唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

荊南節度使 その1

2011-12-31 22:07:10 | Weblog
・安史の乱。揚子江中流の拠点荊州(江陵)を守るために置かれたのだが、
永王璘が謀叛したため混乱した。
・一応、至徳二年[757年]に荊南(荊澧)節度使が荊・澧・・郢・復五州を領州
としておかれた。もうすこし上流には蘷峽節度使が蘷峽涪忠萬五州を領州として置か
れている。ただ臨戦地域でもないため置かれているという程度であった。
・文官系の節度使杜鴻漸でありろくな兵備もなかったようで、乾元二年[759年]
山南東道の叛将張嘉延に襲われるとすぐ荊州を棄てて奔った。
・まともに機能したのは上元元年[760年]元宰相の呂諲が節度使となった頃からで
、江陵府を置き団練兵を整備していった。
・廣元年[763年]武将衛伯玉が節度使となると大暦11年[776年]まで長任し
半ば藩鎭化していった。
・その後は大暦・貞元年間は対淮西戦略の後方基地として機能していた。
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原節度使 その3

2011-12-31 15:16:16 | Weblog
・貞元中期以降原節度使は神策軍出身の將領が赴任する藩鎭となった。
・大中年間以降は文官が赴任することも多く安定していた。
・中和元年黄巣が占領した京師に対して、節度使程宗楚等は鳳翔鄭畋の
指揮の下に進入したが敗死した。
・中和二年以降、張氏[鈞→兄鐇→子→?珂]が世襲する藩鎭となったが
弱小藩鎭であり周囲に大きな影響を与えることはなかった。
・光化二年頃鳳翔李茂貞が張氏を逐って原を占拠したようである
これ以降は李茂貞配下となった。
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原節度使 その2

2011-12-31 11:50:16 | Weblog
・建中元年[780年]宰相楊炎は原州城の経営に関する意見相違から段秀實を
閑職の司農卿に移し、朔方李懷光に原を兼任させた。
・2月懷光の厳正さを懼れる原將士は劉文喜を立てて反した。唐朝は狼狽して
鳳翔兼幽州節度使朱に交替させ討伐させた。
・5月劉文喜は殺され朱が節度使となり、姚令言が留後となった。
・建中四年[783年]10月悪天候の中、危機に瀕した東都救援の為原軍が姚令言
に率いられて出動、しかし京師を通過してもなんらの賞賜もなく、憤激した將士は宮
城に乱入して朱を擁立した。宗皇帝は京師を捨てて奉天城に奔った。
・しかし原の留守を守る馮河清は同調せず、奉天城に籠もる皇帝を援助した。
・興元元年[784年]4月兵馬使田希鹽は馮河清を殺し,朱より節度使に任じられた。
・閏10月朱の乱を平定した李晟は原に入り、田希鹽を誅殺した。
・その後も吐蕃最前線として推移したが、貞元九年[793年]節度使劉昌が鹽州城を
築くなど、諸城郭を整備していったため安定期に入っていった。
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原節度使 その1

2011-12-30 23:01:54 | Weblog
・大暦三年[768年]邠寧節度使馬璘がその一部である・原二州の節度使として
対吐蕃最前線に移動したことにより成立した。
・連年の吐蕃の侵入に対して邠寧節度使単独では対応できず、河中・朔方節度使の郭子儀の出動が
必要であった。そのための前線基地として邠寧慶三州を郭子儀の管轄としたものである。
・原二州とはいえ、原州は実質的には存在せず、非常に貧しい藩鎮であり。
移動決定時にはそれを不満とする軍乱が発生したが、段秀實らの努力によって静まった。
・邠寧軍は四鎭北庭行軍の名称を持つ。これは安史の乱に安西四鎭北庭などから派遣されてきた部隊
[李嗣業や茘非元禮などに率いられていた]の流れをふむものである。原節度使はこれを受け継いでいる。
・大暦5年[770年]原領州はあまりに貧しく、軍糧を賄えないため、
馬璘は鄭・潁二州を李抱玉より譲られ遥領することになった。
・大暦9年[774年]馬璘は入朝し宰相を求めた。唐朝は検校左僕射に知省事をつけてなだめた。
・大暦11年[776年]馬璘は卒し、留後の段秀實が昇格した。
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魏博節度使 その8

2011-12-30 17:27:23 | Weblog
・樂彦禎は節度使となるが実権は牙軍にあった。そのため子従訓を相州刺史として私兵を集めさせた。
・樂従訓は義成節度から義昌節度へ赴任中の王鐸一行を襲って殺害し私財を奪った。
唐朝は衰弱していたのでこれを処分できなかったが、さすがに魏博内でも評判はわるかった。
・文徳元年[888年]2月牙軍は樂彦禎を殺し、新節度使には羅宗弁[賜名されて弘信]を擁立した。
従訓は朱全忠の援助を得て抗戦し内戦状態となった。
・4月牙軍は従訓を破り、朱全忠は軍を引いた。
・大順二年[891年]朱全忠は魏博を攻めて破り従わせた。
・光化元年[898年]羅弘信は卒し、子の紹威が嗣いだ。
・光化二年[899年]幽州劉仁恭が来寇したが、朱全忠の援軍を得て破った。
・天祐三年[906年]羅紹威は牙軍の横暴に耐えかねて、朱全忠の支援をえてこれを屠した。
魏博全域で内乱が起こったが鎮圧には成功した。しかしその戦力は大きく低下し、
朱全忠に全面的に従うしかなくなった。

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魏博節度使 その7

2011-12-29 08:51:54 | Weblog
・何進滔は開成5年[840年]に死に、子の重順[賜名されて弘敬]が嗣いだ。弘敬は父と違い
唐朝とは協調関係を築いた。
・會昌3年[843年]よりの昭義劉稹の自立にたいする唐朝の討伐には成徳王元逵とともに協力した。
・咸通7年[866年]弘敬がなくなり子の全が嗣いだ。唐朝は河北の回復の意志は失っていた。
・咸通9年[868年]全は徐州龐の鎮圧に出兵したが敗北した。
・咸通12年[871年]全の失政から牙軍は乱して、韓君雄[賜名されて允忠]をたてた。全は殺された。
・君雄の子簡は乾符元年[874年]継承したが、王仙芝や黄巣の乱により唐朝が弱体化するのをみて勢力拡張を図った。
・まず中和2年[882年]河陽を落とし諸葛爽を逐った。さらに天平を破り節度使曹全晸を殺したが、
鄆州を包囲中に河陽を諸葛爽に奪回された。
・中和3年[883年]簡は再び河陽を攻撃したが爽の將李罕之に大敗した、そのすきに澶州刺史樂行達[賜名されて彦禎]
は魏州で牙軍の擁立を受けて自立し、簡は殺された。
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魏博節度使 その6

2011-12-28 12:18:03 | Weblog
・河北軍閥よりの史憲誠は横海の李同捷の自立討伐においても消極的であった。
しかし子の唐[孝章]は唐に忠誠で父親を諫めたため討伐に協力することとなった。
・牙軍のボスである都知兵馬使亓志紹は成徳の王廷湊と結び、太和二年[828年]
反乱を起こしたが、唐朝李聴が率いる征討軍により鎮定された。
・史憲誠は牙軍の横暴に辟易し、魏博より相衛澶の三州を分離して子の孝章に嗣がせ、
魏博貝三州は李聴に譲り、自分は安全な河中節度使に移ろうとした。
・太和三年[829年]分割を不満とした牙軍は史憲誠を殺し、新節度使李聴を破り、
何進滔を擁立した。李同捷の乱で疲弊した唐朝はそれを追認するしかなかった。
・何進滔はその後、成徳王廷湊とともに反唐朝の姿勢をつづけたが、
牙軍の強い突き上げを受け続け基盤は弱かった。
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魏博節度使 その5

2011-12-28 09:59:04 | Weblog
・元和15年[820年]憲宗皇帝が宦官に殺された後、子の穆宗皇帝は無能であり、登用した宰相達も
いずれも無能であった。しかし憲宗皇帝の威光が残り、長慶元年[821年]4月には幽州劉總も帰国し
全土が唐朝の支配下に戻った。
・ところが7月その幽州で軍乱が起き節度使張弘靖は捕らえられ、成徳軍でも軍乱により田弘正が
殺害された。
・唐朝は魏博節度使李愬が重病であるため。弘正の子原節度使布を急遽魏博節度使に赴任させ
成徳軍を討伐させようとした。
・しかしあいつぐ賞賜により驕兵となった魏博では、若年の田布では統率が困難であり、
長慶二年[822年]討伐軍が途中で自潰してしまう事態がおこり、布は恥じて自殺した。
・実力者である史憲誠は一応軍を統率し、成徳・幽州の反乱軍とも通じるとともに、
唐朝からも節度使に任ぜられるという立場をとった。
・魏博では長く支配した田氏の退陣とともに牙軍の勢力は増大し、節度使はその代表でしかないという
色彩が強くなっていった。
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魏博節度使 その4

2011-12-27 18:34:06 | Weblog
・田緒は貞元12年[796年]卒した。緒には嘉誠公主が降嫁しており、公主は実子はなかったが緒の末子
季安を養子としていた。そのため継承には問題がなかった。
・田季安は公主に育てられ、能力なく、軍中の人望はないが唐朝には忠順であった。
元和5[810年]年の成徳王承宗の討伐には一応唐朝側として働いたが功績はなかった。
・元和7年[812年]田季安がなくなると、幼子懷諫が嗣いだ。しかし取りまきが専横であったため牙軍は
反発し、一族の田興を擁立しようとした。興は温厚で唐朝に親近感を抱いていた。
・憲宗皇帝は学士李絳の進言を入れ、自己の継承の正当性に不安を感じる田興を一挙に節度使として公認
し、弘正と賜名した。これに感激した弘正は唐朝側に帰属し、多大の恩賞を与えられた軍もそれに従った。
・魏博軍は元和10年[815年]成徳王承宗の討伐に働き、特に元和14年[819年]の
淄青李師道討伐には全軍をあげて出撃した。
・元和15年[820年]成徳軍が唐朝に帰服し、田弘正は成徳節度使に転じ、
魏博には淮西討伐の名将李愬が就任した。
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魏博節度使 その3

2011-12-27 17:07:44 | Weblog
・田承嗣は大暦14年[779年]卒し、子達は幼少か無能であるため兄の子であるが嗣いだ。
・田悦は継承当時は唐朝に恭順であったが、兵力削減には応じなかった。
・建中二年[781年]成徳の李寶臣がなくなり、子惟岳が継承しようとしたが唐朝は認めなかった。
・田悦は惟岳の継承を支援していたため反乱をおこすが、惟岳軍は次々と崩れ、魏博軍も河東馬燧・
昭義李抱眞に敗北が続いた。
・成徳が平定されて分割されると、田は孤立したが、分割に不満を持った幽州朱滔、恒冀王武俊が
反し、淄青の継承を求める李納の支援もあり勢力を回復していった。
・建中三年[782年]連篋山で魏博・幽州・恒冀の反乱軍は、朔方・昭義・河東など唐朝軍を大破した。
しかし幽州朱滔が勢力をもったため、田悦は併呑されることを懼れた。
・興元元年[784年]疲弊した唐朝は反乱軍に和解を求め、田・李納・王武俊はそれに応じた。
特に魏博は大半の将兵を失い、所領は荒廃していたためこれ以上の継戦は耐えられなかった。
・三月継承に不満を持つ承嗣の子緒は、悦の方針を批判し軍乱を起こしてを殺した。
しかし魏博は反乱を続けられる状況ではなく緒もまた唐朝との和解に傾いた。
・五月幽州朱滔は怒り、魏博を攻めたが、昭義李抱真や成徳王武俊に經城で大敗して逃げ帰った。
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魏博節度使 その2

2011-12-27 15:56:39 | Weblog
・大暦10年[775年]みずから徴兵した10万の兵力の維持に苦しむ田承嗣は
昔の仲間である相衛節度使薛嵩の死を好機として、相衛刑洺の四州を併合しようとした。
・相衛將裴志を抱き込み一旦は相衛四州を制圧した。また唐朝の河陽・陝虢の藩鎭をそ
そのかし軍乱を起こさせることにも成功した。
・しかしその傲慢さを嫌っていた成徳李寶臣、淄青李正己、幽州朱は唐朝側に付き包囲
攻撃を加えてきた。
・配下の諸将が次々と降り、状況は不利ではあったが、仲間である河北藩鎭どうしの戦い
は手ぬるいものであり、唐朝からの軍費を食いつぶすようにだらだらと続いた。
・承嗣は軍費不足と孤立に苦しみ、大暦11年[776年]正月には一時講和を求めた。
・しかし5月汴宋將李靈耀が反乱を起こすとこれを全面的に支援して永平節度使李勉を滑州に破った。
・10月李靈耀は敗北、援軍として送った甥田も大敗して逃げ帰ると、再び講和を求めた。
・唐朝も長く続く討伐の軍費に苦しみ、また藩鎭どうしの戦意のない戦闘の無意味さを感じ、
12年[777年]3月田承嗣は赦された。
・魏博は相衛二州を加えたが、滄瀛二州を失い領州的には得るところは少なく、多くの兵力を失った。
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魏博節度使 その1

2011-12-27 14:07:52 | Weblog
・廣元年[763年]史朝義の乱が鎮定される時、賊将達が次々と帰順したが
最後まで抵抗したのが田承嗣であった。
・歸順が遅れたため成徳張忠志、幽州李懷仙・相衛薛崇らの節度使待遇に対し
て最初は魏博等州都防御使として一段下に遇された。
・しかしその実力によってすぐに魏博節度使[魏博貝瀛滄五州]に昇格さ
れ天雄軍の號を賜った。
・田承嗣は状況が平穏化した大暦年間に入っても臨戦体制を解かず、兵力
を強化しつづけ10万人の兵員を抱えるようになった。
・唐朝は承嗣に対して大暦3年[768年]司空兼検校僕射、8年[773年]平章事
を与え、子に公主を降嫁させるなど懐柔策をとっていたが、魏博は過大な兵力
を抱えていたため不安定な状況を続けていた。
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山南東道節度使 その6

2011-12-26 19:00:24 | Weblog
・中和4年[884年]山西鹿晏弘,淮西秦宗權の挟撃に敗北し
山東節度使劉臣容は成都に逃れた。淮西將趙諲が自立した。
・朱全忠と秦宗權の戦いが全忠優勢に傾いた文徳元年[888年]
趙諲は宗權を裏切り全忠に附き、山東節度使[忠義軍節度使
と改名]を唐朝から公認された。
・趙諲は景福元年[892年]卒し、子の凝が嗣いだが、なぜ
か極めて唐朝に忠順であった。
・朱全忠が唐朝簒奪の姿勢を示すと趙凝は光化元年[897年]
天祐2年[905年]と反旗を翻し、敗北して淮南の楊行密のもとへ
走った。
・山東節度使は後梁の支配下となり楊師厚が統治した。
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山南東道節度使 その5

2011-12-26 18:41:28 | Weblog
・淮西平定後の山南東道は安定した藩鎭となり、宰相前後の回遊地として
淮南・西川などと同じような高い藩鎭格となったが重要性は低くなった。
・李逢吉・王涯・竇易直・裴度・牛僧孺などの宰相格が長慶~太和年間にみられる。
・大中~咸通年間になると藩鎭格は低下し、高位文官の就任先となった。
・大中・咸通・乾符年間になると各節度使は近隣藩鎭より警備兵力を強化した。
宣歙の反乱鎮定や、桂管からの龐の北進阻止などにはその力がしめされた。
・乾符6年[879年]賊黃巢は廣州から北上し荊州を攻撃し、鎮定するはずの
都統王鐸は遁走した。山東節度使劉巨容はこれを荊門に大破したが、唐朝の
軍人に対する処遇に不満をもつ巨容達はとどめをささず、黃巢の勢力が再び
回復することをゆるした。

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山南東道節度使 その4

2011-12-26 16:34:43 | Weblog
・貞元[789~805]元和[806~820]年間の山南東道は隣道淮西との戦乱の
連続であった。淮西は李希烈→吳少誠→吳少陽→吳元濟と自立が続くが、そ
の兵は強く、山東は常に受け身であった。
・節度使は貞元年間は賈耽・樊澤・嗣曹王皐・于頔と続く。その中では于頔
が最も専横であったが淮西ともよく対峙していた。
・元和に入り、于頔は入朝し、文官系の節度使が続き淮西の圧迫が続いた。
・元和10年[815年]淮西吳少陽が死に、子の元濟が嗣ぐ。山東節度使嚴綬は
これを伐ったが反って磁丘に大敗した。
・そこで憲宗皇帝は山南東道節度使を前線の唐隋節度[武将の高霞寓]と
後方の山南東道[文官李遜]に分割して淮西にあたらせたが。11年[816年]
高霞寓は鐵城で大敗した。
・その後唐隋節度には李晟の子愬、山東には鄭權を配置した。
・李愬はうち続く敗戦で沈滞した志気を回復するため、小規模の勝利を積み
重ね、淮西の驍將[李祐など]を捕らえることに専念した。
・元和12年[817年]宰相裴度がみずから大軍をひきいて淮西討伐に出陣し、
郾城に淮西将董重質と対峙した。その間隙をつき李愬は帰順させた李祐等か
ら入手した情報により長駆淮西の本拠地蔡州を襲撃し吳元濟を捕らえた。
・淮西は解体され、山東は再び統合されて李愬が節度使となった。
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