唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劍南節度使 西川節度使 その7

2012-04-24 09:19:27 | Weblog
・全国的な戦乱と、朝廷の存在による収奪強化により西川の治安は悪化し、
中和二年[882年]眉州.綿州.漢州.彭州に防禦使を置いた。
・3月悪政に抗して邛州蠻の阡能が蜂起し、討伐軍は敗北した。
・中和三年[883年]高仁厚を派遣し、慰撫することで阡能を平定させた。
・中和四年[884年]敬瑄のみが優遇されることを妬んだ東川楊師立が反したが仁厚に命じて誅させた。
・光啓二年[886年]敬瑄は東川節度使にした仁厚を疑い、諸蠻に攻めさせて殺させた。
・田令孜は失脚し、西川監軍に自任して敬瑄のもとに来た。唐朝は直接的にはなにもできなかった。
・文徳元年[888年]令孜は旧將の王建を招いたが、敬瑄は疑い受け入れなかった。
怒った建は西川各地を侵掠しはじめた。
・六月唐朝は宰相韋昭度を都統として令孜・敬瑄討伐を開始したが、実態は王建の率いる蠻軍であった。
・12月永平軍を卭州に置き、邛蜀黎雅四州を領し、王建が節度使となった。しかしこれは征討軍を位置
づける形式である。
・また敬瑄側も彭州防禦使を威戎軍節度使とし、彭文成龍茂五州を領させ、感義節度使楊晟[文成龍茂
四州を所領としているがすべて貧州である。彭州は大州である]に守らせたが、これも実態は彭州防衛
のためであり、唐朝の認可を得たものではない。
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劍南節度使 西川節度使 その6

2012-04-23 09:31:01 | Weblog
・その後も白敏中・魏暮・杜悰・夏侯孜・蕭鄴と宰相級が続く。咸通年間[860-873年]に入ると
南詔が安南・邕管・西川に侵攻を始めた。
・咸通8年[867年]李師望の提言により、対南詔前線として卭州に定邊軍節度使を置き、
嶲眉蜀卭雅嘉黎七州を分離した。ところが咸通9年[868年]その失政から南詔の大侵攻を招き、
咸通10年[869年]には成都も陥落寸前となった。唐朝は諸道の軍を派遣して
咸通11年[870年]になんとか撃退した。定邊軍節度使は廃止され復領した。
・その後も南詔の侵攻は続き、乾符元年[874年]には安南で南詔軍を大破した高駢を節度使とした。
・高駢は成都の城郭を整備したが、すぐ荊南・鎭海・淮南と転任し、廣明元年[880年]には宦官
田令孜の兄陳敬瑄が赴任した。
・黄巣の乱で僖宗皇帝は令孜に奉ぜられ成都に奔った。敬瑄はそれを擁護するとともに京師回復に努めた。
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劍南節度使 西川節度使 その5

2012-04-22 08:45:50 | Weblog
・崇文は恩賞として西川節度使に任ぜられたが、生粋の軍人であり文盲である彼は煩瑣な行政に音を上げて
交替を求めた。そこで元和2年[807年]西川の重要性とその復興のため宰相武元衡が現職を兼任して赴任した。
崇文は京師による事もなく邠寧節度使へ転任していった。
・元衡は元和9年[814年]には宰相に戻り、その後は宰相ないしは宰相候補[李夷簡-王播-段文昌-杜元潁]
が赴任し安定した文官統治が続いた。
・ところが元宰相杜元潁は復権を願って皇帝への貢献につとめ、蛮族対策を怠ったため太和3年[829年]
南詔の侵攻を招いた。嶲・卭州が陥落し、成都も外郭が陥ちて多数の住民が拉致された。戦備を怠った元潁
は籠城するのみで、東川郭が交渉し撤兵を求めた。
唐朝は諸道の兵を派遣したが南詔は莫大な戦利品とともに撤退したあとであった。
・太和4年[830年]李徳裕が赴任し各地を歴訪して戦備を整えた。
・太和5年[831年]吐蕃悉怛謀が維州をもって降ってきた。徳裕は防禦のためには維州確保が必要であると
上申したが、平和政策重視の宰相牛僧孺は認めず、維州を吐蕃に返還させ、悉怛謀一族は処刑された。
徳裕は深く僧孺を憎むことになった。
・その後段文昌[再任]-楊嗣復-李固言-崔鄲-李回-杜悰と宰相級が続いた。
大中3年[849年]には吐蕃の弱体化により維州が内附した。
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劍南節度使 西川節度使 その4

2012-04-21 13:54:02 | Weblog
・建中四年[783年]宗皇帝が奉天で籠城し、興元府に逃がれた時、節度使張延賞は財政的支援を惜しまなかった。
そのため宰相に任用されたのだが、功將李晟との対立があり一度は解任されることも起こった。
・貞元元年[785年]後任には朱の攻撃から隴州を守り抜いた韋皐が任命された。皐は南詔を吐蕃から切り離し、
西山の諸蕃を味方につけることに成功し、永貞元年[805年]に卒するまでの長い任期中対吐蕃戦に勝利を重ねて
、失地も回復していった。
・この功績により皐は元老格となったが反面西川の租税を独占し、幕僚を地方官に任命するなど半独立体制を
築いていった。
・皐が卒すると、幕僚達は半独立体制の維持を図り、劉闢を後任に擁立しようとした。唐朝は西川回復のため
宰相袁滋を送り込んだが入れず、即位したての憲宗皇帝は闢の節度使任命を一旦は承認した。
ところが闢は東川をも併呑しようとしたため、宰相杜鴻漸の強硬策にのった皇帝は、
元和元年[806年]正月神策軍高崇文を征討使として送り込んだ。
・新進の武将である崇文は直ちに進発し、三月には東川を回復し、九月には成都を陥し闢を誅した。
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劍南節度使 西川節度使 その3

2012-04-20 10:11:32 | Weblog
・その後も短期間に文官が交替したが、上元二年[761年]東川で梓州刺史段子璋が反し西川に影響が
及び節度使崔光遠はこれを討伐したが、寶應元年[762年]には西川で將徐知道が反し、廣徳元年[763年]
には吐蕃が来寇し松維保の三州を陥したが節度使高適は対処できなかった。
・そのため廣徳2年[764年]には東川を統合し、嚴武が節度使となったがまもなく卒し、
永泰元年[765年]歴戦の武将郭英乂が赴任した。ところが現地の武将崔旰[後賜名されて寧]と対立して
攻撃したが反って敗死し西川は大乱なった。
・大暦元年[766年]宰相杜鴻漸が副元帥として征討にむかったが、先鋒の張獻誠は寧に敗北した。
そこで鴻漸は寧を慰撫する方針に変え成都に入り、寧を行軍司馬として後継者に遇した。寧もまたそれに従った。
・大暦2年[767年]鴻漸は京師に戻り、寧を節度使として推薦した。大暦3年[768年]には寧が入朝したが、
その留守に濾州刺史楊子琳が成都を奪取した。唐朝はあわてて寧を帰還させたが、
寧の妾任氏や弟の活躍で成都は回復され、子琳は東川へ奔った。
・その後寧は西川を安定させ、大暦10・11・12年[775-777年]と吐蕃を西山に大破してその侵攻を防いだ。
・大暦14年[779年]宗皇帝が即位すると使相とされ入朝し、郭子儀の後任として京畿・朔方を任せられる
形で留められた。
・その留守に吐蕃・南詔は侵攻してきたが、唐朝は寧を戻さず朱・李晟に神策軍をつけて派遣しこれを大破した。
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劍南節度使 西川節度使 その2

2012-04-19 08:50:30 | Weblog
・州は唐初より重視され、太祖世民も行臺尚書令をつとめた要地である。
その後も州大都督府長史として高官が赴任していた。
・吐蕃の侵攻対策として開元2年[714年]に州長史が劔南道支度営田松當姚嶲州防禦処置兵馬経略使
を兼任したことが最初とされるが、状況を追認した形である。
・その後開元七年[719年]に節度使となり、彭蜀漢眉綿遂梓卭劔榮陵嘉普資嶲黎戎維茂簡龍雅瀘合
二十五州を領した。領州は多いが半分程度は蛮族の居住地である。
・天寶末、楊國忠は劍南を遥領し吐蕃対策にあたったが敗戦続きであった。
・天寶15年[756年]潼関の守りが破綻し、安禄山軍の京師侵攻が迫ると、宰相國忠はその子分の崔圓が
留後となっている劍南に朝廷を移すこととした。
・しかしずさんな移転であったため混乱が生じ國忠は殺され、皇太子である肅宗は朔方へ分離し、
玄宗皇帝と側近だけが圓に迎えられて州[成都]についた。
・圓は宰相となって去り、文官が節度使となったが、劍南では軍乱や民乱が相継ぎ、
京師回復の努力は朔方軍中心となった。
・至徳二年[757年]梓州に劍南東川節度使を置き、梓遂綿劔龍閬普陵瀘榮資簡十二州を分離した。
治安対策とみられる。
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浙西都団練観察使 鎭海軍節度使その4

2012-04-17 10:41:14 | Weblog
・淮南高駢・浙西周寶は両者とも神策軍出身で、本来は友人であったが節度使となると
牽制しあって対立した。
・中和二年[882年]寶は諸道租庸副使を兼ねて唐朝の経済的支援を行っていたが、
杭・婺・常・蘇州での動乱を抑えられなかった。
・不安に思った寶は親衛軍を作り優待したが、牙軍はこれをねたんで光啓三年[887年]
蜂起し、薛を擁して寶を逐った。
・浙西各地は動乱し、浙東董昌は麾下の杭州錢鏐に命じてを伐たせた。龍紀元年[889年]
鏐はを誅し、浙西を乗っ取った。
・乾寧三年[896年]鏐は皇帝と自称した董昌を伐ち浙東を併領し、光化元年[898年]自分
の本拠地の杭州に鎭海軍を移した。
そして淮南楊行密と両浙各地で争い、そのため朱全忠に通じた。
鏐の領域は小さかったが豊であり「呉越国」として自立することができた。
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浙西都団練観察使 鎭海軍節度使その3

2012-04-16 08:45:54 | Weblog
・長慶元年[821年]から太和二年[828年]観察使、太和8年[834年]から9年節度、開成元年[836年]
から2年観察使と三度の李裕の統治が目立つ、特に最初の統治は淫祠をのぞくなど積極的なものであった。
・大中12年[858年]宣歙の軍乱に備えて鎭海軍節度使がおかれたがすぐ廃された。
・咸通9年[868年]武寧龐の乱には淮南とともに派兵した。
・咸通年間より宰相格(杜審權.曹確.趙隠等)の赴任が続いた。そのため都団練観察使と節度使と制度が交替した。
・乾符二年[875年]には趙隠の待遇に不満があった將王郢等が乱を起こし浙江・浙東・福建の沿海部が
荒らされた。裴璩が赴任し乾符四年[877年]一応鎮圧したが不穏な状況は続いた。
・乾符五年[878年]高駢、六年周寶と武将が赴任し、主要な税収地である浙西を黄巣から防禦する處置が図
られた。そのため比較的乱の影響は少なかった。
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浙西都団練観察使 鎭海軍節度使その2

2012-04-15 10:50:24 | Weblog
・建中四年[783年]の大乱に際して滉は淮南陳少游のように動揺することなく唐朝を支援し、
貢納を欠かさなかった。興元元年[784年]少游が卒し淮南の牙軍が自立を図ったときもそれを
圧して唐朝を支援した。
・貞元元年[785年]江淮の財賦を統括し、貞元二年[786年]には入朝し国政を担おうとしたが、
貞元三年[787年]一月卒した。
・滉の死後、浙西・浙東・宣歙に三分され、鎭海軍節度も廃された。
・以降貞元年間を通じて財務官僚が赴任し諸道鹽鐵転運使を兼ね、唐朝の財政を支えた。
・貞元15年[799年]李國貞の子が赴任し宗皇帝の姑息さ乗じて専権を振るうようになった。
・永貞元年[805年]順宗・憲宗皇帝が即位すると方鎭に対して強硬策をとるようになり、
まずの諸道鹽鐵転運使が削られた。
元和二年[807年]の不満をなだめるため鎭海軍節度使が復された。は情勢を読み違い辞表を
呈するとあっさりと左僕射に任ぜられ任を取り上げられた。
・10月は反したが、張奉國などの部下は従わず捕らえられ誅された。
・しばらくした元和4年[809年]都団練観察使に戻った。
・その後は淮西・河北討伐のための財源として財務官僚の赴任が続いた・
・長慶二年[822年]には河北の反乱に乗じた將王國清が乱しようとしたがただちに誅された。
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浙江西道都団練観察使 鎭海軍節度使 その1

2012-04-14 10:46:05 | Weblog
・浙江西道は穀倉地帯であり唐朝の経済的基盤である。安史の乱の影響は直接には及ばず初期の
頃の状況は不明であるが、至徳二年[757年]治安維持のために江東防禦使等が杭州に設置された。
・戦況悪化とともに浙江西道節度使が昇州に設置され、昇潤宣歙饒江蘇常杭湖の十州を管轄した。
・乾元二年[759年]戦乱の影響なしと判断され都団練観察守捉使に格下げされた。
・上元元年[760年]肅宗皇帝の失敗から劉展が淮南・浙江に乱入し、観察使侯令儀は宣州に敗走
した。上元二年[761年]状況を糊塗するため宣州に移治することにした。
6月令儀は責任を押しつけられ流された。
・大暦元年[766年]蘇州に還治した。その後経済官僚が統治する所となった。
建中二年[781年]敏腕の韓滉が赴任すると、浙江東道も併せて鎭海軍節度使となり潤州に治した。
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湖南都団練観察使 武安軍節度使 その3

2012-04-13 10:58:43 | Weblog
・中和元年[881年]江西から安南に派遣されていた將閔頊が帰還の途中に乱し、
觀察使李裕を逐い自立したが、京師陥落後の唐朝は対処の方法がなかった。
・中和二年[882年]唐朝は閔勖を權充鎮南節度使[江西]とした。これは江西も又鐘傳により占拠されて
いたため、乱將どうしを咬み合わせて討伐しようとしたものである。勖は受けなかった。
・中和三年[883年]唐朝はあきらめて湖南観察使を欽化軍節度として勖を任命した。
・光啓二年[886年]衡州刺史周岳は潭州を攻めた。勖は秦宗權將黄皓を招いて防守しようとしたが、
皓に殺された。岳は潭州を落とし皓を殺した。岳は欽化軍の改名を求め、武安軍節度となった。
・景福二年[893年]勖の旧將邵州刺史處訥は潭州を攻め岳を殺し自立した。
・乾寧元年[894年]楊行密により淮南から逐われた孫儒將の劉建鋒と馬殷の大軍が潭州になだれ込んできた。
處訥は敵せず和そうとしたが殺され、建鋒が自立した。
・乾寧三年[896年]建鋒は部下に殺され、馬殷が擁立された。
・当時は湖南各州は割拠した武将に支配され、潭州のみが管轄であった。そのため殷は光化元年[898年]
邵、衡、永三州を征討して回復した。
・さらに光化二年[899年]道・郴・連州を落とし湖南全域を制圧した。
・光化三年[900年]桂管諸州を平定し、淮南楊行密と対峙し岳州を争い、朱全忠と結んだ。
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湖南都団練観察使 武安軍節度使 その2

2012-04-12 10:38:55 | Weblog
・その後湖南は中級文官の赴任地となっていった。
・元和4年[809年]隣鎭黔中の漵州蠻首張伯靖が叛し影響が及んできたため、
元和7年[812年]8観察使柳公綽はこれを慰撫して降らせた。
・元和末以降、宰相等の左遷地としても利用され、韋貫之・崔羣・袁滋・楊嗣復・
李回などがみられる。
・大中末には南部地域に軍乱が頻発した。文官官僚の収奪が限界を超え待遇が悪化
した牙軍が不満を爆発させたためである。湖南においても大中12年[858年]都將石載順等が
觀察使韓悰を逐った。しかし弱体な反乱はすぐ鎮圧された。
・咸通年間に入ると雲南蠻の安南・邕管への侵攻が強まり、湖南では緊張が高まり、
諸藩鎭からの派遣軍が駐屯するようになった。
・咸通9年[868年]徐州より派遣されていた龐勳達が勝手に歸鎭し大乱を起こした。
・乾符6年[879年]黄巣軍が廣州を占拠し、宰相王鐸はみずからこれを討伐しようとして
荊南に鎭した。軍の指揮は名将李晟の曾孫である泰寧節度使係を湖南観察使として委任した。
・しかし係は名前ばかりで無能であり、10月黄巣軍の急襲にあって軍を棄てて逃げた。
・その後湖南各州は次々と賊に占領されていった。
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湖南都団練観察使 武安軍節度使 その1

2012-04-11 08:35:56 | Weblog
・至徳二年[757年]衡州に防禦使が置かれた、衡岳潭郴永道涪の八州が領州である。
安史の乱は及んでいるわけではないが、南部の西原蠻の蠢動に対する治安対策とみられる。
・廣元年[763年]には西原蠻が叛し、道州や邵州を陥した。そのため廣二年[764年]
湖南都団練守捉觀察處置使に再編成され、衡潭永道五州を領することになった。
・大暦四年[769年]潭州に移治した。大暦五年ころには西原蠻と通じた將王國良(これも
蠻族出身)が叛したうえに、軍乱が起きて団練使崔瓘が殺された。
武将辛京杲(河東雲京の弟)が赴任し武力で鎮圧した。
・大暦14年[779年]まで京杲の苛政が続き、そのため國良等の叛乱は拡大していった。
隣鎭からの討伐が試みられたがまったく効果はなかった。
・建中元年[780年]嗣曹王皐が赴任し、みずから國良の城を訪ねて慰撫した。
唐朝への不信感はあるが長年の戦乱に疲弊した國良達も帰順することになった。
・淮西李希烈が反し、皐は江西に移鎭したが状況は安定していった。
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天平軍節度使 その2

2012-04-10 21:47:16 | Weblog
・乾符6年[5年とも言う.879年]薛崇のあとの節度使張裼が卒すると、將崔君裕が自立したが、
淄州刺史曹全晸により誅された。
・黄巣は廣州においてまず嶺東節度使を求めたが暑熱と疾病に辟易し、ついで天平節度使を求めたが唐朝は認めなかった。
・中和元年[881年]曹全晸は黄巣軍と戦い敗死し、兄の子存實が嗣いだ。
・中和二年[882年]勢力拡大を狙う魏博韓簡軍は河陽諸葛爽を逐い河を渡り、天平を攻撃した、、
10月存實は迎撃したが敗死し、簡は鄆州を包囲したが將朱瑄は屈せず抗戦した。
・中和三年[883年]1月簡は鄆州を抜けず帰還しようとしたが、諸葛爽は河陽を奪還し武陟に迎撃してこれを破った。
敗走した簡は將樂行達に殺された。
・瑄は正式に節度使となり、光啓二年[886年]には甥の瑾が泰寧節度使を乗っ取り共同して勢力を拡大した。
・光啓三年[887年]には宣武朱全忠をたすけて秦宗權を破ったが、全忠は反って天平・泰寧の領域を浸食してきた。
・連年のように全忠軍は来攻し、乾寧元年[894年]には大敗して追いつめられ、河東李克用の支援を受けたが、
乾寧4年[897年]瑄は捕らえられ殺された。
・その後宣武・義成・河中と併せて天平は全忠の直轄地となっていった。
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天平軍節度使 鄆曹濮節度使 その1

2012-04-09 09:19:50 | Weblog
・鄆州に使府が置かれたのは貞元4年[788年]淄青平盧節度使李納が移治してきたことに始まる。
実際は大暦12年[777年]から拡大した淄青藩鎭の使府になっていたが、正式に唐朝が認めたこと
による。鄆州は黄河を隔てて河北の諸鎭や、西の唐朝と対峙する要地である。
・元和14年[819年]李師道が誅され淄青平盧節度使が州・兗州・鄆州の三鎭に解体されると、
鄆曹濮節度使が置かれ馬總が就任した。
・翌元和15年[820年]には天平軍の號が与えられた。
・總の後は名将鳥重胤の赴任地となった。太和元年[827年]横海李同捷が反すると、
征討を命ぜられたが11月に卒した。
・その後は高級文官や神策系武官の赴任地となったが、牙軍は弱体であり軍乱などはみられなかった。
・咸通9年[868年]武寧で龐勳の乱が起こると鎮定を命ぜられたがはかばかしい戦果はあがらなかった。
・咸通10年[869年]対雲南蠻戦の勇将高駢が赴任して、乾符元年[874年]には牙軍を率いて
西川への雲南蠻の征討にむかった。
・ところが乾符2年[875年]兗鄆徐州の地では王仙芝・黄巣が蜂起し曹・濮州を陥し、
征討にむかった節度使薛崇は敗北した。
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