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蘇文建
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◎.前歴不明
乾寧二年[895]
◎.7月に 李克用によって占領した同州匡国軍節度使に任用。
◎.10月に 克用によって邠寧静難軍節度使に任用され、寧州に入る。
◎.11月に 占領後の邠州に入る。加同平章事。
乾寧三年[896]
◎. 克用が引き揚げると鳳翔李茂貞に逐われたようである。
乾寧四年[897]
◎.3月 山西の利州に昭武軍節度使が置かれ蘇文建が節度使になったとされるが、すでに利州は西川王建の支配下であり現実性はない。
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拓抜/李思諫
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拓抜氏は武宗・宣宗時の黨項です。この時代唐朝の北邊[朔方・夏綏・振武・大同管内]は拓抜・契苾・赫連・沙陀[朱邪]氏に占拠されています。拓抜氏は思孝が黄巣の乱に京師回復に貢献し、賜姓[李]をされていて、弟の思諫・思恭が活躍し鄜坊丹延節度まで南下占領してきています。
乾寧二年[895]
◎.8月 定難節度使李思諫が邠寧東面/東北面招討使として王行瑜を討つ。
乾寧三年[896]
◎.9月 前定難節度使李思諫為靜難節度使兼副都統。蘇文建が逐われた跡か、入部はではていないようだ。
乾寧四年[897]
◎.正月 副都統李思諫為寧塞軍節度使。邠寧が確保できないので延州を与えられたのかも。
◎.8月 靜難軍節度使李思諫為鳳翔四面行營副都統,以討李茂貞。史料は混乱しています。
なぜか思諫は李茂貞の麾下となって洋州武定軍節度使として名前がでてきます。支離滅裂です。
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孫儲
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文官です。全唐文に「授孫儲邠州節度使制」があります。錯誤でしょう。
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李繼徽/楊崇本
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◎. 本名は楊崇本、幼時から李茂貞の養子で、長じて將となる。
乾寧三年[896]
◎. 秦州天雄留後から節度使となる。茂貞麾下。
乾寧四年[897]
◎.2月 侵攻してきた王建將王宗謹と玄武に戦う。
◎.7月 天雄節度使から邠寧靜難節度使に移る。
天復元年[901]
◎.10月 朱全忠が昭宗を拉致した李茂貞を鳳翔に攻囲、繼徽は茂貞を支援しようとするが、邠州を攻められ、妻子を質として降る。改名して「楊崇本」。全忠の麾下となり邠州の統治はそのまま許される。
天復四年/天祐元年[904]
◎.正月以前 朱全忠は女癖が悪く、家臣や息子達の妻や娘を姦することが多かった。人質となった楊崇本の妻も犯された。崇本は憤激し茂貞に帰属した。復名「李繼徽」。
◎.6月 李茂貞・王建・李繼徽は朱全忠討伐を宣言した。
◎.9月 朱全忠は永壽・駱谷に至ったが、鳳翔・邠寧兵は臆してでてこなかった。
天祐三年[903]
◎.9月 崇本は鳳翔保塞彰義保義兵をもって全忠方の夏州を攻めた。
全忠下匡國節度使劉知俊は茂貞方の坊州兵を破った。
◎.10月 夏州救援のため、全忠將劉知俊・康懷英が楊崇本兵五萬を美原に大破した。
◎.11月 劉知俊・康懷貞は鄜、延等五州を陥した。
◎. 茂貞・繼徽は全忠に圧迫され逼塞し唐の滅亡を傍観した。
天祐十四年/後梁乾化四年[914年]
◎.12月 子の彦鲁に毒殺された。彦鲁はまた繼徽の養子保衡に殺され、保衡は後梁に降った。
蘇文建
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◎.前歴不明
乾寧二年[895]
◎.7月に 李克用によって占領した同州匡国軍節度使に任用。
◎.10月に 克用によって邠寧静難軍節度使に任用され、寧州に入る。
◎.11月に 占領後の邠州に入る。加同平章事。
乾寧三年[896]
◎. 克用が引き揚げると鳳翔李茂貞に逐われたようである。
乾寧四年[897]
◎.3月 山西の利州に昭武軍節度使が置かれ蘇文建が節度使になったとされるが、すでに利州は西川王建の支配下であり現実性はない。
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拓抜/李思諫
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拓抜氏は武宗・宣宗時の黨項です。この時代唐朝の北邊[朔方・夏綏・振武・大同管内]は拓抜・契苾・赫連・沙陀[朱邪]氏に占拠されています。拓抜氏は思孝が黄巣の乱に京師回復に貢献し、賜姓[李]をされていて、弟の思諫・思恭が活躍し鄜坊丹延節度まで南下占領してきています。
乾寧二年[895]
◎.8月 定難節度使李思諫が邠寧東面/東北面招討使として王行瑜を討つ。
乾寧三年[896]
◎.9月 前定難節度使李思諫為靜難節度使兼副都統。蘇文建が逐われた跡か、入部はではていないようだ。
乾寧四年[897]
◎.正月 副都統李思諫為寧塞軍節度使。邠寧が確保できないので延州を与えられたのかも。
◎.8月 靜難軍節度使李思諫為鳳翔四面行營副都統,以討李茂貞。史料は混乱しています。
なぜか思諫は李茂貞の麾下となって洋州武定軍節度使として名前がでてきます。支離滅裂です。
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孫儲
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文官です。全唐文に「授孫儲邠州節度使制」があります。錯誤でしょう。
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李繼徽/楊崇本
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◎. 本名は楊崇本、幼時から李茂貞の養子で、長じて將となる。
乾寧三年[896]
◎. 秦州天雄留後から節度使となる。茂貞麾下。
乾寧四年[897]
◎.2月 侵攻してきた王建將王宗謹と玄武に戦う。
◎.7月 天雄節度使から邠寧靜難節度使に移る。
天復元年[901]
◎.10月 朱全忠が昭宗を拉致した李茂貞を鳳翔に攻囲、繼徽は茂貞を支援しようとするが、邠州を攻められ、妻子を質として降る。改名して「楊崇本」。全忠の麾下となり邠州の統治はそのまま許される。
天復四年/天祐元年[904]
◎.正月以前 朱全忠は女癖が悪く、家臣や息子達の妻や娘を姦することが多かった。人質となった楊崇本の妻も犯された。崇本は憤激し茂貞に帰属した。復名「李繼徽」。
◎.6月 李茂貞・王建・李繼徽は朱全忠討伐を宣言した。
◎.9月 朱全忠は永壽・駱谷に至ったが、鳳翔・邠寧兵は臆してでてこなかった。
天祐三年[903]
◎.9月 崇本は鳳翔保塞彰義保義兵をもって全忠方の夏州を攻めた。
全忠下匡國節度使劉知俊は茂貞方の坊州兵を破った。
◎.10月 夏州救援のため、全忠將劉知俊・康懷英が楊崇本兵五萬を美原に大破した。
◎.11月 劉知俊・康懷貞は鄜、延等五州を陥した。
◎. 茂貞・繼徽は全忠に圧迫され逼塞し唐の滅亡を傍観した。
天祐十四年/後梁乾化四年[914年]
◎.12月 子の彦鲁に毒殺された。彦鲁はまた繼徽の養子保衡に殺され、保衡は後梁に降った。