唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南 哥舒晃の乱

2022-11-30 08:48:11 | Weblog
哥舒晃は字子亮、元帥として潼関で安禄山軍に敗北した翰の子で、突騎施の酋長の家柄です。淮西李希烈と戦った東都行営節度使曜の弟にもあたります。

大曆八年九月
嶺南節度使廣州刺史呂崇賁[軍人出身]は將で循州刺史哥舒晃に殺されました。
理由は不明ですが、晃単独ではなく広く現地勢力と結びついた反乱です。
廣州交易に対する唐朝の収奪への現地の反感ではないでしょうか。

大曆八年十月
廣州は南蛮貿易の利権がある要地ですので、朝廷は早速江西觀察使路嗣恭に廣州刺史充嶺南節度使に兼任させ、翼國公にして征討させました。

大曆十年十一月
嗣恭にはまともな軍団が提供されなかったようで、嗣恭は南方の暑熱になれた流人孟瑤、敬冕を將とし現地で兵を調達し、容管經略使王翃の援軍と共に廣州に突入し、哥舒晃やその黨萬餘人を殺し京観[斬首した首の山]を築きました。

容管經略使王翃の派兵の留守をねらい、西原賊帥覃問が容州を襲いましたが捕らえられました。

嗣恭には恩賞として檢校兵部尚書が加えられただけです。これは廣州で掠奪した財宝の大半を独占し、自分より宰相元載に高価なものを贈ったという代宗皇帝の妬みからきています。
その後李泌に諫められ反省し知省事を加えました。

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染坊供人張韶の変

2022-11-30 08:04:27 | Weblog
憲宗皇帝が暗殺された後、凡庸で遊び人の穆宗が継ぎ、5年ほどで頓死しました。その後は長子の敬宗ですが、唐の三愚帝[他は中宗.僖宗]の一人です。ポロ競技とレスリングが大好きで、遊び仲間と夜間に宮中を徘徊して狐狩りをするのが趣味でした。
もちろん政務などには関心が無く、これも凡庸な宰相まかせでした。そういう話しは民間へも漏れ出て嘲笑の対象になっていました。

占い師蘇玄明と染坊の職人張韶は友人でした。
ある日玄明は「俺とおまえが殿上で会食するんだ。皇帝は遊び歩いていて不在だから簡単にできる」と
韶は「おもしろい、やってみるか」と仲間に相談すると、無頼な仲間はすぐ乗ってきました。

長慶4年4月丙申
そこで仲間百餘人と、武器を紫草[染料]を山積みした車に隠し、左銀台門[この門を抜けると皇宮領域に入れる]に至りました。門番は武器を隠した車の重みに気づき誰何すると、韶達は門番を殺して、武装して殿中に侵入しました。

当時敬宗皇帝は清思殿でポロ遊び中でしたが、韶達の歓声を聞き脅え、贔屓している左神策軍に逃げようとしましたが、間を遮断されているため右神策軍へ向かい中尉馬存亮に保護されました。

存亮は直ちに大將康藝全を派遣して掃討させ、「ママが危険だ」と喚く敬宗のためにも兵を派遣しました。

張韶は清思殿に昇り、皇帝の座に座って、蘇玄明と食事をして言いました「あんたの言ったとおりだ。次はどうなるんだ」と、玄明は驚いて「俺の占いはここまでだよ」と。

韶は玄明と狼狽して走り、康藝全・尚國忠に斬られました。
四散して宮中に隠れた餘黨も一掃されました。

韶達を誰何せず通過させた監門の宦官達は死刑になりました。
馬存亮・康藝全達は實封官職が与えられました。
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浙東 袁晁/袁鼂の乱

2022-11-29 08:10:19 | Weblog
晁は台州の吏員であった。朝廷は安史の乱で欠乏した財政を補うため江淮地域で根こそぎ収奪をおこなった。晁はその暴挙についていけず、処罰されることなったため、唐興縣で起義しました。

寶應元年8月
台州賊袁晁は舟山島で起義し陷台州、刺史史叙を逐い、越州を陥し、改元して寶勝とし反しました。
重税に憤激した民が多く結集しました。

朝廷は副元帥李光弼に命じて將張伯儀・袁傪・王棲曜。李長榮等を派兵し鎮圧を図りました。

9月
袁晁は信州を陥しました。

10月
袁晁は陷溫處明州を陥しました、浙東浙西各州に侵攻し、衆二十萬と号しました。
翁山に水軍基地を置き長江を遡及して各地を荒らしました。

12月
李光弼將張伯儀は袁晁を衢州に破りました。

江西観察使張鎬軍は信州に袁晁軍を破りました。

寶應2年/廣徳元年3月
李光弼將張伯儀.袁傪.柏良器.王棲曜.李長榮は袁晁を台州に破りました。

晁弟瑛は残党五百人と寧海紫溪洞に攻囲され全滅しました。

4月
李光弼軍は袁晁を捕らえて京師に送り誅し、浙東は平定されました。
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僕固懷恩の乱 2

2022-11-28 08:49:38 | Weblog
廣徳二年2月
僕固瑒は榆次を囲んでいましたが抜けず、援兵が遅いと兵を処罰しました。
焦暉、白玉帥等は憤激して瑒を殺しました。

懷恩はこれを聞き渡河して靈州に奔りました。

靈州守將渾釋之はためらいましたが受け入れ、懷恩は釋之を殺して軍を併せ、張韶に守らせました。

都虞候張維岳は、焦暉、白玉を殺し郭子儀に通じ、子儀は汾州に行って懷恩兵を収めました。

廣徳2年4月
朔方行營節度使左僕射同平章事兼太保僕固懷恩の兵権を解き虚位太保だけは残しました。 

廣徳2年6月
懷恩は靈武で勢力を回復していきます。代宗は慰撫しますが懷恩は従いません。

廣徳2年7月
懷恩に實封一千五百戸を与えます。

廣徳2年8月
懷恩は吐蕃・回紇10万を率いて入寇してきました。

廣徳2年9月
郭子儀、李抱玉が防衛に当たります。
邠寧節度使白孝德は吐蕃を宜祿に撃退しました。

廣徳2年10月
懷恩は吐蕃二萬で邠州を攻め、節度使白孝德は籠城します。さらに奉天を攻め、京師は戒嚴状態となります。
蕃軍の勢力が強く、子儀は涇陽に籠もります。

懷恩が南侵した隙に、河西節度使楊志烈は靈州を攻めましたが、懷恩は戻って大破しました。
捨て石的なこの攻撃に士卒は不満を抱きました。その後志烈は殺されます。

廣徳二年十一月
楊志烈の活躍もあり懷恩軍は撤退します。

永泰元年8月
懷恩は吐蕃、回紇、黨項羌、渾、奴剌をあげて来寇します。

永泰元年九月
懷恩は靈州鳴沙縣で急死しました。
時に吐蕃數十萬寇邠州・奉天・醴泉、黨項羌、渾、奴剌は寇同州・奉天・鳳翔府・盩厔に迫り、
京師は危急に瀕していました。さらに回紇の大軍も迫っていました。
懷恩の死がなければ京師は陥落していた可能性が大です。
懷恩の死後、その軍は大將張韶が嗣ぎましたが、別將徐璜玉に殺され、また璜玉も范志誠に殺されて分散し
主力は郭子儀に吸収されました。

その後、郭子儀は旧知の回紇と盟約し、吐蕃と対立させて撃破して危機を脱しました。

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僕固懷恩の乱 1

2022-11-27 08:47:07 | Weblog
僕固懷恩は鉄勒の僕固部酋長の家系で世襲都督として三代続いてきた。朔方軍に仕え、安史の乱以降郭子儀の下で、また李光弼の下でも活躍し、回紇と唐との橋渡しもしてきました。

唐は鮮卑系の異民族国家なので、漢民族に対する警戒感が強く、安史の乱で郭子儀が大きな功績をあげると敬遠し、総司令官たる副元帥を契丹系の李光弼や、鉄勒の僕固懷恩に交代させていたのです。

郭子儀敬遠策はよく宦官李輔國や魚朝恩の陰謀と言われていますが、肅宗や代宗皇帝の意志を反映しているのは間違いなく、責任転嫁といえます。

寶應元年10月
朔方節度使僕固懷恩は同平章事兼絳州刺史領諸軍節度行營として天下兵馬元帥雍王适の副元帥として、回紇可汗と共に史朝義征討に向かいました。

寶應2年/廣徳元年正月
史朝義は自殺し、安史の乱は終了しました。

懷恩は降伏してきた史朝義將の李懷仙.薛樞.李寶臣.田承嗣らに河北諸州を分与し、節度使としました。唐朝としては財政的に一刻も早く戦乱を終わらせる必要があり、これら諸将を徹底的に討伐する余力がなかったのが最大の理由です。
また懷恩個人にとっては、これらの諸将を子分としておきたいということもあったと思います。來瑱や郭子儀など唐朝は功績のある軍人を使い捨てる傾向をみせていたのです。

寶應二年/廣德元年正月
入朝して優遇されていた山東來瑱が一転して誅殺されました。

寶應二年/廣德元年七月
功績により太保を加えられました。子の僕固瑒兼御史大夫充朔方行營節度となりました。

懷恩の方針にたいして河東辛雲京や、澤潞李抱玉などは不信感を持ち、朝廷に誣告を重ねていました。

懷恩が回紇可汗を送っていった時にも、河東辛雲京は太原に入れなかった。
懷恩は怒り朔方兵數萬と汾州に屯し、子瑒を榆次,將李光逸を祈縣,李懷光を晉州,張維岳を沁州に配置した。

宦官駱奉仙は河東に使いして雲京の誣告を聞き、懷恩を訪ねたが疑惑を抱き京師に奔った。

廣德元年8月
奉仙は懷恩が謀反していると上奏し、懷恩もまた誣告だと上奏して、雲京、奉仙を処罰するよう求めました。

廣德元年9月
代宗皇帝は宰相裴遵慶を派遣して懷恩を慰撫しました。懷恩は今までの功労・忠誠や一族の犠牲を泣訴して冤罪を訴えました。
遵慶は入朝を勧め、懷恩も一旦は了承しましたが、來瑱の例をあげ諸将はそれを止めました。
また一子を入朝させようとしましたが、諸将はそれも止めました。

御史大夫王翊が回紇から帰り、懷恩と回紇の通交について報告しました。

廣德元年10月
吐蕃が大挙来寇し京師を陥し、代宗皇帝は華州に奔りました。
朝廷に不信感を抱く李光弼を含め有力な諸将は観望して来援しません。郭子儀だけが奮闘しました。

廣德2年1月
檢校刑部尚書顏真卿を送り懷恩を宣慰し入朝を促しました。

汾州別駕李抱真は懷恩が反したとして京師に奔り、朔方軍節度使を郭子儀に変えれば軍は従うと上奏しました。

懷恩は子の瑒に太原を攻めさせましたが、雲京に撃退されました。

子儀を關内河東副元帥朔方河中節度等使としました。懷恩麾下はもともと子儀の麾下ですので動揺しました。
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宣宗末期の 南部地域の軍乱

2022-11-26 08:18:01 | Weblog

宣宗皇帝は小太宗と呼ばれる唐後半期の名君で、個人としては節減し治政に配慮し、民を労ることに努力しましたが、既に唐の体制は弛緩腐敗していてその善意は下に伝わることはありませんでした。

唐南部地域は、淮西吳元濟平定以降長く戦乱がなく、地域の軍は老化弱体化し、官僚達の収奪により待遇は悪化、将校は地域の豪族の利権となり、兵員は盗賊あがり・貧民で充たされ、それも給与の横領により欠員だらけでした。

軍乱のタイプは
[A]官僚貴族の帥が、現地の將士を軽侮し、資財を横領して待遇を切り下げる。
[B]新任の帥が現地属官。土豪の癒着腐敗を摘発是正しようとして反発される。

大中9年7月
[Aタイプ]浙江東道で軍亂が起き觀察使李訥が逐われました。訥は遜の弟の子ですが、官僚貴族上がりで傲慢であり將士を虐待したため逐われました。

大中9年9月
李訥は朗州刺史に左遷され、訥の態度を放置した監軍王宗景も処罰されました。
宣宗は「以降、鎭帥に失態があれば監軍も連座させる」と警告しました。
傳師の子禮部侍郎沈詢が浙東觀察使となりました。

大中11年5月
[?]容管軍亂,逐經略使王球。

大中12年4月
[Bタイプ]嶺南都將王令寰が亂して、節度使楊發を逐いました。
楊發は清廉な官僚で嶺南の腐敗した状況を引き締めようとして、現地勢力に逐われたのです。
大中十二年五月
涇原節度使李承勳が嶺南節度使となり、隣道の兵を借りて平定しました

大中12年5月
[Aタイプ]湖南軍都將石載順等が觀察使韓悰を逐い、都押牙王桂直を殺しました。
琮が將士を軽視したための反発です。

大中12年6月
[Bタイプ]江西都將毛鶴が觀察使鄭憲を逐いました。

大中12年7月
[?]容州都虞候來正が反しましたが、軍人である經略使宋涯は誅しました。

[Bタイプ]宣州都將康全泰作亂,逐觀察使鄭薰。薰奔揚州。

大中12年8月
宣歙は主要財源ですから反乱を淮南節度使崔鉉が宣歙池觀察處置使を兼任して征討します。
実務は宋州刺史温璋[造の子]が宣州團練使として行います。

大中12年10月
山東節度使徐商が編成した精鋭數百人[捕盜將]を派遣し、宣歙康全泰を簡単に鎮圧しました。
宣歙等の兵は弱体ですから、民衆の賊と結びつかない場合は正規軍がくればたちまち制圧されます。

江西も財源地ですから光祿卿韋宙[良政を布いた丹の子]を江西觀察使とし、隣道の兵を借りて毛鶴を討ちます。

大中12年11月
崔鉉は宣歙觀察使を辞し、温璋が宣歙觀察使となりました。

大中12年12月
韋宙は山東徐商に[捕盜將]都將韓季友を借りてたちまち洪州を制圧、毛鶴を誅しました。

◎軍乱は簡単に鎮圧できましたが、状況がかわらないのでなんの解決にもなっていません。
次の懿宗皇帝時には軍乱が民衆・草賊と結びついて仇甫や龐勛などの大乱になります。
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浙東 裘甫/仇甫の乱

2022-11-25 08:55:50 | Weblog
仇甫は貧民の出で、唐末の乱の王仙芝や黄巣と同じく私鹽の販売を生業としていました。
唐の地方行政はすでに破綻していて、浙西・浙東・淮南など唐朝財政の主要収奪地域では
重税や土地の兼併により貧富の差は大きく、貧民の流動化が進んでいました。
宣宗皇帝は治政に励んでいましたが、官僚や宦官達に阻まれてまったく効果を上げていません。

大中13年12月
浙東の賊帥裘甫は官軍を連破して明州象山縣を陥し、剡縣に迫りました。しかし数百人程度のものです。
觀察使鄭祗德は討擊副使劉勍、副將范居植に兵三百を与え、台州軍と共に伐たせました。
河北の兵乱よりは賊も官軍も一桁スケールが小さいのです。

大中14年正月
裘甫は官軍を桐柏觀前で破り、范居植は戦死、劉勍は敗走しました。

甫は千餘人で剡縣を陥し、衆を集めて數千人に達しました。

浙江地方は久しく平安で兵備は廃れ、常備の軍は三百にも満ちません。
祗德は新兵を召募しますが、軍吏は腐敗し貧民、虚弱者で補充しました。
祗德は將沈君縱、副將張公署、望海鎮將李珪に新卒五百をつけて討たせます。

大中14年2月
甫は剡西で官軍を大破し、三將はすべて敗死しました。
これにより山海諸盜や無賴亡命達が一気に集まり三萬に達しました、実に百倍です。
甫は劉暀を参謀とし、劉慶、劉從簡を將とし、自稱天下都知兵馬使。改元して羅平,鑄印曰天平として反しました。

大中14年3月
朝廷は祗德が文官であり乱に対処でないとして、安南都護として実績のある王式を登用しました。
懿宗皇帝は式に方略を問うと「大軍を与えてください、そうすれば必ず平定します」
宦官達は「大軍を出すと金がかかる」
式は「確かに金はかかります、しかし乱が長引くと他の賊も蜂起し財源たる浙江荒れ果ててしまいます。大軍で短期決戦をするほうが安くつきます」と答えた。
皇帝は「大軍を与えるしかないな」とし、精鋭の忠武、義成軍や淮南諸道兵ほ授けました。

裘甫は衢、婺、明、台州を荒らさせたが、婺州や衢州の諸将は防衛し入らせなかった。
明州は民が自衛しました。
賊は台州唐興縣を陥し、甫はみずから越州上虞縣を焚掠し、餘姚縣、明州慈磎縣.奉化縣.台州寧海縣取りました。
また明州象山縣を包囲し、若者を動員して肥大していきました。

裘甫軍では、劉暀が「主力は一気に越州を陥し浙西に出て淮南を侵し、宣歙、江西に派兵し、劉從簡を福建に南下させ、唐朝の財源を覆せば自ら保つことが出来る」と説いたが、
進士王輅は「自衛に努め、緊急時は海に逃れれば大丈夫です」とし決定できなかった。

大中14年4月
式は越州に入り軍紀を厳正にし、密偵を斬り、警戒を厳格にしました。

賊別帥洪師簡、許會能が所部を率いて降ってきたので先鋒としました。

式は吐蕃、回鶻の捕虜で江淮に流されて来たものを取り立てて優遇し騎兵を強化しました。

式軍は沃州寨、新昌寨を抜き、賊將毛應天を破り、唐興に進みました。

大中14年5月
東路軍は賊將孫馬騎を寧海に破り、南路軍は賊將劉暀、毛應天を唐興南谷に大破し、應天を斬りました。

忠武軍、義成軍、昭義軍が来援し台州軍等とともに寧海を攻めました。

南路軍は賊を海游鎮、甬磎洞に大破しました。

將高羅銳は賊別帥劉平天を破りました。

劉暀は王輅等進士數人をすべて通敵したと斬りました。

高羅銳は寧海を取り、七千餘人を得ました。

式は賊が窮して海に逃げる事を怖れ、羅銳軍に沿海を防がせました。

また望海鎮將雲思益、浙西將王克容などの水軍に賊將劉從簡の舟を焼き払わせました。

賊將王皋が降りました。

大中14年6月
東路軍は裘甫を南陳館に大破し、甫は剡縣に逃れました。

式は剡を攻囲し、ついに裘甫、劉暀、劉慶從等百餘人は降り、甫以外は誅されました。

劉從簡のみは大蘭山に奔りました。

大中十四年七月
劉從簡も誅され、乱は平定されました。

大中14年8月
裘甫は京師で誅されました。

王式には檢校右散騎常侍が加えられました。
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河東節度 唐末の軍乱  ●印が乱

2022-11-24 08:37:35 | Weblog

・河東節度使は元和年間までは対回紇や河北三鎭の抑止で重視されていました。
しかしその後河北三鎭は弱体化し、大中年間に回紇帝国が崩壊して重要性は低下していった。
そのため中級文官の赴任先となり、当然官僚腐敗により軍備はいいげんになり、將士の資質・待遇も低下していきました。
・通常將士はその家族とともに城内に混住していました。
・常備軍の能力低下を補うため、団練[民兵]が多く活用されるようになりました。
・代州・雲州など北部は蕃族のほうが多く、特に強敢な沙陀族が勢力を拡大しています。乾符年間にその沙陀族が反したため討伐に苦しみ河東節度は危機を迎えます。

乾符5年正月/5月
●沙陀が乱を起こしたため、節度使竇瀚は都押衙康傳圭に土團二千人を率いさせ代州に派遣することにしましたが、土團は賞賜を求めて暴動を起こし、抑えようとした馬步都虞候鄧虔を殺しました。資金のない竇瀚は富商に錢五萬貫を借りて慰撫しました。

乾符5年6月
朝廷は瀚が非才だとして、軍人の前昭義節度使曹翔を河東節度使とし、左散騎常侍支謨を節度副使としました。
翔は土團の乱者を誅しました。

乾符5年7月
義武、滑州、忠武、昭義、河陽等の諸道軍が沙陀征討のため太原に入り、支謨が先鋒となりました。
●義武軍が乱しましたが翔が制圧しました。

乾符5年8/9月
●沙陀が岢嵐軍を陥し、曹翔は忻州へ出征しましたが頓死し、全軍撤退しました。翔の連れてきた昭義兵は亂し坊市を掠奪したため、坊民はこれを撃破しました。
軍はすでに将軍の私兵となっていること、太原の民は武力をもっていることがわかります。

乾符5年11月
河東宣尉使權知代北行營招討崔季康が河東節度代北行營招討使となりました。
早速沙陀が石州を攻め、崔季康は救援しました。
岢嵐軍は沙陀に付きました。

乾符5年12月
崔季康、昭義李鈞は李克用に洪谷で敗北しました。鈞は戦死し、昭義兵は代州を寇掠しました。

乾符6年正/2月
●崔季康が敗軍をまとめて帰る途中で反乱が起き、季康は逃げ帰りましたが、衙將張鍇、郭朏は太原に入り、季康父子を殺しました。

乾符6年3月
邠寧節度使李侃を河東節度使としました。

乾符6年5月
河東都虞候は每夜、賀公雅部卒を捕らえて族滅しました。
●賀公雅餘黨は三城を大掠師、都虞候張鍇、府城都虞候郭昢の家を焼き討ちしました。
節度使李侃は鍇、昢を捕らえて処刑することにし、賀公雅を馬步都虞候としました。
●刑に臨んで、鍇、昢は「捕盜司が言った事をしただけなのに、処刑されるのか」と訴え、軍士は暴動を起こし、鍇、昢を解放し復職させ、かえって捕盜司元義宗等三十餘家を誅滅しました。
馬步都教練使朱玫等は三城斬斫使となり、賀公雅餘黨を誅しました。
節度使李侃の権威などどこにもありません。

乾符6年6月
侃は病と称して鎭を棄てて去りました。
代州刺史康傳圭を河東行軍司馬としました。

乾符6年8月
元宰相の東都留守李蔚を河東節度觀察兼代北行營招討供軍等使としました。
元宰相としての権威に期待したのです。

乾符6年10/閏10月
李蔚の疾により,供軍副使李邵を權觀察留後,監軍李奉皋を權兵馬留後としましたが、蔚は卒し、都虞侯張鍇、郭昢は太原少尹丁球知觀察留後に推しました。
乾符6年11月
●河東行軍司馬雁門代北制置等使石嶺鎮北兵馬代北軍等使康傳圭を河東節度使代北行營招討使としました。傳圭は代州より兵を率いて入城し、出迎えた都虞候張鍇、郭朏を殺し家を族滅しました。
廣明元年2月
●沙陀が太原に迫り、大谷縣を陥しました。康傳圭は大將伊釗、張彥球、蘇弘軫に防がせましたが敗北しました。
厳酷な傳圭は怒って蘇弘軫を斬りました。張彥球等は乱し、太原を攻め、傳圭を殺しました。監軍使周從寓が慰撫して一応収めました。

廣明元年3月
沙陀の侵攻に対して、河東節度が混乱を極めているため、以前に河東節度を務めた宰相鄭従讜が自ら赴任することになりました。
従讜は幕僚を少壮官僚から選ぶことを許され、「小朝廷」と稱される陣容で赴任しました。
さすがに権謀術数に長けた従讜は温容氣勁,多謀善斷で、問題のある將士はすぐ誅し、使える者は良く待遇しました。乱主張彥球が本来は忠誠であることを見抜き、優遇して兵権を委任し信任しました。ために彥球は死力を尽くして軍務にあたり、河東軍は安定しました。
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安南 楊淸の乱

2022-11-23 08:55:50 | Weblog
元和14年10月
容管より報告があり、安南將楊清が亂し、都護李象古[曹王皋の子.道古の兄]とその一族・部曲千餘人を殺害したことが知らされました。

象古は貪縱で苛刻なため人望はありません。

楊淸は安南の蠻酋で、牙將となっていましたが冷遇され、黄洞蠻を討つことを命ぜられましたが兵を返して都護府を襲撃したのです。

唐州刺史桂仲武為安南都護として征討にあたります。

楊清を赦し瓊州刺史としましたが従いません。

元和15年2月
安南都護桂仲武は安南に至りましたが、自立した楊清は入れません。
しかし清は残虐であったため、仲間は離れていきます。
仲武は他の有力酋豪を説き味方を増やし、兵七千餘人を得ました。

朝廷は仲武が逗留しているとして、桂管觀察使裴行立を安南都護として征討させようとします。
そして仲武を安州刺史に左遷しました。

元和15年3月
安南將士は開城して桂仲武を迎え入れ、楊清は殺されました。
裴行立は海門に至った時に病死し、仲武が安南都護に復しました。
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昭義 劉稹の乱 3

2022-11-22 08:55:50 | Weblog
會昌4年正月
河東節度使李石は対昭義出兵により太原府兵が少なくなったので、横水戍兵を呼び返しました。しかし、前使劉沔が府庫の財を持ち去ったため、兵への賜物が少なく不満が爆発しました。都將楊弁はそれに乗じて乱を起こし、石を汾州に逐いました。

石會關守將楊珍は河東の乱を知り、關をもって稹に降りました。

朝廷は狼狽し、楊弁を留後とするとか、征討を中止するとかという論議が巻き起こりましたが、宰相德裕は断固として征討を続ける方針でした。

河東出征軍の將王逢に、義武・宣武・兗海の援軍をつけて楊弁を討つことを命じました。
また成徳王元逵に王逢軍を支援させるようにしました。

榆社駐屯の河東兵主力は、他軍が太原府に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して太原に入り、乱軍を潰滅させ楊弁を誅しました。

會昌4年2月
李石を左遷して太子少傅分司、文官河中節度使崔元式を河東節度使、石雄を河中節度使としました。王宰が澤州で逗留しているため、石雄の河中からの進軍を期待したわけです。

石雄は進軍し良馬等三寨一堡を陥しました。

軍人として実績のある義成軍節度使劉沔を河陽節度使とし、逗留する王宰に、征討使交代の可能性を示しました。

河東將王逢は昭義將康良佺を破り、石會關を回復しました。

會昌4年3月
石雄を兼冀氏行營攻討使とし、晉州刺史李丕を副としました。

會昌4年4月
王宰はついに動き、澤州を攻めました。

會昌4年7月
劉稹の腹心將高文端が降り、昭義の内情をばらしました。

昭義軍將裴問及邢州刺中崔嘏が邢州をもって成徳王元逵に降りました。

洺州刺史王釗、磁州刺史安玉は魏博何弘敬に降りました。

會昌4年8月
德裕は邢洺磁三州を魏博が占有することを懼れ、給事中盧弘止を三州留後として派遣しました。

昭義軍は三州が反したことで大きく動揺し、大将郭誼、王協等は劉稹を殺して降りました。亡命していた甘露の変の宰相一族も殺しました。

石雄が潞州に入り、来降した郭誼、王協なども全て誅しました。

恩賞として何弘敬が使相となりました。

劉從諫の墓を暴き、潞州市に晒しました、宦官達の恨みによります。

山東兼昭義節度の盧鈞が昭義節度使専任として潞州に入りました。
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昭義 劉稹の乱 2

2022-11-21 08:53:41 | Weblog
會昌3年7月
寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。

刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。

典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。
德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。
雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。
智興の子忠武王宰とは仇敵です。

王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。
功績により元逵は使相となりました。

會昌3年8月
昭義大將李丕が來降しました。

元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。
德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。
弘敬は領域に唐軍の進入することを懼れて、ただちに出師し磁州を攻めました。

昭義將薛茂卿は河陽軍を大破し懷州に迫りました。
朝議は和に傾きましたが德裕は聞きません。

河陽軍を支援するため忠武王宰は萬善に向かいました、

昭義將薛茂卿・張巨・劉公直は萬善を攻めましたが、河陽王茂元は義成軍の支援を得て守り抜きました。

會昌3年9月
河陽王茂元は卒し、忠武王宰が兼河陽行營攻討使として軍を併せて指揮します。
河南尹敬昕が河陽節度懷孟觀察使となり宰を支援します。

降將李丕を忻州刺史としました。

狼狽した何弘敬は強攻して洺州肥鄉、平恩を陥しました。恩賞として檢校左僕射を加えられました。

會昌3年10月
河東節度使劉沔を義成軍節度鄭滑濮觀察等使へ、荊南節度使李石を河東節度管内觀察等使にしました。沔は実績がある軍人ですが、幽州張仲武とは対立しており、北部戦線でははかばかしく動いていませんでした。石は元宰相の文官です、これは適当な人事ではありませんでした。

逗留して戦わない李彥佐を解任し、石雄を晉絳行營節度使とし、晉州冀氏より潞州に突入を命じました
石雄は命を受けると直ちに烏嶺を越えて進軍し、五寨を破りました。
当時主力の王宰軍は萬善,劉沔軍は石會にあり進軍しませんでしたので、武宗皇帝は喜び、雄に賜帛を与えました。雄はすべてを軍門に置き、自らは一匹だけとり、あとはすべて將士に分配しました。ゆえに將士は奮闘を誓いました。

會昌3年11月
將薛茂卿は大功がありましたが、劉稹は賞しませんでした。ために茂卿は忠武王宰に通じました。

會昌3年12月
王宰は天井關を攻めましたが、茂卿は守らず退却しました。茂卿は澤州に退き宰を誘いましたが、
宰は疑い進みませんでした。稹は茂卿の反を知り殺しました。
兵馬使劉公直が茂卿に代わり、安全慶が烏嶺,李佐堯が雕黄嶺,郭僚が石會,康良佺が武鄉を守りました。

王宰は澤州を攻めましたが、劉公直に撃退され、天井關も失いました。

その後宰は公直を大破し、澤州陵川を陥しました。

河東軍は石會關で勝ちました。
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昭義 劉稹の乱 1

2022-11-20 08:51:04 | Weblog
昭義劉氏の自立は、淄青李師道を裏切った劉悟[正臣の孫]に始まります。裏切った恩賞として義成軍節度となり、昭義軍節度に移りました。いずれも淄青軍時代の親兵数千を引率して牙軍としています。

寶暦元年8月
劉悟の死後、子の從諫は自立を図り、宰相李逢吉、宦官王守澄に贈賄し継承に成功しました。

従諫は自らは忠臣をもって任じ、李同捷征討に参加し、入朝するなど親唐朝姿勢を示していました。

大和9年の甘露の変で、宦官達は李訓派のみならず、変に関係しない宰相全員を殺害し、専権を振るい、文宗皇帝や新任宰相李石・鄭覃もなすすべはありませんでした。

従諫は親しかった宰相王涯が殺害されたことを怒り、殺害された宰相達の罪状を公開することを要求しました。行き過ぎた行為をしていた宦官勢力は懼れておとなしくなり、李石達も少しは政務を行うことができるようになりました。

従諫はつどつど上奏し、宦官達の勢力を牽制しましたので、宦官達は深く憎んでいました。
また甘露の変で被害にあった宰相等の一族を庇護し潞州に亡命させていました。

開成5年、従諫を頼りにしていた文宗皇帝が崩御し、宦官仇士良などが擁立した武宗皇帝が即位しました。武宗は牛李の党のうち李党の李德裕を信任しました。李党は藩鎭抑制政策をとっています。

會昌3年4月
昭義節度使劉從諫が卒し、從諫姪の稹[弟従素の子]が自立し継承を求めました。

唐朝は朝議を開き劉稹を征討すべきかどうかを審議しました。宰相の大半は穏便を主張しましたが、李德裕は宦官勢力と結託し討伐を主唱し、武宗皇帝もまたそれに同調しました。

德裕は河北三鎮が昭義と結託しないように、成德王元逵、魏博何弘敬、幽州張仲武に遣使し、唐朝は河北三鎮に手を出すことはないと保証し、協力を求めました。三鎮も了承しました。

忠武節度使王茂元[栖曜の子]を河陽節度使とし、邠寧節度使王宰[智興の子]を忠武節度使とし征討体制を作りました。

會昌3年5月
劉從諫・稹の官爵を削りました。

成德軍節度使王元逵を北面招討澤潞使,魏博節度使何弘敬を東面招討澤潞使とし、河中節度使陳夷行、河陽節度使王茂元、河東節度使劉沔を劉稹征討軍とし、武寧軍節度使李彥佐を晉絳行營諸軍節度招討使として統率させました。

憲宗時代と違って中央の神策軍が入っていません。宦官達の収賄により親衛軍たる神策軍は腐敗堕落[豪商や貴族達の子弟の巣窟でパレードにしか使えません]していたのです。黄巣の乱がおこった時に京師を守る部隊がなかったのもこのためです。従諫にちょっと脅されると宦官達が震え上がったのも、この実情がわかっていたからでした。

使える部隊は、回紇と戦い北邊を守っていた河東軍、山棚の住民や淮西軍の残余からなる忠武軍、驕兵で無頼の武寧軍程度で、さして強くはない昭義軍討伐にも不十分な体制でした。

德裕は牛派の元宰相李宗閔が昭義に通じているとして左遷しました。

河陽節度使王茂元は萬善を守り、河東節度使劉沔は芒車關,遼州榆社に進み、成德節度使王元逵は洺州臨洺,邢州堯山を攻め、河中節度使陳夷行は絳州翼城,晉州冀氏に屯しました。

會昌3年6月
王茂元は天井關を攻めました。
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宣武 李介*の乱

2022-11-19 08:22:08 | Weblog
檢校司空汴州刺史宣武軍節度使李愿は、德宗時の副元帥太尉李愿の子です。父や弟愬のように將才はありませんが大功臣の長子であるため優遇され節度使を歴任してきました。

宣武軍は劉玄佐から韓弘まで長い半独立の期間があり、韓弘が唐朝に帰属後、才識のある元宰相の張弘靖が將士を優遇しながら慰撫してきていました。

長慶2年6/7月
李愿は將士の労苦や実情をしらない豪家の出身で、厳格なだけで威厳を保つタイプであり、將士を冷遇し、処罰を厳しくしていました。また妻弟竇瑗に政務を任せきっていました。

宣武軍宿直將李臣則は竇瑗や愿妻を斬り、節度使李愿を逐いました。衙門都將李介*が自立しました。

李介*の字は[ウ冠+介]で漢字表にありません。そのため翽や□や嶺で表示されます。

李愿は隨州刺史に貶されましたが、やがて宦官に贈賄し河中節度使に復帰します。

さすがに汴州は要地であり、せっかく回収した唐朝は手放す意志はありません。通常は非戦派の宰相李逢吉も征討を唱えます。しかし姑息な宰相杜元穎・度支張平叔は宥和を説きました。

宋、毫、穎三州の刺史は上奏して別帥を求めます。

そこで唐朝はいつもの姑息な方策で、鄭滑節度使韓充に汴州刺史宣武軍節蓄使汴宋亳穎觀察等使を兼任させ、宣武軍節度押衙李介*は右金吾衛將軍にしますが、介*は受けません。

韓充は弘弟で、寛厚で宣武軍にいたときは將士の信望がありました。

李介*は宋州[刺史高承簡]が従わないので、攻めて寧陵、襄邑二縣、宋州南城を陥し、承簡と戦いました。

兗鄆節度使曹華は宋州を支援し介*軍を破りました。

忠武軍節度使李光顏が李介*軍を尉氏で破りました。

長慶2年8月
武寧節度使王智興は高承簡を支援し李介*軍は敗走しました。
自身が乱を起こして自立した智興ですが、今回は唐朝側に転身しています。

壬申,韓充は李介軍を郭橋で破り、萬勝に進みました。

都知兵馬使李質は李介*自立時の腹心でしたが、情勢の悪化と介*の病気をみて監軍姚文壽に通じ、介*や李臣則等を殺して降りました。そして介*四子を捕らえて京師に送りました。

韓充は汴州に入り、宣武節度使専任になりました。

恩賞として泰寧曹華を義成節度使、宋州刺史高承簡を兗海沂密節度使、忠武李光顏を兼侍中とし、李質を右金吾將軍にしました。

韓充は軍中の惡者千餘人を家族とともに域外に放逐しました。

長慶2年9月
李介*男道源、道樞、道瀹等三人が誅され、妻馬氏と小男道本、女汴娘は宮奴にされました。
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瀘州 楊子琳/楊猷 

2022-11-18 08:20:23 | Weblog
子琳は雄武の才があり法規に従わず独断専行する人物でした。

永泰元年閏10月
中央より赴任した右僕射劍南節度使郭英乂と、前使嚴武の寵將崔旰[寧]とに紛争が起き、山岳戦に長じた旰が英乂を破り、英乂は敗走して殺されました。

邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔は旰を伐つとして蜂起しました。
子琳は元瀘南賊帥で帰順して將となっていたのです。

大暦元年8月
劍南副元帥杜鴻漸は旰を伐つことが出来ず、ひたすら慰撫して唐朝への帰属を求め、旰もまた鴻漸に媚びて西川節度の地位を求めました。

鴻漸は他の諸将を宥めめ、各州の刺史とし、子琳も瀘州刺史となりました。

大暦3年4月
西川節度使になった崔寧[旰]が京師に入朝した隙に、瀘州刺史楊子琳は數千を率いて成都へ突入し、留守崔寬[寧の弟]を逐い占拠しました。唐朝はあわてて寧を西川に戻しました。

大暦3年7月
崔寬は寧の妾任氏の協力を得て子琳を破り、成都府を収復しました。子琳は瀘州へ逃げ戻りました。

大暦4年2月
子琳は瀘州で蠻族など数千人を集め、揚子江を下り、涪州守捉使王守仙軍を撃破し、夔州を陥し、別駕張忠を殺しました。荊南節度使衛伯玉は懼れて夔州占拠を許可しました。
幕僚の劉昌裔は子琳に朝廷への帰順を勧め、子琳は峽州團練使に任ぜられました。


子琳移澧州刺史澧朗兩州鎮遏使

大曆5年4月
湖南崔瓘が兵馬使臧玠に殺されたため、灃州刺史楊子琳等に玠を伐たせましが、子琳は玠の贈賄を受けて戻りました。

大暦6年4月
灃州刺史兼御史中丞子琳は入朝し、名を猷と賜名されました。

大暦9年正月
灃朗鎮遏使灃州刺史楊猷は勝手に揚子江を下り鄂州に至り、また溯上して、復、郢、襄等州を脅かしました。山南東道節度使梁崇義は防衛につとめました。

大暦9年3月
灃州刺史澧朗鎮遏使楊猷を洮州刺史隴右節度兵馬使とし、対吐蕃防衛に任用しました。

大暦9年5月
猷は澧州より入朝しました。

  その後の猷の記録はありません。
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魏博 田悅の乱 2

2022-11-17 08:02:22 | Weblog
窮地に追い込まれた田悅は判官王侑・許士則を間道伝いに深州に送り「成德についで魏博も亡べば、幽州もあぶない」「魏博から貝州を提供する」と朱滔を説きました。
朱滔は喜び、同じく不満な王武俊を味方にしました。張孝忠は同意しませんでした。

建中3年4月
朱滔・王武俊は反して田悅と連合しました。

悅は援兵が来るのを頼みとして、將康愔に御河上で馬燧と戦わせましたが大敗しました。

建中3年5月
朔方節度使李懷光が征討軍に加わりました。

建中3年6月
朱滔と王武俊兵が田悅を救援し魏州北に至りました。李懷光も到着し、馬燧、李抱真、李芃と合しました。

両軍は連篋山の西で戦い、唐軍は敗北し、反軍は河を氾濫させ唐軍の退路を断ちました。

建中3年7月
唐軍は退却しましたが、朱滔はそれを追いませんでした。両軍は河を隔てて対峙しました。

建中3年11月
悅は朱滔の救援を德とし、皇帝に推戴しましたが、滔は辞退し、各人が「王号」を称することにしました。滔は「大冀王」悅「魏王」武俊[趙王]李納[齊王]で、反軍の独自官爵を設置しました。

建中3年12月
対峙が続き、唐軍は遠隔からの度支にたより、反軍は田悅領域からの供給にたより、双方とも疲弊しました。

対峙が長く続き、朱滔と王武俊は不和になり、弱体の田悅はより疲弊していきました。

建中4年10月
朱泚の乱で德宗皇帝は京師から奉天に逃走しました。李懷光・李晟は軍を率いて長安に急行し、馬燧、李芃は各鎮に戻り、李抱真は臨洺に退却しました。

悦は王武俊に臨洺を取ることを提案しましたが、武俊は抱眞と陰で通じ、しかも自領から長く離れていることが不安になり同ぜず恒州に戻りました。

建中4年12月
奉天に落ち延びた德宗皇帝は盛んに王武俊・田悅・李納らに既得権を保証する働きかけを行った。三人は自領が保証されるなら、近い朱滔よりも遠い唐朝のほうが与しやすいと思い傾いていました。
一方、朱滔は回紇軍を率いて、南下し東都を攻撃しようとして進発し、王武俊・田悅の参戦を求めていました。武俊は従わず、悅にも同調を求めました。

興元元年正月
德宗の大赦令が出て、李希烈、田悅、王武俊、李納を赦し、その地位を保証しました。希烈以外は奉詔し、形勢は大変動しました。

朱滔は大軍をもって武俊領域に入り、悅領域に進みました。まだ対応の出来ていない悅は供応につとめました。

朱滔が魏州永濟へ屯し、悅を招きましたが、悦は「將士が出征に同意しません」と断りました。

滔は怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を落とさせました。又回紇に寇掠させました。
悅は籠城しています。

滔は貝州を囲み、軍・回紇兵に諸縣を大掠させ、貝州武城を落とし、自領の德、棣二州に通じさせました。馬寔は魏州に迫ります。

復官した田悅は檢校右僕射となりました。

興元元年2月
王武俊は使相となり、幽州節度使を兼任し朱滔を伐つことを命ぜられました。

魏博軍は大敗が続き、士卒の七割を失い、軍内は非戦を望んでいました。給事中孔巢父が魏博宣慰使として来て雄弁に逆順禍福を説き、安心した悅及將士は警備をゆるめていました。

田緒は承嗣の子だが粗暴で悅から譴責されることが多かった。
緒は姪と争い殺害し、悦に処罰されることを懼れ、その党とともに悅やその母、妻等十餘人を殺害し、さらに判官許士則、都虞候蔣濟も殺害した。そして將士に恩賞を与えてごまかし自立しました。

朱滔は悦の死を知り喜んで、緒に同盟を呼びかけました。緒は諸将と協議しましたが、反乱継続を望むものはおらず、唐朝に歸附することに決しました。

その後、朱滔は王武俊・李抱眞に經城で大敗しも幽州に逃げ帰り、大乱は収まりました。
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