唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦の軍乱14 陝州の乱

2017-09-29 20:30:22 | Weblog
大暦10年3月
[新]甲午,陝州軍亂,逐其觀察使李國清。
[旧]甲午,陝州軍亂,逐觀察使李國清,縱兵大掠。國清卑詞遍拜將士,方免禍,一夕而定。
[通]甲午朔,陝州軍亂,逐兵馬使趙令珍。觀察使李國清不能禁,卑辭,遍拜將士,乃得脫去。軍士大掠庫物。會淮西節度使李忠臣入朝,過陝,上命忠臣按之。將士畏忠臣兵威,不敢動。忠臣設棘圍,令軍士匿名投庫物,一日,獲萬緡,盡以給其從吏為賞。

[背景]
陝州は東都と京師の中間であり、黄河を遡及してきた官物が陸送に置き換わる重要地点です。軍自体は小規模であり、河陽の軍乱に触発されて蜂起したものでしょう。

[結果]
田承嗣との関係は不明ですが、自立できる環境ではなく掠奪が終わると鎮静化に向かいます。また凶暴な淮西節度使李忠臣が接近したため恐れて帰順しました。
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大暦の軍乱13 河陽の乱

2017-09-29 20:28:20 | Weblog
大暦10年2月
[新]丙子,河陽軍亂,逐三城使常休明。
[旧]是日河陽軍亂,逐城使常休明,迫牙將王惟恭為留後,軍士大掠數日,休明奔東都。
[通]河陽三城使常休明,苛刻少恩。其軍士防秋者歸,休明出城勞之,防秋兵與城内吏合謀攻之,休明奔東都;軍士奉兵馬使王惟恭為帥,大掠,數日乃定。上命監軍冉庭蘭慰撫之。

大暦11年3月
[通]戊子,河陽軍亂,逐監軍冉庭蘭出城,大掠三日。庭蘭成備而入,誅亂者數十人,乃定。
[旧]戊子,河陽軍復亂,大掠三日,監軍使冉廷蘭率兵斬其亂首。方定。

[背景]
河陽は東都から河北への黄河渡河地点で、重要な要塞です。相州の軍乱の影響[魏博田承嗣の指嗾もあったと思います]と、無能な軍使常休明に反発して軍乱を起こしました。また翌年2/3月にも再発しました。

[結果]
河陽軍自体は小規模ですし、唐朝軍ですので、監軍の慰撫により治まりました。しかし中途半端な処置は再度の軍乱を招くことになりました。監軍の努力と新使馬燧の権威によりやがて落ち着き、以降の征討では力を発揮する存在となりました。
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大暦の軍乱12 田承嗣の反乱

2017-09-23 12:30:04 | Weblog
大暦10年正月
[旧]己酉,昭義牙將裴志清逐其帥薛崿,薛崿奔洺州,上章待罪。志清率衆歸田承嗣。
[新]丁酉,昭義軍兵馬使裴志清逐其節度使薛崿,叛附于田承嗣。
[通]丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其衆歸承嗣。承嗣聲言救援,引兵襲相州,取之。崿奔洺州,上表請入朝,許之。

[背景]
大暦8年正月、自立はしていても比較的唐朝に従順であった史朝義の降將相衛節度使薛嵩[領州相衛邢洺貝磁の六州]が卒します。子の平は12歳であり継承できません。叔父の薛崿に譲り郷里へ戻ります[後唐朝に仕え節度使を歴任します]。しかし崿は統治能力が低く、配下の諸将は動揺します。

隣国の同じく史朝義の降將魏博節度使田承嗣[領州魏博德滄瀛の5州]は唐朝に反抗的であり、過大な軍備を行いますが、経済的には苦しい状況に追い込まれ、領土の拡大を虎視眈々と狙っていました。しかし周囲の成德李寶臣・淄青李正巳・幽州朱泚などは強力であり手を出すことはできません。

そこで弱体化した相衛の驍將裴志淸達をそそのかし、相衛6州を併呑することを計画しました。

[結果]
軍乱は成功しました。田承嗣は相衛貝の3州を得ることが出来ましたが、周囲の藩鎭の包囲攻撃を受けて苦しみました。唐朝もこれを自力では征討する力がなく、周囲の藩鎭は自分の勢力拡大を図るのみであり、汴宋節度使の反乱もあって中途半端に赦宥しました。魏博も德滄瀛の3州は淄青・成德・幽州に奪われ勢力的にはあまり拡大できませんでした。この後田承嗣は老耄し消極的になります。この乱で最も利益を受けたのは領域が倍増[德州や汴宋の過半を得た]した淄青平盧の李正己です。裴志淸は田承嗣に仕えます。
邢洺磁の三州は唐朝の支配下に残り、澤潞二州と合わせて昭義軍節度使となります。李抱玉-李抱眞の指揮で強力な軍事力を持ち、河北の三鎭を牽制する力になりました。
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藩鎭軍乱11 徐州兵乱 ?

2017-09-18 13:03:56 | Weblog
大暦9年2月
[新]二月辛未,徐州兵亂,逐其刺史梁乘。
[旧]なし
[通]辛未,徐州軍亂,刺史梁乘逾城走。

[背景]汴州は旧平盧軍系の河南節度使の領州である。正月節度使田神功が京師で卒し、弟神玉が継承したが、その間隙をついて不満勢力が刺史を逐ったようである。

[結果]続報はなにもない。留後田神玉が慰撫して修めたのであろう。
同じく、河南軍の防秋者[対吐蕃防衛]千五百人が庫財を掠奪し勝手に帰郷することが起こっている、神功の威權がなくなったためであろう。
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藩鎭軍乱10 嶺南軍乱 哥舒晃自立

2017-09-18 12:45:01 | Weblog
大暦8年9月
[新]壬午,循州刺史哥舒晃反,殺嶺南節度使呂崇賁。
[旧]壬午,嶺南節度使、廣州刺史呂崇賁為部將哥舒晃所殺。
[通]壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。

[背景]呂崇賁は安史の乱にも見られる文官。哥舒晃は武将出身であり、湖南崔灌の例と同じく驕軍かと考えられる。しかし蠻族を巻き込み反乱は大規模化していった。唐朝にとって嶺南廣州は南蛮貿易の拠点で、大きな収益を上げる地域であるので、姑息な代宗皇帝といえども放置できなかった。

[結果]近隣の武断派の江西観察使路嗣恭に嶺南節度使を兼任させて討伐させたが、多数の蠻族が合流し勢力が強大であるのと風土の問題もありなかなか進展しなかった。嗣恭は嶺南に流罪となっていた孟瑤、敬冕などの軍人を起用し、10年11月に大虐殺して討伐に成功した。その際に莫大な財宝を掠奪したが唐朝には納めなかった。代宗皇帝はそれが不満で功績を認めなかったが宰相に諫められてしぶしぶ兵部尚書に任用した。
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藩鎭軍乱9 幽州軍乱 朱泚擁立

2017-09-17 23:08:59 | Weblog
大暦7年7月
[新]是秋,幽州盧龍將李懷瑗殺其節度使朱希彩,經略軍副使朱泚自稱留後。
[旧]辛未,以權知幽州盧龍節度留後朱泚檢校左散騎常侍,充幽州盧龍節度使。
[通]盧龍節度使朱希彩既得位,悖慢朝廷,殘虐將卒;孔目官李懷瑗因衆怒,伺間殺之。衆未知所從;經略副使朱泚營于城北,其弟滔將牙内兵,潛使百餘人于衆中大言曰:「節度使非朱副使不可;」衆皆從之。泚遂權知留後,遣使言狀。

[背景]朱希彩・泚・滔等は李懷仙殺害では一致していたが、唐朝に対する方針[泚や滔は親唐朝派]では分裂し、希彩の増長[幽州では節度使は主君ではなくリーダー的な立場である]もあって対立ができていた。


[結果]滔は李懷瑗を唆して希彩を殺害させ、兄の泚を擁立した。唐朝はそれを追認するのみであった。
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藩鎭軍乱8 湖南觀察 驕軍

2017-09-13 19:14:42 | Weblog
大暦5年4月
[新]四月庚子,湖南兵馬使臧玠殺其團練使崔灌。
[旧]庚子,湖南都團練使崔瓘為其兵馬使臧玠所殺,玠據潭州為亂,灃州刺史楊子琳、道州刺史裴虯、衡州刺史楊漳出軍討玠。
[通]庚子,湖南兵馬使臧玠殺觀察使崔灌;澧州刺史楊子琳起兵討之,取賂而還。

[背景]崔灌/瓘は清廉で優秀な文官で、澧州刺史として業績を上げ、湖南觀察使に栄転してきた。湖南地方は蠻族が過半を占め安史の乱以来、統治は乱脈を極めていた。灌は法令を遵守し粛々と治政を行っていたが、牙軍の将卒は不法行為になれていて不満を募らせていた。兵馬使臧玠等は給糧に対する幕僚とのいざこざから蜂起し、灌も巻き込まれて殺害された。

[結果]唐朝は近隣の諸将に鎮圧を命じたが、真面目に討伐をしようという者はなく。結局神策軍より左羽林大將軍辛京杲を湖南觀察使にして鎮圧に当たらせた。詳細は不明だが京杲は専権強圧の將であるので臧玠等は誅殺されたか蠻地へ遁走したであろう。しかし京杲の湖南統治はでたらめであり、王國良の反乱なども引き起こして問題を長引かせた。
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藩鎭軍乱7 鳳翔節度 移鎭騒動

2017-09-12 09:33:34 | Weblog
大暦5年2月
[新]なし
[旧]戊戌,李抱玉移鎮,鳳翔軍仇,縱兵大掠,數日乃止。
[通]戊戌,李抱玉徙鎮盩厔,軍士憤怒,大掠鳳翔坊市,數日乃定。

[背景]澤潞節度使李抱玉は、吐蕃防衛の責任者として鳳翔隴右節度使を兼任し鳳翔府に屯していた。当時宦官の観軍容使魚朝恩は禁軍を支配して専権を極め、代宗皇帝は宰相元載と組んでこれを除こうとしていた。しかし朝恩の武力を懼れていた。代宗は禁軍の支配地域を増やして朝恩を喜ばすとともに、朝恩派のはずの陝虢節度使皇甫温を鳳翔節度使に移鎭させ、さらに油断させようとした。温は既に代宗・元載派に裏切っていた。そのため李抱玉を山西節度使兼任に移し、鳳翔から盩厔城に移すことにした。鳳翔にいた抱玉軍は移鎭に不満を抱き蜂起した。

[結果]
李抱玉は威權があり、唐朝が必死に慰撫したため数日で治まった。3月魚朝恩は殿中で誅殺され、温の移鎭は取り消され、鳳翔軍も復帰することになった。
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藩鎭軍乱6 邠寧節度 移鎭拒否

2017-09-10 23:03:32 | Weblog
大暦3年12月
[新]辛酉,涇原兵馬使王童之謀反,伏誅。
[旧]己酉,以邠寧節度使馬璘為涇原節度,移鎮涇州,其邠寧割隸朔方軍。
邠州將吏以燒馬坊為亂,兵馬使段秀實斬其兇首八人,方定。
[通]己酉,徙馬璘為涇原節度使,以邠、寧、慶三州隸朔方。璘先往城涇州,以都虞候段秀實知邠州留後。

[背景]邠寧節度[邠寧慶涇原の五州管轄]には、西域の安西より安史の乱鎮定に動員された安西四鎭行営節度使[李嗣業から始まり、当時は馬璘が節度使]が入り、吐蕃に対して最前線で戦ってきた。しかしその兵力では到底京師の防衛には不足する。そこで唐朝は強力な兵力を擁する河中の郭子儀を邠州[邠寧慶三州]に分派し、馬璘を涇州[涇原二州]に移すことにした。河北各地を転々としてやっと邠州に落ちついていた安西軍は、さらに荒涼とした最前線の涇州への移転に激しい不満を抱き、節度使馬璘の不在を利して王童之を中心として蜂起しようとした。

[結果]移鎭には全軍が不満であるが。節度使馬璘には人望があり、留守の責任者である段秀實は予期して対策を立てていた。そして反乱を小規模に抑え、中心の数人のみを処罰して事を収めた。移鎭後馬璘は涇原の貧を訴え、河南の鄭潁二州を管轄するようにした。
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流浪の驍將 楊子琳[楊猷]

2017-09-09 20:53:47 | Weblog

大暦3年5月~7月
[旧]戊辰,以劍南西川節度使崔旰檢校工部尚書,改名寧。寧為柏茂林、楊子琳所攻,寧既入朝,子琳乘虛襲據成都府。朝廷憂之,即日詔寧還成都。
7月壬申,崔寧弟寬攻破楊子琳,收復成都府。
[新]壬申,濾州刺史楊子琳反,陷成都,劍南節度留後崔寬敗之,克成都。
[通]崔旰之入朝也,以弟寬為留後,瀘州刺史楊子琳帥精騎數千乘虛突入成都;朝廷聞之,加旰檢校工商尚書,賜名寧,遣還鎮。
崔寬與楊子琳戰,數不利,七月崔寧妾任氏出家財數十萬,募兵得數千人,帥以擊子琳,破之;子琳走。

[背景]楊子琳は瀘南の賊帥であったが帰順し劍南の武将となっていた。崔寧が郭英乂を殺すと、伐とうとしたが、杜鴻漸は瀘州刺史に任じて宥めた。ところが崔寧が入朝した留守を窺い成都に突入し、留守の崔寬を逐った。

[結果]唐朝はあわてて崔寧を帰し鎮定させようとした。一旦成都を逐われた崔寬は楊子琳の寡兵をみて奪回に動くが成功せず、寧の妾の支援を得てやっと奪回した。子琳は敗走するが唐朝は荊南節度管内の峽州刺史に任じて慰撫した。しかし楊子琳は瀘州に盤踞して荊南・山東節度の各州を荒したため、澧朗鎭遏使に転じさせ優遇した。さすがに老齢となり、大暦9年入朝し賜名され楊猷となり、洮州刺史を与えられた。これは虚名であり隠棲に入ったと思われる。
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藩鎭の軍乱5 幽州の軍乱 李懷仙殺害

2017-09-07 20:13:14 | Weblog
大暦3年6月
[新]壬寅,幽州兵馬使朱希彩殺其節度使李懷仙,自稱留後。
[旧]壬辰,幽州節度使、檢校侍中、幽州大都督府長史李懷仙為麾下兵馬使朱希彩所殺。
[通]壬辰,幽州兵馬使朱希彩、經略副使昌平朱泚、泚弟滔共殺節度使李懷仙,希彩自稱留後。

[背景]
安史の乱の末期、幽州を守備していた李懷仙[柳城胡人で契丹より帰降して安禄山に仕えた]は、敗走してきた史朝義を裏切って殺し、唐朝に帰順し幽州節度使となった。懷仙は節度使となると唐朝に敵対し、部下にも専横となっていった。不満派の朱希彩や朱泚やその弟滔達は謀議して殺害し、希彩を擁立した。

[結果]
唐朝は最初、李懷仙の舊僚である成德節度使李寶臣に鎮圧を命じたが、寶臣は形式的に討伐し敗戦すると反って希彩を推薦した。唐朝は文官で宰相の東都留守王縉を派遣して幽州を回収しようとしたが、希彩達は瑨を厚遇するが従おうとはせず、縉は懼れて希彩を留後として河東へ去った。その後希彩は節度使に就任した。
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藩鎭の軍乱4 商州の反乱 殷仲卿殺害

2017-09-06 10:49:56 | Weblog
大暦3年2月
[新]癸巳,商州兵馬使劉洽殺其刺史殷仲卿。
[旧]なし
[通]癸巳,商州兵馬使劉洽殺防御使殷仲卿,尋討平之。

[背景]
安史の乱に山東方面で活躍し、淄沂節度使や左羽林大將軍となっていた殷仲卿は寶應元年頃から閑職である光禄卿となり、やがてそれも失います。しかし吐蕃の来寇に郭子儀を助けて勇戦し、京師の南門にあたる武關を担当する商州防禦使に復帰します。しかし「馭下無政威惠不行」と記されている状況から兵馬使劉洽に殺されます。

[結果]
偶発的な軍乱とみえて、誰が鎮圧したかすら記載されず、後任の防禦使も不明です。兵馬使劉洽は建中~貞元に活躍した宣武軍節度使劉洽[賜名されて玄佐]とは別人のようです。彼がどうなったかも不明です。
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藩鎭の軍乱3 華州の反乱 周智光の乱

2017-09-05 20:07:56 | Weblog
大暦元年12月
[旧]癸卯,同華節度使周智光專殺陝州監軍張志斌、前虢州刺史龐充,據華州謀叛。
[新]癸卯,周智光反,殺虢州刺史龐充。
[通]癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。智光素與陝州刺史皇甫温不協,志斌入奏事,智光館之,志斌責其部下不肅,智光怒曰:「僕固懷恩不反,正由汝輩激之。我亦不反,今日為汝反矣!」叱下斬之,臠食其肉。朝士舉選人,畏智光之暴,多自同州竊過,智光遣將將兵邀之于路,死者甚衆。戊申,詔加智光檢校左僕射,遣中使余元仙持告身授之。智光慢罵曰:「智光有大功于天下國家,不與平章事而與僕射!且同、華地狹,不足展材,若益以陝、虢、商、鄜、坊五州,庶猶可耳。」因歷數大臣過失,且曰:「此去長安百八十裡,智光夜眠不敢舒足,恐踏破長安城,至于挾天子令諸侯,惟周智光能之。」元仙股栗。郭子儀屢請討智光,上不許。

[背景]宦官魚朝恩の麾下であった神策将周智光は吐蕃との戦いで軍功をあげて東都と京師・河中の中間点である同華節度使に任ぜられました。彼は勇敢ですが極めて傲慢専横な人物で、同輩の杜冕をねらい家族を殺害したり、皇甫温麾下の監軍を殺したり横暴を極めます。弱体な唐朝はこれをひたすら慰撫しますが、増長させるだけでした。

[結果]さすがに優柔不断な代宗皇帝も決断し、河中に大軍団を率いる郭子儀に討伐を命じます。これすらも密使を送らねばならない体たらくでした。郭子儀が討伐するという噂が伝わると、周智光麾下の諸将は動揺し、同州はただちに降り、華州では智光一族を殺害して降ります。そこへ淮西節度使李忠臣が来襲し華州一帯を寇掠する事態となりますが、一応鎮圧ということになりました。同華節度使は廃止され、華州の潼関に防禦兵を置くことになります。
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藩鎭の軍乱2 永泰の軍乱 李正己の自立

2017-09-04 21:19:33 | Weblog
永泰元年7月
[旧]辛卯朔,淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。制以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
[新]辛卯,平盧、淄青兵馬使李懷玉逐其節度使侯希逸。
[通]平盧節度使侯希逸鎮淄青,好游畋,營塔寺,軍州苦之。兵馬使懷玉得衆心,希逸忌之,因事解其軍職。希逸與巫宿于城外,軍士閉門不納,奉懷玉為帥。希逸奔滑州上表待罪,詔赦之,召還京師。壬辰,以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,以懷玉知留後,賜名正己。

[背景]
安史の乱に遼東半島にあった平盧軍節度使は唐朝方に付き抗戦しました。しかし孤立に苦しみ、節度使侯希逸等は營州を棄てて全軍渤海湾を渡り山東半島に移動しました。そこで前に派遣していた田神功や李忠臣等の部隊の出迎えを受けて寶應元年5月淄青平盧節度使となり拠点を設けることができました。このころの平盧軍は諸将の連合体であり侯希逸はあくまで代表という立場でしたが、やがて専権化し、まだまだ生活が安定しない兵士や家族の不満がつのりました。そして副将の高句麗人李懷玉[賜名後は正己]等は蜂起し希逸を逐いました。

[結果]
唐朝は鎮圧する能力が無く、結果を追認するしかありません。形式的に親王[鄭王]を節度大使として任命し、懷玉を留後とするという策で糊塗しました。鄭王は赴任せず、まもなく懷玉が節度使となります。逐われた侯希逸は功績があるので京師で引退し、後に司空に任ぜられます。
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藩鎭の軍乱1.永泰の軍乱 西川崔寧の自立

2017-09-04 12:50:39 | Weblog
永泰1年閏10月
[旧]劍南節度使郭英乂為其檢校西山兵馬使崔旰所殺,邛州柏茂林、瀘州楊子琳、劍南李昌巙皆起兵討旰,蜀中亂。
[新]辛亥,劍南西山兵馬使崔旴反,寇成都,節度使郭英乂奔于靈池,普州刺史韓澄殺之。
[通]初,劍南節度使嚴武奏將軍崔旰為利州刺史;時蜀中新亂,山賊塞路,旰討平之。及武再鎮劍南,賂山南西道節度使張獻誠以求旰,獻誠使旰移疾自解,詣武。武以為漢州刺史,使將兵擊吐蕃于西山,連拔其數城,攘地數百裡,武作七寶輿迎旰入成都以寵之。武薨,行軍司馬杜濟知軍府事。都知兵馬使郭英幹,英乂之弟也,與都虞候郭嘉琳共請英乂為節度使;旰時為西山都知兵馬使,與所部共請大將王崇俊為節度使,會朝廷已除英乂,英乂由是銜之,至成都數日,即誣崇俊以罪而誅之。召旰還成都,旰辭以備吐蕃,未可歸,英乂愈怒,絕其饋餉以困之。旰轉徙入深山,英乂自將兵攻之,聲言助旰拒守。會大雪,山谷深數尺,士馬凍死者甚衆,旰出兵擊之,英乂大敗,收餘兵,才及千人而還。英乂為政,嚴暴驕奢,不恤士卒,衆心離怨。玄宗之離蜀也,以所居行宮為道士觀,仍鑄金為真容。英乂愛其竹樹茂美,奏為軍營,因徙去真容,自居之。旰宣言英乂反,不然,何以徙真容自居其處!于是帥所部五千餘人襲成都。辛亥,戰于城西,英乂大敗。旰遂入成都,屠英乂家。英乂單騎奔簡州。普州刺史韓澄殺英乂,送首于旰。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔各舉兵討旰,蜀中大亂。旰,衛州人也。

[背景]
劍南節度使嚴武は文官でしたが、極めて強権的で武断派でもありました。従来吐蕃の侵攻に押しまくられていた状況に反撃し成果を上げていましたが、永泰元年4月に卒しました。後任には安史の乱で活躍した神策系の右僕射郭英乂が任じられました。しかし嚴武に重用されていた崔旰[後賜名されて寧]などの諸将は不満を抱いていました。ところが武力に自信のある英乂はこれを強引に討伐しようとしますが、地元の利がある崔旰に敗北し、不満派はこれを殺します。そして他の諸将も一斉に蜂起し劍南地方は混乱状態に陥ります。

[結果]
一地方の騒乱ですが、吐蕃の侵攻により疲弊していた唐朝はこれをまともに討伐する力がありません。山西節度使張獻誠を派遣してみましたが、崔旰に撃破されてしまいます。そこで文官の宰相杜鴻漸が副元帥の資格で宣慰に向かいます。武力に自信の無い鴻漸はひたすら崔旰を慰撫し、崔旰は迎合し莫大な財物を贈って鴻漸を喜ばせます。鴻漸は成都に入りましたが崔旰に軍政を一任し、まもなく後任の節度使に崔旰を推薦し京師に戻ります。蜂起した諸将にもそれぞれ官職を与えて慰撫しています。表面上乱は鎮静化し、代宗皇帝はこれを認めるしかありませんでした。まもなく崔旰は入朝し崔寧となり、対吐蕃防禦に功績をあげて大暦14年まで劍南西川節度使として在任します。
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