唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

独断評価 唐朝の皇帝1

2013-09-07 08:34:38 | Weblog
高祖 創成の皇帝で有り、有能であるが子の太宗によりすっかり功績を塗り替えられた。
   正史に書かれているような人物なら帝国を建てることなどできない。彼の失政は
   建成(皇太子)と世民(太宗)の処遇を誤ったことにある。世民にあれだけ武功
   を上げさせれば、即位させるか誅殺するかしかなかった。その点優柔不断
太宗 過大評価され、自己宣伝の上手な皇帝。正史を見ていくと軍事面以外は失政が多
   く、酷薄で独断的な性格。軍事面も無意味な高句麗征討などもあり、到底名君と
   は言えない。貴族・文官階級には扱いやすい存在のため高評価されているのだろ
   う。
高宗 武后との関連で意志薄弱で無能と評価されているが、治策面では太宗を嗣ぎ、国
   家の安定に貢献している。彼の生きている間は武后も抑制的に行動していた。
武后 近頃の女性重視の風潮のため過大評価されているが、その治策は無能の一語に尽
   きる。国防・財政・人事すべてにおいて不合格で有り。唯一の功績は酷吏の克用
   により上層貴族階級に大打撃を与え、下層貴族を登用したというだけである。
   「周帝国」を開きながら後継者を選べず優柔不断
中宗 武后にスポイルされて、無能の一語に尽きる。
睿宗 これも無能であり、ひたすら安穏を求めるだけの存在。
玄宗 不良青年が不良老年に。ただ青年期に果断さはあり、韋后や太平公主を殺して唐
   朝の復權をなした。しかし根が不良であるのでその後がいけない。ただ復活した
   貴族階級の支援を受けて前期は安定した国家を作った。
肅宗 無能で有り、安史の乱の危機の対処方法に惑い、宦官や張后に操られて失敗を繰
   り返した。ただ安史側のほうがより失敗が多かったため亡国にはならなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気の毒な安禄山 その3 余命なし

2013-09-04 10:10:03 | Weblog
じっくりと計画した反乱ではない
正史では計画的と書いてあるが、到底あり得ない
河北各州への基盤作りがまったくできていない
楊國忠に追い込まれてやむを得ず反したとしか思えない。
安禄山は人望厚く、統率力もあり、武将達は信服していた
正史にあるような道化者や佞臣ではない。
しかし謀叛があまりに遅すぎたためすでに病身であったし
信頼できる軍師を持たないため、全て自分で指揮する心労により
精神的に参っていたようである
子の慶緒は性格的には穏やかで信望もあったようだ。
この成人した息子を前面に立てればよいのだが
判断力が低下した禄山は幼少の子供を寵愛するなどの失態を犯した。
まだまだ安定していない「大燕国」がそれで持つはずがない
殺害されることがなくても、あまり続いたとは思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気の毒な安禄山 その2 軍師なし

2013-09-03 15:40:36 | Weblog
安禄山の反乱第一段階は成功と失敗半々であった。
急速に南下し東都を制圧したことは大成功である。
失敗とは河東[太原府]を確保しなかったことである。
本来自分の管轄の河東であるから、まとまった兵力を派遣すれば確保できはずだ。
現に太原尹の楊光翽を捕らえている。
ところがなぜかここを放棄して唐朝に奪回されている。
そのために河北の顔杲卿や眞卿等の起義により朔方軍の侵攻を招いている。
第二段階は成功のように見えて失敗である。
成功とは潼関から長安へ主力軍を向け、哥舒翰を破り京師を陥落させた。
しかし玄宗は劍南に逃れ、肅宗は朔方軍に拠り挟撃の体制を作り。
結果として京師に大軍が拘束されてしまった。
河北の乱にもよって兵力が尽き、南方戦線に兵をさけなかった。
唐朝の経済基盤である淮南・浙江地方は無防備状態にあったのだから
潼関にある程度の兵力を置き対峙させるか
京師を早期に放棄して東都に戻り、淮南・浙江地方を制圧すべきであったのだ。
そうすれば劍南・朔方の唐軍は立ち枯れの状態になり
豊富な財源を得た安禄山帝国は日に日に強力となったはずである。
ところが軍師もなく、蛮人出身の軍人でしかない禄山にはそれが見えなかった。
京師という無意味な戦果だけを重要視し、その基盤がどこにあるかわからなかったのだ。
それは次の安慶緒・史思明についても同じである。
淮南・浙江地方がどれくらい無防備であったかというと
無頼の平盧軍将劉展が5千程度の部下とともに南下するだけで制圧できた事が示している。
そしてそれを鎮圧したのももうひとりの平盧軍将田神功の数千の兵である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする