有能な行政官であるが、權倖に贈賄して地位を築いた。晩年に方策を誤ったが処罰はされなかった。
------------------------
陳少遊/陳少游伝
------------------------
少游は博州博平の人。
祖儼は安西副都護。父慶は右武衛兵曹參軍。
少游は若くして聡明で学業優秀、老荘に通じて崇玄館學生で抜きん出ていた。
宰相陳希烈が推す所となり、渝州南平令。政績優秀。
至德中.河東節度王思禮の參謀となり、大理司直・監察御史・殿中侍御史等を帯して節度判官。
寶應元年.金部員外郎。
尋授侍御史迥紇糧料使となり、檢校職方員外郎を帯する。
僕固懷恩河北副元帥判官となり兵部郎中兼侍御史。
晉州刺史
同州刺史[不任]
また晉州刺史
鄭州刺史。
少游は行政に長け、財貨を集積し、權幸に進奉して昇進していった。
澤潞節度使李抱玉副使御史中丞陳鄭二州留後。
永泰二年.隴右行軍司馬檢校左庶子御史中丞。
大暦元年.桂州刺史桂管觀察使になるが遠隔地で暑熱であることを嫌い、宦官枢密使董秀に秀が驚愕するような莫大なワイロを申し出た。そして炎熱の地に赴任すれば再び会えないのではないかとほのめかし宣州刺史宣歙池都團練觀察使に変更させた。
大暦五年.越州刺史兼御史大夫浙東觀察使。
大暦八年.揚州大都督府長史淮南節度觀察使。
加銀青光祿大夫,封穎川縣開國子。
吏員をよく働かせ安定した業績を上げ、税収を増加させた。
また自家用の財寶も集積した。
宰相元載と結び、宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩ともつながっていた。
元載が失脚するといち早く裏切り、代宗皇帝のお覚えも極めて良かった。
大暦十一年.汴宋李靈曜の自立を伐った。
德宗皇帝が即位し、檢校禮部尚書、兵部尚書を加えられた。
建中三年.淄青李納が自立すると、海密等州を攻めたが功はなかった。檢校左僕射,賜實封三百戶。
軍事費の増税の功績で加同平章事。
当時の宰相關播,盧杞とも結託し次々と栄誉を加えられた。
四年十月,少游は德宗皇帝が奉天へ遁走すると、度支汴東兩稅使包佶を脅して集積された賦稅を奪った。
淮西李希烈が汴州を陥し、江淮に侵攻しようとすると、少游は懼れて希烈に通じた。
その交通は壽州刺史張建封に阻止され、希烈は將杜少誠に命じて壽州を攻め、淮南を取ろうとしたが果たせなかった。
包佶が入朝と少游の非を訴えると、少游はあわてて財貨を集めて上納した。
宣武劉洽が汴州を回復すると,少游と希烈の交通が暴かれた。
興元元年十二月.少游は懼れて疾となり卒したる年六十一歳。贈太尉。
宦官達と深く結託していたためその罪は追及されなかったようである。
死後その將王韶は自立しようとしたが、浙江節度韓滉に威嚇されてできなかった。
------------------------
陳少遊/陳少游伝
------------------------
少游は博州博平の人。
祖儼は安西副都護。父慶は右武衛兵曹參軍。
少游は若くして聡明で学業優秀、老荘に通じて崇玄館學生で抜きん出ていた。
宰相陳希烈が推す所となり、渝州南平令。政績優秀。
至德中.河東節度王思禮の參謀となり、大理司直・監察御史・殿中侍御史等を帯して節度判官。
寶應元年.金部員外郎。
尋授侍御史迥紇糧料使となり、檢校職方員外郎を帯する。
僕固懷恩河北副元帥判官となり兵部郎中兼侍御史。
晉州刺史
同州刺史[不任]
また晉州刺史
鄭州刺史。
少游は行政に長け、財貨を集積し、權幸に進奉して昇進していった。
澤潞節度使李抱玉副使御史中丞陳鄭二州留後。
永泰二年.隴右行軍司馬檢校左庶子御史中丞。
大暦元年.桂州刺史桂管觀察使になるが遠隔地で暑熱であることを嫌い、宦官枢密使董秀に秀が驚愕するような莫大なワイロを申し出た。そして炎熱の地に赴任すれば再び会えないのではないかとほのめかし宣州刺史宣歙池都團練觀察使に変更させた。
大暦五年.越州刺史兼御史大夫浙東觀察使。
大暦八年.揚州大都督府長史淮南節度觀察使。
加銀青光祿大夫,封穎川縣開國子。
吏員をよく働かせ安定した業績を上げ、税収を増加させた。
また自家用の財寶も集積した。
宰相元載と結び、宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩ともつながっていた。
元載が失脚するといち早く裏切り、代宗皇帝のお覚えも極めて良かった。
大暦十一年.汴宋李靈曜の自立を伐った。
德宗皇帝が即位し、檢校禮部尚書、兵部尚書を加えられた。
建中三年.淄青李納が自立すると、海密等州を攻めたが功はなかった。檢校左僕射,賜實封三百戶。
軍事費の増税の功績で加同平章事。
当時の宰相關播,盧杞とも結託し次々と栄誉を加えられた。
四年十月,少游は德宗皇帝が奉天へ遁走すると、度支汴東兩稅使包佶を脅して集積された賦稅を奪った。
淮西李希烈が汴州を陥し、江淮に侵攻しようとすると、少游は懼れて希烈に通じた。
その交通は壽州刺史張建封に阻止され、希烈は將杜少誠に命じて壽州を攻め、淮南を取ろうとしたが果たせなかった。
包佶が入朝と少游の非を訴えると、少游はあわてて財貨を集めて上納した。
宣武劉洽が汴州を回復すると,少游と希烈の交通が暴かれた。
興元元年十二月.少游は懼れて疾となり卒したる年六十一歳。贈太尉。
宦官達と深く結託していたためその罪は追及されなかったようである。
死後その將王韶は自立しようとしたが、浙江節度韓滉に威嚇されてできなかった。