唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河中節度使 護國軍節度使 その5

2012-02-27 10:41:12 | Weblog
・乾寧二年[895年]重盈が卒すると、養子珂が嗣いだ。ところが重盈の実子珙[陝虢節度使]や瑤[晉州刺史]
はこれを認めず。邠寧王行瑜・鎭国韓建・鳳翔李茂貞の支援を得て宰相崔胤を節度使として送り込んだ。
それに対して珂は河東李克用の婿であることを利用して対抗した・
・5月河中を襲撃した王珙らの軍はもろくも敗れ、7月克用・珂は大挙行瑜・茂貞討伐を唱えて京師に乱入した。
11月行瑜は殺され、茂貞は和を請うた。これ以降珂は克用に密着していった。
・光化元年[898年]珂は鎭を空けて河東克用に朝した。
・天復元年[901年]克用の保護に油断している珂をみた朱全忠は、2月將張存敬に命じて晉・絳州を抑え、
克用の援軍を遮断して、河中を急襲させ珂を捕らえた。これにより全忠は大きな財源である鹽池を抑えることが出来た。
・以降河中護國軍は唐末に陝虢朱友謙に与えられるまで全忠の直轄となっていった。
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河中節度使 護國軍節度使 その4

2012-02-26 10:23:59 | Weblog
・自立した王重榮はすぐ唐朝に帰順し、義成に屯し京師回復をめざす都統王鐸に積極的に協力していった。
・中和二年[882年]重榮は黃巢軍の攻撃を撃退し、9月同州に拠る有力な賊将朱温[後の全忠]を寝返らせた。
・中和三年[883年]京師回復に際し功績が大きく使相となった。
・唐朝を牛耳る宦官田令孜は自軍[神策軍]の経費を賄うため河中の塩税を召し上げようとし、
反対する重榮を泰寧節度使へ移そうとした。当然重榮は反発し、河東李克用と結んで移動を拒否した。
・光啓元年[885年]令孜は神策軍や邠寧朱玫や鳳翔李昌符を動員して重榮を攻撃したが、
克用軍の活躍によりもろくも敗れ、再び京師を棄てて興元に逃れた。
この歳河中は護國軍節度の號を受けた。
・光啓二年[886年]にかけて朱玫が僞帝を擁立したが、本来反唐朝的な立場ではない重榮や克用は同調せず、
自然に帰朝することになった。
・光啓三年[887年]6月法を厳しく律する重榮は反発した部下に殺されたが兄重盈が陝虢節度使から
入り嗣ぐことが出来た。
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河中節度使 その3

2012-02-25 11:18:06 | Weblog
・乱後河中は副元帥渾瑊に与えられた。彼は有能な武将であるとともに、貞元15年[799年]に卒するまで小心誠実謹身であり
常に唐朝の意向を伺い行動したので河中軍は以降安定していった。当時の領域は河中府+絳州であり、朔方と邠寧慶を併領していた。
・渾瑊の没後一時河中節度使は廃止(15年~16年)されたがすぐ復された。
・安定した河中はその格の高さや財源の豊富さもあり、元宰相(杜黄裳・張弘靖・李絳・李程)や帰順した有力武将(義武張茂昭.
宣武韓弘.武寧王智興.魏博史憲誠)の赴任地として活用されていった。
・會昌年間[840-846年]以降は元宰相(陳夷行・崔鉉・徐商・杜審權・蔣伸・崔愼由・夏侯孜・曹確等々)・高級文官の赴任地と
なっていったが、4年[844年]昭義劉稹討伐には勇将石雄(元武寧の將)の根拠地となった。
・乾符末、黃巢の乱が拡大するとともに河中軍にも不満が高まり、ついに4年[877年]軍乱により節度使劉がおわれた。
嗣いだ竇が慰撫したが、廣明元年[880年]巢が京師に迫ると、河中府も脅かされ統御ができなくなった文官の李都は逐われて、
將王重榮が自立し黃巢側についた。

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河中節度使 その2

2012-02-23 10:39:39 | Weblog
・大暦14年[779年]徳宗皇帝が即位し、老齢の元老郭子儀の棚上げを図り尚父[父に等しい]
太尉として遇し、兵権を取り上げ部下に分配させた。河中・邠寧は李懷光が継承した。
・建中2年[781年]成徳李惟岳・魏博田悦を討つため懷光は全軍を率いて東征に出た。
・東征が続いている建中4年[783年]原兵が朱を擁立して反し、皇帝は京師を棄てて
奉天城に籠城することになった。皇帝の危機を聞いた懷光は全軍を率いて急行し軍を破り包囲を解いた。
・軍事的能力はあるが政治的能力が乏しい懷光は功績大にも拘わらず、敬遠と疑惑の対象となり
不満を募らせ、興元元年[784年]2月反旗を翻すことになった。
・懷光は追いつめられて反したのであり、同じ反将の朱とは協調できず。部下の諸軍は李晟や
渾かん[玉+咸]などの討伐軍とは同じ朔方軍系列であったため消極的な行動しかできず、結局河中に籠もることになった。
・貞元元年[785年]7月河中は河東馬燧や渾かん軍に包囲され、部下は次々と投降し、
追いつめられた懷光は部下に殺されてしまった。
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河中節度使 その1

2012-02-22 10:46:00 | Weblog
・天寶15年[756年]安禄山の乱に蒲州に河中防禦守捉蒲關使を置いた。蒲州は京師と北都太原を結ぶ交通の
要衝であり、唐朝の財政を支える塩の産地でもあった。呂崇賁が初代防禦使であるが、まもなく賊の支配地となった。
・乾元元年[758年]2月郭子儀はこれを奪還した。河中節度兼蒲關防禦使が置かれ、蒲晉絳慈隰虢同七州を
領した。その後領州は頻繁に変動した。
・上元元年[760年]3月蒲州は河中府とされた。節度使は短期に交替して安定しなかった。
・都統李國禎は絳州に治したが、寶應元年兵糧の欠乏により軍乱が起き殺された。副元帥郭子儀が赴任して
鎮圧が混乱が続いた。
・廣徳2年[764年]宦官程元振等に疎外されていた郭子儀の復権により河中府は朔方軍主力の駐屯地になり、
朔方・邠寧を併せて支配する拠点となった。相次ぐ吐蕃の侵攻には河中からの派遣軍が出動することになった。
河中府には観察使が留守居役として置かれた。
・大暦2年[767年]専横を極めた同華節度使周智光に対して郭子儀が出動することになり、その動きを察した
同華諸将は智光を殺害して帰服した。
・大暦年間[766-779年]河中に都した郭子儀はしばしば入朝し唐朝に忠誠を誓い、
西の奉天城を拠点として吐蕃防衛に努めた。
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幽州盧龍軍節度使 その9

2012-02-21 17:36:09 | Weblog
・籌は兄威ほどの將才はなく、諸将も劉仁恭など河東李克用へ亡命するものも多く、
成徳軍との連携も崩れた。。
・乾寧元年[894年]12月河東李克用は幽州を攻撃し、次々と諸将を破り籌を逐った。
籌は滄景に逃げたが貪欲な節度使盧彥威は財を奪いこれを殺した。
・乾寧2年[895年]克用は劉仁恭を留後とし幽州を併合した。
・克用が兵力と収入を河東に持ち去ることに不満な幽州將士に推されて仁恭は密かに自立を志し、
乾寧4年[897年]反旗を翻し克用の討伐軍を破り朱全忠に附いた。
・光化元年[898年]子守文に命じて滄景を攻撃させて盧彥威を逐い、滄景三州を併合した。
・光化2年[899年]魏博を攻撃し貝州を陥し魏州を攻撃したが、全忠將李思安に大敗した。
・光化3年[900年]全忠は北伐し、瀛州・景州・莫州を陥し幽州に迫った。仁恭の子守光は迎
撃したが全忠將張存敬に大敗し、河北の諸鎭は全忠に帰服することになった。
・天祐4年[907年]再び全忠の攻撃を受けたが城にこもり戦おうとしない仁恭に呆れ果てた
子守光は父を囚して自立した
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幽州盧龍軍節度使 その8

2012-02-20 11:13:21 | Weblog
・乾符5年[878年]より李可擧は西に勢力を伸ばそうとして吐谷渾赫連鐸と共同し反乱を起こしていた
沙陀李國昌[振武節度使]を伐った。
・廣明元年[880年]李國昌・克用親子を藥兒嶺に破り莫北に逃走させた。
・しかし京師回復の功績で河東節度使に任用された李克用は勢力を回復してきた。
・光啓元年[885年]可擧は克用の与党である義武王處存を成徳王鎔とともに攻めたが大敗し、敗戦の責任を
懼れた先鋒将李全忠は反って幽州を攻めて可擧を自殺させた。全忠はまもなく子威に節度使を譲った。
・大順元年[890年]威は克用征討の北面招討使として蔚州を攻めたが敗北した。
・大順2年[891年]克用に攻められた成徳王鎔を支援し撃退した。
・景福元年[892年]鎔とともに克用を攻めたが堯山に大敗した。
・景福2年[893年]3月威は弟匡籌の妻を姦したため匡籌のために逐われ成徳へ亡命した。
4月成徳でも鎔の地位を狙ったため殺された。
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幽州盧龍軍節度使 その7

2012-02-19 11:11:57 | Weblog
・會昌元年[841年]史元忠が軍乱により逐われると、陳行泰・張絳・張仲武と相次いで蜂起し内乱
状態となった。宰相李裕は仲武を支持し、仲武が勝利者となった。
・当然仲武は唐朝に協調的であり、會昌2年[842年]からの回紇討伐に東面招撫使として協力し、
3年からの昭義劉稹討伐にも好意的な中立を保った。
・仲武は奚の討伐にも功績をあげたが大中3年[849年]卒すると早速軍乱が起こり周綝が自立した。
魏博・成徳と違い外敵と接した幽州では若年の後継者を受入れる雰囲気はなく世襲は困難であった。
・周綝はすぐ卒し、大中4年[850年]張允伸が自立したが、唐朝との関係は良好であった。
・咸通13年[872年]正月允伸が卒し、2月子の簡會が嗣いだがやはり3月には將張公素が自立し
簡會は京師に逐われた。
・乾符2年[875年]公素は軍乱により逐われ將李茂勳(回紇人)が自立し、すぐに子可擧に譲った。

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幽州盧龍軍節度使 その6

2012-02-18 10:59:01 | Weblog
・宝暦2年[826年]克融は反唐朝的な傾向を保っていたが軍乱により殺され、少子延嗣が立てられた
が器量がなく、都知兵馬使李再義(賜名されて載義)がこれを殺して自立した。
・載義は克融の方針を変えて親唐朝的な立場をとり、いまだに留置されていた張弘靖の家屬を釈放し、
太和2年[828年]には横海李同捷の討伐にも協力した。
・大和5年[831年]軍乱により載義は逐われたが、唐朝はこれを優遇して宰相に任じ、
山西節度使を与えた。乱を起こした楊志誠は反唐朝的な立場をとった。
・大和7年[833年]志誠は官位の不満から、遣外使節を留置するなど反唐朝的な立場を強めた。
・しかし大和8年[834年]志誠も軍乱により逐われ、河東節度使となっていた載義の襲撃を受け、
嶺南に流される途中殺された。
・代わってたった史元忠は中立的な立場であった。
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幽州盧龍軍節度使 その5

2012-02-17 10:49:17 | Weblog
・長慶元年[821年]3月幽州より瀛莫二州を切り離して観察使を置き盧士玫を任じ、
幽州には元宰相の張弘が赴任した。4月弘は入府し、唐朝による全国統一が行われた。
・憲宗皇帝なきあとの穆宗皇帝やその宰相達は官僚的で経綸がなく、魏博で行われたような
將士の慰撫を行わず、高圧的な中央方針の徹底を志すのみで、河北の將士には不満が高まっていった。
・7月朱滔の孫にあたる克融などの諸将は乱して節度使弘を捕らえで自立した。
反乱は瀛莫へも広がり士玫も捕らえられた。さらに成徳では王庭湊が、魏博では史憲誠、
武寧では王智興、宣武では李介が反乱し、憲宗がめざした河北統一は一瞬に崩壊することになった。
・克融は乱したと言え自立を認められると成徳王庭湊のような過激な処置は行わなかった。
瀛莫観察使は廃止統合された。
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幽州盧龍軍節度使 その4

2012-02-16 19:46:46 | Weblog
・劉濟はまた唐朝に協力的であったが、兄弟は仲が悪く、貞元8年[792年]には弟澭を継承問題
のこじれから逐い、貞元16年[800年]にも弟源を攻めて捕らえた。
・元和5年[810年]成徳王承宗の乱には唐朝方として参戦し一定の戦果をあげたが、
7月子總により毒殺された。總は兄も殺し自立した。
・總も唐朝には協力的であり、元和11年[816年]承宗征討には積極的に参戦した。
・元和末、淮西・淄青が平定され、宣武・魏博・成徳が唐朝管轄下に入ったことをみた總は幽州を
あげて帰順することを考えていた。個人的にも殺害した父や兄の怨霊に苦しみ、職を捨てて出家を望んでいた。
・長慶元年[821年]二月總は天平節度使への転任を命ぜられたが、いち早く職を捨てて出家し、
定州との境まで赴いたところで卒した。
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幽州盧龍軍節度使 その3

2012-02-15 10:59:22 | Weblog
・希彩は節度使となると傲慢暴虐であり、ために大暦7年[772年]部下に殺された。朱と滔兄弟は牙軍の支持
を得てを節度使として擁立させることに成功した。
・幽州盧龍軍は契丹や奚と直接接していて絶えず外寇に備える反面、通商により大きな利益を得ていた。しかも唐朝から遠く
離れているために成徳や魏博と違いその圧力を感じることは少なく、中央への憧れもあり、比較的唐朝に協力的であった。
・は大暦8年[773年]滔に5千の兵を率いさせて州に派遣し吐蕃防禦にあたらせた。
・大暦9年[774年]には自ら入朝し吐蕃防禦にあたった。
・大暦10年[775年]の魏博田承嗣の乱には留後滔は北邊を圧してその南下をゆるさなかった。
・入朝したはそのまま京師に留まり鳳翔節度使を兼任し、幽州では滔が実権を握るようになった。
・建中2年[781年]成徳李惟岳の自立に対して、滔は唐朝に附き平定に努力したが、乱後の恩賞に不満をもち、
建中3年[782年]成徳王武俊や魏博田悦とともに反した。
・滔はに反乱をうながしたがは同じなかった。
・回紇の援助も得た滔の勢力は強く、李懷光や李抱眞らの唐朝軍を破り河北に覇を唱えようとした。
・しかし興元元年[784年]滔の覇権による併呑を警戒した成徳王武俊や魏博田悦は唐朝に帰属し、それを怒った滔は大挙
南下したが、經城で李抱真・王武俊連合軍に大敗して逃げ帰った。
・貞元元年[785年]滔は失意のうちに亡くなり、涿州刺史劉怦が嗣いだがこの年の内に卒し、子の濟が受け継いだ。
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幽州盧龍軍節度使 その2

2012-02-14 10:07:46 | Weblog
・幽州/范陽節度使は契丹・奚・渤海などに対する防禦として景雲元年[711年]に設置された。
・節度使安禄山は天寶14年[755年]11月に反乱を起こし唐朝は滅亡の危機に瀕した。
・乱中の至徳元年[756年]河東節度使李光弼が任ぜられたが、あくまで形式であり赴任すること
はできなかった。
・至徳2年[757年]12月賊将史思明が安慶緒より帰順し節度使に任ぜられた。
これにより乱は鎮静に向かうと思われたが、宦官らの思明をも除こうとする陰謀が発覚し、
乾元元年[758年]4月思明は相州の安慶緒を囲む唐朝軍を潰滅させ乱が再び大きくなっていった。
・廣徳元年[763年]幽州の留守を守る李懷仙は、敗走してきた史朝義を殺し帰順した。
范陽節度は幽州盧龍軍と改称し懷仙が節度使となった。領州は幽莫媯檀平薊の六州であった。
・成李寶臣,魏博田承嗣,相衛薛嵩,盧龍李懷仙は半独立の体制を保ち、勝手に軍備を整備し、
官吏を任免し,貢納を唐朝に納めなかった。
・大暦3年[768年]地位を得て横暴となってきた懷仙は、兵馬使朱希彩や朱・洙滔等に殺された。
後任として宰相王縉が一応赴任したが、希彩等に威圧されて、自立を続けることを認めざる得なかった。
希彩が節度使となった。
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安南節度使 静海軍節度使その5

2012-02-13 11:10:41 | Weblog
・咸通7年[866年]10月高駢は惟周の執拗な妨害にも拘わらず南詔軍を大破して都護府を奪回した。
安南都護は静海軍節度使となり駢が就任した。
・咸通9年[868年]駢は從孫潯に節度使を嗣がせ帰還した。
南詔はもはや安南への侵攻をしようとしなくなった。
・廣明元年[880年]他鎭より派遣された軍は崩壊し、節度使曾衮は都護府を棄てた。
・以降安南についてのまともな記述は見られない。現地勢力が割拠し、中央の名目的な遥領節度使や
安友權・曲承裕などの由来が不明な節度使が散見される。
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安南節度使 静海軍節度使その4

2012-02-12 09:33:19 | Weblog
・會昌3年[843年]都護武渾が軍士を築城に使役しすぎて反乱が起こり逐われた。
・大中年間[847年-]末期より南詔の嶺南・安南侵攻が盛んとなった。
大中12年[858年]王式は築城・軍備再編に努めたが、
咸通元年[860年]後任の李鄠はむやみに播州に進攻し、反ってその空きに土蠻
(鄠が蠻酋杜守澄を殺したため)と南詔連合軍兵三萬に都護府を落とされた。
・咸通2年[861年]鄠は土軍を集めて都護府を回復したが左遷され、王が赴任した。
・咸通3年[862年]は南詔の進攻を懼れて交替を求め、湖南観察使蔡襲が諸道兵
三万を率いて赴任した。しかし嶺西節度使蔡京は功を争い、経費節減を言い立てて兵
を減らさせた。年末南詔は五万の兵力で都護府を襲った。
・咸通4年[863年]正月都護府は陥落し襲は力戦はしたが敗死した。
・6月唐朝は諸軍を撤退させ、安南都護府を廃止し、行交州を置いた。
・天雄高駢が禁軍五千を率いて征討を命ぜられ着任したが、
監軍(宦官)李維周と合わず讒言されることになった。
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