唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

不動

2006-09-30 09:04:42 | Weblog
「敵襲だあ!」

「なだれ込んでくるぞ、逃げろ」

高麗軍が突如山陰から攻撃してきた。

張亮率いる唐軍は陣屋づくりにかかっているところであり

木材きりだし、土掘りと分散し

しかも甲冑をつけている者はすくなかった。

驍勇を誇る高麗軍の精鋭はみるみる斬り立てていった。

「総崩れだ、本陣も危ないぞ」

まだ幕すら張っていない本陣は丸見えである。

しかし亮は床几に座ったまま微動すらせず前を見つめていた。

それをみて敗走しようとした将軍張金樹らは立ち止まって叫んだ。

「恥を知らぬのか、本陣をみよ」

「大総管がみておられるのだぞ」

「おまえらは唐の精鋭であろう」

将兵達も本陣の亮の姿をみて励まされ逆襲に移った。

数に勝る唐軍が立ち直ると、高麗軍は撤収し始めた。

実は臆病な亮は腰が抜けて立てなかっただけであった。
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維新

2006-09-29 18:18:30 | Weblog
「門前に曹王様がこられています」

「なに。使者が返事をもってきたのか」

「いえ。王様ご自身のようです」

「そんな馬鹿な!こんな所まで曹王様自身がこられるはずがない」

「いいえ、私は顔を存じています、確かに曹王様です」

王國良はまだ信じられない気持ちであったが、砦の門へいそいだ。

そこにみたのはまぎれもない曹王の姿であった。

湖南で数年にわたって反旗を翻していた國良であった。

言い分は確かにあった。

前観察使辛京杲は、國良の家が豊かであるのに目をつけ

罪をでっちあげて殺し、財産を没収しようとしたのであった。

國良は役所内の知り合いからの内報を受け逃亡し

山砦にこもり謀叛を起こした。

西原蠻の酋長として威望は高く

呼応するものが多く勢力は相当のものであったが

國良としては不本意な反乱であった。

何度もの討伐軍をすべて撃退していたが

従う蛮族達にとっても苦しい月日が続いていた。

「もういい加減、平和が戻って欲しい」

そう思っていた矢先に、新観察使の嗣曹王皐からの勧降があったのだ。

しかしなかなか信じることができず、ここにいたっていた。

「やってきたぞ、約束通り」嗣曹王皐はにこにこと笑いながら馬をおりた。

さすがに國良は平伏し罪を謝した。

「私が自らとりなす以上、万に一つの違約もないよ」曹王の言葉に國良はうなずいた。

「ただちに反軍を解散させます」國良は砦を焼き、兵達を帰農させた。

皇帝は喜び、國良に「維新」という名前を賜った。
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長者

2006-09-28 18:38:31 | Weblog
「澤はなんて陰険な奴なんだ」

「使者の地位を利用して皇帝に媚び、耽様の地位を奪ったのですよ」

「あんな奴はぶち殺してやる」

血の気の多い山東將張獻甫はいきまいている。

「やり方が汚いんだ奴は」

「慰労宴の前から知っていたくせに、一言もいわん」

「宴会が終わってから、しれっと交替をつげるなんて」

山東行軍司馬樊澤は節度使賈耽の命を受け、

山西に行在している皇帝の元に出向いていた。

そして帰還したため、耽は慰労の会を開いてやったのだ。

そのあとの出来事であった。

「節度使は皇帝の命で決まるものだよ」と

地位に頓着しない耽は獻甫をなだめ、

不満を持つ側近の將を皆連れて即日軍府を離れた。

そのためとかく問題の多い山東軍が乱れることはなかった。

耽は人格を買われて長く宰相を務めることとなった。
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専殺

2006-09-27 18:10:00 | Weblog
「徐庭光をなんとしても斬る」

同華節度使駱元光は期することがあった。

李懷光の將庭光は既に降り、官爵を与えられていた。

しかし降るに際して、西域人である元光を愚弄し

「親もわからぬ蛮族などに降れるか、漢人を呼べ」

と罵り、毛深い芸人に元光のものまねをさせた。

「絶対にあいつは赦さぬわ」

「しかし副元帥馬燧様は激怒されるだろう」

「遊瓌、その時にはとりなしてくれるか?」

同じく庭光には旧怨をもつ韓遊瓌は頷いた。

軍門を庭光がくぐろうとしたとき、元光は部下とともに囲み
これを斬り捨てた。

そして馬燧の前にでて、罪を請うた。

燧は激怒して言った。

「庭光は既に赦され官爵を受けている」

「これをみだりに殺すことは赦しがたい」

「元光を斬れ!!」

その時、遊瓌が走り出て言った。

「勝手に將を殺すことでも、君はかくのごとくお怒りになられます」

「しかし君は、命を待たずに節度使を殺そうとしておられます」

「皇帝はどれほどお怒りになるでしょうか」

燧は驚き、黙り込んだ。

諸将が口々にとりなして元光を連れ去り、事はうやむやになった。
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水

2006-09-26 18:24:29 | Weblog
「今日はめでたい日だ、吐蕃との厳しい戦いがすみ平和がおとずれるのだ」

皇帝は出御するとほほえみながら切りだした。

「御意、おめでとうこざいます」と馬燧が応じた。

その日、水において唐と吐蕃の盟約がかわされることになっていたのだ。

吐蕃の何度もの侵攻で唐は疲弊していた。

「はたして平和が来るのでしょうか、吐蕃は信用できるとは思えません」

と柳渾はつぶやいた。

「私も吐蕃など信用できません」と李晟も同調した。

「お前らになにがわかる、特に渾のような書生に邊事がわかるのか」
と皇帝は激怒して叫んだ。

その剣幕に宰相達はひれ伏して謝罪した。

気まずいふんいきの中で廷議も早々に打ち切られた。

その夕、急報が入った。

「吐蕃は違約し、唐の使者を捕らえた」

「吐蕃は再び侵攻を始めた」

皇帝は驚愕し、あわてて宰相達を集めた。

「渾よ、書生でありながらよく夷狄のことがわかるの」

帝はきまり悪げに話しかけた。

このことが骨身にしみたのか

帝は長い治世に二度と吐蕃と交渉しようとはしなかった。
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使者

2006-09-25 19:25:43 | Weblog
「早くしてくれ、もう耐えられない」

「もうすこしだがんばれ」

グサッ、グサッと背中に矢が突き刺さる

重ね着をしているために深くはいることはないがショックは大きい

「がんばれ、もうすこしだ」

城壁の上の連中も必死である

孤立してなんの情報も入ってこなかった奉天城に

待望の朔方軍からの使者がやってきたのだ

使者張韶は頭髪に密書を隠し

攻城に動員された賤人の群れに混じって城壁の下へ

そこで城上の兵に呼びかけた

「俺は李懷光様の使者だ、上げてくれ」

身体に数十本の矢がささり血まみれになった韶であったが

皇帝になんとか密書を届けることができた。

「あと三日で朔方軍が来るぞ」皇帝は叫んだ。

「城兵達に伝えよ、三日がんばれば救われる」

「そうだ、韶を輿にのせて巡回させよ」

城兵は韶の輿が来ると、救いの神がきたかのように歓声をあげた。

城を包囲していた朱の軍勢は茫然としていた。

「背後に朔方軍が来る」

「もうだめだ、城は落ちないぞ」

たちまち浮き足だっていった。
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河北

2006-09-24 09:10:23 | Weblog
劉總が幽州を朝廷に返還して去り

やがて新節度使として元宰相の張弘靖が入った。

弘靖は宣武・河東などを歴任し、うまく統治していた。

朝廷としては最高の人選をしたつもりであった。

しかし歴代の貴族である弘靖は輿に乗り入部した。

これは燕人達を驚愕させた。

河北では節度使は諸将の代表であり、主君ではなかった

そのため輿に乗る者などいなかったのだ。

しかも弘靖は慣習を破り、幕僚達に間接統治させた。

中央から来た幕僚は、教養のない燕人をバカにして怒りを買うことになった。

總は返還するとき反乱を心配し、朱克融など面倒な連中を京師に送り
神策軍に編入することを依頼していたのだが

時の無能な宰相崔植や杜元穎は無関心に放置していた。

やがて彼らは憤懣を抱えたまま帰郷することとなった。

そして幕僚韋雍と将校の馬がぶつかったことから事件は起こった。

雍は無礼だとして将校を杖で打った。

京師では普通の事であったが
河北では通常杖打ちは行われず、極めて強い侮辱となるのだった。

将兵は騒ぎ、克融らはこれを扇動した。

長慶元年軍乱が起き、半年で幽州は失われた。

連鎖反応で成徳・魏博も失われて、河北は昔に戻ることになった。

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岸頭

2006-09-23 09:24:21 | Weblog
「貢賦を送る船が止まってしまっています」

「このままでは倉庫が空になってしまいます」

悲鳴のような通報が東都から京師に続いた。

建中の初め、淄青節度使は淮西と通じて反旗を示した。

そのため掠奪を懼れて江淮からの進奉が止まってしまった。

「誰かを送って淄青を抑えねばいかん」

「誰かおらんのか」と宗はいらだった。

「張萬福はどうだ」

「淮南節度使からの報告では耄碌して使い物にならないかと・・・」

「ほんとうか?、まだそんな年ではないはずだが」

「頑固者なので節度使が誹謗しているのかもしれませんが」

「呼べ、萬福を、奴なら名前だけでも使える」

萬福が出頭すると、耄碌どころか元気いっぱいであった。

「淄青軍を抑えてくれるか」と宗

「何でもないことです」と萬福

濠州刺史として所部を率いて現地に急行した萬福は

大運河の岸に馬を進めて、対岸の淄青軍をにらみつけた。

その姿をみて

「萬福だ、萬福が来た!」と淄青軍は目に見えて動揺した。

その目の前を進奉船は次々と通過していった。

淄青軍は手出しをすることがなかった。
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二流

2006-09-22 17:51:59 | Weblog
とぼとぼと馬を歩ませながら姚令言は考えていた。

「俺はなんだったのだろう」

従う兵も逃げ散ってわずか数人だ。

八ヶ月前、節度使として軍を率い東征に発した自分

雨に打たれ、粗末な給与に激怒した兵達を制することができなかった自分

なりゆきで朱をかついで謀反した自分

反乱の中でも二流の扱いしかうけなかった自分

そして今、叛臣として逃亡する自分

あの時の氷雨がなかったら

皇帝が賞賜の出し惜しみをしなかったら

京兆尹王翃が粗末な飯をださなかったら

俺は決して叛臣などにはならなかった

実直に積み上げてきた俺の軍歴

頂点の節度使までに成り上がった俺

東征で栄誉を受け、忠臣として終わったはずの俺

「俺はなんだったのだろう」

追っ手が背後に迫ってきた
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我は反せず

2006-09-21 18:17:22 | Weblog
非反者

「蔵用殿は謀反人ではないぞ」

「お前がそのようにがんばると一味だとされるぞ」

「もう俺にはわけがわからん、勝手にしたらよい」

將孫待封はそう言い放つと、喚きだした。

「劉展様は俺たちを率いて皇帝の命により淮南へ来たんだぞ」

「話が良すぎるとは疑っていたが、お前ら文官達は皇帝の命だと保証したんだ」

「淮南にやってきたら、急にお前らは展様を認めなかった」

「展様の攻撃を受けると、情けなくお前らは逃げ散った」

「その時、ただ一人淮南を守ったのは、李蔵用様なんだ」

「その後田神功がやってきて、展様は戦死し、俺は降った」

「そうするとまたお前ら文官があらわれた」

「そして蔵用様が謀反したといって殺した」

「功績をあげた將達はみんなお前達の食い物になる」

「展様も、蔵用様も、俺も謀反人ではない」

「お前ら文官共が謀反人だ」

獄吏はあわてて、待封を処刑した。
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バランス

2006-09-20 17:56:42 | Weblog
ご機嫌であった宣宗の顔が俄にこわばった。

朝廷での宰相達との協議の場である。

馬植の締めている寶帯はどうみても宣宗が宦官馬元贄に遣った物である

「いつのまにか宦官と宰相が通じている」

唐の皇帝の権限は大きくはない

対立する宦官と宰相官僚のバランスをとることが大切なのだ

両者が結託すれば皇帝など飾り物になってしまう

「植よ、その帯はどうしたのだ」

帝の問いかけに植は青ざめた

同姓ということで中尉元贄と交通し、ご機嫌を取っていた。

その御礼に元贄から贈られた帯である。

「朕はその帯には見覚えがあるのだが」

植は一言も答えることができず流汗するのみであった。

翌日、植は宰相を免ぜられ天平節度使として出され

さらに数日後に常州刺史に左遷された。
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黒餅

2006-09-19 18:38:25 | Weblog
「勅使たる俺にこんなゴミのようなものを食わせるのか」

陝州の山中の驛のことである

地方に使いした宦官達は権威を振り回している。

宿泊した宦官達は夕食に出た餅をみて激怒した。

雑穀がまじり黒ずんだ餅はみるからにまずそうである。

勅使として常に最高の食事を出されていた宦官にとって
はがまんのならないものであった。

「この付近ではこんなものしか手に入らないのです」

驛吏は必死で謝罪するが、かえって宦官を逆上させるだけだった。

「殺されずにすんだだけありがたいと思え」と

宦官達は驛吏たちを激しく鞭打って去っていった。

驛吏達より報告を受けた観察使高少逸は

その餅を封じて宣宗皇帝に進め弁明した。

「お前達は思い上がっている、深山では食を得ること自体が大変なのだ」

「民の苦労を味わってこい」と

皇帝は怒ってその宦官達を陵墓の番人に追放した。
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守門

2006-09-18 16:31:49 | Weblog
「二人だけですか?」

「十分すぎるだろう、門を守るには」

「しかし相手は回紇の使者ですぞ」

「あいつらは勝手のし放題ですよ」

「仮にも俺は李載義だ、幽州節度使の頃からあんな連中をあしらっている」

そこへ先乗りとして回紇の将軍李暢が挨拶に来た。

「将軍、暑い中、ご苦労様ですな」

「唐と回紇は舅甥の関係、お互いの法を守ることが大切ですな」

「はあ???」暢はとまどっていた。

「法によれば盗賊は死刑」

「載義は断然これを守るつもりです、たとえ回紇人であっても」

「そのような事が起きないことを望んでいます」

契丹や奚など北辺の蛮族と戦ってきた載義は回紇などを懼れてはいない

それがわかるのか暢は神妙である

載義はわざと城門の防衛をやめ、使者一行を迎えた。

「わざと油断させて、一気にやるつもりだぜ」と

回紇達は戒めあって法を犯さないようにした。

河東節度使の管轄では何事も起きなかった。
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辞退

2006-09-17 12:00:11 | Weblog
「あんな奴にこられたらかなわんぜ」

「愿の弟だってよ」

「あいつも吝い奴だったが弟はもっとひどいんだぜ」

「智興の旦那みたいにはいかんぜ」

「いっちょう脅かしてみるか」

王智興が武寧から忠武節度使へ移ったあと

邠寧から李聴(名将晟の子)が移ることになった。

武寧には以前、聴の兄愿が赴任していたことがあり、

当時の家奴が牙將となって残っていた。

家奴にとってはせっかく自由になり、

部将として一人前の顔ができるようになった現在

昔の主家になど来て欲しくはなかった。

そこで兵達をそそのかし、

将兵慰労のため先乗りで来ていた親吏を捕まえさせ

殺して食べてしまう事件を起こさせた。

そして聴に事件を伝える手紙を送った。

「こちらの情勢は極めて厳しいものがあります」

「殿の評判は極めて悪いのでお気をつけください」

聴は懼れて武寧節度使を辞退することにした。
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誅滅

2006-09-16 16:03:43 | Weblog
「また節度使が追われたそうですな」

「あそこの兵は傲慢でどうしようもない」

「王智興がさんざん甘やかした後ですからな」

「それにしても長すぎる、いい加減に抑えないと」

「王式がいいですな、軍も連れていますし」

「そうそう式がいたな、浙東から引き上げてくるはずだ」

「今度という今度は徹底的にやってしまいましょう」

武寧節度使は札付きの驕兵があつまり、

代々の節度使はご機嫌取りをしてただ任期が終わるのをまつだけであった。

前使の田牟にいたっては兵達と混じって座り宴会を重ねていた。

次の温璋に代わると、歓迎宴で兵達は誰も飲食せず無視してかかった。

そして理由にならない理由で乱を起こして逐ったのだった。

式は浙東の仇甫の乱を討滅した忠武・義成の強兵を引き連れて赴任した。

その威力の前に武寧の無頼兵も緊張し、粛然として出向かえた。

三日後、式は忠武・義成兵の帰還式を行うとして、武寧牙軍と共に整列させた。

帰還軍は完全武装して牙軍を取り巻き、式の号令とともに襲いかかった。

数千を悉く誅滅するのに数刻もかからなかった。

式は他の兵達を地方へ転出させ、武寧軍を廃止し去った。

しかし驕兵の一派は隠れ潜んで根絶することはできなかった。
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