唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳27 王雄誕

2024-05-31 10:15:22 | Weblog
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王雄誕
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強壮で腕力絶倫だった。

杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。

大業十一年十月
伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。

闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。

武德三年
伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。

四年十一月
李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。
歙守の汪華を攻めて降した。
蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。

四年
功により歙州總管封宜春郡公となった。

伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。

六年八月
輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。
公祏は兵権を奪って反し、従わない雄誕を殺した。

雄誕は人を愛し,士を撫して死力をつくさせ、掠奪することは無かったため江南士庶はその死を悲しんだ。

高祖はその忠節を賞して、子の世果に宜春郡公を継がせた。

太宗時、贈左驍衛大將軍越州都督諡曰忠。
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唐初功臣傳26 李/羅藝

2024-05-30 10:13:55 | Weblog
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李/羅藝 字子廷/子延
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父榮は隋監門將軍。

冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。

上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。

全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。
その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。
しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。

藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。

大業十二年十二月
藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。
倉庫を開き戰士に賞賜し、貧民に賑給したので大いに民意を得た。
渤海太守唐禕等逆らう者は殺し、柳城、懷遠郡は歸附し、柳城郡を得て太守楊林甫を捕らえ、襄平太守鄧皓を營州總管[柳城郡]とし、幽州總管を自称した。

江都で隋煬帝を弑逆した宇文化及は北上し藝を招いたが、「隋臣として逆賊には従えない」と拒否した。

竇建德・高開道も招いたが「建德・開道は賊だ、關中で自立している唐に従おう」と決めた。

武德元年十二月
漁陽、上谷等諸郡を以って張道源の山東宣撫に従い幽州總管に任ぜられた。

二年十月
封燕郡王食邑五千戸となり賜姓し皇族の屬籍に入れられた。

竇建德を衡水に破った。

三年五月
竇建德將高士興が来攻するが大破した。

三年十月
竇建德は大軍をもってまた来攻したが撃退した。
高開道が救援にて唐に帰属することになった。

三年十二月
竇建德軍を籠火城に破った。

四年九月
劉黑闥を征討するため淮安王神通が關内兵を率いて冀州に来た。藝は南下して合同した。
しかし饒陽城南で黑闥に大敗した。藝も大敗し將薛萬均、萬徹も一時捕らえられた。
藝はその後幽州に退却した。

四年十一月
幽州は飢饉で、高開道の援助を受けていたが、情勢をみて開道は突厥・劉黑闥に附くことにした。
そして易州を攻め、將謝稜は懷戎で藝軍を破った。

五年正月
秦王世民が黑闥征討に派遣され、藝軍數萬も会同し、劉十善[黑闥弟]・張君立軍を鼓城に大破した。

二月/十二月
黑闥の定、欒、廉、趙四州を陥し、黑闥尚書劉希道を捕らえ、世民と洺州に會した。

三月
世民とともに黑闥と洺水の南に対峙した。

六年二月
黑闥が平定され、藝は入朝し左翊衛大將軍となった。

七年六月
皇太子建成に附き、密かに幽州兵を東宮衛士に加え高祖の怒りをかった。
秦王世民[太宗]とは合わず、その麾下を殴打するなどとの問題があった。

八年六月
華亭縣及彈箏峽に屯し突厥の侵攻に備えた。右武衛大將軍?

九年十月
食實封一千二百戸を賜った。

貞觀元年正月
世民[太宗]が皇太子建成を殺して自立し、建成と親しかった藝は不安であった。
当時、開府儀同三司本官領天節軍將軍として突厥防禦のために涇州に屯していた。

軍を集合させ入朝すると称して豳[邠]州に籠もったが、征討軍が来ると聞いて治中趙慈皓と統軍楊岌が反し、慈皓は捕らえたが、岌に攻められて敗れ、妻子を棄てて突厥に奔るが寧州で部下に殺された。

弟利州都督壽も誅された。
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唐初功臣傳25 皇甫無逸

2024-05-29 10:12:09 | Weblog
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皇甫無逸 字仁儉
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父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。

無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。

義寧二年五月
煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。

武德元年七月
王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。
唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。

十二月
蒲州堯君素を説くが降らなかった。

陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。

皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。

また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。

行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はしりぞけられた。

無逸が帰還すると、高祖に「よく告発されるな」と冷やかされた。

武德五年/六年
御史大夫より民部尚書、同州刺史へ

武德末~貞觀初
同州刺史

貞觀元年~二年
益州大都督府長史

徒党を作らず清廉でしられて憚られた。

また小心慎重で上表疏の出来にこだわった。

貞觀元年?としているサイトが多いが矛盾するデータも多い
母が病気となりあわてて帰還する途次に卒した。
贈禮部尚書,諡曰孝。更諡良。

貞觀八年八月
鄜州大都督府長史として派遣され觀省風俗
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唐初功臣傳24 鄭元璹/元鑄

2024-05-28 10:10:55 | Weblog
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鄭元璹/元鑄 字德芳
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隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。
累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。

李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。

義寧二年/武德元年二月
太常卿として商洛,南陽を平定した。

武德元年八月
襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。
軍旅の事や軍法に通じていた。

十/十二月
鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。

武徳二年
突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。

四年四月
突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順德が捕まった。

武德五年三月
高祖が頡利可汗と通婚することで和約し帰還できた。

鴻臚卿となったが,母喪のため免。

武德五年八月
突厥の太原侵攻時に喪中であるが起用されて「突厥と唐はお互いの土地を得ても利益にならない、掠奪は部下の利益になるだけだ。和約して金品を得れば可汗の直接の利益になる」と説いて帰還させた。
太宗は「侵攻が止まったのはあなたの功績だ」と賞賛した。

六年九月
邛州獠が反しため討った。

貞觀元年/三年
また突厥に使いして「突厥は衰亡している攻めるべき時だと」進言した。その後唐は突厥ほ滅ぼした。

貞觀三年
南會州都督として黨項羌を招諭した。

左武侯大將軍となったが、坐事除名。

貞觀十七年
宜州刺史に起用された。復沛國公

貞觀十八年十一月
老をもって致仕した。太宗の高麗遠征に反対した。

義母に孝行でなかったと批判されていた。

貞觀二十年
卒,贈幽州刺史,諡曰簡。
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唐初功臣傳23 劉政會

2024-05-27 10:10:07 | Weblog
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劉政會
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祖環雋は北齊中書侍郎であった。

大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。

副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。

大將軍府戶曹參軍となった。

長安平定後、丞相府掾となる。

武德元年
衛尉少卿として留守太原。

武德二年九月
劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。

光禄大夫刑部尚書

光祿卿封邢國公

貞觀初
洪州都督,賜實封三百戶。

九年
卒,贈民部尚書,謚曰襄。

追改封渝國公

後配饗高祖廟庭

永徽五年
追贈并州都督
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唐初功臣傳22 王君廓

2024-05-26 10:07:49 | Weblog
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王君廓
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若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。

河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。

隋將宋老生に敗れて逃げた。

義寧元年二月
李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。

二年四月
李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。
上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。

ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。

王世充征討に従い右武衛將軍となった。

武德三年七月
軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。

四年二月
虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。

四月
竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。

五年正月
劉黒闥下の洺水人李去惑が來降,君廓は千五百騎を率いて入城し共に守った。

二月
劉黑闥が洺水城を厳しく攻囲し、君廓は脱出し、羅士信が代わりに入り敗死した。

八年九月
右領軍将軍として突厥を破り高祖に激賞され、幽州都督廬江王瑗の副となった。

九年六月
太宗が即位すると反太宗派の瑗を嗾して反乱を企てさせ、形勢不利とみると裏切って瑗を討った。
功績により左領軍大將軍兼幽州都督となり、瑗の財産を賜った。

十月
加左光祿大夫,食實封千三百戶を賜った。

貞觀元年九月
在職中不法が多く、長史李玄道の弾劾にあって猜疑し、玄道の上奏文を奪うも読めず、あわてて入朝して弁明しようとしたが、途中渭南で驛史を殺し、突厥へ逃れようとして野人に殺された。

太宗は前功を考えて待遇しようとしたが、御史大夫溫彥博の弾劾にあって庶人に落とされた。
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唐初功臣傳21 張鎭周/鎮州

2024-05-25 10:06:14 | Weblog
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張鎭周/鎮州
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大業五年
朝請大夫として陳稜と共に渡海して「流求」を討った。

六年
獻俘して金紫光祿大夫。

大業十三年
左屯衛將軍として賊李通德を討った。

義寧二年/武德元年四月
隋將として蕭銑の反乱を討ったが、煬帝の死を聞き銑に降った?。

武德二年正月
屯衛將軍として山南兵を率いて王隆に率いられ、蘇世長等とともに王世充に帰属した。

三年九/十月
南陽が攻めていたが、王世充麾下から唐に降り、左衛將軍/右武侯大将軍?封黃國公食邑三千戶になった。

四年八月
左武候將軍淮南道行軍總管として陳智略と共に南方を安撫した。

六年三月
舒州總管として反した前洪州總管張善安を討った。

六年十一月
輔公祏將陳當世を猷州で大破した。

八年正月
壽州都督から郷里の舒州都督に転じた。鎮周は舒州に赴任すると、大いに親戚・友人を集めて宴会を催し財を分与して分け隔て無く交遊した。そして最後に「明日からは私は舒州都督として親疎をわけず公平に政治を行う」と宣言した。そして親戚友人の犯法をゆるさず境内は肅然とした。

貞觀十四年頃
卒した。
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唐初功臣傳20 任瓌

2024-05-24 10:05:15 | Weblog
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任瓌 字瑋
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父七寶は陳定遠太守。
孤児となり叔父に養われる。長じて陳試守靈溪令から衡州司馬へ。
陳が亡ぶと棄官、仁壽中に韓城尉となるがまた罷職された。

太原留守李淵[高祖]に仕えて河東縣戶曹となった。

反乱後、銀青光祿大夫として陳演壽・史大奈と共に出征した。

薛獻と共に招慰大使となり賊帥孫華、白玄度等を招降した。

韓城縣を降し、左光祿大夫となり永豐倉留守となった。

武德元年四月
谷州刺史ちとた対世充最前線を担当した。

十二月
王世充將郭士衡の侵攻を谷州/新安で破り、管國公となった。

世民に従い世充を討ち、水運を以って軍糧を供給した。

四年八月
東都が落ちると持節為河南道安撫大使として徐州の世充弟辯を降した。
徐圓朗が兗州で反したため、旧世充將崔樞、張公謹を信頼して派遣して鎮圧させた。

六年
徐州總管仍為大使となった。

九月
徐州道副元帥?として輔公祏を討った。

七年三月
安撫使として揚子城を抜き,公祏廣陵城主龍龕を降した。

瓌は有能であったが、官吏を選ぶに縁故権家をもってし、その者が私利を求めるのを禁じなかった、また妻劉氏も傲慢であり評判が悪かった。

七年
輔公祏が平定されると、邗州[揚州]都督となった。

八年八月
行軍總客として太行に屯して突厥を防いだ。

陝州都督に転じた。

皇太子建成が殺されると、弟璨が太子党であったため、座して
通州都督[武德九年~貞觀三年]に左遷された。

貞觀三/四年
卒した
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唐初功臣傳19 姜寶誼

2024-05-23 10:47:45 | Weblog
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姜寶誼
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父の遠は北周の荊秦二州刺史朝邑縣公。

寶誼は太學に進んだが成績不良で軍人となり左翊衛となった。

隋末に軍功により通議大夫鷹揚郎將となり、太原留守李淵[唐高祖]に仕えて盗賊を討った。

反乱後、左統軍となり、西河・霍邑に功績があり光祿大夫封永安縣公となった。

武德元年
右武衛大將軍。

武德二年四月
劉武周將宋金剛と榆次で戦い敗北し、李仲文と共に捕らえられたが脱出した。

九月
宰相裴寂の麾下として宋金剛と汾州で戦い奮戦したが敗北しまた捕虜となった。

寶誼はまた脱出しようとしたが金剛はこれを殺した。
追贈左衛大將軍幽州總管,諡曰剛。
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唐初功臣傳18 竇琮 

2024-05-22 10:46:20 | Weblog
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竇琮
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軌弟、武才があり隋左親衛となった。

大業末に罪を受けて太原の李淵[唐高祖]のもとに逃亡した。
最初は世民[太宗]と対立していたがやがて親しくなった。

反乱に参加し大將軍統軍となった。

西河を攻めて霍邑を陥し功績により、金紫光祿大夫封扶風郡公となった。

義寧元年十二月
劉文靜に従い段志玄と隋屈突通將桑顯和を破り、通を捕らえた。

陝縣を降し、太原倉を取って右領軍大將軍となった。

隋河陽都尉獨孤武潛が歸國を図り、琮は支援を命ぜられるが遲留して失敗し除名された。

武德初
赦されて右屯衛大將軍、また右領軍大將軍に転じた。

王世充征討時、陝城留守で糧運を監督した。
世充驍將羅士信が来襲したが説得して降した。

武德四年九月
左屯衛大將軍として突厥の并州に侵攻を防いだ。

右領軍大將軍檢校晉州總管となった。

武德五年
ついで皇太子に従い劉黑闥を討ち、封譙國公となった。

未幾卒した。贈左衛大將軍,謚曰敬。

永徽五年
重贈特進。
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唐初功臣傳17 劉弘基

2024-05-21 10:44:46 | Weblog
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劉弘基
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父昇は隋河州刺史。

弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。

大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。
脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。

義寧元年五月
反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。

義寧元年八月
統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。
老生を斬り、拜右光祿大夫となった。

河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。
長安では衛文昇を破り功績第一であった。

世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。

また世民に従い東都を攻め、撤退時には殿として隋將段達、張志陳を撃破した。

武德元年
拜右驍衛大將軍領行軍左一總管。

七月
また世民に従い薛舉を討つが、劉文靜等と共に淺水原で戦い大敗する。都合良く世民は病だそうであった。弘基は奮戦したが捕らえられた。

薛仁杲が敗れたため帰還でき、官爵は復した。

二年五月
王世充が義州を陥し、西濟州に侵攻した。右驍衛大將軍弘基が救援した。

七月
行軍總管劉弘基は世充河陽城を攻め、河橋を壊した。

九月
宋金剛が太原を陥し、弘基は晉州に屯したが、總管裴寂が金剛に大敗したため城は落ちまた捕らえられたが逃げ帰ることができた。

三年四月
左一總管となって世民に従い、西河を守った。世民が金剛を破ると弘基は追撃し介休に至った。
進封任國公。

六年正月
劉黑闥を洺州に討った。授秉鉞將軍。

突厥入寇に対して障塞を建設して守った。

九年十月
食實封九百戸を与えられた。

貞觀元年十二月
謀反した李孝常や長孫安業と交遊していたため除名された。

三年
再び易州刺史に起用され、封爵は復された。

七年
衛尉卿

十一年
大僕卿

六月
改夔国公.世襲朗州刺史となった[まもなく撤回]。

老齢により致仕、輔國大將軍を授け、朔望に参朝し、祿賜は現役のまま賜った。

貞觀十九年
太宗が高麗征討をした時、前軍大總管として高延壽を破る功績があった。

永徽元年
加實封通前一千一百戶。

病となると諸子に余財を残さず、親属に散じた。

永徽元年
卒,69歳。贈開府儀同三司并州都督,陪葬昭陵、謚曰襄。
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唐初功臣傳16 殷嶠/開山

2024-05-20 10:43:17 | Weblog
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殷嶠 字開山
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陳の司農卿不害の孫であり、陳滅亡後父僧首は隋秘書丞。

嶠は学業にすぐれ、隋太谷縣長で能政だった。

反乱後、大將軍府掾。謀略に参与し李淵[高祖]の腹心となり、光祿大夫となった。

義寧元年八月
建成に従い西河を攻め、世民[太宗]麾下で渭北道元帥長史として關中群盜を招慰した。

九月
劉弘基と隋將衛孝節を撃破し長安を陥し、封陳郡公,丞相府掾となった。

武德元年六月
吏部侍郎となった

元帥府司馬[元帥は世民]で薛舉を討つが大敗。坐減死除名となった。
[世民は病気だとして責任を免れ、劉文靜と開山が処罰された]

十一月
後に薛仁杲征討に参加し、復爵した。

武德二年
兼陝東道大行台兵部尚書、ついで遷大行台吏部尚書に転じた。

十一月
秦叔寶と宋金剛軍を美良川に破った。

世民に從って王世充を討ち鄖國公に進んだ。

武德五年
世民に従い劉黑闥を討つが途次病卒した。
贈陝東道大行台右僕射,謚曰節。

貞觀十四年
贈司空?.配饗高祖廟庭。

十七年
圖形于凌煙閣。

永徽五年
追贈司空。
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唐初功臣傳15 張河/道源

2024-05-19 10:41:23 | Weblog
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張河 字道源
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道源は孝行と善友を褒め称えられていた。

李淵反乱時、大將軍府戶曹參軍となり太原を守った。

義寧元年十二月
代王時、山東燕趙の地を宣撫し帰属させた。封范陽郡公

武德二年九月
淮安王神通に従い趙州を守るが、竇建徳に敗れて捕らえられた。

三年十二月
建徳の内情を唐に密告した。

建徳敗北後戻った。

五年
大理卿となり清廉であった。

五年~七年
太僕卿

七年
相州都督/綿州刺史?として卒した
贈工部尚書,謚曰節。

高官を歴任したが卒後余財はなかった。
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唐初功臣傳14 劉師立

2024-05-18 10:09:27 | Weblog
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劉師立
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王世充に仕えて將軍であった。

世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。

世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。

太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。

武德九年十月
食實封一千戸を与えらた。

その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。

貞觀元年
羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。

その後再任用され檢校岐州都督となった。

貞觀五年
功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。

母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。

反抗的な河西黨項破刃氏を討ち帰服させた。
吐谷渾を小莫門川で撃破した。

尋轉始州刺史

貞觀十四年
卒した,謚曰肅
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唐初功臣傳13 李高遷

2024-05-17 10:07:55 | Weblog
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李高遷
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隋末、太原に移住して留守李淵[唐高祖]の側近となった。
反乱時、隋臣高君雅や王威を排除した。

右三統軍となり霍邑・長安を攻め功績が大きく左武衛大將軍封江夏郡公にいたった。
その後檢校西麟州刺史となった。

武德五年四月
代州總管胡大恩が馬邑で突厥と戦い孤立し苦戦していたため、右驍衛大將軍高遷を応援させたが、大恩は敗死した。

五月
来襲した突厥を忻州で破った。

六年五月
馬邑賊高滿政將張天明が降り、右武衛大將軍李高遷に助けさせた。

七月
苑君璋が突厥とともに馬邑を攻撃し、右武候大將軍李高遷と高滿政が臘河谷に撃退した。

突厥が朔州を攻撃し、高遷は敗北し、行軍總管尉遲敬德が救援した。

十月
右武候大將軍高遷を馬邑に派遣して朔州總管高滿政を助けさせていたが、突厥頡利可汗が大軍をもって来襲し、高遷は懼れ、滿政を見捨てて所部二千人だけを率いて脱出した。滿政は敗死した。

八年七月
突厥が来寇し、高遷は大谷で防いだ。 ??

逃走の罪を弾劾除名[官位.封爵を削られる]され僻地に移された。

その後、建国時の功績を再評価された。

貞觀~永徽間
陵州刺史

永徽五年より前
資州刺史

永徽五年
卒、贈梁/涼州都督。
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