唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 劉忠翼/清潭 

2024-12-07 08:42:22 | Weblog

本名は清潭。

董秀と共に代宗に仕えた寵遇をうけた。

寶應元年[762]九月
回紇登里可汗に使いしてなんとか史朝義征討の援軍を得た。回紇は唐を軽んじていたが利をみて応じた。

大暦六年[771]
回紇使節は、功績を頼んで傲慢となりしばしば京師で騒動を起こしたが、代宗は清潭を派遣して宥めるだけであった。

収賄により巨富を築いた。

淸潭は代宗の寵姫である貴妃獨孤氏を皇后に推し、その子韓王迵を太子としようとして、皇太子适を追い落とそうとした。しかし十年[775]十月貴妃獨孤氏は卒してしまった[皇后位は追贈]。

大曆十三年[778]五月
清潭は忠翼と賜名され特進に進んだ。

大曆十四年[779]五月
皇太子适が德宗皇帝として即位し、忠翼は兵部侍郎黎翰とともに流され、殺された。

七月
德宗は、元載、馬璘、劉忠翼の家が奢侈だとして壊させた。

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唐宦官伝 駱奉先

2024-12-05 08:34:52 | Weblog

武威郡姑臧の人、吐谷渾人

宦官となり、右驍衛大將軍に進み、元帥となった雍王适[代宗]に従い転戦し寵遇を受けた。

廣德元年[763]副元帥僕固懷恩軍の監軍となり、懷恩と義兄弟となった。

その後、河東節度使辛雲京と親しくなり、懷恩とは疎遠になった。

辛雲京は懷恩が回紇登里可汗と結託して造反していると奉先に説き、二人して代宗にその反を誣告した。

その後、奉先は懷恩の下に行き歓迎された。懷恩はさらに滞在を求めたが、奉先が帰ろうとしたのでその馬を隠した。奉先は懷恩の意図を誤解して脱走した。懷恩は慌てて追ってつれもどした。

その後また奉先は懷恩が必ず反すると上奏。

これを知った懷恩は「先に郭子儀が疑われて却けられ、また私が誣告されています。陛下は信用されませんよう」と反論したが、追いつめられ反旗を翻すことになってしまった。

その後奉先は軍容使となり畿內兵を管轄した。

永泰元年[765]江国公に進んだ。

鳳翔の監軍となった。

大歷十四年[779]卒した。

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唐宦官伝 董秀

2024-12-03 08:05:09 | Weblog

宦官達の専権に懲りた代宗だが、やはり宦官なしではなにもできなかったが、しかし軍權は宦官に握らせないようにしていった。それをまた覆したのは息子の德宗である。

秀は李輔國が誅されて以降、知枢密として内廷で活躍した。彼については出自等はなにも残っていない。

仲間の宦官駱奉先や劉忠翼、下級吏員だが実務を握る主書卓英倩潛と組んで、収賄に励み巨富を築いた。

樞密とは内廷で詔勅・文書等を取り扱う秘書的な仕事である。当然学問がいる。

一例として、隴右行軍司馬であった陳少游の記事が残っている。

少游は桂管觀察使に任ぜられた。昇任ではあるが桂管は遠隔の炎暑の地であり、少游は不満であった。

そこで少游は宰相元載の子で貪婪な仲武に贈賄するとともに。内廷の実権者董秀の自宅へ赴き、退庁してくるのを待った。
そしていきなり秀に「家中の人数は何人くらいおられますか、月にどれくらい費用がかかりますか?」と問うた。
秀は「出世すると、どんどん人が頼ってきて大変だ。今では月に錢千貫以上で、俸禄では賄えず苦労している」
少游「あなたのような貴人が金のことで苦労されるのは間違っています。いろいろな所から調達されているのでしょうが、私は自分一人で毎年五万貫を提供します。今大半はここにありますが、残りは任地に行ってから送りましょう」
秀は賄賂はせいぜい一万貫程度と思っていたのに、望外の申し出を聞いて歓喜した。
そして友人としての約を結び会食した。
そのとき少游が「せっかくこんなに好意を示していただけるのに、炎暑の桂管に赴任すれば再会できるかわからず残念です」と嘆いた。
秀はあわてて「あなたのような有能な人が、遠隔地に行くことはありません。少し待って下さい、良い所を探します」と言った。
宰相元載と董秀の暗躍により、少游の任地は桂管から、富裕な宣歙観察使に代わった。
少游は多額の贈賄を続け、浙東觀察使・淮南節度使という財地を歴任した。

大暦十二年三月
代宗は宰相元載を誅し、その党であった左衛將軍知内侍省事秀を杖殺した。

宦官は皇帝の奴隷であるため、官員と違い失脚するとほぼ間違い無く殺害される。

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唐宦官伝 魚朝恩 その5

2024-12-01 08:53:37 | Weblog

大曆五年正月
代宗と共謀した宰相元載は、鳳翔澤潞節度使李抱玉を山西澤潞に移鎭させ、朝恩派の陝虢節度使皇甫溫を転任させ朝恩を喜ばせたが、溫は既に裏切っていた。

載はさらに興平、武功、天興、扶風四縣を神策軍の管轄に移し、朝恩を喜ばせた。

二月
麾下の武将劉希暹は状況が悪化していることを知り、朝恩に警告した。
朝恩は不安に思ったが代宗皇帝がしきりに厚意を示すので警戒しなかった。

皇甫溫は入京し、周皓とともに謀議した。そして載は代宗から誅殺の許可を得た。

三月
代宗は宮中で酒宴を開き、朝恩を招いた。載は中書省を固めた。
宴終了後、帰ろうとする朝恩を捕らえて詰問した。朝恩は伏さなかったが、護衛のはずの皓らが殺害した。
朝恩は服罪して觀軍容等使を免ぜられ、内侍監に留まったが自殺したとされた。
葬儀費用として錢六百萬を賜った。

事件に坐していなかった禁軍将劉希暹、王駕鶴に御史中丞が加えられ安撫された。

皇甫溫は陝虢に戻り、周皓も賞され大僕卿にまでなった。

朝恩の党派裴士淹・第五琦等が左遷された。

朝恩亡き後、宰相元載の威權は急拡大したが。大暦十二年代宗は載を誅した。

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唐宦官伝 魚朝恩 その4

2024-11-28 09:59:08 | Weblog

郭子儀と朝恩の接近は、代宗皇帝や宰相元載に危機感を抱かせた。対外的に子儀を排除できない代宗は朝恩の処理を本気で考えるようになった。

大曆四年[769]二月
京兆府の好畤、鳳翔郡の麟游、普潤縣を神策軍の所有とした。朝恩の勢力拡大である。

大曆五年[770]正月
觀軍容宣慰處置使左監門衛大將軍兼神策軍使内侍監として朝恩は禁兵をにぎり、軍事を專掌した。

朝恩はしばしば時の政治を批判し侮った。宰相王縉は怒りを示したが、元載は薄笑いを浮かべて沈黙するばかりであった。

朝恩は麾下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴に禁軍に獄を置かせて,坊市の惡少年をスパイとして富豪を告発させて捕らえ、財産を巻き上げた。

また上奏するものは自分を経由させ、従わない者は弾圧した。

代宗はこれを聞き、極めて不満だったが、禁兵を握られているため軽々には動けなかった。

朝恩の養子令徽はまだ幼く、内給使として綠衣[六位以下]であったが仲間と争い朝恩に泣きついた。
朝恩は代宗に「我が子は官位が低いため馬鹿にされます、紫衣[三位以上]を与えて下さい」と強要した。さすがに代宗は認めなかったが、朝恩は勝手に令徽に紫衣を着せて拝謁させた。
代宗は「結構似合っているな」とは言ったが極めて不満であった。

宰相元載は代宗の意志を受けて朝恩を陥れようと画策した。

しかし朝恩は入殿するとき、射生將周皓に百人を率い護衛させており、その麾下陝州節度使皇甫温に外部から支援させていた。

そこで載は周皓・皇甫温に重賂を贈り、裏切らせたが、増長していた朝恩は気づかなかった。

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唐宦官伝 魚朝恩 その3

2024-11-26 09:09:36 | Weblog

代宗政権は朔方軍を支配し河中に駐屯する郭子儀と、行政を握る宰相元載と、禁軍・宮中を握る魚朝恩のバランスの上にあって、極めて脆弱であった。

例として、子儀の子の曖には代宗の愛娘昇平公主が降嫁していた。あるとき夫婦げんかで、公主が曖を罵ると、曖も「皇帝が尊いと言っても俺の父親が支援してこそだぞ」と言い放った。激怒した公主は代宗のもとに走り告げ口した。代宗は娘に「その通りだ、子儀の支援が無いとやっていけないのだ。お前にはそれがわからないのか」と言って叱り帰宅させた。

大曆二年[767]二月
郭子儀が河中より入朝した。宰相元載・王縉・左僕射裴冕・判度支戸部侍郎第五琦・京兆尹黎翰・魚朝恩が各錢三十萬を出して供応しあった。これが当時の実権者である。

四月
宰相達と内侍魚朝恩は吐蕃と会盟した。

七月
朝恩は章敬太后[代宗の生母]の追善のために章敬寺を莫大な金をかけて建立した。当然公費を流用していた。

十二月
郭子儀の父敬之の墓が盗掘された。人々は子儀と対立する朝恩の仕業と思っていた。
やがて奉天から子儀が入朝してきたため、大乱が起きると動揺が広がり、代宗は懼れた。
しかし子儀は「私は軍紀を守らせることができず、今まで麾下が諸人の墓を暴くことがありました。今回のことは私の不徳によるものでしょう」と騒がなかったため治まった。

大暦三年[768]
朝恩はしばしば国子監へ行った。そのたびに前京兆尹黎幹は盛大な供応をしてご機嫌取りをしていた。しかし新任の京兆尹李勉は諂わず供応しなかったので、朝恩は深く恨み、また国子監へ征かなくなった。

大暦四年[769]正月
郭子儀が河中より入朝し、朝恩の邸宅で供応を受けることになった。宰相元載は二者の対立を煽るために、子儀の配下に朝恩が子儀を殺害する計画があると密告した。配下は驚き重武装の護衛をつけることを進言したが、子儀は「私も朝恩も大臣である、皇帝の命もなく事を起こすなどありえない」と認めず数人の家来を連れただけで訪問した。
朝恩も不穏なウワサが流れていることを知り対処に苦悩していたが、子儀の度量の広さに感激した。

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唐宦官伝 魚朝恩 その2

2024-11-24 08:58:28 | Weblog

寶應元年[762]七月
李輔國が失脚した後、觀軍容使朝恩は封馮翊郡公となった。

十月
雍王が元帥として史朝義征討に赴いた。代宗は副元帥を郭子儀にするつもりだったが、朝恩は反対して僕固懷恩が副元帥になった。

神策觀軍容使朝恩は後備として陝州に留まった。

その後東都で射生軍を率いて朝義軍と力戦した。

寶應二年[763]六月
軍を率いて陝州より京師に入った。

七月
實封200戸と一子に五品官を与えられた。

廣德元年[763]十月
吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した。
朝恩は神策軍を率いて陝州より来援し代宗を保護した。

朝恩の部將皇甫温が陝州刺史、周智光が華州刺史となった。

十二月
朝恩は天下觀軍容宣慰處置使として禁兵を掌握し、鄠縣や中渭橋に築城して吐蕃に備えた。
宦官駱奉仙を鄠縣築城使として守らせた。

永泰元年[765]九月
吐蕃回紇が大挙侵攻し、代宗は再び逃亡しようとした。朝恩は馬を徴発し、民を徴兵しようとしたため騒動が起きた。
群臣に河中への逃亡を提案したがかえって弾劾され中止した。

永泰二年[766]二月
朝恩は自分は学問ができると思っていたので、宰相達と国子監の講義を聴講し「私の才は文武を兼ねている」と自称した。
そして国子監の儀式に口を出すことが多かった。

八月
内侍監.判國子監事充鴻臚禮賓等使となり、鄭國公に進んだ。国子監=大学の長となったのである。

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唐宦官伝 魚朝恩 その1

2024-11-20 09:07:26 | Weblog

瀘州瀘川人、開元十年[722]に生まれた。

天寶末に去勢して宦官になった。

品官から内給事となった。

安史の乱に肅宗皇帝に従い主に軍事を管掌し信任を得た。

李光進の監軍から、三宮檢責使、開府儀同三司左監門衛將軍知內侍省事に躍進した。

乾元元年[758]九月
唐は安慶緒を滅ぼそうと、郭子儀・李光弼等九節度使の大軍を編成し河北へ送った。ところが全軍の統帥者を決めかねて、合同軍というあいまいな形とした。朝恩は觀軍容宣慰處置使として合同軍の監軍となった。

乾元二年[759]正月
追いつめられた安慶緒は、唐に帰順して幽州節度使となっていた史思明に救援を求めた。思明は征討軍からはずされ、慶緒の後は自分が討伐対象になると思い[事実李抱眞等に誣告されていた]来援した。統帥のない唐軍は動揺し、魏州を奪回された。

李光弼は魏州を攻めることを提案したが、朝恩は阻止した。

三月
九節度使軍は史思明軍に大敗した。

六月
朝恩は敗戦は郭子儀の責任だと誣告し、副元帥を李光弼に代えさせた。

上元元年[760]九月
肅宗は群議により郭子儀を都統諸道兵馬使として史思明征討を命じたが、朝恩達は反対して実行させなかった。

副元帥李光弼軍の監軍として東都・河陽で史思明軍と戦った。

上元二年[761]二月
李光弼軍は史思明軍に北邙で大敗した。朝恩も敗走して陝州に入った。

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唐宦官伝 程元振 その3

2024-11-18 09:53:11 | Weblog

廣德元年[763]十月
まったく防御態勢のない京師はたちまち陥落し、程元振は代宗を擁して華州に逃亡した。
各地の諸将に来援を命令したが誰も動こうとはしなかった。

代宗はあわてて郭子儀を副元帥としたが、部下が散逸している子儀はいかんともできなかった。
しかも元振は増兵を求める子儀が代宗に自分を弾劾されるのを懼れて拝謁させなかった。

京師を捨てた代宗達は宦官魚朝恩が率いる華州神策軍に収容された。

吐蕃は京師を掠奪すると、占領する気はなく撤退し、郭子儀は各地の兵を集めて回復した。

元振は元帥行軍司馬を解任され、宰相元載が判元帥行軍司馬となった。

太常博士柳伉が官僚を代表して元振を弾劾し極刑を求めた。しかし元振の諸将弾圧策は代宗の政策でもあったので厳しい処分ができず、官職を免じて郷里に帰らす事に止めた。

魚朝恩は代宗を奉じて京師に入り、以降 郭子儀.元載.魚朝恩の三頭体制ができあがった。

廣德元年十二月
責任を感じていない元振は郷里から女装して京師に戻り、自党の司農卿陳景銓の邸宅に隠れ、代宗に再任用を願ったが捕縛された。

廣徳二年[764]正月
御史台は元振を僻地の?州へ配流すると決定したが、代宗はなおも庇って江陵府に安置するだけにした。

しかし怨みを持つ者に殺された。

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唐宦官伝 程元振 その2

2024-11-17 09:10:55 | Weblog

寶應元年[762]十二月
史朝義軍は潰滅し、僕固懷恩は副元帥となったが、さっそく宦官達は懷恩に叛意ありと讒言した。

寶應二年[763]正月
一時反した山東節度使來瑱は代宗に赦されて来朝し、兵部尚書同平章事として優遇され、肅宗の山陵使を務めていたが、元振の請託を受けないので誣告され殺された。

疑惑を受けて動揺した僕固懷恩は、安史諸将を徹底して征討せず、幽州・魏博・成徳・相衛など河北を分有させて自分の勢力圏を作ろうとした。

寶應二年六月
同華節度使李懷讓は、元振に誣告され自殺した。

安史の乱が一応収まり、唐朝は「狡兎死して走狗烹らる」のように、実力か大きくなりすぎた功將を整理しようとしていた。朝廷に隷属する宦官達は皇帝[代宗]の意を挺して讒言を繰り返していたわけだが、法治という面では功將達には多くの問題があった。しかし元振達はまだまだ安定していない状況で事を急ぎすぎたようで、諸将は唐朝の姿勢に強い不信を抱いていた。

寶應二年/廣德元年[763]七月
實封二百戶を加えられ、子に五品官を与えられた。

廣德元年九月
吐蕃は唐の辺境防御態勢が崩壊していて、援軍としてきていた回紇が北邊に去ったのを知り、涇州から京師へ侵攻した。
邊將からの急報を元振は重視せず対応を取らなかった。邊將達も朝廷への不信から徹底した防戦をせず、吐蕃軍を通過させた。

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唐宦官伝 程元振 その1

2024-11-16 09:03:54 | Weblog

字は元振、雍州三原人。延載元年[694]に生まれた。

自宮して内侍省に入り、内射生使/飛龍廄副使まで昇進した。

元年建巳月/寶應元年四月
肅宗は重病となり、李輔國と権を争っていた張皇后は趙王係を擁して輔國を除こうと謀っていた。輔國の麾下であった元振はその謀議を知り輔國に告げた。

輔國と元振は禁兵を動員して、皇后・趙王・兗王等を殺害し、皇太子を擁立した。

元振は功績により左監門衛將軍に昇進した。

寶應元年五月
輔國は功を誇り尚父司空兼中書令となり、即位した代宗を軽視して専権を振るった。

元振は代宗皇帝に接近し輔國を追い落とそうとした。

寶應元年六月
元振は、輔國の力の源泉である行軍元帥府司馬及兵部尚書を奪い、みずから判元帥行軍司馬となって兵権を握った。そして輔國を宮中から逐いだした。

寶應元年七月
鎮軍大將軍保定郡開國公に進んだ。

寶應元年八月
河中の軍乱を収めた郭子儀が入朝したが、元振は猜疑して代宗に讒言したため、懼れた子儀は副元帥・節度使の兵権を辞し京師に隠棲した。

寶應元年九月
元振は勢威を増し、驃騎大將軍兼内侍監となり邠國公に進封した。
兵権や武将の人事を握り、政事に容喙して宰相裴冕を失脚させた。

寶應元年十月
回紇軍来援し、雍王を元帥とする史朝義征討軍が派出されることになり、代宗は郭子儀を副元帥にしようとしたが、元振等の宦官達は蕃族出身の僕固懷恩を強く推薦した。

輔國は自邸で殺され斬首された。

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唐宦官伝 李輔國 その4

2024-11-11 09:50:45 | Weblog

元年[762]建巳月/寶應元年四月

玄宗上皇が78才で崩御した。当時肅宗も重体となっていた。

この頃輔國と張皇后は主導権を争っていたが、皇后は皇太子[代宗]を呼び出し輔國を排除しようとした。しかし軟弱な皇太子は同調しなかった。
そこで皇后は副元帥の地位にあった越王係を擁して自派の宦官段恆俊等二百餘人で輔國を誅しようとしたが、皇太子に親しい宦官程元振は状況を輔國に通報した。

輔國・元振は禁軍を動員し、皇太子を擁して張皇后・越王等を殺した。

まもなく肅宗も崩御し、輔國は皇太子[代宗]を即位させた。

舞い上がった輔國は代宗に「政治は私がやります。帝は宮中でおとなしくしていればよい」と言い放った。
肅宗ほど無能では無かった代宗は不満だったが、禁軍を掌握する輔國に当面なすすべがなく、「尚父」の号を与えた。

功績が大きかった内飛龍廄副使程元振は左監門衛將軍に昇進し、代宗にすりよった。

寶應元年五月
輔國は司空兼中書令となり、念願の宰相となった。

寶應元年六月
程元振や宰相元載は、驕慢となった輔國を排除しようとして代宗に接近した。

まず輔國の判元帥行軍司馬・兵部尚書・閒廄等使の軍權を解任した。

そして輔國に邸宅を与え内廷から排除した、さらに中書令を解き相權も奪った。

輔國は憤激して代宗に抗議したが容れられず、博陸郡王を与えられただけだった。
「もう私は不要なのだな、先帝にあの世で仕えるしかない」と言い捨てて去った。

寶應元年九月
輔國派の秘書監韓穎、中書舎人劉烜が殺された。
程元振は驃騎大將軍兼内侍監となり実権を握った。

寶應元年十月
盗賊が輔國邸に入り、輔國を殺して首を取って去った。代宗の密命によると思える。

代宗は木首を与えて葬儀を行わせ、「太傅」を贈った。

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唐宦官伝 李輔國 その3

2024-11-07 10:07:57 | Weblog

玄宗上皇は皇宮外の興慶宮に住み、政務にはまったく関係せず、陳玄禮や高力士、玉真公主・如仙媛・内侍王承恩・魏悅や及梨園の俳優達と宴会を楽しみ、興が起こると長慶樓に出て、民衆の萬歲を受けていた。
また將軍郭英乂や成都在住時代の官員達を召すこともあった。輔國は微賤の出身で政務には通じていても教養が無いため、上皇やその左右からは軽視され憤懣を抱いていた。

輔國は上皇に強いコンプレックスを持つ肅宗に「上皇は外宮にいて外人と交通し、陳玄禮や高力士は陰謀を企んでいます。私にはどうしようもありません」と誣告した。
優柔不断で自信の無い肅宗は「父上をどうこうできないだろう」というばかりだった。
輔國は「上皇が復位を考えられたら大乱がおこります。外部の興慶宮から西內に遷っていただいて、小人達が暗躍しないようにしなければいけません」と提言したが、肅宗は決断できなかった。

上元元年[760]七月
そこで輔國は独断?で麾下の射生五百騎を率いて、武力で玄宗を西內に遷し、側近の玄禮を致仕させ、力士達を配流した。肅宗は承諾しなかったことになっているが、実際は黙認して輔國に責任を押しつけたというのが実情であろう。玄宗はすっかり気落ちして病となった。

上元二年[761]五月
山人李唐が肅宗に玄宗の扱いを諷したが、肅宗は張皇后や輔國を憚って玄宗の見舞いにもいかなかった。

八月
輔國は守兵部尚書となり、宰相朝臣に見送らせた。
さらに宰相を求めた。肅宗は宰相蕭華に諷して阻止させた。輔國は極めて不満であった。

元年[762]
肅宗は重病となり政務をとれなくなった。

元年建卯月
河中・河東で軍乱が起き、節度使李國貞・鄧景山が殺された。輔國が敬遠していた郭子儀が副元帥に登用され鎮圧に向かうことになった。郭子儀は出征にあたりおして病中の肅宗の直命を求め、輔國を牽制した。

元年建辰月
輔國は肅宗に迫って、恨みをもつ宰相蕭華を罷免させ、自党の元載を任用させた。

實封が八百戸に増した。

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唐宦官伝 李輔國 その2

2024-11-05 21:10:48 | Weblog

輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。

至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。

乾元元年[758]二月
大僕卿を兼ね厩權をにぎった。

肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。

乾元二年[759]三月
京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。

輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に頼り切りであり辞めさせることはできなかった。

五月
麾下の馬坊の吏員を処刑されたことで、法官の中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻と争い、反って三人を処罰し、反対する宰相李峴をも左遷した。

乾元三年[760]四月
山東節度使で軍乱が起き節度使史翽が殺された。鎮圧の為隴州刺史韋倫を節度使として派遣することになったが、倫が輔國の所に挨拶にこなかったため解任し、來瑱を代わりに任じた。

上元元年[760]五月
輔國は京畿鑄錢使となり利権を拡大し、六月長春宮使を兼ねた。

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唐宦官伝 李輔國 その1

2024-11-01 09:57:25 | Weblog

李輔國/護国      
---------------------
本名は靜忠。幽州博陸郡の人。長安三年[704]に生まれた。

宮刑を受けて閑廐[官馬(厩馬)を管理する役所]に勤務した。

容貌は醜くかったが、学問はそこそこあった。

高力士に使えて、閑廐では最も有能であった。

四十才頃、王鉷が閑廐使となり輔國を評価し、皇太子[後の肅宗]に推薦した。

天寶十五年[756]安禄山の乱により玄宗は成都に逃亡し、皇太子も従った。

途中、遅れて進む皇太子一行を父老達が「關内を見捨てていかれるのですか、留まって戦ってください」と請願した。
皇太子は拒否しようとしたが、子の建寧王倓や輔國は「このままでは關内は失われてしまいます」と留まることを主張し、優柔不断な皇太子は押し切られた。
すっかり気力を無くしていた玄宗はそれを追認し、天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧等節度兵馬收復兩京として分離を認めた。

皇太子は朔方軍を頼り、彭原・平涼と敗走した。朔方留後杜鴻漸や魏少游が出迎えやっと靈武に入り体裁を整えることができた。

七月杜鴻漸など朔方軍幹部や諸皇子・輔國達は皇太子[肅宗]を擁立して即位させた。肅宗は玄宗の承諾なしに即位することを躊躇したが、出世をねらう朔方軍の文官達や輔國・張妃達に押しきられて承諾した。

肅宗は子の建寧王や謀臣李泌を信頼していたが、輔國や張妃は泌を憎み、建寧王を誣告して殺させた。泌は懼れて逃亡した。

輔國[靜忠]は太子家令判元帥府行軍司馬として諸方からの上奏を取り次いで管理し、表の権力を振い、張妃は裏で動揺しやすい肅宗を激励してコントロールして連携していた。靜忠から賜名され「護国」と称した。

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