唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

盧龍軍節度幽州觀察處置押奚契丹両蕃使 Ⅱ-2

2014-09-15 19:08:20 | Weblog
その後も幽州では軍乱により節度使が継承されることが続いた。原則としては朝廷に協力的な姿勢ではあるが、朝廷は継承にはほとんど影響を及ぼすことはできなかった。

⑪.太和8年[834]10月
反朝廷傾向の楊志誠は軍亂により逐われ,兵馬使史元忠が自立した。志誠は載義のように京師に亡命したがその姿勢を糾弾され殺された。

⑫.會昌元年[841]9月
軍乱により節度使史元忠は殺され、牙將陳行泰が自立した。

⑬.會昌元年閏9月
また軍乱が起こり、陳行泰は殺されて、牙將張絳が自立した。

⑭.會昌元年10月
外鎭の雄武軍使張仲武が蜂起し、朝廷の後援を得て張絳を攻め滅ぼし自立した。

⑮.大中3年[849]閏11月
節度使張仲武は対回紇で朝廷に協力し成果を上げ使相となった。この年4月卒し、子の直方が嗣いだが力量が無く牙軍を統制できず、一族と共に京師に逃れた。朝廷は仲武の功績によりこれを厚遇した。後は牙將周綝が自立した。

⑯.咸通13年[872]3月
大中4年周綝は卒し、牙將張允伸が嗣ぎ、親朝廷政策を取り使相・侍中にまで昇進した。この年正月允伸は卒し、子の簡會が嗣いだが、やはり牙軍を統制できず、平州刺史張公素がこれを逐って自立した。簡會は京師に奔り厚遇された。

⑰.乾符2年[875]6月
節度使張公素は牙軍を統制できず、旧回鶻人の李茂勳は煽動して乱を起こし公素を京師に逐った。公素は反朝廷姿勢が災いして冷遇された。茂勳は自立したが牙軍の疑惑を受け、まもなく子可舉に譲位して後見となった。

⑱.光啓元年[885]6月
節度使李可舉は沙陀・李國昌討伐で朝廷に協力し使相・侍中となった。そして義武軍節度使王處存と対立し將李全忠に易州を陥させたが、處存の反撃により大敗した。全忠は責任を問われることを懼れて餘衆とともに幽州を襲撃し可舉を敗殺し自立した。

⑲.景福2年[893]3月
全忠の子節度使李匡威は、河東李克用と対立し、弱体な成軍王鎔を後援して戦っていたが、弟匡籌の妻を犯したことにより逐われて王鎔の元に奔った。匡籌は自立した。

⑳.乾寧元年[894]12月
節度使李匡籌は、河東李克用に敗北し、幽州を棄てて義昌節度使盧彥威の所に奔ったが、財産を狙われて殺された。盧龍軍は李克用の支配下に置かれ、旧幽州將劉仁恭が留後となった。仁恭はまもなく反し自立した。

㉑.天祐4年[907]4月
朱全忠の將李思安は幽州を攻めたが、節度使劉仁恭は山城に籠もり戦おうとしなかった。子守光は徹底抗戦して思安を撃退した。そして自立し、父仁恭を破って監禁した。仁恭配下の將の多くは河東李克用の元に奔った。
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盧龍軍節度幽州觀察處置押奚契丹両蕃使と軍乱 Ⅱ-1

2014-09-07 21:55:22 | Weblog
方鎭の特徴
安禄山の本拠地であった幽州は、帰服後も最も独立性の強い方鎭である。その経済的背景は奚・契丹・渤海など諸蕃との交易にある。独立性は強いが必ずしも反朝廷ではない。まず領域が順地と直接接触していないため危機感が低いこと。対外政策では朝廷の権威を利用する必要があることである。
節度使の継承に関しては、常に蕃族との戦闘を意識して無能な者、幼君による継承を容認できないことから、軍乱による交替が主流であった。継承が成立するわずかな場合は継承者が成人で有り有能なものに限られる。安史の乱後の初代は史朝義を陥れて帰順した李懷仙に始まる。幽州では節度使はあくまで諸将の中の第一人者でしかなく、主君ではなかった。

①.大暦3年6月[768]軍乱
幽州兵馬使朱希彩・經略副使朱・弟滔達は。横暴となった節度使李懷仙を殺し,希彩を立てた。
成李寶臣による追討は敗北し、朝廷は宰相王縉を赴任させたが、統制することはできず、7月これを追認した。

②.大暦7年[772]7月軍乱
節度使朱希彩が専権化したため、孔目官李懷瑗に殺された。經略副使朱と弟滔は牙兵を率いで自立し、10月朝廷は追認した。

③.建中3年[782]2月~興元元年[784]9月   朱滔の乱
朱は入朝し防秋にあたり、弟朱滔が留後として幽州を統治していた。成李惟岳の征討には活躍し、恩賞として遠隔地の徳棣二州を与えられたが、隣接地の深州を望んだ。そして恒冀王武俊や魏博田、淄青李納・淮西李希烈とともに反した。一時は回紇の支援も得て河北を併呑する勢いであったが、それを怖れた武俊・らが朝廷に帰順し、昭義李抱眞や河東馬燧に反撃された。興元元年5月經城に大敗し、9月には謝罪し、失意のうちに貞元元年6月に卒した。

④.貞元8年[792]11月 劉澭の乱
節度使劉濟の弟瀛州刺史澭は継承の不満から朝廷に直接所属しようとした。濟はこれを攻撃し、10年正月圧迫された澭は所部・家族を率いて京師に逃げて帰順した。朝廷はこれを秦州に置き吐蕃に当たらせた。

⑤.貞元16年[800]7月 劉源の乱
節度使劉濟の弟涿州刺史源が命令に従わないので伐ち、捕らえて朝廷に送った。

⑥.元和5年[810]7月 劉濟毒殺
節度使劉濟は朝廷の成征討に従い功績をあげ、侍中・中書令という高位を得た。その子瀛州刺史總は兄副大使緄と継承を争い、父と兄を殺して自立した。

⑦.長慶元年[821]7月~2年2月 朱克融の乱
朝廷に協力していた節度使劉總は、殺害した父や兄の亡霊に苦しんで仏教に耽溺し、元和15年には成が帰服し、河北三鎭も幽州を残すのみとなった形勢をみて歸順を申し出た。朝廷は總を天平節度使に移し[總は赴任途次で出家し死亡]、幽州を二分し、幽州[元宰相張弘靖]と瀛莫[盧士玫]の文官コンビを赴任させた。これにより唐朝が全国を統治するようになった。
しかし憲宗皇帝の暗殺と、無能な穆宗皇帝や、同じく政略のない宰相連は姑息な治策を行うのみであり、節度使弘靖もまた、節度使が同僚の第一人者でしかないという性格を理解せずに、権威主義的な方針で統治した。待遇に不満な滔の孫朱克融達は蜂起し、幕僚を殺し弘靖を幽閉し自立した。瀛莫もまた回収され士玫も幽閉された。同時に成軍でも軍乱が起き、朝廷はこれを追認するしかなかった。反乱が幽閉ですんだのは、成節度使田弘正と違って文官であったためであろう。

⑧.寶暦2年[826]5月 軍乱
節度使朱克融とその子延齡が殺され、少子延嗣を主軍務として嗣がせた。反朝廷姿勢による緊張と失政が原因である。

⑨.寶暦2年[826]8月 李載義自立
幼少の節度使朱延嗣は乱後の統制ができず、都知兵馬使李載義と弟載寧によりその家三百餘人と共に殺された。前代と違い載義は朝廷に協調的であった。

⑩.太和5年[831]正月 楊志誠自立
節度使李載義は朝廷と協調し、横海李同捷や成王廷湊を圧迫していた。副兵馬使楊志誠はそれに不満で、載義を京師に逐った。そして反朝廷姿勢をとった。朝廷は入京した載義を厚遇し山西・河東節度使に任じた。
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義武軍節度易定觀察處置使と軍乱

2014-09-06 17:32:26 | Weblog
方鎭の特徴
義武軍は成軍節度使より李寶臣の没後、子の惟岳が自立しようとした乱において、その將易州刺史張孝忠が帰国した功績により任ぜられた方鎭である。もともとは易定滄の三州が領域であったが、飛び地の滄州は程日華が自立したため失われ、度支による支援に代えられた。領域は幽州と成の中間に位置し、順地である河東とも一部がつながっている。
河北三鎭の牽制としての重要な位置を占めている。また他の三鎭に併呑される脅威と、経済的に自立できず度支の供給に頼る立場から、親朝廷志向を取らざる得ない状況にあった。
初代張孝忠・二代茂昭とも一貫して朝廷側として行動していたが、元和5年[810]茂昭は入朝して領域を奉還した。二代の間は軍乱は見られない。

①.元和5年[810]10月義武軍都虞候楊伯玉反,伏誅。
      10月義武軍兵馬使張佐元反,伏誅。
茂昭の奉還には周辺諸藩から激しい反対があった。またそれに指嗾され軍內にも自立の機運があり、後任となった文官任廸簡は資財の不足もあり統制することができなかった。しかし主流派の幹部は茂昭の遺志を尊重し軍乱を鎮圧し、穏健清廉な廸簡の態度もあり順治化に成功した。

②.元和11年[816]12月軍乱
節度使渾鎬[瑊の子]は功にはやって成王承宗を攻めて大敗し、軍兵は乱して鎬家を掠奪した。茂昭の甥易州刺史陳楚はこれを鎮圧し後任節度使となった。

③.太和3年[829]3月自立
節度使柳公濟が卒し、後任として太原兵馬使傅毅が任ぜられたが、牙軍はこれを認めず都知兵馬使張璠を擁立した。横海李同捷の乱に苦しんでいた朝廷はこれを認めた。

③.開成3年[838]9月自立失敗
節度使張璠は15年も在任。病気のため朝廷に後任を求めた。牙軍は子の元を擁立し観察留後の李士季を殺し乱した。後任の易州刺史李仲遷は入れず、元が自立した。11月元は入朝し、蔡州刺史韓威が節度使となった。これは元に継承の願望がなかった事と、義武軍が度支の供給がなければ自立きないためであった。

④.開成5年[840]8月軍乱
軍乱が起こり節度使陳君賞は一旦逐われた。君賞は募兵して復帰し乱兵を誅した。これ以降牙軍による軍乱は見られない。
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唐代の有力氏族

2014-09-04 11:23:23 | Weblog
各王朝において、特定の氏姓が頻出することがある。
唐代において大きな勢力を占めた氏族五十傑を上げると
[宰相・尚書侍郎・九卿・刺史データより]
当然のことながら 李
ついで 韋.王.郭.崔.張.鄭.裴.楊.劉
その次40傑は
于.賈.韓.魏.許.姜.元.嚴.源.高.
侯.皇甫.史.周.蕭.蔣.徐.薛.蘇.宋.
孫.段.趙.陳.長孫.田.唐.竇.杜.獨狐.
武.馮.房.馬.庾.姚.呂.陸.柳.盧
続いては
宇文.袁.溫.閻.牛.敬.權.孔.吳.朱.
辛.齊.沈.程.董.豆盧.任.白.范.封.
孟.來.令狐.路 の24氏
有名人を出していながらさえないのは
安.樂.桓.顔.渾.常.岑.曹.宗.戴.褚.鳥.狄.婁.
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