封爵の最下位段階である開國縣男のリストをテストアップします。
記録されている大半はカバーしているはずですが、本来多数に授爵された
ものですから、実際は相当な漏れがあると思います。追加していきたいと
思っています。
原資料「旧唐書.新唐書.通鑑.全唐文.冊府元龜.刺史考.唐會要」
*通鑑・會要は精査が済んでいません。
データはエクセルファイルです。
縣男リスト
記録されている大半はカバーしているはずですが、本来多数に授爵された
ものですから、実際は相当な漏れがあると思います。追加していきたいと
思っています。
原資料「旧唐書.新唐書.通鑑.全唐文.冊府元龜.刺史考.唐會要」
*通鑑・會要は精査が済んでいません。
データはエクセルファイルです。
縣男リスト
現在唐代の封爵を整理中です。まもなく爵位別にアップして参考資料として
利用してもらうつもりです。単なるデータですので面白みはまったくないですが。
國王[416]郡王[601]國公[573]郡公[674]縣公[391]縣侯[108]縣伯[106]
縣子[162]縣男[445]の別です。数字は現在分類した人数です。
あと100~200人ほどデータを増やす予定です。
利用してもらうつもりです。単なるデータですので面白みはまったくないですが。
國王[416]郡王[601]國公[573]郡公[674]縣公[391]縣侯[108]縣伯[106]
縣子[162]縣男[445]の別です。数字は現在分類した人数です。
あと100~200人ほどデータを増やす予定です。
唐の爵位は蕃夷へのものを除き、国王[親王]・郡王[同姓王・異姓王]・国公・郡公・縣公・縣侯・縣伯・縣子
・縣男がみられる。郡侯や郡子や郡伯なども散見されるが誤記であろうと思われる。
国王は皇帝の子が主だが、唐初には李軌や杜伏威など帰服した群雄に、唐末には割拠した群雄に乱発[梁・魏・晉・蜀
・岐・趙・呉・越・趙・鄴・楚王]された。
郡王は皇帝の孫や親族、安史の乱以降は武将に乱発された。主要な將領だけでなく、神策軍や節度使下の幹部でも多数
が任じられている。文官は通常任じられることはない。
国公・郡公は文武の功臣に広くまかれている。
縣公以下は正史では比較的記載数は少ないが、実際は多数封ぜられたであろう。
国公以下には前に「開國・・」とつくが、実際は開國したり属僚がおかれることはなく名目である。
国王の属僚も開元以降は実質廃止されたが、王傅や王長史などは名誉官位としては存続した。
同様に国公・食封三千戸~縣男・食封三百戸なども名目でありなんの実利もない。
本当の封戸は「實封」であり、唐初~開元頃まではよく功臣に与えられた。これも唐末では名目で有り意味はない。
よくわからないのは子への「襲爵」である。唐初でこそ子や孫への襲爵がみられるが、中期以降はほとんどない。
しかし皆無ではなくわずかな例がみられる。ただ大半の爵位は一代限りであったようだ。
特に郡王の襲爵例はほとんどみることができない[成徳李寶臣の子惟岳が襲隴西郡王と例があるが疑問]
爵位の前の地名は
国王・国公は一字 州名が使用されることが多いが実例がないものもある。
郡王・郡名は二字 氏族の出身郡名が使用されることが多いが、例のないものもある。
縣公~縣男 氏族の出身縣名が使用されるが、例のないものもある。
国王を除き、氏族の出身なので同時に同じ名称が数人いる。郡王・郡公では武威・隴西・彭城など5人以上同時に
名乗っている例もある。兄弟で同時に同じ爵位に封ぜらた例もある[呉氏の濮陽郡公など]
縣男より昇進する例もあるが、通常はいきなり封ぜられる。西洋のように複数の爵位を持つ例はなく上位の爵位
だけが残る[武将の李澄が郡公から郡王になり、両方を併記して嘲笑されている]
・縣男がみられる。郡侯や郡子や郡伯なども散見されるが誤記であろうと思われる。
国王は皇帝の子が主だが、唐初には李軌や杜伏威など帰服した群雄に、唐末には割拠した群雄に乱発[梁・魏・晉・蜀
・岐・趙・呉・越・趙・鄴・楚王]された。
郡王は皇帝の孫や親族、安史の乱以降は武将に乱発された。主要な將領だけでなく、神策軍や節度使下の幹部でも多数
が任じられている。文官は通常任じられることはない。
国公・郡公は文武の功臣に広くまかれている。
縣公以下は正史では比較的記載数は少ないが、実際は多数封ぜられたであろう。
国公以下には前に「開國・・」とつくが、実際は開國したり属僚がおかれることはなく名目である。
国王の属僚も開元以降は実質廃止されたが、王傅や王長史などは名誉官位としては存続した。
同様に国公・食封三千戸~縣男・食封三百戸なども名目でありなんの実利もない。
本当の封戸は「實封」であり、唐初~開元頃まではよく功臣に与えられた。これも唐末では名目で有り意味はない。
よくわからないのは子への「襲爵」である。唐初でこそ子や孫への襲爵がみられるが、中期以降はほとんどない。
しかし皆無ではなくわずかな例がみられる。ただ大半の爵位は一代限りであったようだ。
特に郡王の襲爵例はほとんどみることができない[成徳李寶臣の子惟岳が襲隴西郡王と例があるが疑問]
爵位の前の地名は
国王・国公は一字 州名が使用されることが多いが実例がないものもある。
郡王・郡名は二字 氏族の出身郡名が使用されることが多いが、例のないものもある。
縣公~縣男 氏族の出身縣名が使用されるが、例のないものもある。
国王を除き、氏族の出身なので同時に同じ名称が数人いる。郡王・郡公では武威・隴西・彭城など5人以上同時に
名乗っている例もある。兄弟で同時に同じ爵位に封ぜらた例もある[呉氏の濮陽郡公など]
縣男より昇進する例もあるが、通常はいきなり封ぜられる。西洋のように複数の爵位を持つ例はなく上位の爵位
だけが残る[武将の李澄が郡公から郡王になり、両方を併記して嘲笑されている]