制する。唐朝は涇原、山西、劍南軍を吐蕃領域に侵攻させこちら
も牽制した。二十日間にして築城は成功し、杜彥光を駐屯させる事に成功し、吐蕃は
安易に侵攻できなくなった。

五月甲辰,董晉が免ぜられ、賈耽と盧邁が宰相となる。
趙憬は陸贄が専権を振るうのに嫌になり出仕しなくなった。耽と邁は凡才である。

七月、韋皐の誘いにより、劍南西部の蕃族西山八國が入朝し、雲南蠻も来附したため、
対吐蕃では劍南では唐朝が優勢となっていった。

八月庚戌,太尉李晟薨。

十二月丙辰,宣武軍將李萬榮逐其節度使劉士寧,自稱留後。
士寧は父玄佐とは違い淫亂殘忍で士卒の人気がなかった。狩猟に城外へ出た所を
萬榮に閉め出され京師に亡命するしかなかった。

貞元十年 西暦794年
---------------------------
正月壬辰,南詔蠻敗吐蕃於神川,來獻捷。
終に雲南蠻は公然と吐蕃に反旗を翻し吐蕃を神川に大破した。

二月、橫海節度使程懷直入朝,厚賜遣歸。
河北三鎭と淄青は互いに攻伐、内戦を行い、対唐朝には向かわない状況であった。
弱小の滄景程懷直は抜け駆けに入朝し実利を得ることにした。

六月壬寅朔,昭義節度使李抱真薨。子緘が自立を図る。
唐朝は急遽、將士に人望がある将王虔休を後任に任命し、緘は成德王武俊の後援
を求めたが拒否され諦めた。しかし同僚の将元誼は不満で東部で自立を図り内戦
が続いた。唐朝は継承こそ阻止はしたが、内部昇格で諦めるしかなかった。

十二月壬戌,宰相陸贄罷為太子賓客。
姑息頑迷な德宗はことある毎に献策と諫争する贄が嫌になり罷免した。この後の
宰相達は德宗のいいなりであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元七~八年 西暦791~2年

2020-03-24 10:00:33 | Weblog
二月戊戌,涇原節度使劉昌築平涼故城,朝谷堡。
涇原節度使が吐蕃の侵攻に耐えられるようになった。

二月癸未,易定節度使張孝忠薨。
記載されていないが子茂昭が自動的に継承。一貫して唐朝方だった孝忠への配慮。

四月,群蠻酋長杜英翰等起兵圍都護府,都護高正平以憂死。群蠻聞之皆降。
新唐書では「安南首領杜英翰反,伏誅」と書いてあるが、実際は正平の暴政に対
する蜂起で、正平の死で自然に収拾されたとみられる。

八月丙午,翰林學士陸贄為兵部侍郎,餘職皆解。
宰相竇參惡と翰林院を基盤とする贄との対立が激化し、参が贄を翰林追い出した
もの。このころから翰林院の地位が上昇し、次期宰相を出す場所となっていった。

九月回鶻遣使來獻俘。
吐蕃が靈州を攻めたが、回鶻[回紇の改称]が破った。唐-回鶻同盟の実があがってきた。

貞元八年 西暦792年
---------------------------
三月丁丑,山南東道節度使曹成王皋薨。
留後李實は酷薄なため皋の没後軍乱が起こった[皋は麾下に信望があったため、
その家は掠奪されなかった]。都將徐誠がなんとか収拾した。

三月甲申,宣武軍節度使劉玄佐卒,子士寧が自立。
玄佐没後、唐朝は將士への対応を誤り、派遣した吳湊が入部できず、士寧の自立
を追認することになった。

四月,乙未,貶宰相竇參為郴州別駕。趙憬、陸贄が宰相に任用。
泌の死後、専権を振るった参を德宗は嫌って失脚させた。代わって翰林院派の
陸贄・趙憬が宰相に。陸贄が執政である。

五月癸酉,淄青平盧節度使李納薨。軍中推其子師古知留後。
唐朝は淄青に手を出すことはできず、ただ追認するのみ。

九月丁巳,韋皋及吐蕃戰於維州,敗之。
吐蕃と雲南蠻は不和となり、側面が安全となった韋皐は吐蕃を圧迫していった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元五~六年 西暦789~790年

2020-03-23 10:00:42 | Weblog
二月戊戌,橫海留後程懷直は景城県を景州として唐朝から刺史を任命を受けた。
懷直が管轄の滄州だけでは節度使になれないためにとった策である。やがて横
海軍節度使となった。

二月庚子,董晉・竇參が宰相となる。
李泌は重病となり、後任に温和な晉と、辣腕な参を推薦した。執政は参が主導
である。

三月甲辰,宰相李泌薨。
老練な泌は押したり引いたりして頑迷な德宗をうまく操作してきた。以降の宰
相は德宗と衝突するか頤使されるかであった。

九月丙午,劍南西川節度使韋皋敗吐蕃於台登北穀,克巂州。
韋皐は西蠻と結び、雲南蠻が吐蕃を支援しない態勢をつくって巂州を回復した。

十月,嶺南節度使李復克瓊州。
乾封[666~7]に失われていた瓊州[海南島]を回復したわけである。

貞元六年 西暦790年
---------------------------
成德王武俊と魏博田緒・淄青李納が領域をもって互いに戦い、唐朝は調停する
立場になった。

五月,吐蕃陷北庭都護府,節度使楊襲古奔於西州。
唐北庭節度使と連携していた回紇軍が吐蕃に敗北して北庭が落ちた。回紇国内
では可汗が殺されるなど混乱が続いていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元四年 西暦788年

2020-03-22 10:01:55 | Weblog
正月壬申,劉玄佐為四鎮北庭行營、涇原節度副元帥。
生前韓滉は対吐蕃防衛の総帥として玄佐を推薦し、本人もやる気であった。
しかし滉が卒し、李晟に対する德宗の態度をみた玄佐は自らは動こうとしな
かった。部下の劉昌を涇原節度使とし。鎮國節度使李元諒が隴右節度使とな
り防衛線は固められた。

◎この歳、京師付近に地震が頻発し民情が動揺した。

四月己亥,福建軍亂,逐其觀察使吳詵,大將郝誡溢自稱留後。
吳詵は李晟の旧部下である。郝誡溢は事態を抑えただけで自立したわけでは
ない。老練な吳湊が派遣され収拾した。

五月,吐蕃寇涇、邠、寧、慶、鄜五州。
吐蕃は季節違いに深く侵入し、防衛軍の準備がない地方の人畜を掠奪した。

七月庚戌,渾瑊為邠寧慶副元帥。
劉玄佐は動かないため、軍略は平凡だが忠誠な渾瑊を吐蕃防衛の総帥とした。

七月癸丑,寧州軍亂,邠寧都虞候楊朝晟敗之。
邠寧節度使韓游瓌は、人望がない上に、子供の謀叛が祟ってすっかり権威を
落としたため交代を望んでいた。德宗は張獻甫を後任としたが、軍士は范希朝
を求めて騒動を起こした。都虞侯楊朝晟がそれを収拾し、獻甫を節度使、希朝
を副兼寧州刺史で収めた。邠寧軍は朔方軍後継の吐蕃防衛の重要拠点であり、
強力な軍が置かれていたが非常に扱いにくかった。

九月庚申,吐蕃寇寧州,邠寧節度使張獻甫敗之。
吐蕃は邠寧の騒動を知って侵攻したが撃退され、鄜坊を寇掠して去った。

十月、回紇との外交が成立し、咸安公主が可汗に嫁いだ。

十月、吐蕃は唐と回紇の連携を知り、雲南蠻を動員して西川に侵攻した、
しかし雲南蠻は密かに唐に通じて動かなかったた。吐蕃の侵攻軍は成果な
く撃退された。吐蕃と雲南蠻は険悪な関係となった。

十一月、李泌は淄青から唐に帰属した徐州の重要性を説き、壽州防衛で
功績をあげた張建封を節度使とし、濠泗二州を付けて軍の財政基盤とした。
これにより江南からの漕運は安全になった。しかし強力な徐州軍はのち
のち問題を引き起こすことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元三年 西暦787年 2

2020-03-21 10:02:40 | Weblog
閏月辛未,渾瑊及吐蕃盟於平涼,吐蕃違約、執殺會盟副使崔漢衡等。
德宗は宰相達を前に、「本日は吐蕃との和約が成立する目出度い日だ」と言い、
張延賞・馬燧は賛同したが、柳渾や李晟は不安を述べ、德宗は激怒した。
夕刻、現地より吐蕃が違約し、正使渾瑊等を捕らえようとし、瑊はかろうじて逃
れたが、多くが殺傷されたという報告入り、驚愕狼狽した德宗は京師を捨てて逃
げようとして諫止された。吐蕃の違約の原因はよくわからない。

六月丙戌,馬燧を司徒兼侍中とし罷副元帥節度使。
吐蕃との和約破綻の責任を取らされ軍權を解除された。

六月丙戌,陝虢觀察使李泌を宰相とする。
宰相張延賞の権威も失墜し、德宗は古くからの謀臣泌にたよるしかなくなった。
泌は功臣[晟や燧など]を猜疑するな、削減した地方官を復せ、屯田を始めろと
献策し認められた。これにより動揺が治まっていった。

七月壬申,宰相張延賞薨。
政策を否定され、対吐蕃策の失敗を恥じて憂死[自殺]した。

八月己丑,宰相柳渾を免ずる。
自尊心の強い德宗は、渾が失策や欠点をずけずけと批判するので嫌っていた。
卑官[王府長史]に左遷しようとしたが、泌に宰相を遇する道ではないと諫め
られ、散騎常侍に遷した。

八月、廃太子の議を李泌が諫める。
皇太子[後の順宗]の妻の母郜國大長公主[夫は名門貴族蕭升]は淫乱で、
多くの男を引き込んで乱行を重ねていると噂されていた。生真面目な德宗も
これを聞き激怒し、ついには皇太子をも疑い廃して、舒王を立てようとした。
泌は德宗の威嚇に関わらず、強諫して再調査させて太子の無罪を認めさせた。

八月、吐蕃寇青石嶺,九月寇汧陽。陷華亭及連雲堡。十月寇豐義。寇長武城。
吐蕃は外郭防衛線が崩壊した京師近郊まで深く侵攻を続けた。

九月、回紇合骨咄祿可汗屢求和親,且請婚。許以咸安公主妻可汗。
回紇と不和である現状では吐蕃防衛は困難であったが、德宗は前述のように
回紇を恨み、回紇も唐朝に対等の関係を求め、朱滔とともに侵攻するなど敵
対的な状況が続いていた。しかし李泌は德宗に和親の必要性を強く説き、回
紇も唐朝と対立していては財政的に困難であったので、親子関係で良いと妥
協が成立した。これにより吐蕃の侵攻を抑止することが可能になってきた。

十月壬辰,射生將韓欽緒[邠寧節度使游瓌の子]謀反,伏誅。
乱主は僧李軟奴であるが、身分としては欽緒が高いのでかく記載。背景はよ
くわからない。游瓌は功臣であり、功臣達の粛清が始まるのではないかと動
揺が広がり、李泌は深い追及をさせなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元三年 西暦787年 1

2020-03-20 10:00:55 | Weblog
正月壬寅,張延賞が再度宰相となる。
 延賞は李晟との不和により解任されたとはいえ德宗の信任は厚かった。
 そのため心配した韓滉が両者を調停し、表面上和解させが、延賞には含
 むところがあった。

正月壬子,宰相劉滋・齊映を解任。柳渾を補充した。
 延賞が邪魔な先任宰相を排除した。渾は韓滉の推薦。

二月戊寅,韓滉が薨。
 乱時、唐朝を財政的に支え、巨大な権限を持っていた滉が卒した。滉の
 権限は分割され、政治は延賞が主役となった。

二月己卯,華州潼關節度使駱元光克鹽、夏二州。
 吐蕃は二州を取ったものの補給ができず放棄した。
 それを回収しただけである。

三月丁未,李晟為太尉。辛亥,馬燧罷副元帥。
 德宗は回紇に昔年の恨み[太子時代に回紇に臣下の儀礼を強いられ、側近
 を殺された]があり、回紇と対抗するため吐蕃と結ぼうとした。延賞や馬
 燧はそれを支持し、李晟や韓滉・柳渾は吐蕃は信用できないと反対した。
 ところが滉の死により、延賞の勢力が強くなり、晟の兵権を解いて、名誉
 職の太尉に祭り上げた。晟に対するこの德宗の処置に、劉玄佐や李抱眞な
 どの軍人達は大きな不信を抱いた。

吐蕃の宰相尚結贊は、講和を提案し、副元帥渾瑊を唐朝の代表に求めた。

五月、反唐朝姿勢の淮西呉少誠に対する陰謀があったが鎮圧された。

閏五月己未,韋皋復東蠻和義王苴那時書,使雲南。
 西川韋皐は対吐蕃策のため、雲南蠻と結ぼうと画策していた。

閏五月庚申,大省州、縣官員,收其祿以給戰士。
 延賞は財政再建のため、地方官の大幅整理を開始した。戦乱の功績に
 より与えられた官職を召し上げられた官員が大きな憤懣を持った。

そして淸水で唐と吐蕃の會盟が行われることとなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元二年 西暦786年

2020-03-19 10:05:44 | Weblog
正月壬寅,宰相盧翰罷。劉滋・崔造・齊映が宰相となる。
 手薄となった宰相の補充である。中でも崔造が首班であり、元琇を使って財政の立て
 直しに力を入れた。しかし浙江節度韓滉とは対立し実効がなかなかあがらなかった。

二月癸亥,山南東道節度使樊澤及李希烈戰於泌河,敗之。四月丙寅,希烈伏誅。
 淮西軍の山東節度への侵攻は澤により撃退され、全戦線で守勢に回った。
 あい続く敗戦に落胆した希烈は病気となり、将陳仙奇に毒殺され、一族は族滅され
 た。仙奇はその功績により淮西節度使となった。

四月、戦乱がほぼ治まったとはいえ、京師近辺は飢えて軍糧も乏しく、德宗は軍の再度
 の反乱を懼れていた。韓滉が送った数万石の米の到着の報せに皇帝以下が歓喜する状
 況であった。六月頃に麦が収穫でき、やっと状況が落ち着いてきた。

六月癸未,滄州刺史程日華卒,其子懷直自稱觀察留後。
 義武軍[張孝忠]の領域は易定滄三州であったが、遠隔地の滄州には手が回らず、
 守將程日華が自立してしまった。唐朝は諸鎭の分立を望んだのでそれを追認し、
 孝忠には滄州分の税を与えることで納得させた。自立した日華は子に継承させた
 わけである。唐朝はまた追認するしかなかった。

六月,淮西兵馬使吳少誠殺節度使陳仙奇,自立。
 希烈の恩顧受けていた少誠は、唐朝にすり寄る仙奇を殺害し自立した。唐朝にはその
 領域を申光蔡三州に限定する程度しかできなかった。少誠は不満ではあったが当面は
 それでよしとした。

八月丙戌,吐蕃寇邠寧涇隴四州。
 当初吐蕃は唐朝を支援していたが、その弱体化を実際に見て北邊を奪おうとした。

八月癸未,義成軍節度使李澄薨,子克寧が自立しようとした。
 希烈より帰順した澄が卒し、子が継承しようとした。唐朝方の宣武劉玄佐が威嚇し、
 急いで老練な東都留守賈耽が送り込まれ將士を慰撫し回収に成功した。

十一月、浙江節度使韓滉が入朝した。
 韓滉は莫大な貨財を携え、入朝していなかった宣武節度使劉玄佐[洽が賜名]や曲
 環を引き連れており、德宗は大いに喜んだ。滉は財政運営に自信があり、その実績
 もから。崔造や元琇の政策を糾弾した。

十一月辛丑,吐蕃陷鹽州。十二月丁巳,陥夏州。
 吐蕃は二州を制圧し、そこに拠点を設け、いつでも京師に侵攻できる体制を作った。

十二月庚申,宰相崔造罷。
韓滉の批判により造は罷免され、まもなく失意のうちに卒した。その配下はすべて
 左遷された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元元年 西暦785年 2

2020-03-18 10:00:48 | Weblog
八月,馬燧至行營,攻長春宮
 河中を守る長春宮は堅城ですが、守將徐庭光以下は戦意はなく、ただ懷光への義理
 だけで降りませんでした。燧は敵対しないことを誓わせます。

八月甲戌,李懷光が伏誅。
 懷光は麾下に戦意がないことを知り妻子と共に自殺しました。渾瑊は残軍を収容し
 自軍に組み入れました。

八月,宰相張延賞解任。
 延賞は李晟に私的に怨まれていて、宰相となるや晟は盛んに中傷しました。德宗は
 功臣晟をはばかって解任しました。

九月辛亥,宰相劉從一罷。
 疾辭です。まもなく卒します。

九月庚申,幽州盧龍軍節度使劉怦卒,子濟が自立。
 単なる病死です。継承は自動的でした。

[貞元元年末の状況]
・李懷光の河中領域は渾瑊と馬燧に与えられ、燧は同晉慈隰の四州を康日知[深趙觀
 察使から]に譲りました。渾瑊は河中絳州と旧朔方軍主力を引き継ぎました。
・李晟は李楚琳[無事に金吾大将軍へ]が返納した鳳翔節度に入り、涇原田希鑒の罪
 を問うてを誅殺しました。
・隴州で朱泚に抗した韋皐は金吾大将軍を経て、張延賞の後の西川節度使へ栄転しま
 した。
・同じく華州を守った李元諒はそこで節度使となりました。
・河北では幽州[劉]・成德[王武俊]・魏博[田]・淄青[李]の四家が自立して
 います。深趙徳棣は朱滔を破った王武俊に引き渡されました。
・淮西李希烈は敗戦のため蔡州に逼塞し、南方から曹王皋に攻められています。
・唐朝はすっかり疲弊して、浙江韓滉や淮南の貨財をしきりに求めてます。戦役を続
 ける意志も能力もありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞元元年 西暦785年 1

2020-03-17 10:00:09 | Weblog
正月丁酉,大赦,改元。
 混乱が続いて不吉な年号「興元」は1年だけで「貞元」と改元した。

正月、新州司馬盧杞を吉州長史に移し、さらに饒州刺史に任用しようとした。
 德宗は頑迷でプライドが高く、この時点においても佞臣盧杞を信任していた。
 群臣は揃って任用不可を説き、德宗はしぶしぶ澧州別駕[刺史・長史に次ぐ
 が権限なし]とした。杞はまもなく卒して群臣は安堵した[殺されたのかも
 しれない]。

三月,李懷光殺步軍兵馬使田仙浩、都戰候呂嗚岳。
 李懷光麾下は次々に唐朝に復帰しようとし陰謀をめぐらし、この場合は失敗
 した。しかし渾瑊・馬燧軍は河中に迫り、戦意のない懷光軍は敗北を重ねた。

五月、渾瑊麾下の邠寧韓遊瓌が朝邑を攻めた。懷光麾下の閻晏は迎撃しようとし
 たが、対戦相手に親子・親族を見つけた兵士達は戦おうとせず撤退した。

六月己丑,幽州朱滔卒,劉怦自稱留後。
 失意の滔は病となり、親将怦が自立した。疲弊した唐朝は追認するだけであった。

六月辛卯,西川節度使張延賞を宰相とする。
 有能な文官で名門[開元の宰相嘉貞の子]である延賞は、梁州に避難した德宗
 に豊富な貢献をし信任を得た。しかし京師回復の功臣李晟とは諍いがあった。

七月、陝虢将達奚抱暉鴆が乱し節度使張勸を殺し自立した。
 せっかく汴州が取り戻され、江淮からの漕運が通じるようになったが、途中の
 陝虢で軍乱が起きてしまった。陝虢自体は小鎭だが重要な拠点である。また懷
 光と通じる場所でもあり唐朝は動揺した。
 德宗の謀臣李泌は自ら觀察使として赴任し、抱暉の罪を問うことなく逃がし、
 平和的に鎮静化してことを納めた。德宗は不満であったが追認した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする