本名は清潭。
董秀と共に代宗に仕えた寵遇をうけた。
寶應元年[762]九月
回紇登里可汗に使いしてなんとか史朝義征討の援軍を得た。回紇は唐を軽んじていたが利をみて応じた。
大暦六年[771]
回紇使節は、功績を頼んで傲慢となりしばしば京師で騒動を起こしたが、代宗は清潭を派遣して宥めるだけであった。
収賄により巨富を築いた。
淸潭は代宗の寵姫である貴妃獨孤氏を皇后に推し、その子韓王迵を太子としようとして、皇太子适を追い落とそうとした。しかし十年[775]十月貴妃獨孤氏は卒してしまった[皇后位は追贈]。
大曆十三年[778]五月
清潭は忠翼と賜名され特進に進んだ。
大曆十四年[779]五月
皇太子适が德宗皇帝として即位し、忠翼は兵部侍郎黎翰とともに流され、殺された。
七月
德宗は、元載、馬璘、劉忠翼の家が奢侈だとして壊させた。