唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天復二~三年 西暦902~3年

2020-08-31 10:00:59 | Weblog
天復二年 西暦902年
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昭宗は宦官・茂貞に拉致されて鳳翔城にいて、茂貞軍は劣勢で全忠軍が包囲しています。

二月、王建陷利州,昭武軍節度使李繼忠奔於鳳翔。
建は全忠に附き、背後から茂貞を攻撃します。建は常に火事場泥棒的な行動をします。

三月癸丑,朱全忠陷汾州。陷慈、隰二州。丁卯,李克用陷汾、慈、隰三州。
克用は全忠の背後を襲おうとしますが、全忠軍に大敗し本拠地太原まで侵攻されてしまいます。克用は太原を棄てて逃げようとしますが、周囲に止められなんとか踏み止まります。全忠軍もあまりに深く入りすぎたため退却します。しかし克用はすっかり意気消沈してしまいました。

五月丙午,李茂貞及朱全忠戰於武功,敗績。朱全忠陷鳳州。七月甲辰,陷成州。乙巳,陷隴州。
九月戊申,李茂貞及朱全忠戰于槐林,敗績。
全忠は茂貞軍を次々と破り、属州をとって鳳翔を孤立させていきます。

八月辛丑,王建陷興元,山南西道節度使李繼密、武定軍節度使拓拔思恭叛附于王建。王建陷興州。
建も共同して茂貞を締め上げます。繼密は茂貞の子です。

十一月癸卯,保大軍節度使李茂勳以兵援鳳翔。全忠軍陷鄜州,李茂勳叛附于全忠。
最後の頼みの綱の茂勲も全忠に降りました。
鳳翔は周囲との連絡を絶たれて飢餓状態となりました。

天復三年 その1  西暦903年
正月丙午,平盧軍節度使王師範取兗州。
突然、淄青節度師範が全忠を各所で攻撃し、將劉鄂は兗州を取りました。それに驚愕したのと鳳翔を包囲していた全忠軍も冬季の困難な戦いの継続は苦しく和議が進みました。

正月戊申,殺左右神策軍護軍中尉韓全誨張彥弘、内樞密使袁易簡周敬容。甲子,幸朱全忠軍。
宦官幹部達が責任を取らされて殺され、昭宗は全忠に引き渡されました。宰相崔胤も復権します。

正月庚午,崔胤及朱全忠殺中官七百餘人。辛未,胤判六軍十二衛事。
胤は念願の宦官絶滅を実行しました。昭宗の意志ではありません。各地の監軍宦官も一部を除き殺されました。禁軍は胤が管轄[といっても実体はありませんが]します。

二月甲戌,貶陸扆貶沂王傅,丙子,王溥罷。殺蘇檢、盧光啓。
茂貞派の宰相達が処分されていきます。

己卯,輝王祚為諸道兵馬都元帥;庚辰,朱全忠為太尉、中書令副之。
全忠が正式に軍権をにぎりました。
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光化三年~天復元年 西暦900~01年

2020-08-30 10:00:58 | Weblog
光化三年 西暦900年
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九月,甲寅,朱全忠陷瀛州。十月丙辰,陷景州、辛酉,陷莫州。辛巳,陷祁州。
甲申、陷定州,義武軍節度使王郜奔於太原。
全忠軍は仁恭軍を追撃して次々と属州を陥しました。そして突然義武軍節度に侵攻し、郜を大破しました。陷定州[義武軍治所]とありますが、定州には王處直[郜叔父]が籠もって全忠麾下に入る盟約をしただけです。

九月、朱全忠移兵伐之,下臨城,逾滹沱,攻鎮州南門,焚其關城。
全忠は克用に付いていた成德節度王鎔を攻めました。鎔は全忠に附くことを約しました。

十月、李克用遣李嗣昭將步騎三萬下太行,攻懷州,拔之,進攻河陽。
克用は幽州支援の為、全忠の背後を攻撃しました。

◎.朱全忠は魏博・成德・義武を麾下に加え、幽州・滄景に大打撃を加えてほぼ河北を平定しました。
克用の勢力は縮小し、全忠優位の態勢が築かれます。

十一月己丑,左右神策軍中尉劉季述、王仲先等作亂,皇帝居於少陽院。辛卯,皇太子裕為皇帝。
昭宗は悪化するのみの状態を悩み、過度の飲酒により狂乱状態となることあり、宦官達は廃位して、皇太子に譲位させることにしました。崔胤達宰相は無視されてしまいます。そこで胤は宦官の影響下にない地方軍將の孫德昭達を使って策謀します。

天復元年 西暦901年
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正月乙酉,孫德昭等以兵討亂,皇帝復于位。劉季述、薛齊偓伏誅,降封皇太子裕為德王。
崔胤は德昭等を使い宦官達を誅して昭宗を復位させました。胤はこの機会に宦官を誅滅させたかったようですが、昭宗の同意を得られず、茂貞等への配慮もありなりませんでした。

正月戊申,朱全忠陷絳州。陷晉州。戊辰,陷河中,執護國軍節度使王珂。
全忠は突然河中節度を攻撃しました。油断していた王珂は狼狽して降りました。克用派がさらに縮小し、全忠は鹽池の利権を入手しました。

三月辛亥,昭義軍節度使孟遷叛附于朱全忠。四月壬子,全忠陷沁、澤二州。
克用派の孟遷が情勢をみて全忠に降り、昭義軍領域も全忠のものとなりました。克用には河東節度しか残っていません。

五月,李茂貞來朝。
宰相崔胤は宦官・茂貞達に対抗するため、全忠の入京を求めました。茂貞は前回の失敗に懲りて昭宗を確実に確保するために入京しました。

十月戊戌,朱全忠犯京師。十一月己酉,陷同州。壬子,如鳳翔。丁巳,陷華州,韓建叛附于全忠。
全忠は京師に向かい、同華二州を制圧しました。韓建はいち早く降って許され、忠武節度に遷されました。茂貞は昭宗達を本拠地鳳翔に拉致しましたが、崔胤達は全忠の元に奔りました。

十一月癸亥,李茂貞及朱全忠戰於武功,敗績。戊辰,朱全忠犯鳳翔。
辛未,陷邠州,靜難軍節度使李繼徽叛附于全忠。
茂貞軍は弱く、全忠により追いつめられて鳳翔に籠城しました。
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乾寧五年/光化元~二年 西暦898~99年

2020-08-29 10:00:58 | Weblog
乾寧五年/光化元年 西暦898年
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二月,赦李茂貞。

三月,幽州盧龍軍節度使劉仁恭之子劉守文陷滄州,義昌軍節度使盧彥威奔於汴州。
自立した仁恭は、隣接した滄景[義昌軍]盧彥威を攻めます。匡籌を殺された恨みもありますし、強力な幽州軍に対して彥威は人望がなく簡単に敗退します。滄景德三州が仁恭の領土になります。

五月辛未,朱全忠陷洺州,刺史邢善益死之;又陷邢州。壬午,陷磁州,刺史袁奉韜死之。
幽州を失い形勢が不利となった克用領を全忠は魏博と連合して攻めます。

七月丙申,朱全忠陷唐州,又陷隋州,執刺史趙匡璘。八月戊午,陷鄧州,執刺史國湘。
全忠軍が行密に敗れたため、山東節度趙匡凝は行密に通じますが、全忠に攻められるとたちまち崩れて降伏します。全忠も南北で作戦を行っているため追いつめません。

七月壬戌,至自華州。甲子,大赦,改元。
華州より荒れ果てた京師に戻り改元「光化」しましたがこの当時ですからどこまで浸透したかはわかりません。

十二月癸未,李罕之陷潞州,自稱節度留後。李克用陷澤州。
克用麾下の昭義節度使薛志勤が卒します。澤州刺史李罕之[以前に昭義節度使であった]は後任になることを求めます。罕之は軍功がありますが、あまり信用していない克用は認めません。そこで罕之は実力で占領し全忠に付きました。

光化二年 西暦899年
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正月,劉仁恭陷貝州。
三月、朱全忠遣其將李思安、張存敬將兵救魏博。
滄景を得た仁恭は魏博に侵攻し貝州を取ります。河北は幽州を除いては弱兵ばかりなので魏博羅紹威は全忠に頼ります。全忠軍は仁恭を大破しました。

八月,李克用陷澤、潞、懷三州。
克用軍が反撃し領土を回復します。
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乾寧三~四年 西暦896~97年

2020-08-28 10:00:20 | Weblog
乾寧三年 西暦896年
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六月庚戌,李茂貞犯京師,嗣延王戒丕御之。丙寅,及茂貞戰于婁館,敗績。七月癸巳,行在渭北。
甲午,韓建來朝,次華州。
克用の来襲には畏縮していた茂貞は、克用が去るとさっそく来襲します。禁軍はまた潰滅し、昭宗は河東克用のもとに逃れようとします。ところが途中で華州韓建が忠臣を装って現れて拉致します。

十月,李克用及羅弘信戰于白龍潭,敗之。
克用は河北で勢力下に入らない魏博弘信を攻撃しています。

十月壬子,孫偓持節鳳翔四面行營節度諸軍都統招討處置使。
懲りない昭宗は茂貞を討つつもりです。茂貞は表面上謝罪し、韓建は意味のない討伐を阻止します。

乾寧四年 西暦897年
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正月乙酉,韓建以兵圍行宮,殺扈蹕都將李筠。
韓建は禁軍を解散させます。華州に自軍と禁軍が混在した鳳翔李昌符の失敗を懼れたのでしょう。

丙申,朱全忠陷鄆州,天平軍節度使朱宣死之。
二月,朱全忠寇兗州,泰寧軍節度使朱瑾奔於淮南,其子用貞以兗州叛附于全忠。
全忠が天平・泰寧を滅ぼし勢力わ大きく拡大します。宣武・義成・忠武・河陽・東都・武寧・天平・泰寧・淮西が勢力下です。

保義軍節度使王珙寇河中。
珙は全忠と結び河中継承の要求を諦めてはいません。結局これが王氏を滅ぼすのです。

二月己未,立德王裕為皇太子,太赦,饗於行廟。
韓建は、文宗以来立てられていなかった皇太子を立てることを求めます。宦官勢力への牽制といえます。

六月,貶王建為南州刺史。以李茂貞為劍南西川節度使,嗣覃王嗣周為鳳翔隴右節度使,茂貞不受命,嗣周及茂貞戰於奉天,敗績。
時代錯誤な唐朝の足掻きです。できるはずもないことを指示して、失敗します。

八月,韓建殺嗣通王滋、沂王禋、韶王、彭王、嗣韓王、嗣陳王、嗣覃王嗣周、嗣延王戒丕、嗣丹王允。
韓建は目障りな皇族勢力を除きます。皇族達は克用との連携を模索していました。建は茂貞と連携し昭宗を操作しようとしていたのです。

八月、幽州節度劉仁恭反附朱全忠
克用に任命された仁恭[旧李匡威將]は自立を計ります。克用はこれを討ちますが大敗します。

十一月癸酉,楊行密及朱全忠戰於清口,敗之。
勢力拡張した全忠は淮南を併合しようとして楊行密軍に大敗します。

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乾寧二年 西暦895年

2020-08-27 10:00:48 | Weblog
乾寧二年 西暦895年
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正月壬申,護國軍節度使王重盈卒,其子王珂自稱留後。
珂は重盈の兄重簡の子で養子となっていました。実子の陝虢節度使珙や瑶は、豊かな河中節度を珂が継承したのが不満で、朱玫や朱全忠に依頼します。珂は李克用の娘婿ですので、その後援を受けています。周囲の勢力は河中の塩池の利権を巡って蠢動します。

二月乙未,太子太傅李磎為戸部侍郎同中書門下平章事。
三月,崔胤、李磎罷。戸部侍郎、判戸部王搏為中書侍郎、同中書門下平章事。
唐朝の宰相は周囲の藩鎭の支援で決まります。昭宗が望んだ李磎は朱玫が拒否して辞めさせられます。
崔胤は全忠派、王摶は茂貞・朱玫派です。

五月甲子,靜難軍節度使王行瑜、鎮國軍節度使韓建及李茂貞犯京師,殺韋昭度、李磎。
河中継承の提案を唐朝が受け入れないのが不満な茂貞・行瑜・建等は京師に侵入してきました。

是月,李克用陷絳州,刺史王瑤死之。
克用もまた河中に干渉し、実子瑤を敗死させます。

七月丙辰,李克用以兵屯於河中。戊午,匡國軍節度使王行約奔于京師。
克用はさらに進出して実力で河中を抑え、行瑜の弟である同州行約を駆逐します。

十月庚申,左右神策軍護軍中尉駱全瓘劉景宣、指揮使王行實李繼鵬反。行在莎城。
行瑜・茂貞派は昭宗を拉致しようとしますが、昭宗は莎城へ逃れ、克用の支援を求めます。

八月戊戌,李克用為邠寧四面行營招討使,鄜坊李思孝,夏綏李思諫,涇原張鐇為招討使。
辛丑,李克用為邠寧四面行營都統討朱玫・李茂貞。
克用軍は京師に侵攻し、昭宗を擁して玫・茂貞を討伐します。華州韓建はたちまち降っています。

八月李繼鵬伏誅。赦李茂貞。
養子繼鵬に罪を押しつけ、茂貞は表面上謝罪して赦されました。

八月壬子,崔昭緯罷。
玫・茂貞の手先昭緯が解任され、後日殺されます。
九月丙辰,徐彥若為司空。
十月丙戌,李克用及王行瑜戰於梨園,敗之。庚寅,王行約焚寧州以逃。
十一月丁巳,李克用及王行瑜戰于龍泉,敗之。丁卯,王行瑜伏誅。
朱玫・茂貞軍では勇猛な克用軍に敵うはずもなくたちまち追い詰められ殺されます。

十一月乙未,進李克用爵晉王、太師。
克用の絶頂期です。河北・河東・關内の大半が彼の勢力圏となりました。克用は茂貞も討つことを提案しますが、克用の巨大化を懼れた昭宗は認めませんでした。これは後に悔いを残すことになります。

十一月丁丑,王建陷利州、閬州、蓬州、渠州、通州。丙申,建寇梓州。
西川王建はどさくさにまぎれてどんどん茂貞領を奪います。克用に圧されて茂貞は動けません。
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景福二年~乾寧元年 西暦893~94年

2020-08-26 10:00:50 | Weblog
景福二年 西暦893年
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正月,徐彥若罷為鳳翔隴右節度使,李茂貞為山南西道節度使。茂貞不受命。
八月丙申,嗣覃王嗣周為京西路招討使,以討李茂貞。
九月壬午,嗣覃王嗣周及李茂貞戰于興平,敗績。甲申,茂貞犯京師。
時代錯誤でKYな唐朝は、違命した茂貞を左遷し、ついには討伐しようとします。雑軍を集めた禁軍より、茂貞の軍のほうが圧倒的に強いのです。茂貞は禁軍を蹴散らして京師に入り、気に入らない宦官や官僚を殺します。宰相杜譲能も巻き添えで殺されます。

三月辛酉,幽州盧龍軍兵馬留後李匡籌逐其兄匡威,自稱節度留後。
四月丁亥,王鎔殺李匡威。
幽州節度匡威は、河北で唯一李克用軍に対応できました。軟弱な成徳軍王鎔を助けていましたが、不行跡[匡籌の妻などに手を出したそうです]なため逐われ、王鎔のもとに逃れました。そこでも欲を出しすぎ[成徳の実権を奪おうとしたそうです]たため殺されてしまいました。

四月乙亥,王建殺陳敬瑄及劍南西川監軍田令孜。

四月戊子,朱全忠陷徐州,武寧軍節度使時溥死之。
全忠の勢力拡張が実を結び徐泗濠が手に入りました。

七月、幽州の後ろ盾を失った成徳王鎔は克用陣営に入ります。

十月、茂貞と邠寧王行瑜が唐朝を支配し、お手盛りで官爵につきます。茂貞は中書令鳳翔兼山西節度、行瑜は太師兼尚父[郭子儀と同じ]となります。

乾寧元年 西暦894年
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正月乙丑,大赦,改元。

三月甲申,李克用寇邢州,執李存孝殺之。
克用は酒乱で人徳が乏しいのか、次々と配下に背かれます。存孝も手飼いの將なのですが、節度使となると背きました。軍事には能力のある克用はこれを討伐します。このあとも李罕之・孟遷。劉仁恭と取り立てた連中に背かれていきます。

五月丙子,王建陷彭州,威戎軍節度使楊晟死之。
唯一残存していた陳敬瑄勢力を制圧しました。そして東川節度に手をだしていきます。

七月、李茂貞陷閬州。八月,楊守亮伏誅。
復恭・守亮一族は河東克用のもとに逃れようとして途中で華州韓建殺されます。

九月庚申,李克用陷潞州,昭義軍節度使康君立死之。
新唐書の誤記載です。克用が酒乱中に誤って部下の康君立を殺しただけです。

十一月,李克用陷武州。十二月,陷新州。幽州李匡籌奔於滄州,義昌軍節度使盧彥威殺之。
丙辰,李克用陷幽州。
克用が幽州節度使を滅ぼしました。軍才はあった匡威は亡く、無能な匡籌では対抗できなかったようです。留後には劉仁恭が登用されました。克用は河東・幽州・大同・昭義を支配し、河中・義武・成徳を影響下に置く巨大勢力となりました。
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大順二年~景福元年 西暦891~2年

2020-08-25 10:00:43 | Weblog
大順二年 西暦891年
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正月庚申,孔緯、張濬罷。
敗戦の責により緯、濬は失脚し、朱全忠の勢力下に逃れました。

正月、羅弘信軍于内黄。丙辰,朱全忠擊之。
全忠は、克用討伐に協力しなかった魏博を討って従えます。

二月乙巳,赦陳敬瑄。丁未,詔王建罷兵,不受命。
すっかり気落ちした唐朝は負担の多い西川討伐を罷めましたが、もう一歩という所まで追い詰めていた建は従わず攻撃を続けました。

七月,李克用陷雲州,防御使赫連鐸奔於退渾。
克用軍は相変わらず強く吐谷渾の鐸を逐い、河東を統一しました。

八月庚子,王建陷成都,執劍南西川節度使陳敬瑄,自稱留後。
建は敬瑄・田令孜を降し[後に殺します]西川節度使として自立しました。

十月、観軍容使楊復恭奔興元。
昭宗は復恭の専権を憎んで排除しようとします。復恭は従わず昭宗側の軍[復恭を裏切った連中ですが]と戦いますが敗れて興元[養子の守亮が節度使です]へ奔ります。

十月壬午,朱全忠陷宿州。十一月曹州將郭銖叛附。辛未,陷壽州。
全忠は東部へ勢力を拡張していきます。


景福元年 西暦892年
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正月丙寅,大赦,改元。

正月、鳳翔李茂貞、靜難王行瑜、鎮國韓建等五節度使上言。
ようは山西の楊復恭・守亮を討ちたいということです。唐朝は茂貞の勢力拡大を懼れて躊躇します。

六月戊寅,楊行密陷揚州。
行密は孫儒を殺し、淮南を平定します。

六月己巳,鳳翔隴右節度使李茂貞陷鳳州,感義軍節度使滿存奔於興元,遂陷興、洋二州。
八月壬申,寇興元,楊守亮、滿存奔於閬州。
唐朝の許可なく、茂貞・行瑜は山西を討って滅ぼします。復恭・守亮は閬州に逃亡します。
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大順元年 西暦890年

2020-08-24 10:00:55 | Weblog
大順元年 西暦890年
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正月戊子,大赦,改元「大順」

西川ではこの歳、王建が簡.資.嘉.戎.雅.卭.蜀州を陥していきます。

五月,張濬為河東行營都招討宣慰使,京兆尹孫揆副之。
幽州盧龍軍節度使李匡威為北面招討使,雲州防御使赫連鐸副之;
朱全忠為南面招討使,王鎔為東面招討使,以討李克用。
河東李克用は、義武王處存と結びどんどん河北へ進出していきます。宣武朱全忠は河北三鎭の要請を受けて、唐朝[宰相孔緯・張濬]に克用を討つことを提議します。宦官楊復恭は気乗りしませんが、昭宗皇帝は唐朝の権威回復を夢見て克用征討に取りかかりました。河北三鎭・全忠・邠寧王行瑜・華州韓建、鄜坊・夏綏などの雑軍、そして弱体な禁軍が出動します。

五月壬寅,昭義軍將安居受殺其節度使李克恭,河東將安知建以邢、洺、滋三州叛附于全忠。
初動はうまく行きました。克用麾下の昭義軍[潞.邢.洺.磁州]で乱が起きて全忠が占領しました。

七月戊申,李克用執昭義軍節度使孫揆。
ところが克用將李存孝は昭義に赴任しようとした孫揆軍を奇襲して撃破し、揆を捕らえて殺しました。

九月,李克用陷潞州。
閏月,李克用陷邢、洺、滋三州。
克用將李存孝は潞州を攻め、全忠軍を撃破し全失地を奪還しました。

十月、李克用軍は陰地に張濬軍を大破し、雑軍は崩壊しました。濬は晉州城に包囲され追い詰められましたが、克用は唐朝と徹底的に対立することを避けて、濬の逃亡を許しました。

十一月丁卯,李匡威陷蔚州。
克用包囲網といっても河北三鎭は成徳王鎔は貴族化、魏博羅弘信は牙軍の傀儡で、唯一戦力があるのは幽州李匡威だけでした。

十二月、李克用陷晉州。
対克用戦は唐朝の完敗で終わりました。全忠は東部で朱瑄・朱瑾と戦っているため全力は注げず、河北三鎭は威力なく、唐朝は単なる雑軍で、張濬等の時代錯誤による失敗で、完全に権威を喪失しました。
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文德元年2~龍紀元年 西暦888~89年

2020-08-23 10:00:51 | Weblog
続いて昭宗・廃帝史です。
文德元年 その2 西暦888年
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三月,僖宗疾大漸,群臣以吉王長,且欲立之。觀軍容使楊復恭率兵迎壽王,立為皇太弟,改名敏。
無能な僖宗の子は幼少で論外です。吉王は六男、壽王は七男で大差はありませんが、復恭は擁立の功が欲しくて横車を押しました。壽王は僖宗ほど愚かではありません。

辛卯,朱全忠及秦宗權戰于蔡州,敗之。五月壬寅,趙德?以襄州降,
全忠は宗權を追いつめていきます。

六月,?州防御使王建陷漢州,寇成都。韋昭度罷為劍南西川節度副大使兼兩川招撫制置使。
十月,陳敬?反。
王建は元忠武軍将で鹿晏弘麾下として流れ、反して田令孜についていました。ところが楊復恭の時代になると冷遇され、?州を奪って自立していました。令孜は元配下の建を招こうとしましたが、敬?は賛成せず阻止したのです。意に反した建は敬?[成都]を攻撃しました。復恭は王建を利用して令孜・敬?を宰相韋昭度を派遣して征討しようとしました。征討軍の主力は王建の兵です。

十一月辛酉,奉國軍將申叢執秦宗權。
形勢不利とみた麾下は宗權を捕らえて全忠に引き渡そうとしました。

龍紀元年 西暦889年
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正月癸巳,大赦,改元。

二月己丑,秦宗權伏誅。
黄巣・宗權と誅され大乱は終了したはずですが、もう唐帝国というのは実存しません。

[劍南東西]王建が陳敬?を攻撃中です。韋昭度は飾りです。東川節度顧彦朗は建についています。

[淮南浙江]旧秦宗權麾下の孫儒と楊行密・錢鏐が死闘を続けています。

[河東河北]河東李克用は?州昭義軍を制圧し、幽州・成徳軍と戦っています。河中・陝?は王重盈一族が抑えています。

[河南]朱全忠が天平朱?・?海朱瑾・感化時溥と戦っています。

[關内]鳳翔には李茂貞、?寧には王行瑜が自立し、夏綏・朔方・振武は現地の蕃族が抑えています。

唐朝に残されているのは 京師付近と荒廃した山西の一部のみなのです。
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僖宗史をアップロードしました。

2020-08-22 10:00:35 | Weblog
今までの 高祖~僖宗史をPDF形式でデータをアップロードしました。
高祖史
太宗史
高宗史
則天史
中宗睿宗史
玄宗史
肅宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
穆宗敬宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
僖宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

[唐歴史データ]
全節度使データ一覧(エクセルリンク)
封爵データ一覧(エクセル)3183名分
文官宰相一覧(エクセルリンク)
宰相年表[附使相]
中書舎人年表
給事中年表
太子庶子年表
字[あざな 1846名分]一覧
皇族一覧表[皇帝別]
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光啓三年~文德元年 西暦887~8年

2020-08-21 10:00:41 | Weblog
光啓三年 西暦887年
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三月癸未,蕭遘、裴澈、兵部侍郎鄭昌圖有罪伏誅。
帝煴についた宰相達を殺します。置き去りにした責任などは毫も感じないのが皇帝です。

三月壬辰,如鳳翔。
京師は荒廃しているので鳳翔で止まります。

五月丙子,朱全忠出擊張晊,大破之。辛巳,全忠以四鎮吏攻秦宗權于邊孝村,大破。
蔡人之守東都、河陽、許、汝、懷、鄭、陝、虢者,聞宗權敗,皆棄去。
宗權は鄭州を陥し、汴州朱全忠を猛攻しますが、天平朱瑄・泰寧朱瑾の支援を受けた全忠はこれを大破します。敗戦を聞いた宗權軍は占領地を棄てて蔡州へ撤退します。

五月己酉,鳳翔節度使李昌符反。庚戌,犯大安門,不克,奔於隴州。
七月,李昌符伏誅。
鳳翔府内で禁軍と鳳翔軍が争い、昌符は負けて隴州に逃げますが滅びます。

五月丁巳,護國軍將常行儒殺其節度使王重榮,其兄陝虢節度使王重盈自稱留後。
厳酷な王重榮が部下に殺されます。兄重盈が急遽入部して継承します。

八月、朱全忠陷亳州。壬子,陷曹州。十月丁未,陷濮州。
全忠は秦宗權を破ると、危難を支援してもらった朱瑄達の所領に侵攻します。

淮南・浙江では老耄した高駢・周寶が殺され、秦宗權下の勢力[秦彥・孫儒]と楊行密・錢鏐との闘争が起きていますが、中央とは無縁です。


光啓四年/文德元年 西暦888年
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正月癸亥,朱全忠為蔡州四面行營都統。
全忠が秦宗權討伐の主帥となります。

二月乙亥,不豫。乙丑,至自鳳翔。
僖宗は体調不良ですが京師に戻ります。大赦,改元「文德」です。

二月,魏博軍亂,殺其節度使樂彥禎,其將羅弘信自稱權知留後。
息子従訓の専横に牙軍が怒り、彥禎は避退しましたが殺されました。牙軍は立候補した弘信を立てて、朱全忠の支援を得た従訓と戦い、これも敗死させました。魏博は牙軍が支配しています。

三月壬寅,疾大漸,立壽王傑為皇太弟知軍國事。癸卯,皇帝崩于武德殿,年二十七。
宦官の傀儡で各地を逃げ惑っただけの無能な僖宗が亡くなりました。
僖宗に子はいるのですが、緊急時でもあり、宦官も無能な幼児はこりごりだと思ったのでしょう。
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光啓二年 西暦886年

2020-08-20 10:00:48 | Weblog
光啓二年 西暦886年
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正月戊子,如興元。
癸巳,邠寧朱玫叛,寇鳳翔。
王重榮や李克用は京師を占領する気はなく軍を戻します。しかし田令孜の罷免を要求してきました。令孜に騙されて負け戦をしてしまった玫や鳳翔節度使李昌符は、令孜を誅そうとしました。令孜は山西興元府を経て兄陳敬瑄のいる成都へ逃げようとします。僖宗は渋りますが拉致されます。宰相達も置き去りです。

三月壬午,山南西道節度使石君涉奔於鳳翔。丙申,次興元。
君涉は僖宗・令孜の逃亡を阻止しようとしますが、玫や昌符軍に背後を追われている令孜は麾下の禁軍を突入させて興元に入ります。

四月乙卯,朱玫以嗣襄王煴入于京師。
玫は自らを兼左右神策十軍使として、残っていた宰相達の承認のもとに、逃げ遅れた皇族の煴を皇帝に擁立し京師に帰還します。諸鎭に遣使して大半の鎭の承認を得ます。
田令孜は形勢不利とみて、樞密使使楊復恭を左神策中尉觀軍容使とし、自分は西川監軍使となって敬瑄の元に亡命していきます。復恭はすぐ令孜派を排除していきました。

五月、朱玫はみずから侍中諸道鹽鐵轉運等使となり独裁を始めます。はずされた鳳翔李昌符は不満で興元の僖宗に通じます。また河東李克用や河中王重榮達も朱玫の跋扈は不愉快であり、令孜の排除には成功したので僖宗麾下にもどりました。

七月,秦宗權陷許州,忠武軍節度使鹿晏弘死之。
十一月庚子,秦宗權鄭州。
河南では宗權の勢力は強くなる一方です。

九月戊寅,靜難軍將王行瑜陷興、鳳二州。神策行營先鋒使滿存克興、鳳二州。
朱玫は行瑜に僖宗派を攻撃させますが、反撃をうけ停滞します。復恭は行瑜に働きかけて裏切らせようとします。

十二月,丙辰,朱玫伏誅。丁巳。帝煴伏誅。
敗戦続きの行瑜は邠寧節度使を与えるという利益を与えられて反し、京師に乱入して玫や煴を殺しました。
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中和五年/光啓元年 西暦885年

2020-08-19 10:00:48 | Weblog
中和五年/光啓元年 西暦885年
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三月丁卯,至自成都。己巳,大赦,改元「光啓」。
僖宗が令孜に擁せられて京師に戻ります。元宰相王徽が必死に宮闕を修復しています。

三月、感化軍節度時溥為蔡州四面行營兵馬都統。
感化軍=徐州武寧軍です。黄巣の死体を得た功績です。秦宗權征討です。

四月、秦宗權陷襄州,山南東道節度使劉巨容奔于成都。
黄巣没後宗權の力は急拡大します。山東・河南は荒廃しているので、兵食は人間です。

六月,幽州盧龍軍亂,殺其節度使李可舉,其將李全忠自稱留後。
可舉將李全忠は成德節度王鎔軍とともに義武軍節度王處存を攻めていました。追いつめられた處存は李克用に支援を求め、来援した克用軍は成德・幽州軍を粉砕しました。敗走した全忠は幽州に戻り可擧を攻め殺し自立しました。

六月壬戌,秦宗權陷東都。
宗權將孫儒は東都を陥し、荒廃した河南道を席巻しました。宣武朱全忠と陳州を残すのみです。


七月、京師に戻った田令孜は、禁軍の再建に努めましたが財源がありません。そこで河中の鹽池の利権に目をつけました。河中は王重榮が拠って鹽池の利を得ています。令孜は重榮を他鎭[泰寧]に遷して、利権を得ようとしました。当然重榮は拒否します。そこで禁軍・邠寧・鳳翔軍等で河中を討つことにしました。劣勢の重榮は河東李克用の支援を求めます。
九月,河中節度使王重榮反,邠寧節度使朱玫討之。

十月癸丑,朱全忠及秦宗權戰於雙丘,敗績。
宣武節度全忠は宗權と死闘を続けています。宗權軍が圧倒的に優勢で、全忠は天平節度朱瑄・泰寧節度朱瑾に支援を求めます。

十一月,河東節度使李克用叛附于王重榮,重榮及克用寇同州,刺史郭璋死之。
十二月癸酉,朱玫及王重榮、李克用戰于沙苑,敗績。乙亥,克用犯京師。丙子,如鳳翔。
克用軍が来襲すると唐朝軍はたちまち潰滅します。敗走した唐朝軍は京師を掠奪します[克用犯京師はごまかしです]、せっかく少し再建された宮城はまた破壊されます。三月に戻ったばかりの僖宗は令孜と共に鳳翔へ逃亡します。
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中和四年 西暦884年

2020-08-18 10:00:47 | Weblog
中和四年 西暦884年
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三月甲子,劍南東川節度副大使楊師立反。七月辛酉,楊師立伏誅。
征討に協力したのに見返りがなく、田令孜・陳敬瑄兄弟の専権を妬んだ師立が反しましたが、脆くも敗れました。

五月辛酉,朱全忠及黃巢戰,敗之。辛未,河東節度使李克用及巢戰于宛句,敗之。
唐朝軍の力では黄巣を討伐できませんでした。かえって巢の勢力は増大し河南諸鎭は苦境に立ちました。そこでまた沙陀李克用の支援を求めるのです。沙陀の騎兵軍は大挙南下すると巢軍を一蹴して追いつめます。

五月甲戌,李克用は一旦汴州[宣武朱全忠治所]に戻りその饗応を受けます。ところが全忠は夜間、克用宿舎を襲撃して殺そうとしました。この原因は私怨によるものか、あまりに強力な沙陀勢力を懼れたものかはわかりません。克用は必死で逃れました。

七月壬午,黃巢伏誅。
沙陀による大打撃から巢軍は回復せず、大部分は元の仲間である朱全忠か、有力な反軍を率いる秦宗權に帰服し、巢は甥林言に殺されました。

七月、李克用至晉陽,大治甲兵。
克用は本拠地太原に帰り着き、報復のために大軍を集めました。唐朝は乱を懼れてひたすら克用を宥めました[郡王にし、昭義軍や代北軍の併合を認める]。克用は一応忍耐しましたが、朱全忠とは犬猿の仲になりました。これからみると克用襲撃は全忠の独断とは思えません。

九月,山南西道節度使鹿晏弘反。
十一月,鹿晏弘陷許州,殺西度使周岌,自稱留後。
田令孜に圧迫された晏弘は山西を棄てて、故地へ向かいます。麾下の王建等は裏切って令孜につきますが、途中秦宗權と共同して山東節度劉巨容を逐い、忠武に到り節度使周岌をも滅ぼします。

十二月盜殺義昌軍節度使王鐸。
「盜」とは魏博節度使樂彥禎の凶暴な息子従訓です。恩がある義成節度使王鐸が邪魔になった朱全忠は、令孜と組んで、滄景義昌軍[盧彥威が自立しています]へ異動させます。宰相貴族であった鐸は大規模な行列を組んで赴任していきますが、それを阻止しようとする彥威の依頼を受けた従訓が、鐸の資財の掠奪もねらって襲撃し殺戮しました。犯人はわかっていますが弱体な唐朝にはなにもできません。

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中和三年 西暦883年

2020-08-17 10:18:13 | Weblog
中和三年 西暦883年
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正月,雁門節度使李克用為京城東北面行營都統。
克用が正式に黄巣討伐軍になりました。

正月乙亥,王鐸罷。
突然、田令孜は王鐸の兵権を解任し、功績を奪って宦官達に分与し、自分は十軍兼十二衛觀軍容使となりました。

二月,魏博軍亂,殺其節度使韓簡,其將樂彥禎自稱留後。
河陽・天平への遠征に失敗した簡は、牙軍に見切られて殺されました。

三月。壬申,李克用及黃巢戰於零口,敗之。四月甲辰,又敗之於渭橋。丙午,復京師。
強力な沙陀騎兵集団の攻撃には黄巣軍は耐えられず敗走し、たちまち京師は回復されました。しかし巢軍は潰滅したわけではなく河南道へ走りました。

五月,李克用には河東節度使、朱全忠には宣武軍節度使が与えられました。鄭従讜は宰相に復帰することになりました。

五月蔡州奉國軍節度使秦宗權叛附于黃巢。
宗權は巢軍と戦い、敗れるとすぐ巢軍と合同し周辺を寇掠しはじめました。

七月、宦官楊復光卒于河中。
復光は忠武軍を中心に兵を集め、京師回復に功績がありました。また兄は枢密使復恭であり連携して令孜と対抗していました。復光の死によりその軍[鹿晏弘・王建・韓建等唐末に活躍する武将が多い]は流浪します。また令孜は復恭を左遷し専権を握ります。

八月,黃巢、秦宗權寇陳州。
巢軍は河南で再び得意の流賊となって態勢を立て直し、四方数十州を寇掠しました

十月,李克用陷潞州,刺史李殷銳死之。
河東節度使となった克用は、さっそく隣地の潞州へ勢力拡大を始めます。潞州は本来昭義軍節度使の本拠ですが、自立した孟方立が東部の邢州に移治したことにより、不満をもった連中が克用を呼び込みました。これより昭義軍節度は方立の邢洺磁三州と、克用麾下の澤潞二州に分立します。

十一月壬申,劍南西川行軍司馬高仁厚及阡能戰於邛州,敗之。
仁厚が劍南の民乱を一応鎮圧しました。

十二月,忠武軍將鹿晏弘逐興元節度使牛勖,自稱留後。
流浪する旧復光軍は山西節度を占拠します。
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