唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

邠寧節度使史10

2020-10-24 19:54:18 | Weblog
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蘇文建
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◎.前歴不明

乾寧二年[895]
◎.7月に 李克用によって占領した同州匡国軍節度使に任用。
◎.10月に 克用によって邠寧静難軍節度使に任用され、寧州に入る。
◎.11月に 占領後の邠州に入る。加同平章事。

乾寧三年[896]
◎. 克用が引き揚げると鳳翔李茂貞に逐われたようである。

乾寧四年[897]
◎.3月 山西の利州に昭武軍節度使が置かれ蘇文建が節度使になったとされるが、すでに利州は西川王建の支配下であり現実性はない。

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拓抜/李思諫
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拓抜氏は武宗・宣宗時の黨項です。この時代唐朝の北邊[朔方・夏綏・振武・大同管内]は拓抜・契苾・赫連・沙陀[朱邪]氏に占拠されています。拓抜氏は思孝が黄巣の乱に京師回復に貢献し、賜姓[李]をされていて、弟の思諫・思恭が活躍し鄜坊丹延節度まで南下占領してきています。

乾寧二年[895]
◎.8月 定難節度使李思諫が邠寧東面/東北面招討使として王行瑜を討つ。

乾寧三年[896]
◎.9月 前定難節度使李思諫為靜難節度使兼副都統。蘇文建が逐われた跡か、入部はではていないようだ。

乾寧四年[897]
◎.正月 副都統李思諫為寧塞軍節度使。邠寧が確保できないので延州を与えられたのかも。
◎.8月 靜難軍節度使李思諫為鳳翔四面行營副都統,以討李茂貞。史料は混乱しています。

なぜか思諫は李茂貞の麾下となって洋州武定軍節度使として名前がでてきます。支離滅裂です。

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孫儲
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文官です。全唐文に「授孫儲邠州節度使制」があります。錯誤でしょう。

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李繼徽/楊崇本
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◎. 本名は楊崇本、幼時から李茂貞の養子で、長じて將となる。

乾寧三年[896]
◎. 秦州天雄留後から節度使となる。茂貞麾下。

乾寧四年[897]
◎.2月 侵攻してきた王建將王宗謹と玄武に戦う。
◎.7月 天雄節度使から邠寧靜難節度使に移る。

天復元年[901]
◎.10月 朱全忠が昭宗を拉致した李茂貞を鳳翔に攻囲、繼徽は茂貞を支援しようとするが、邠州を攻められ、妻子を質として降る。改名して「楊崇本」。全忠の麾下となり邠州の統治はそのまま許される。

天復四年/天祐元年[904]
◎.正月以前 朱全忠は女癖が悪く、家臣や息子達の妻や娘を姦することが多かった。人質となった楊崇本の妻も犯された。崇本は憤激し茂貞に帰属した。復名「李繼徽」。
◎.6月 李茂貞・王建・李繼徽は朱全忠討伐を宣言した。
◎.9月 朱全忠は永壽・駱谷に至ったが、鳳翔・邠寧兵は臆してでてこなかった。

天祐三年[903]
◎.9月 崇本は鳳翔保塞彰義保義兵をもって全忠方の夏州を攻めた。
全忠下匡國節度使劉知俊は茂貞方の坊州兵を破った。
◎.10月 夏州救援のため、全忠將劉知俊・康懷英が楊崇本兵五萬を美原に大破した。
◎.11月 劉知俊・康懷貞は鄜、延等五州を陥した。
◎. 茂貞・繼徽は全忠に圧迫され逼塞し唐の滅亡を傍観した。

天祐十四年/後梁乾化四年[914年]
◎.12月 子の彦鲁に毒殺された。彦鲁はまた繼徽の養子保衡に殺され、保衡は後梁に降った。
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邠寧節度使史9

2020-10-24 19:54:18 | Weblog
王行瑜[邠州人]
◎. 邠寧軍に属し、朱玫に従い將となる。黃巢征討に功績あり。

光啓二年[886]
◎. 煴が即位すると、領天平節度使[単なる称号でしかない]となり、大散關を守る。
◎.12月 楊復恭は王行瑜に邠寧節度使を与えると働きかけ、敗戦が続いて責任を問われることを懼れた行瑜はそれに応じた。行瑜は鳳州より勝手に京師に帰還し、玫を殺した。

光啓三年[887]
◎正月. 邠州都將王行瑜は約束どうり邠寧靜難軍節度使となった。

大順元年[891]
◎. 宰相張濬・孔緯は宣武朱全忠と組んで、河東李克用を攻めようとした。昭宗皇帝や宦官楊復恭は不同意だったが押し切られた。
◎.5月 張濬の征討軍は邠寧、鄜、夏雜虜等で五萬人であった。
◎.6月 張濬は宣武、鎮國、靜難、鳳翔、保大、定難諸軍を晉州に合同させた。
◎.10月 邠寧節度使王行瑜に加侍中。官職インフレである。
◎. 靜難、鳳翔、保大、定難之軍は李克用軍に陰地で敗北し黄河西へ逃れた。

景福元年[893]
◎.正月 鳳翔李茂貞、靜難王行瑜、鎮國韓建、同州王行約[行瑜弟]、秦州李茂莊など五節度使が、「山西興元に拠る楊守亮・復恭を討ちたい、茂貞を山南西道詔討使にして欲しい」と上奏した。昭宗皇帝は是認しなかったが、茂貞等は強要した。
◎.2月 李茂貞、王行瑜は命をまたず興元を攻めた。やむをえず茂貞を山南西道招討使とした。
◎.5月 邠寧節度使王行瑜加兼中書令。

景福二年[894]
◎.8月 茂貞は傲慢な上奏をし、怒った昭宗は茂貞を討とうとした。宰相崔昭緯は茂貞・行瑜と結託していて情報を常に流していた。嗣覃王嗣周が京西招討使として茂貞を討った。行瑜は茂貞側にいた。
◎.9月 覃王嗣周率いる弱体な禁軍三萬は興平で、茂貞・行瑜連合軍六萬に一蹴され潰滅した。茂貞等は京師に侵攻した。
◎. 茂貞等は宰相杜讓能や観軍容使宦官西門重遂を殺し、自派の宦官駱全瓘、劉景宣を両軍中尉とした。
◎.11月 増長した邠寧節度使守侍中兼中書令王行瑜は尚書令[郭子儀と同格]となることを求めた。さすがに認められず、太師賜號尚父となり鐵券を与えられた。しかし唐朝は後に茂貞に尚書令を与えている。

乾寧元年[895]
◎.12月 行瑜弟同州匡國節度使王行約が檢校待中となった。

乾寧二年[896]
◎.正月 河中節度使王重盈が卒し、養子の珂[河東李克用の婿]が相続した。実子の陝虢節度使珙や晉州刺史瑤は不服で、朱全忠や茂貞や行瑜と組んで征討を唐朝に求めた。克用は当然珂の継承を認めるように求めた。
◎.5月 増長している行瑜は尚書令になれないのが不満であり、京畿神策軍の良原鎮を移籍してもらえないのも不満であった。そして河中の継承に干渉し、唐朝の許可も得ず弟匡國節度使行約に河中を攻めさせた。
◎. 行瑜・茂貞・韓建は京師に侵入し、元宰相韋昭度・李磎や宦官樞密使康尚弼等を殺した。そして昭宗皇帝を廃して吉王保を擁立しようとした。
◎. ところが河東李克用が起兵し侵攻してくることを聞き、あわてて自鎭に退却した。
◎.7月 李克用は王行瑜・李茂貞・韓建を討つとして大舉して南下した。
◎. 克用は絳州を陥し、刺史王瑤を殺し河中に入り王珂と合同した。
◎. 克用は匡國節度使王行約を朝邑に破り、行約は同州を捨てて京師へ敗走。弟の神策左軍指揮使行實・右軍指揮使李繼鵬[茂貞假子.閻珪]・自派の宦官中尉劉景宣・樞密使駱全瓘が昭宗を邠州に拉致しようとした。
◎. 昭宗は諸王と側近を連れ、神策将李筠・李居實に守られ石門に逃げた。
◎.8月 克用は進軍して昭宗を確保した。
◎. 克用將李存信・李存審・保大節度使李思孝は王行瑜軍を黎園寨に破った。
◎. 李茂貞は懼れて、李繼鵬に責任を押しつけて殺し、偽り降った。
◎. 王行瑜追討が命ぜられ、李克用は邠寧四面行營都招討使となり、保大李思孝・定難李思諫・彰義張鐇を率いて討つことになった。
◎.9月 克用は行瑜軍を梨園に攻め、雲陽に破った。
◎.10月 克用軍は邠寧軍を梨園北に破り、梨園を包囲し陥した。
◎. 克用は自派の匡國節度使蘇文建を靜難節度使とし、寧州に入れた。
◎. 王行瑜は龍泉寨に籠もった。
◎.11月 李茂貞が来援したが撃退され、行瑜は邠州に逃亡し降伏を求めたが克用は認めなかった。
◎. 行瑜は邠州城を捨てて慶州へ走ったが部下に殺された。
◎. 克用は邠州に入り、蘇文建に継承させた。靜難節度使蘇文建同平章事。
実力もないのに思い上がった行瑜は、韓建・李茂貞にも見捨てられひとり亡んだ。
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邠寧節度使史8

2020-10-22 19:13:48 | Weblog
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唐末の邠寧節度使は朱玫・王行瑜・李繼徽[楊崇本]の三人だけである。
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朱玫[しゅばい.邠州人]

◎.咸通十年[869] 龐勗の乱にその麾下であり、沛縣守將李直が城を離れた隙に征討使曹翔に降る。

◎.乾符六年[879] 河東節度馬步都教練使となっていて乱軍を鎮圧している。

◎.廣明元年[880]11月 河東節度使鄭從讜は代州刺史朱玫に兵を与えて黄巢を討たせている。

◎.中和元年[881]4月 黄巢は將王玫を邠寧節度使とした。邠州通塞鎮將となっていた朱玫は王玫を攻撃して殺し、別將李重古を立てて節度使として、みずからは軍を率いて巢を討った。
◎.6月 邠寧節度副使朱玫は興平に黄巣將王播に敗れて退却した。
◎.7月 邠寧節度副使朱玫が節度使となった。

中和二年[882]
◎.2月 玫は河南都統諸谷防遏使。となった。
◎.6月 玫は京城西北面行營都統となる。

中和三年[883]
◎.5月 玫は京師回復の功績として同平章事.封吳興侯を与えられた。

中和四年[884]
◎. 邠寧節度使は賜號静難軍節度。

光啓元年[885]
◎.7月 朱玫は宦官田令孜・鳳翔節度李昌符と結び、河中王重榮の鹽池利権を窺った。
◎.10月 田令孜の指嗾で朱玫・李昌符は神策・鄜延・靈・夏等軍三萬人とともに河中を討った。王重榮は河東李克用に来援を求めた。
◎.12月 朱玫・李昌符は克用・重榮軍に沙苑で大敗し逃げ帰った。克用は京師に迫り、令孜は僖宗皇帝をつけて逃亡した。

光啓二年[886]
◎.正月 朱玫・李昌符は令孜を裏切り克用・重榮に附いた。
◎. 宰相蕭遘や裴澈等は、玫・昌符と共に令孜罷免を求めたが、令孜傀儡の僖宗は同意しなかった。
◎. 朱玫・李昌符は僖宗皇帝奪回を試んだが、令孜は山西へ逃亡した。玫軍は散關まで追ったが逃した。
◎.2月 王重榮、李昌符とともに田令孜を誅することを請うた。
◎.3月 玫と李昌符は山西節度使石君涉に、令孜軍を阻止することを命じたが、君涉は敗れ鎮を捨てて逃げた。僖宗・令孜は山西興元に入った。
◎. 鳳翔にいる百官や蕭遘等は田令孜・韋昭度を誅することを請うた。
◎. 禁軍保鑾都將李鋋等は邠寧軍を鳳州に破った。
◎. 玫は僖宗が令孜の傀儡であるので、新皇帝を立てること宰相蕭遘に提案した。遘は同意しなかった。
◎.4月 玫は鳳翔百官に嗣襄王熅[肅宗の玄孫]を監軍國事に立てさせた。
その後熅は即位して、百官とともに京師に戻り、玫は兼左右神策十軍使となった。
◎. 田令孜はさすがに不利を知って兄陳敬瑄が節度使の西川監軍に逃れ、樞密使使楊復恭を左神策中尉、觀軍容使とした。
◎.5月 新帝側には多くの宰相官僚が附き、諸鎭の大半も受命したが、河中王重榮・河東李克用は同意しなかった。朱玫は自ら侍中となり諸道鹽鐵轉運等使を兼ねた。
◎. 鳳翔李昌符は玫が権限を独占するのを怒り、興元に通じた。僖宗側は昌符を檢校司徒平章事とした。
◎. 玫は將王行瑜に兵五萬を与え、興元を攻撃させ、感義節度使楊晟を破り鳳州へ進ませた。
◎.7月 王行瑜は興州を攻め、また楊晟を逐った。保鑾都將李鋋、扈蹕都將李茂貞、陳佩などが大唐峰を防禦した。
◎.9月 王行瑜は大唐峰に敗れ、興州を奪還された。
◎.10月 襄王熅が正式に即位し、改元建貞とし、僖宗を太上元皇帝とした。
◎.12月 僖宗軍は鳳州を奪還した。
◎. 楊復恭は王行瑜に邠寧節度使を与えると働きかけ、敗戦が続いて責任を問われることを懼れた行瑜はそれに応じた。行瑜は鳳州より勝手に京師に帰還し、玫を殺した。
◎. 諸軍は大乱し、京師を掠奪し、裴澈等は襄王を奉じて河中に奔った、が殺され、襄王は王重榮に殺され、百官もなかばは殺された。
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邠寧節度使史7

2020-10-21 21:56:31 | Weblog
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畢諴転出後の大中~廣明にかけては唐史は混乱していて不明異同が多い。要約のみを書く
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大中九年[855]
◎.3月 邠寧節度使畢諴は寧州より邠州に還治した。黨項が平定したからである。

大中十年[856]
◎.10月 檢校禮部尚書御史大夫邠州刺史邠寧慶節度使畢諴は檢校兵部尚書潞州大都府長史御史大夫充昭義節度副大使知節度使潞邢洺等州觀察使へ移る。

大中十一年[857]
◎.2月 通議大夫檢校左散騎常侍夏州刺史御史大夫夏綏銀宥節度使滎陽縣男三百戸鄭助[氵+助]が檢校工部尚書邠州刺史充邠寧慶節度管内營田觀察處置兼充慶州南路救援鹽州及當道沿路鎮寨糧料等使となる。
◎.4月 前朝議大夫檢校工部尚書邠州刺史邠寧節度使柳熹は檢校禮部尚書河南尹となる。

大中十二年[858]
◎. 右金吾大将軍右街使駙馬都尉劉異が邠寧節度使となる。憲宗の子安平公主の夫。

咸通元年[860]
◎. 文官裴識が邠寧節度使となる。識は父度の余光で各地の節度使を歴任したが、政績はなく、憲宗時代好きの宣宗皇帝にも宰相に任用されない程度の人物であった。

咸通二年[861]
◎. 文官吏部侍郎韋澳[字子斐.宰相貫之の子]が檢校尚書邠寧節度使となる。宰相達の人事請託を拒否したためである。

咸通三年[862]
◎. 宰相杜審權に嫌われ、韋澳は秘書監分司に貶される[分司とは東都分司のことで実職のない閑職である]が、審權は世評を懼れて河南尹に登用しようとした。
◎.7月 文官前武寧軍節度使溫璋が朝議大夫検校礼部尚書兼邠州刺史御史大夫充邠寧節度営田観察處置等使となる。武寧牙軍は札付きの驕軍で、璋には失態がないのに気に入らぬと乱して逐った。唐朝は璋に責任がないと考えすぐ任用した。8月に浙東觀察使王式が武寧に赴任し牙軍数千人を誅殺して粛清した。璋は後に京兆尹となる。

咸通七年[866]
◎.3月 吐蕃が邠寧に侵攻、節度使薛弘宗が撃退した。

咸通十年[869]
◎. 武臣?が邠寧節度使となる。

咸通十三年[872]
◎. 李平/丕が邠寧節度使。

乾符元年[874]
◎. 軍人李侃が邠寧節度使となった。

乾符二年[875]
◎.10月 邠寧節度使李侃は假父華清宮使道雅に贈官を求め弾劾される。道雅は宦官か宦官系である。

乾符三年[876]
◎.8月 賊王仙芝が東都近郊の汝州に迫り、邠寧節度使李侃・鳳翔節度使令狐綯は步騎兵を派遣して陝州・潼關を守った。

乾符四年[877]
◎.10月 邠寧節度使李侃は軍乱を起こした鹽州將王宗誠を誅し乱を収めた。

乾符六年[879]
◎.2月 邠寧節度使李侃は軍乱の続いていた河東軍に檢校戸部尚書兼太原尹北都留守充河東節度等使として赴任したが統制できず、6月疾と承して辞した。
◎. 嗣寧王李存禮が後任の邠寧節度使らしい。

中和元年[881]
◎.2月 邠寧節度使李存禮は黃巢を討とうとするが、巢に附いた將王玫に邠州を陥され逐われた。
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邠寧節度使史6

2020-10-20 19:11:03 | Weblog
開成二年[837]
◎.3月 邠寧節度使李用は卒した。軍人金吾大將軍李直臣が邠寧節度使となった。直臣の経歴は不明。

開成三年[838]
◎.7月 右金吾衛大將軍史孝章[字得仁]が邠寧節度使となった。直臣は不明。孝章は魏博節度使史憲誠の子で、唐朝に忠実で、動揺する父を唐朝に繋ぎ止めていた。憲誠が魏博を返上しようとした時、分割された相衛澶三州節度使に任用される予定であったが、何進滔の軍乱により憲誠が殺されたため実現しなかった。唐朝は忠誠を評価して高官として任用していた。
◎.10月 邠寧節度使史孝章が39歳で卒した[贈右僕射]。
◎.10月 軍人左金吾將軍郭旼が邠寧慶節度使となる。旼は子儀の侄、郭太后の叔父。

開成四年[839]
◎.5月 邠寧節度使郭旼が卒する。
◎.6月 軍人長武城使苻澈為邠寧節度。経歴不明だが、能政であったようだ。

開成五年[840]
◎. 邠寧節度使苻澈は河東節度使太原尹北都留守檢校兵部尚書禦史大夫琅琊郡開國侯食邑一千戶襲實封一百戶となり、義成節度使裴宏泰が邠寧節度使となった。宏泰は経歴不明だが諸鎭を歴任した。
◎. 是年もしくは會昌1 裴宏泰は鳳翔隴右節度使に移ったようである。
◎. 是年もしくは會昌1 鹽州刺史防禦使王宰/晏宰が銀青光禄大夫検校工部尚書兼御史大夫充邠寧節度観察處置等使上柱國太原郡開國公食邑三千戸となった。宰は智興の子である。名門の子らしく將士に厳酷であったと言われている。

會昌三年[843]
◎.4月 邠寧節度使王宰は検校工部尚書御史大夫兼許州刺史忠武軍節度使に転じた。
◎.11月 黨項が邠寧に入寇した。兗王岐が靈夏等六道元帥兼安撫黨項大使となって黨項を安撫した。黨項[タングート.後の西夏]は吐蕃に逐われて唐領域内の朔方・夏綏地域に居住していた。回紇が衰退してその圧力が無くなったことと、唐の多くの辺帥が腐敗[宦官に贈賄して就任し、収斂して蓄財する]して収奪につとめたため乱するようになった。
◎. 検校右常侍銀靑光禄大夫右金吾大将軍右街使渤海郡開國公食邑二千戸高承恭が.検校工部尚書御史大夫充邠寧節度使となった。承恭は崇文の族子?。

會昌五年[845]
◎. 黨項の侵盜はやまず、邠寧鹽州の支城堡を陥した。唐朝はこれを討つことにした。

會昌六年[846]
◎.2月 邠寧節度使高承恭は充西南面討黨項使となった。
◎. 振武節度使?李業/安業が邠寧節度使となった。

大中元年[847]
◎. 邠寧節度使李業は夏綏節度に転じたか?。前任不明の張君緒が邠寧節度使となった。君緒は経歴不明。會昌6年末のことかもしれない[李業の赴任には錯誤がある]。

大中三年[849]
◎.正/2月 吐蕃領であった秦・原・安樂三州及石門等七關之兵民が歸國し、靈武節度使朱叔明・邠寧節度使張君緒は寧州へ出兵して受け入れた。君緒は是年までらしいが後任は不明。
◎.6/7月 張君緒は蕭關を回復したと報告した。蕭關は武州とされた。
◎.8月 領域回復により涇原・靈武・鳳翔・邠寧に賞賜があった。

大中四年[850]
◎. 李知譲 是年、大中大夫使持節邠州諸軍事守邠州刺史兵馬留後が御史中丞を加えられている。5年まで在任したらしい。邠寧節度使は不明。

大中五年[851]
◎.3/5月 黨項征討がいっこうに進まないため、宣宗皇帝は宰相守司空門下侍郎平章事太原郡開國伯食邑一千戸白敏中を檢校司徒同平章事邠州刺史充邠寧節度觀察東面招討黨項等使/充招討黨項行營都統制置等使南北兩路供軍使兼邠寧節度使となった。淮西裴度以来の宰相としての出鎭であり、前例から幕僚を中央官僚のうちから選任することを許された。しかし度の時と違い、危機感はない二度目となると茶番であった。当時、敏中は翰林院の実力者鄭顥の恨みを受け、事ごとに誹謗されていた。
◎. 左諫議大夫孫景商が左庶子充邠寧行軍司馬、知制誥蔣伸が右庶子充節度副使となった。
◎.8月 敏中は南山黨項が歸順を請うたと上奏した。討伐ができたわけではなく、慰撫して形式的に降伏させただけである。
◎. 軍人陳君が邠州刺史邠州節度塞門行営使として軍事ほ執行したようだ。
◎.10月 名目上とはいえ征討が完了したので敏中の都統を免じた。正任の宰相には復帰させず司空平章事充邠寧節度使とした。

大中六年[852]
◎.4月 白敏中は特進檢校司徒同平章事成都尹劍南西川節度副大使知節度事管内觀察處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使太原郡開國公食邑二千戸へ転じた。完全に使相待遇となった。
◎.6月 朝散大夫刑部侍郎平陰縣開國男三百戸畢諴が朝散大夫検校工部尚書使持節寧州諸軍事兼寧州刺史御史大夫邠寧鹽慶武等州節度管内営田観察處置兼充慶州南路救接鹽州及當道沿途鎭寨粮料等使となった。黨項征討はまだ未完であったわけである。諴は文官であるが邊事に経略があり宣宗に抜擢された。治所は寧州である。
◎.10月 さすがに経略をもつ邠寧節度使畢諴は黨項を宣諭し帰順させた。
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邠寧節度使史5

2020-10-19 10:00:48 | Weblog
元和四年[806]
◎.9月 邠寧節度使檢校司空同平章事高崇文が鎭に卒した。
◎.10月 右羽林統軍閻巨源為邠州刺史邠寧慶節度使。巨源は范希朝下の軍人で振武節度も経験している。

元和九年[811]
◎.11月 左金吾大將軍郭釗が檢校工部尚書邠州刺史充邠寧節度使となる。釗は憲宗妃の兄、皇太子の義父。
◎.12月 邠寧節度使閻巨源は卒する。

元和十三年[815]
◎.2月 程權/執恭は滄景二州を唐朝に返上して帰朝し、4月 華州刺史鄭權が滄景に赴任。
◎.6月 程權は検校右僕射横海軍節度使より検校司空邠州刺史邠寧節度使に遷された。

元和十四年[816]
◎.11月 邠寧節度使程權卒、贈司徒。
◎.5月 憲宗は対吐蕃攻勢を企画し、検校司空忠武軍節度使武威郡公食邑二千戸李光顏を邠州刺史邠寧慶節度使、精鋭である忠武軍六千人を率いて赴鎮させた。

元和十五年[817]
◎.6月 加邠寧慶節度使李光顏特進,以城鹽州之功也。
◎.9月 光顔入朝。加同平章事。
◎.10月 吐蕃が涇原に侵攻してきた。右軍中尉梁守謙が神策軍を率いて対峙していたが、邠寧軍も支援を要請された。しかし將士は手厚い給与を受ける神策軍を妬み出動を渋った。光顔は大義を説き納得させた。

長慶元年[818]
◎.3月 檢校司空平章事邠寧節度使李光顏は鳳翔尹充鳳翔隴右節度使平章事へ。右衛/左武衛大將軍高霞寓檢校工部尚書邠州刺史充邠寧節度使。霞寓は神策軍出身で、諌官達はかって淮西で大敗した前歴を糾弾したが、宦官と結託していたため任命された。

長慶三年[820]
◎. 高霞寓は加檢校右僕射。

長慶四年[821]
◎. 高霞寓は加検校司空、また加檢校司徒。兵士より立身し、無学文盲で、高慢であったが皇帝や宦官にしっかり贈賄し高位を得ていた。

寶暦二年[823]
◎.夏 邠寧節度使高霞寓は疽發首で辞任し、檢校司徒右金吾衛大將軍に任ぜられたが途次卒した。
◎.4月 檢校左僕射右金吾衛大將軍襲密國公食邑三千戶高承簡が邠寧慶節度使となった。承簡は崇文の子で、宋州刺史として李介の軍乱の平定に貢献して兗海・義成節度を経て右金吾大将軍となっていた。

大和元年[824]
◎.8月 羌虜の辺寇に備えて寧州に屯していた邠寧節度使高承簡は、疾により辭して歸途に卒した。[贈司空]
◎. 文官の刑部尚書柳公綽[字起之]が檢校左僕射充邠寧節度使となった。邠寧は軍人の任地であったが、前任の山東節度使等で極めて能政で、軍政への知見もあった公綽が特任された。公綽は神策軍直轄の諸鎮が、邠寧領域内の要地にあるにも係わらず、邠寧節度使の指揮をうけない不合理を是正させた。

太和二年[825]
◎.6月 軍人の朔方靈武節度使李進誠が邠寧節度使となった。改革を遂行した前邠寧節度使柳公綽は檢校左僕射兼刑部尚書に戻った。

大和三年[826]
◎.5月 軍人左金吾衛大將軍劉遵古が邠寧節度使となった。李進誠は?
◎.12月 太子少師李聽[晟の子]が邠寧節度使となる。聽は魏博何進縚自立時の失態[赴任できず敗走]により左遷されていたが、宦官に贈賄して再起用されたわけである。

太和四年[827]
◎.正月 邠寧節度使劉遵古は東川節度使となった。三年末に西川杜元潁の失政により南詔蠻が侵攻し、東川郭釗が西川へ移った後である。東川にも軍人を派遣して動揺を抑えたと考えられる。

太和六年[829]
◎.3月 邠寧節度使李聽は武寧軍節度徐泗濠觀察等使となった。前任の王智興は自立して武寧軍節度使になり、李同捷討伐などで大きな功績を上げたが、武寧軍内の統制に苦しみ転任を願い出て忠武軍節度へ移った。武寧軍内は聴の赴任を喜ばず[聴の兄愿や愬もかって武寧節度使であったので事情には明るい]、先遣の吏を殺害するなどの動きがあり、懼れた聴は辞退し、太子太保の閑職に遷された。結局文官の前忠武軍節度高瑀が武寧軍へ赴任することになったが、やはり統制できなかった。
◎.3月 軍人金吾衛大將軍孟友亮が邠寧節度使となった。

太和七年[830]
◎.6月 軍人右神策大將軍李用為邠寧節度使。孟友亮は不明。用の経歴も不明。

太和九年[832]
◎.11月 李訓の党派である文官大理卿郭行餘を邠寧節度使とした。これは宦官討滅時の兵力動員と神策軍の抑えである。他に鄭注が鳳翔隴右節度使となって京師周辺の軍を抑える予定であった。ところが訓が功を焦って準備不足の間に甘露の変を引き起こし、宦官の神策軍の逆襲をうけて並び殺された。軍を動員する余裕もなかった。前使李用はすぐ再任された。
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邠寧節度使史4

2020-10-18 10:00:01 | Weblog
貞元四年[788]
◎.正月 韓遊瓌が入朝する時、軍中は処罰されると思って送るものがなかった。ところが德宗は游瓌の豐義築城提案が気に入り、留任させることにした。そのため軍中は報復を懼れて動揺した。筆頭格の都虞候范希朝は京師に逃亡した。
◎. 游瓌は豐義城を築いたが、軍士は協力せず途中で崩壊した。
◎.5月 吐蕃三萬が寇涇、邠、寧、慶、鄜等州。吐蕃は春には疾病が多いのでいつも冬に来るので諸鎭は警戒していなかったため、多くの農民が捕まってしまった。
◎.7月 游瓌は吐蕃対策として寧州に居たが、既に軍中に人望がないことを自覚して辞任を申し出た。唐朝は渾瑊に邠寧副元帥を加え、左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使とし。陳許兵馬使韓全義を長武城行營節度使とした。遊瓌は承継を待たず逃げ去るように京師に戻り右龍武統軍となった。獻甫は山西節度獻誠の從弟の軍人であり檢校工部尚書左金吾将軍。
◎. 軍士は獻甫が厳酷で、自軍の出身ではないのを嫌気し、裴滿等は乱して剽掠し、監軍楊明義に范希朝を節度使とすることを迫った。都虞侯楊朝晟は乱卒二百餘人を斬り、獻甫を迎え入れた。德宗は范希朝に代えようと迷ったが、希朝は辭し寧州刺史節度副使となった。張獻甫が檢校刑部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度觀察使となる。

貞元九年[793]
◎.2月 大軍を動員して鹽州城を再築し、吐蕃の侵入を抑えられるようにした。
◎. 獻甫は常に義倉・兵備・烽堡を整備し、夏州城も修築した。

貞元十二年[796]
◎.正月 獻甫に檢校左僕射を加。
◎.5月 邠寧節度使張獻甫が61歳で卒し[贈司空],監軍楊明義は都虞候兼御史大夫楊朝晟[字叔明]を權知留後とし、その後邠寧節度使とした。朝晟は邠寧出身で軍の実力者であったので混乱はなかった。
◎.9月 吐蕃寇慶州。
◎.是年 朝晟母憂,起復左金吾大將軍同正邠州刺史御史大夫。

貞元十三年[797]
◎.2月 德宗は方渠、合道、木波に築城し、吐蕃の侵入を防ぎたいと考え、邠寧節度使楊朝晟に要する兵力を問い合わせた。朝晟は「資財さえ与えてもらえれば自軍だけでできます」と答えた。
驚いた德宗は「鹽州築城には、七万を派兵し、他方面も総動員した。三城はそれより吐蕃勢力圏に近いが」と問うと。
朝晟「鹽州の時は、総動員のために、事前に吐蕃に情報が漏れ、敵も総動員してきたのです」「今回は自軍だけを密かに動員して築城します。三旬もあれば城はできます。城ができれば簡単には落ちません。吐蕃は前回のように総動員するでしょうから来るのに時間がかかります。しかも城の周囲に水も草もないので長期の包囲はできません。まもなくあきらめるでしょう」と答えた。
◎.3月 朝晟は軍を三分して,各一城を築いた。
◎.4月 やがて吐蕃は大軍を派遣してきたが、邠寧軍と睨み合うだけで、まもなく引き揚げた。邠寧も京師も安全になった。

貞元十五年[799]
◎.2月 朝晟 免喪,加檢校工部尚書。
◎.夏 防秋のため移軍寧州。

貞元十七年[801]
◎.5月 邠寧慶節度使楊朝晟は寧州にいたが卒した。
◎.6月 神策軍より定平鎮兵馬使李朝寀を検校工部尚書兼邠州刺史邠寧慶節度使とし、人望のある寧州刺史劉南金を副とした。しかし都虞候史經言等は不満で乱を起こそうとしたが、兵馬使高固が鎮圧した。京師防衛の重要拠点で乱が起こることを懼れた德宗は高固を節度使に代えようとした。軍中はかえって動揺した。留後孟子周が兵器を収納し、士卒を饗応してなんとか抑え込んだ。朝寀は河中渾瑊のもとから神策に入った將であり、邠寧には地盤がなかった。
◎. 高固が邠州刺史兼御史大夫邠寧慶節度使となった。固は宿將であり、寬厚で人望があったのでも上司や同列に妬まれていたが、帥となっても私怨をはらすことなく軍中は平安になった。
◎.10月 鹽州剌史杜彥先が吐蕃に攻められ城を捨てて慶州に逃げてきた。

永貞元年/元和元年[803]
◎. 高固、加検校右僕射

元和二年[804]
◎.? 邠寧節度使高固は入朝して検校右僕射右羽林統軍となった。
◎.12月 檢校司空兼成都尹御史大夫充劍南西川節度副大使知節度事管内度支營田觀察使處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使南平郡王食邑三千戸高崇文が検校司空同平章事邠州刺史充邠寧節度京西諸軍都統に移った。崇文は劉闢討伐の功績で西川節度使となったが、生粋の軍人で文盲であり、大藩の西川で外交もある行政処理に辟易し、早期の転任を求めていた。そこで宰相武元衡が西川に赴任し、対吐蕃防衛の責任者として崇文を遷した。邠寧節度単独の使相ははじめてである。
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邠寧節度使史3

2020-10-17 20:40:50 | Weblog
建中三年[782]
◎.5月 朔方節度使李懷光が朔方及神策兵1萬五千人を率いて魏博田悅・幽州朱滔を討ちます。
◎.6月 李懷光・馬燧は愜山に朱滔・王武俊・田悅連合軍に大敗する。

建中四年[783]
◎.10月 京師で涇原姚令言・朱泚が反し、德宗皇帝は奉天城に遁走し包囲された。泚は激しく攻城し状況は極めて不利であった。德宗は河北に派遣している懷光や李晟軍の帰還を懇望した。
◎.10月 邠寧將韓遊瓌と論惟明は兵三千を率いて奉天城に入った。
◎.11月 懷光軍は河中まで戻った。
◎.11月 李懷光軍は同州蒲城より京兆府涇陽に至り,兵馬使張韶を潜行させ奉天に来援を報せた。落城寸前の奉天守備軍は大いに喜び守備を固めた。
◎. 懷光は朱泚兵を醴泉に破った。泚はあわてて奉天から撤兵し京師に戻った。奉天城はあと三日ほどしか保たない状況だったと言われる。
◎. 懷光は粗放で政治的配慮がなく、自尊心の塊である德宗皇帝にその親任してた盧杞・趙贊・白志貞の失策を激しく弾劾した。杞等懼れては懷光を入朝させず京師回復を命じるように勧めた。
◎. 懷光は激怒して、魯店に戻り頓兵して進撃しなかった。そしてまた盧杞等罪惡を弾劾した。
◎.12月 德宗はやむをえず、盧杞,白志貞,趙贊を貶し、宦官翟文秀を殺した。

興元元年[784]
◎.2月 德宗に不信を受けたと知った懷光は咸陽に逗留しながら、李晟軍と合同を望み。観望して京師の朱泚と通謀していた。德宗は大軍を握る懷光に京師回復を求めた。
◎. 李懷光を太尉增實封、鐵券を与えた。懷光は「鐵券を与えるとは反した者を赦すということだ。俺は反した覚えはない」と激怒し受けなかった。
◎. 麾下の朔方左兵馬使張名振や右武鋒兵馬使石演芬はわけがわからず命に従わないので殺した。
◎. 懷光は李建徽・楊惠元軍を奪い、建徽は遁走し、惠元は殺された。
◎. 懷光は將趙升鸞に奉天城を攻めさせた。德宗は興元に逃げ、戴休顏に奉天城を守らせた。
◎. 懷光は將孟保・惠靜壽・孫福達に德宗を追わせたが、諸将は戦意がわかず取り逃がした。
◎.3月 將韓遊瓌は麾下八百餘人を率いて邠州へ還った。
◎. 懷光は自分に従わぬ李晟を討たせようとしたが、將士は朱泚と戦わず、朔方軍が同士討ちするのを好まず従わなかった。懷光は河中に拠ることに決めた。
◎. 懷光は邠州留守軍も河中に移そうとしたが、韓遊瓌は留後張昕を殺し自立した。
◎. 遊瓌は邠寧,戴休顏は奉天,駱元光は昭應,尚可孤は藍田に駐屯し李晟の節度を受け、懷光軍は孤立した。
◎. 懷光はついに燒營東走し、涇陽等十二縣を掠奪して河中へ奔った。將孟涉、段威勇等は李晟に附き、逃亡する將士も多かった。
◎.4月 邠寧兵馬使韓遊瓌が邠寧節度使になった。
◎. 行在都知兵馬使渾瑊同平章事亦朔方節度使朔方邠寧振武永平奉天行營兵馬副元帥となり邠寧も統轄した。
◎. 韓遊瓌軍は渾瑊と奉天に合流した。
◎.5月 渾瑊に従い咸陽に朱泚軍を破る。
◎.6月 遊瓌、京師回復の功により檢校左僕射,實封四百戸。
◎.7月 遊瓌、德宗の還御に随行。實封二百戸を増し、一子六品正員官。
◎.10月 渾瑊に従い遊瓌兵六千を率い懷光を討つ。

貞元元年[785]
◎.5月 韓遊瓌と渾瑊は同州朝邑を攻めた。李懷光將閻晏は戦おうとしたが、士卒は遊瓌の邠軍を見て、「あれは俺達の父兄や子弟だ、殺しあうなんか出来やしない」と騒ぎ、晏はあわてて撤退した。
◎.8月 馬燧・渾瑊・韓遊瓌軍は河中に迫った。
◎. 李懷光の元から帰順した邠寧將楊懷賓の子朝晟を都虞侯とした、懷賓は游瓌の後援者であった。
◎. 河中が陥ち、華州駱元光が帰順してきた懷光將徐庭光を私怨により殺した、友人の遊瓌は元光を弁護し処罰を免れさせた。
◎.11月 德宗が天帝を圓丘に祭り、邠寧韓遊瓌等が侍祠した。

貞元二年[786]
◎.10月 邠寧節度使韓遊瓌は平川に吐蕃を破った。
◎.12月 韓遊瓌は吐蕃が陥した鹽州を攻めた。

貞元三年[787]
◎.閏5月 渾瑊が吐蕃と平涼に和約に出向く、駱元光と游瓌も随行する。吐蕃は違約して襲撃した。元光と游瓌は迎撃し撤退に成功した。
◎.10月 吐蕃は寇豐義城、前鋒は大回原に至る、邠寧節度使韓遊瓌が撃退。
◎. 吐蕃は寇長武城、故原州に築城し拠った。
◎.10月 妖僧李軟奴が謀叛し、游瓌の子殿前射生將韓欽緒もその徒党になった。謀叛が発覚し欽緒は邠州に逃亡したが、游瓌は捕らえて京師に送った。宰相李泌は動揺を抑えるため深い追求はしなかった。
◎.12月 游瓌は入朝し謝罪した。

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邠寧節度使史1

2020-10-15 10:00:35 | Weblog
至德元年[756]
◎.7月 皇太子[肅宗]が靈武で即位し、關内采訪使を節度使に,徒治安化,前蒲關防御使呂崇賁を關内節度兼順化郡太守とするが実体はない。崇賁は河西系の軍人、伝はない。
◎.10月 禄山軍に抗戦していた扶風太守兼防御使薛景仙を關内節度副使とする。
◎.12月 開府儀同三司檢校兵部尚書/太常卿河西隴右節度使王思禮を關内節度使にする。

至徳二年[757]
◎.2月 關内節度使王思禮・郭英乂・王難得は武功で安禄山将安守忠に敗北し,思禮は扶風に退却する。
◎.4月 郭子儀・王思禮は軍を合わせて京師を攻めるが、安禄山将安守忠に京城西清渠で大敗。
◎.9月 唐朝諸軍・回紇援軍が京師回復に向かい、王思禮は後軍となる。
◎.12月 京師回復の功績で御史大夫兼工部尚書招討両京并定武威武興平等軍關内節度使王思禮は開府儀同三司行工部尚書兼禦史大夫封霍國公實封六百戶。
◎. 關内節度使王思禮が兼潞沁節度使[前使程千里が賊軍に捕まったため]。

乾元元年[758]
◎.8月 關内行営節度使河西隴右伊西行営兵馬使王思禮は來朝し、加兵部尚書,餘如故。
◎.9月 朔方郭子儀など七節度使軍が安慶緒を討つ、河東李光弼と關内潞州節度使王思禮も援軍となる。
◎.10月 王思禮、安慶緒軍二萬を相州に破る。

乾元二年[759]
◎.3月 唐朝軍は史思明に大敗して潰滅するが、李光弼と王思禮軍だけは体制を保って撤退した。
◎.4月 王思禮は潞城縣東直千嶺に侵攻してきた史思明軍を撃退した。
◎.6月 置邠寧節度使領邠寧慶鄜坊丹延涇原九州
◎.7月 兵部尚書潞州大都督府長史潞沁節度霍國公王思禮が太原尹充北京留守河東節度副大使へ移る。これ以前に關内節度使の兼任は解かれていたはず。思禮は統治能力はある政治的将軍で、戦闘にはからきし弱く負けてばかりである。

乾元三年/上元元年[760]
◎.正月 黨項羌などが京畿に迫ったので、邠寧九州節度を邠寧等州節度と鄜坊丹延[号渭北]節度に分け、兵権を取り上げた郭子儀を名目上領邠寧鄜坊兩道節度使として威名を借り、邠州刺史桑如珪を領邠寧,鄜州刺史杜冕を領鄜坊節度副使として分道招討させた。如珪については不明。
◎.9月 元宰相荊南節度呂諲が郭子儀の起用を求め、鎭邠州。
◎.11月 涇州まで黨項が侵攻してきた。
◎.12月 黨項は京兆府美原、華原、同官まで侵入し大掠した。

上元二年[761]
◎. 廃關内節度使罷領單于大都護.涇原寧慶鄜坊丹延州隷邠寧.麟勝州隷振武.混乱による誤記載。
◎.2月 奴剌、黨項寇寶雞,燒大散關,南侵鳳州大掠。
◎.5月 黨項寇寶雞。6月 寇好畤。
◎. 開府儀同三司兼禦史大夫元帥都虞侯魯國公臧希譲が節度使か?

元年/寶應元年[762]
◎.建卯月 絳州諸軍が都統李國貞を殺し剽掠し続け、河東軍も節度使鄧景山を殺し乱した。肅宗はどうしようもなく、冷遇してきた郭子儀を封汾陽王,知朔方河中北庭潞澤節度行營兼興平定國等軍副元帥として起用し鎮圧にあたらせた。
◎. 邠州刺史臧希譲は山南西道觀察使へ転任。後任は張蘊琦か。
◎.建辰月 黨項寇奉天。5月 寇同官、華原。  京師近郊まで侵入されボロボロの状態である。

寶應二年/廣德元年[763]
◎.7月 吐蕃入大震關,陷蘭、廓、河、鄯、洮、岷、秦、成、渭等州,盡取河西、隴右之地。
◎.10月 吐蕃は涇州を攻め、刺史高暉は降って吐蕃につき京師へ誘導した。宦官程元振が秘匿していたため吐蕃が邠州を過ぎて代宗は始めて報告を聞いて狼狽した。奉天・武功ず攻撃され、京師は動揺した。
◎. 危機に瀕してあわてて郭子儀を關内副元帥に任じたが、子儀に兵力はなくなにもできなかった。
◎.10月 渭北行營兵馬使呂月將は吐蕃を盩厔西で戦ったが敗北した。代宗皇帝は東都へ逃亡した。
◎.10月 吐蕃は京師に入り、邠王守禮の孫廣武王承宏を皇帝とした。そして大掠して帰還した。
◎.11月 吐蕃は邠州を陥し、邠寧節度使張蘊琦は敗走したと?。
◎.11月 鄜坊節度使白孝德と邠寧節度使張蘊琦は入京し治安につとめた。

廣德二年[764]
◎. 邠寧節度使は張蘊琦から鄜坊節度使白孝德に代わったようだ。蘊琦は不明。
◎.9月 郭子儀は充北道邠寧涇原河西以來通和吐蕃使・陳鄭澤潞度使李抱玉は充南道通和吐蕃使となった。
◎. 吐蕃が邠州に迫ったため、郭子儀はその子朔方兵馬使晞を派遣下した。
◎.9月 邠寧節度使白孝德は吐蕃を邠州宜祿で破った。孝德は安西人であり、李光弼に仕えた將、この歳北庭行營節度使から鄜坊邠寧節度使へ。
◎.10月 僕固懷恩が回紇・吐蕃を率いて邠州に至り、節度使白孝德と郭晞は籠城した。
◎.10月 郭子儀は邠州へ支援し吐蕃と戦った。吐蕃等は邠州を攻めたが勝てなかった。


永泰元年[765]
◎.3月 吐蕃と興唐寺と講和した。郭子儀は河中兵を奉天に入れ、又涇原を守らせた。
◎.9月 僕固懷恩は回紇・吐蕃・吐谷渾・黨項・奴剌など數十萬の大軍を率いて入寇した。そして奉天,同州,盩厔を同時攻撃した。郭子儀は鳳翔李抱玉、滑濮李光庭、邠寧白孝德、鎮西馬璘、河南郝庭玉、淮西李忠臣をして守らせた。ところが懷恩が中途の靈州鳴沙で病死し、蕃軍は解体してしまった。
◎.9月 吐蕃は邠州を攻め、節度使白孝德は籠城した。
◎.10月 吐蕃は退却して邠州に至り、回紇と会い、又奉天を攻めた。
◎.10月 郭子儀が旧交のある回紇と盟約し、吐蕃を討ったため危機は去った。

永泰二年/大暦元年[766]
◎.2月 四鎮北庭行營節度使馬璘が邠寧節度使を兼任した。段秀實が三使都虞候となった。四鎮北庭行營軍は安史の乱に安西北庭を出て、懷州など各地を放浪していたが定住の場所を得た。
◎. 白孝德は封昌化郡王となり検校刑部尚書へ移った。

大暦二年[767]
◎.9月 吐蕃軍數萬は靈州を囲み、遊騎は涇州潘原、邠州宜祿に至った。郭子儀は河中より三萬を率いて京師を守った。

大暦三年[768]
◎.8月 吐蕃十萬が靈武へ侵攻し、吐蕃尚贊摩が二萬で邠州を攻撃した。京師は戒嚴。邠寧節度使馬璘が撃退した。
◎.12月 吐蕃の侵攻に、邠寧軍節度馬璘では耐えられず、河中郭子儀の来援が必要になった。しかし遠隔地の河中からの出動では対応できないとみた宰相元載は、郭子儀軍主力を邠州に置くことを提議し、四鎭北庭行軍邠寧節度使馬璘を移鎭させて涇原節度使とし、涇原は貧地なので度支給与で養い、邠寧慶三州を郭子儀領[朔方河中邠寧節度觀察使で邠寧慶は觀察使]とした。
◎. 馬璘は都虞候段秀實を知邠州留後とし直ちに涇州に赴任した。これは四鎭北庭軍が各地を流浪し、やっと邠寧に落ち着いたにもかかわらず、また僻地の涇原に追い遣られる不満がわかっていたからである。牙軍主力を率いて移動すれば、留守軍はさほど強力ではない。それでも刀斧兵馬使王童之を中心に反乱が計画されたが、警戒していた秀實は探知し、童之等数人だけを誅して抑え込んだ。
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山南東道節度使史8

2020-10-14 10:00:44 | Weblog
景福元年[892年]
◎.2月 忠義節度使趙德諲が卒し、子の匡凝が自立した。

乾寧五年/光化元年[898年]
◎.7月 忠義節度使趙匡凝は朱全忠軍が清口で楊行密に大敗したことを聞き、陰で楊行密と通交した。怒った全忠は宿州刺史氏叔琮を派兵し、唐州・隨州を陥し、襄州兵を鄧城に破った。
◎.8月 全忠將康懷貞が鄧州を陥した。懼れた趙匡凝は朱全忠に帰服した。

光化二年[899年]
◎.11月 加忠義節度使趙匡凝兼中書令。

天復三年[903年]
◎.11月 5月成汭が淮南へ出兵した隙に、馬殷と雷彥威は荊南を襲撃し陥していた。山南東道節度使趙匡凝は荊南に派兵して雷彥威兵を逐い、弟匡明を荊南留後とした。
◎. 多くの諸道は唐朝に税を納めていなかったが、匡凝兄弟は常に納めていた。

天祐元年[904年]
◎.5月 忠義節度使趙匡凝は水軍で夔州を攻めたが、王建の知渝州王宗阮に撃退された。
◎.7月 当時朱全忠が制覇を目指し、李茂貞、楊崇本、李克用、劉仁恭、王建、楊行密、趙匡凝等は通謀して対抗しようとしていた。

天祐二年[905年]
◎.5月 忠義節度使趙匡凝は王建と通じた。
◎.8月 朱全忠は趙匡凝が楊行密・王建と通じたのを知り、武寧節度使楊師厚を先鋒とし、自らも大軍を率いて侵攻してきた。
◎. 楊師厚が唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥し、朱全忠軍は漢北に至った。
◎.9月 楊師厚は趙匡凝を漢濱に大破して襄州を陥し、匡凝は淮南へ逃亡した。
◎.9月 弟荊南節度使趙匡明も二萬を率いて西川へ奔った。
◎9月. 朱全忠は楊師厚を山南東道留後とし、間もなく山南東道節度使とした。そのまま後梁に至る。均房二州は馮行襲の戎昭軍節度の領域となった。

天祐三年[906年]
◎.5月 王建麾下となった金州戎昭軍節度を廃し、全忠麾下に残った均、房二州は忠義軍節度に属させた。
◎.6月 忠義軍節度号をやめ山南東道節度に復した。


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山南東道節度使史7

2020-10-13 10:00:40 | Weblog
咸通二年[861年]
◎. 蔣係は東都留守に転じた。
◎.10月 御史大夫鄭涯[字?]より金紫光禄大夫検校右僕射守襄州刺史御史大夫充山南東道節度使管内観察處置等使榮陽郡公三千戸となる。文官であるが伝がない。

咸通四年[863年]
◎. 鄭涯 ?
◎. 檢校司徒淮南節度使崔鉉[字台碩]が檢校司徒山東節度使となったようだ。

咸通五年[864年]
◎. 崔鉉は荊南節度使に移ったようだ。
◎. ?盧耽[字?] 山東節度使。文官出身、伝はない。

咸通九年[868年]
◎.9月 山東節度使盧耽は劍南西川節度使となる、定邊軍節度があったため統押諸蠻安扶等使を領せず。

咸通十年[869年]
◎. ?裴坦[字知進].後に宰相となる。

咸通十二年[871年]
◎. 裴坦 ?
◎.7月 兵部尚書盧耽[字?]が同平章事山東節度使となる。耽は再任である。

咸通十三年[872年]
◎. 盧耽 ?
◎.3月 宰相于琮[字禮用]が開府儀同三司檢校左僕射兼襄州刺史御史大夫充山南西道節度觀察等使に左遷され、すぐに正議大夫普王傅分司へと再貶される。
◎. 陝虢観察使楊知溫[字?]が檢校兵部尚書襄州刺史山南東道節度使となる。進士出身。

咸通十四年[873年]
◎. 楊知溫  ?  乾符4年には荊南節度使であった。
◎. 宰相李蔚[字茂休] 山東節度使? → 檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事淮南節度使。蔚は進士出身。宰相後、楊知溫の跡の整理のためか。
◎.11月? 光禄大夫太子少傅于琮 檢校司空襄州刺史充山南東道節度觀察處置等使

乾符三年[875年]
◎. 于琮 → 右僕射? 乾符6年右僕射説あり
◎. 検校右僕射東都留守李福[字能之] 檢校右僕射襄州刺史兼御史大夫充山南東道節度使。福は宰相石の弟で進士出身。團練兵を整備していたため、流賊王仙芝も入れず、鄂岳方面へ転じた。危機に陥った荊南節度使楊知溫を自ら沙陀兵を率いて救援した。

乾符五年[878年]
◎.2月 李福は荊南救援の功績で加検校司空平章事

乾符六年[879年]
◎. 李福 辞して太子太傅となる。
◎.10月 檢校右常侍山東行軍司馬劉巨容[字?]が山東節度使となる。徐州將で龐勗下より帰順し王郢を討つ功があり、蘄黃招討副使とし黄巣を討つ。
◎.11月 荊南王鐸が黄巣に逐われ逃走したあと、劉巨容と江西招討使淄州刺史曹全晸は荊門に黄巣を迎撃し潰滅させた。巢は南方へ逃亡したが巨容は追わなかった。その言として「唐朝は都合の良いときだけ軍人を使い、賊が亡ぶと使い捨てる。賊は富貴のもとだから滅ぼしてはいけない」
◎. 功績により加檢校禮部尚書

中和元年[881年]
◎. 巨容は諸道兵と黄巣を討ち、南面行營招討使となり、檢校司空兼天下兵馬先鋒開道供軍糧料使封彭城縣侯。
◎. 巨容は吏治に明るく、僖宗行在との通行を保護した。→加同平章事

中和四年[884年]
◎.11月 山西鹿晏弘が東へ出、秦宗權將秦誥・趙德諲と會して襄州を陷した。山南東道節度使劉巨容は成都へ奔った。襄州は秦宗權支配下となり趙德諲が留後となった。

光啓三年[887年]
◎.12月 秦宗權所署山南東道留後趙德諲は荊南を陥し節度使張瓌を殺した。そして將王建肇を遺して戻った。荊南はすっかり荒廃し數百家しか残っていなかった。

文德元年[888年]
◎.4月 歸州刺史郭禹[後の成汭]が荊南を攻め、留守王建肇を黔州に逐った。
◎.5月 秦宗權山南東道留後趙德諲は荊南を失い、秦宗權が劣勢になったことを知り、山南東道をもって朱全忠に降った。全忠は山南東道を忠義軍節度として、德諲を節度使充蔡州四面行營副都統とした。

龍紀元年[889年]
◎.3月 秦宗權を平定され、忠義節度使趙德諲は中書令となった。
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山南東道節度使史6

2020-10-12 10:00:25 | Weblog
長慶四年[824年]
◎. 敬宗即位し柳公綽は加檢校左/右僕射。

宝暦二年[826年]
◎.11月 宰相李逢吉[字虛舟]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使臨漢監牧使。政敵裴度が任用されたため出る。麾下の張又新・李續之などを幕僚に帯同していく。
まもなく檢校司徒に進む。
◎12月 柳公綽は刑部尚書となる。

太和元年[827年]
◎.4月 有罪な門下史田伾を襄州に匿い引き渡さなかったことを弾劾され、逢吉は奪一季俸,幕僚李續之は涪州刺史、張又新は汀州刺史に左遷された。

太和二年[828年]
◎.10月 李逢吉は汴州刺史宣武軍節度使に転じ、宰相竇易直[字宗玄]が檢校左僕射同平章事充山南東道節度使臨漢監牧等使.晉陽郡公に出る。

太和四年[830年]
◎.9月 竇易直は左僕射判太常卿事となり、宰相裴度[字中立]が守司徒兼待中襄州刺史充山南東道節度臨漢監牧等使となる。牛党に出された。

太和七年[833年]
◎. 裴度は、元和に置かれた臨漢監牧使を廃して、善田四百頃に戻した。

太和八年[834年]
◎.3月 裴度は司徒兼侍中判東都尚書省事充東都留守。に転じる。
◎. 兵部尚書王起[字舉之]が檢校右僕射襄州刺史充山南東道節度使となる。濱漢塘堰を工事し治水に努める。
◎. 李訓は起の門下生の為、加銀靑光禄大夫

太和九年[835年]
◎.8月 李訓の推薦により王起は兵部尚書判戸部となる。甘露の変には坐せず。
◎.8月 戸部侍郎判戸部李翺[字習之]が檢校禮部/戸部尚書充山南東道節度使。

開成元年[836年]
◎. 山東節度使李翺 鎭に卒。諡曰文。
◎.7月 刑部尚書殷侑[字?]が檢校右/左僕射充山南東道節度使となる。

開成二年[837年]
◎.3月 山東節度使殷侑は貶?太子賓客分司。疾辭ともいう。すぐ検校右僕射忠武軍節度使となる。
◎.3月 左僕射兼判吏部尚書銓事李程[字表臣]が檢校司徒為襄州刺史山南東道節度使となる。

開成四年[839年] 
◎. 山東節度使李程は卒する。七十七歳。贈太保,諡曰繆。 旧紀では東都留守になったという記述もある。
◎.8月 左僕射奇章郡公牛僧孺[字思黯]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使に。

開成五年[840年]
◎. 牛僧孺、進檢校司徒。武宗即位のため。

會昌元年[841年]
◎.7/閏9月 山東節度使牛僧孺は貶太子少師/少保/太子太師?。李徳裕が襄州水害を弾劾したため。
◎. 嶺南節度使盧鈞[字子和]が山東節度使に転じる。寛厚能政廉潔をもって知られ漢水が襄陽に水害を起こすため、築堤して防いだ。鈞は進士出身。

會昌四年[844年] [一時昭義兼任]
◎.7月 昭義劉稹の征討に際して、衆望のある山東節度使盧鈞を昭義節度招撫使として兼任させ、8月.檢校兵部尚書兼潞州大都督府長史昭義節度澤潞邢洺磁觀察等使として専任させた。
◎. 太常卿鄭肅[字乂敬]が検校右僕射山東節度使となる。肅は進士出身。

會昌五年[845年]
◎.七月 山東節度使鄭肅は、宰相李徳裕の推挽で檢校尚書右僕射同中書門下平章事として宰相となる。

大中元年[847年]
◎. 檢校工部尚書兼御史大夫忠武軍節度使盧簡辭[字子策]が檢校刑部尚書襄州刺史山南東道節度使に転じる。簡辭は進士出身、綸の子。

大中二年[848年]
◎. 盧簡辭は坐事貶衢州刺史[理由不明.坐李徳裕か?]
◎. 銀靑光禄大夫吏部尚書高元裕[字景圭]を検校吏部尚書山南東道節度管内観察處置等使使持節襄州諸軍事兼襄州刺史御史大夫渤海縣男食邑三百戸とする。元裕は積年の税の滞納分の免税を請願した。

大中六年[852年]
◎.夏 高元裕は吏部尚書となるが途次に卒する。76歳、贈尚書右僕射。
◎.6月 天平軍節度使李景譲[字後己]が檢校戸部尚書山南東道節度使襄州刺史酒泉縣男食邑三百戸となる.景讓は文官。

大中十年[856年]
◎.春/3月 山東節度使李景譲は吏部尚書に。
◎. 戸部侍郎判戸部徐商[字義聲]が正議大夫検校戸部尚書兼襄州刺史御史大夫充山南東道節度管内観察處置等使東莞縣子五百戸となった。
◎. 商は剽悍な山棚民を兵団として編成し、號捕盜將として盗を捕らえさせた。湖南・江西の兵乱に際しては派兵して鎮圧させた。

咸通元年[860年]
◎. 徐商は入朝し御史大夫となった。
◎. 兵部尚書蔣係[字?]は檢校左僕射襄州刺史山南東道節度使淮陽縣公五百戶となった。
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山南東道節度使史5

2020-10-11 10:00:51 | Weblog
元和十二年[817年] ここからは特記がない場合は鄧隋唐節度使の記述である。
◎.正月 袁滋は撫州刺史に貶された。確信犯であり、憲宗は滋の統治能力を評価しているので、9月にまた湖南觀察使になる。
◎. 李愬は唐州に赴任し、意気阻喪した軍の再編に努力した。淮西軍は実績の無い愬を軽んじて警戒しなかった。
◎.2月 愬は増兵を求め、昭義、河中、鄜坊兵二千が給された。
そして元濟將丁士良を捕らえて起用し麾下とした。
◎.3月 元濟文城柵守將呉秀琳が愬に降った。鄧隋唐軍の志気も上昇してきた。
◎.4月 唐鄧軍は査岈山を降し、淮西將柳子野を捕ら麾下とした。
◎.5月 唐鄧軍柳子野、李忠義は郎山を破り、守將梁希果を捕らえた。また張柴で騎將李祐を捕らえて腹心とした。
◎.8月 愬は側面から小勝を重ねていたが、淮西の主戦線は北部の郾城であり、そこでは李光顔・烏重胤が、淮西董重質と激戦していたが押され気味であった。そこで宰相裴度は親臨して督戦することになった。淮西軍もまた総力をあげて迎撃態勢を築いた。
◎.9月 愬は呉房縣を取り、淮西の精兵が郾城に集められているのを知った。
◎.10月 愬は裴度に蔡州を強襲する策をつげ承認された。
◎. 愬は全軍を率いて、張柴を陥し、將士に淮西の治所蔡州を襲撃すると告げた。將士は戦慄したが命に従い、大風雪の中を蔡州へ向かった。
◎. 三十年以上も唐朝軍を寄せ付けたことが無い蔡州は無防備で、愬軍はたちまち乱入し、吳元濟を捕らえた。
◎. 淮西主将董重質は軍を捨てて単騎愬に降り助命された。忠武李光顔が軍を慰撫し自軍に加えた。これより忠武軍節度は唐朝軍内最強の部隊となった。
◎. 宰相裴度は蔡州に入り、愬より鎭を引き渡され、淮西は平定された。
◎.11月 功績により檢校左散騎常侍隨唐鄧節度使李愬は檢校左僕射襄州刺史充山南東道節度襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使となった。山東節度使は再統合された。
山東襄州節度使鄭權は、13年初に華州刺史潼關防御鎮國軍使へ転じた。

元和十三年[818年]
◎.5月 山南東道節度使李愬は対吐蕃対策として鳳翔尹鳳翔隴右節度使へ転じたが、7月淄青節度李師道征討のため徐州武寧軍節度へ転じた。
山南東道は淮西が平定され安全な土地となり、文官の戸部侍郎孟簡[字幾道]が檢校工部尚書襄州刺史山南東道節度使となった。簡は宰相候補であったがなり損ね、憤懣からか厳格な統治を行いった。

元和十四年[819年]
◎.2月 簡が鄖鄉鎮遏使趙潔を異例に鄖鄉縣令にしたため罰俸となった。
◎.8月 襄州穀城縣に臨漢監牧を置き、山南東道節度使が監牧使を兼任した。
◎末. 山東節度使孟簡が太子賓客分司に左遷された。部下を専殺したことと、それを宦官吐突承璀に贈賄してもみ消そうとしたことによる。

元和十五年[820年]
◎.正月 檢校兵部尚書劍南東川節度使李逢吉[字虛舟]が襄州刺史充山南東道節度使となった。宦官と結託している人物であり、「牛李の党争」の牛派の頭目として、李派の裴度と対立している。淮西・成德征討に消極的で憲宗に排除され東川に逐われていたが、穆宗皇帝になつて勢力を回復してきた。

長慶二年[822年]
◎.2月 前成德軍節度使牛元翼を檢校工部尚書襄州刺史充山南東道節度觀察臨漢監牧等使としたが、元翼は深州で反乱していた王廷湊に包囲されていた。深州刺史元翼は節度使田弘正を殺し自立した廷湊に従わず、唐朝から深冀節度使→成徳軍節度使に任ぜられていた
が孤立して戦っていた。
◎.2月 元翼が包囲され赴任できないので兵部郎中知制誥馮宿が檢校左庶子充山南道節度副使權知襄州軍府事として代理を務めた。
◎.3月 李逢吉は穆宗の太子時代の師傅であり、宰相復帰を求めて宦官に運動し、兵部尚書となった。
◎.3月 元翼は包囲が緩んだ隙に脱出したが、残った將士は廷湊に殺された。

長慶三年[823年]
◎.5月 山南東道節度使牛元翼が卒した。元翼が死んだことを聞いた成德王廷湊は抑留していた元翼の家族を皆殺しにした。
◎.5月 尚書左丞柳公綽[字起之]が銀青光禄大夫検校戸部尚書襄州山南東道節度等使となった。公綽は厳正な人物であった。
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山南東道節度使史4

2020-10-10 10:00:56 | Weblog
永貞元年[805年]
◎.12月 于頔に同平章事を加えた。

元和二年[807年]
◎.12月 半自立していた于頔は憲宗皇帝が西川劉闢・鎭海李錡などを討つのをみて懼れ歸順を考えるようになった。憲宗は頔を慰撫しようとし、その子季友に皇女普寧公主を尚させた。頔は喜び山東を返上し入朝することになった。

元和三年[808年]
◎.9月 檢校左僕射平章事山東節度使燕國公于頔は入朝し、司空同平章事[宰相であるが実権はない]となる。代わって財政官僚の右僕射裴均[字君齊]が檢校左僕射同平章事襄州長史充山南東道節度使郇國公なった。均は幕僚出身の文官で宦官と結び贈賄で出世してきた。

元和四年
◎.4月 裴均は銀器一千五百兩を違例で皇帝に献上した。

元和五年
◎.3月 淮西では申州刺史吳少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は唐朝に従わなかったが、攻撃的ではなかったため、境界部は一応平穏だった。

元和六年
◎.4月 文官の戸部侍郎判度支李夷簡[字易之]が檢校禮部尚書襄州大都督府長史山南東道節度使となった。
◎. 夷簡は、貞元時から対淮西防衛のために来ていたが、老衰して実体が無くなった江西兵五百[曹王皐が連れてきたものであろう]を廃止して節減した。
◎.5月 前檢校左僕射平章事山南東道節度使裴均は卒した。

元和八年
◎.正月 山南東道節度使李夷簡は檢校戸部尚書成都尹充劍南西川節度使へ。戸部尚書袁滋[字德深]が檢校兵部尚書襄州刺史充山南東道節度使となった。
◎. 滋は文官で極めて能政、無駄な出費と考え淮西融和派である。

元和九年
◎.9月 淮西節度使吳少陽が卒し、子の元濟が自立し、継承承認を求めて、周辺の許州舞陽縣等四縣へ侵攻した。
◎.9月 融和派の山南東道節度使袁滋は檢校兵部尚書兼江陵尹荊南節度使へ、代わって有能な武官の検校右僕射荊南節度使鄭国公嚴綬が檢校司空襄州刺史山南東道節度使となった。
◎. 10月
山南東道節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使として諸道兵を率いて吳元濟を討つことになった。内常侍知省事崔潭峻がその監軍となった。綬は將士に多額の給与を与えて甘やかし、宦官に贈賄して軍費を浪費していった。

元和十年
◎.正月 嚴綬は蔡州の境界へ出兵した。淮西吳元濟が削官された。
◎.2月 嚴綬軍は磁丘で淮西軍に敗れ、唐州へ退却した。
◎.10月 征討体制の立て直しのために山南東道を二分割し、文官の戸部侍郎李遜[字友道]を襄州刺史充襄復郢均房節度使として統治と供軍を担当させ、神策軍出身の武官右羽林將軍高霞寓を唐州刺史充唐隨鄧節度使とし軍事に専念させた。霞寓は宦官と結びついた将軍で、勇敢ではあるが將才のない軍人であった。
◎.11月 失敗した山南東道節度使嚴綬は罷免され太子少保となった。

元和十一年
◎.3月 唐鄧節度使高霞寓は淮西兵を郎山に破ったとした。唐朝軍の常として小勝を上げると大げさに戦勝報告をする。
◎.6月 高霞寓は鐵城で大敗し敗走した。軍が潰滅したため、宦官達も隠すことができなかった。
◎.7月 高霞寓は貶歸州刺史、李遜もまた太子賓客→恩王傅へ貶された。敗戦は、李遜が將士を礼遇したため、唐州の霞寓軍から將士が襄州に逃亡し、弱体化したためだと、責任を問われないように宦官達が誣告したためである。
◎.7月 河南尹鄭權が襄州刺史山南東道節度使となり、荊南節度使袁滋が唐州刺史彰義節度申光蔡唐隨鄧觀察使[鄧隋唐と淮西申光蔡節度を名目上兼任]として征討にあたることになった。權は進士出身であるが兵法には通じている。袁滋は文官でしかも融和派である。兵権は隨州刺史楊旻が唐州刺史充行營都知兵馬使としてあたることになった。
◎.11月 袁滋は唐州に赴任すると、吳元濟に相互不可侵を求めた。それを知った憲宗は滋を解任し、閑廐苑使太子詹事李愬[字元直]を檢校左散騎常侍兼鄧州刺史唐隨鄧節度使とした。愬は晟の子、聽の兄である。
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山南東道節度使史3

2020-10-09 11:43:44 | Weblog
建中三年[782年]
◎.11月 検校左常侍兼御史大夫山南西道節度使賈耽が檢校工部尚書兼襄州刺史兼御史大夫山南東道節度使となり、前山南東道節度使李承は潭州刺史湖南觀察使に転じた。耽[字敦詩]は明経出身の文官だが兵法にもつうじていた。崇義の反時は進出して均州を陥す功績もあった。

建中四年[783年]
◎.正月 希烈將封有麟が鄧州を占拠し、貢獻、商旅が皆不通となった。上津山路を開き迂回することにした。

◎.4月 唐朝軍は淮西李希烈に敗北が続き、北からは李勉・哥舒曜、南からは荊南節度使張伯儀が淮西應援招討使、山南東道節度使賈耽・江西節度使曹王皋が副となり征討を進めることになった。しかし3月に既に伯儀は安州で大敗しており意味はなかった。
◎.8月 希烈將曹季昌が隨州を以って降ったが、すぐ殺された。

興元元年[784年]
◎.正月 山南東道行軍司馬樊澤を兼御史大夫山東節度使とし、前山南東道節度使南皮賈耽は4月に工部尚書となった。澤は耽の使いとして德宗の下に行き節度使を奪ったわけだが、耽は事を荒立てずに即日離鎭したのだった。澤[字安時]は幕僚として兵法に通じていた。諫議大夫元帥行軍右司馬を歴任していた。

貞元元年[785年]
◎.3月 李希烈は鄧州を陥し、唐鄧隋招討使黃金岳を殺した。
◎. 唐鄧二州が東都留守都防禦使へ移管した。実質的な意味はない。

貞元二年[786年]
◎.2月 李希烈將杜文朝・張嘉瑜が襄州を攻めたが、山南東道節度使樊澤はこれを破って捕らえた。
◎.4月 淮西將陳仙奇が希烈を殺した。
◎.5月 淮西將李惠登が隋州を以って降った。
◎.6月 淮西將吳少誠が其節度使陳仙奇を殺して自立した。
◎.7月 淮西將薛翼が唐州を以って降った。

貞元三年[787年]
◎.閏5月 李希烈は誅されたが、後継の吳少誠も反唐朝姿勢であったため、重要な山東節度には、名将で皇族の檢校戸部尚書荊南節度使嗣曹王皋[字子蘭]を任じ,襄鄧復郢安隨唐七州を隸させた。山南東道節度使樊澤は代わって江陵尹荊南節度使となった。皐は太宗の子曹王明の末。李希烈の乱に南方戦線を支えて圧迫し、唐朝の財源である江淮への進出を許さなかった。唐鄧二州は東都からの復領である。

貞元八年[792年]
◎.3月 檢校戸部尚書山南東道節度使曹成王皋が卒した。節度判官李實が知留後事となったが、刻薄吝嗇で人望がなく、將楊清潭が乱し實を逐った。乱兵は人望があった曹王家は襲わなかった。翌日、都將徐誠が入城し、清潭等六人を誅した。實は京師に戻ったが罰せられず司農少卿となった。實は皇族で道王元慶の玄孫。唐朝は前山東節度使であった荊南節度使樊澤を戻した慰撫した。

貞元十四年[798年]
◎.9月 山南東道節度使檢校尚書右僕射襄州刺史樊澤が卒し、後任に陝虢觀察使于頔[字允元]を山南東道節度使となった。頔は蔭位で立身し、剛腕で治績を上げてきた。

貞元十五年[799年]
◎.3月 淮西呉少誠軍が唐州を襲い、監軍邵國朝、鎮遏使張嘉瑜を殺し、百姓千餘人を拉致した。
◎.10月 于頔は安黄節度使伊慎・知壽州事王宗や忠武上官兌、宣武韓弘とともに淮西呉少誠を討つことになった。
◎.11月 于頔は蔡州の呉房・朗山縣を陥したと奏上した。
◎.12月 唐朝軍は雑多に進軍し小溵水で淮西軍に敗れ潰走した。

貞元十六年[800年]
◎.2月 夏綏節度使韓全義が蔡州四面行營招討使となり、十七道兵は全義の指揮を受けることになったが敗北が続いた。当然山東も麾下である。
◎.5月 韓全義は不様に敗走し、山南東道節度使于頔は情勢をみて、呉少誠を討つためとして、戰士を募り、軍備を増強し、貨財を聚斂して上納しなかった。そして自立の傾向を示した。姑息な德宗はどうしようもなく専横にさせていた。
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