・全国的な戦乱と、朝廷の存在による収奪強化により西川の治安は悪化し、
中和二年[882年]眉州.綿州.漢州.彭州に防禦使を置いた。
・3月悪政に抗して邛州蠻の阡能が蜂起し、討伐軍は敗北した。
・中和三年[883年]高仁厚を派遣し、慰撫することで阡能を平定させた。
・中和四年[884年]敬瑄のみが優遇されることを妬んだ東川楊師立が反したが仁厚に命じて誅させた。
・光啓二年[886年]敬瑄は東川節度使にした仁厚を疑い、諸蠻に攻めさせて殺させた。
・田令孜は失脚し、西川監軍に自任して敬瑄のもとに来た。唐朝は直接的にはなにもできなかった。
・文徳元年[888年]令孜は旧將の王建を招いたが、敬瑄は疑い受け入れなかった。
怒った建は西川各地を侵掠しはじめた。
・六月唐朝は宰相韋昭度を都統として令孜・敬瑄討伐を開始したが、実態は王建の率いる蠻軍であった。
・12月永平軍を卭州に置き、邛蜀黎雅四州を領し、王建が節度使となった。しかしこれは征討軍を位置
づける形式である。
・また敬瑄側も彭州防禦使を威戎軍節度使とし、彭文成龍茂五州を領させ、感義節度使楊晟[文成龍茂
四州を所領としているがすべて貧州である。彭州は大州である]に守らせたが、これも実態は彭州防衛
のためであり、唐朝の認可を得たものではない。
中和二年[882年]眉州.綿州.漢州.彭州に防禦使を置いた。
・3月悪政に抗して邛州蠻の阡能が蜂起し、討伐軍は敗北した。
・中和三年[883年]高仁厚を派遣し、慰撫することで阡能を平定させた。
・中和四年[884年]敬瑄のみが優遇されることを妬んだ東川楊師立が反したが仁厚に命じて誅させた。
・光啓二年[886年]敬瑄は東川節度使にした仁厚を疑い、諸蠻に攻めさせて殺させた。
・田令孜は失脚し、西川監軍に自任して敬瑄のもとに来た。唐朝は直接的にはなにもできなかった。
・文徳元年[888年]令孜は旧將の王建を招いたが、敬瑄は疑い受け入れなかった。
怒った建は西川各地を侵掠しはじめた。
・六月唐朝は宰相韋昭度を都統として令孜・敬瑄討伐を開始したが、実態は王建の率いる蠻軍であった。
・12月永平軍を卭州に置き、邛蜀黎雅四州を領し、王建が節度使となった。しかしこれは征討軍を位置
づける形式である。
・また敬瑄側も彭州防禦使を威戎軍節度使とし、彭文成龍茂五州を領させ、感義節度使楊晟[文成龍茂
四州を所領としているがすべて貧州である。彭州は大州である]に守らせたが、これも実態は彭州防衛
のためであり、唐朝の認可を得たものではない。