唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

藩鎭と軍乱 河東節度使その3

2013-06-23 12:48:27 | Weblog
河東軍の崩壊は沙陀李國昌と克用が河東の北部雲州・振武で起こした反乱から始まった。

乾符5年(878)5月.節度使竇澣は代州防衛のために土團軍[民兵]を動員したが、土團兵は賞与を求めて乱し、
將虔を殺した、澣はひたすら慰撫するのみで統制できなかった。
6月朝廷は澣を罷免し、昭義節度使曹翔にその軍を率いさせて代わらせ鎮定させた。
7月援軍としてきた義武軍が乱したが鎮定した。
8月翔は沙陀に忻州で敗北した。
9月翔は頓死し、昭義軍は太原を荒らし回った。
11月前義武節度使崔季康が河東節度使となった。
12月季康と昭義節度李鈞は沙陀と戦い敗北し、鈞は戦死した。昭義兵は代州を掠奪した。

乾符6年(879)2月都頭張鍇、郭昢が乱し、節度使季康を殺した。朝廷は邠寧節度使李侃を後任とした。
5月牙將賀公雅が乱し、侃は慰撫したが、諸軍が蜂起して治まらなかった。
6月侃は病を称して鎭を捨てた。
8月旧宰相李蔚が赴任したが、閏10月卒した。
11月やむをえず武将康傳圭を後任とした。

廣明元年(880)2月沙陀が来寇したため傳圭は迎撃したが敗れ、將張彥球に殺された。
3月朝廷は現任宰相の鄭従讜を送り込んだ。老獪な従讜は、彥球を慰撫して重用し、河東軍をなんとか治めることに成功した。

という体たらくであり、黄巣の乱に集中できない状況を作り出した。
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藩鎭と軍乱 河東節度使その2

2013-06-22 13:41:56 | Weblog
④.元和10年河東將劉輔等が豐州刺史燕重旰を殺した。節度使王鍔はその一派を誅して平定した。
事件の詳細は不明である。

⑤.會昌年間回紇帝国が崩壊し、残存勢力が南下し天徳・河東・幽州を犯した。節度使劉沔はこれを
撃破したが、幽州張仲武と功を争い、3年義成節度へ転任させられ、旧宰相の李石が後任となり、
昭義劉稹の鎮定にあたったが、4年正月都將楊弁が待遇を不満として反し、石を逐った。
しかし監軍呂義忠や都將王逢等がこれを鎮圧し、弁は誅された。

その後、大中・咸通年間を通じて文官や二流の武官が赴任し、牙軍の規律は弛緩し、北部には蕃族
が多く盤踞するようになって行き、乾符年間には軍乱が頻発するようになっていった。
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藩鎭と軍乱 河東節度使その1

2013-06-21 19:25:05 | Weblog
藩鎭とその軍乱について、河東・幽州・武寧の三鎭を例として記述してみよう。
河東節度使は開元年間に置かれた古い節度使で、突厥や回紇などと対面し、北邊は
沙陀や吐谷渾など蕃族が居住している。農地としての生産性は低く荒れた高原が大半である。
使府の太原府は唐の発祥の地であり、北都が置かれ、鉄産業が盛んである。
蕃族対策として強力な兵備が置かれ、中央からの統制もきつい。

①.上元2年-戦闘には弱かったが良將で会った王思禮が死ぬと、無能な管崇嗣が嗣ぎ、せっかく蓄積した兵糧を散逸
させてしまった。朝廷は文官である景山を派遣し綱紀を引き締めた。厳酷なだけの景山は諸将が横領していた資材
を厳しく点検し、將吏は恐慌を起こした。寶應元年-人よりも資材を重視する姿勢に憤激した將吏は景山を殺した。
当時史朝義の乱が続き、河中でも軍乱が起こったため朝廷は乱の黒幕である代州刺史辛雲京を後任として慰撫した。
郭子儀が河中の乱を鎮定するのをみた雲京は何人かを犠牲にして朝廷に恭順する姿勢をとった。

②.辛雲京没後、宰相王縉が東都から入ったが、將王無縱や張奉璋等は縉が文官であることを侮り命令に従わなかった。
大暦4年縉はこれら七名を誅して統率をとった。

③.貞元11年節度使李自良が没すると、行軍司馬李説は宦官の監軍王定遠に擁立されて後を継いだ。ところが定遠は専
権を振るい、説は従いかねた。定遠は気に入らない將を殺し、はては李景略を擁立して説を逐おうとした。諸将は従わ
ず定遠は逃死した。
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