唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣歙観察使 その1

2012-12-29 14:48:48 | Weblog
・浙江西道の一部であった宣州に乾元元年[758年]宣歙饒観察使が置かれた。浙西・浙東節度と同じく安史の乱の
波及を防ぐ江南の治安対策であったが、翌年浙西に吸収されたようであるが不明。
・上元元年[760年]文官達の失策により平盧の驍将劉展をだまして淮南・江南に呼び込み、反乱をおこさ
せ、しかも鎮圧できなかったたために淮南・浙西は陥落し、宣州鄭之もまた逃走した。
・展の反乱により上元2年浙西節度は治所を宣州に逃避した。
・大暦元年[766年]浙西節度は蘇州へ戻り、宣州には宣歙池都団練守捉観察使が置かれた。
・観察使として赴任した陳少遊は宦官勢力と結託した官僚であり、淮南・両浙とともに唐朝の財源地として収奪
する地域であり、以降も財務官僚を中心とした文官の赴任地となった。

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秦成天雄軍経略使 その2

2012-12-28 15:27:39 | Weblog
・天雄は最前線の辺境軍であるため、優秀な武官が任用され唐末の動乱に活躍した。南詔を安南で大破し、
黄巣の乱鎮圧に期待された高駢、龐の乱に活躍した馬擧、鎭海節度となった周寶などが輩出している。
・天雄自体は弱小方鎭であり、やがて鳳翔節度(李茂貞)の勢力下に入り、その麾下である李茂荘・繼徽
などが次々と配置された。なぜか天雄軍の軍號は魏博節度に転用されることになった。
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秦成天雄軍経略使 その1

2012-12-07 08:50:38 | Weblog
・秦州は隴右節度に属し、安史の乱後は長らく吐蕃に没していたが、吐蕃が潰乱したため
大中3年[年]鳳翔李玭が収復し鳳翔の所管とした。
・しかしすっかり荒廃し異民族が放牧する地域であり、混乱する吐蕃情勢に対応するため
大中6年薛逵を秦成経略天雄軍使として屯田し防禦にあたらせた。
・その後光弼の孫李承勳/承が経略使を嗣ぎ、吐蕃酉長尚延心が河渭二州をもって来降した。
承勳はこれを謀殺して私利を得ようとしたが諸將に反対され原に転じた。
・その後高駢(崇文孫)が嗣ぎ、咸通4年[年]王晏實(智興子)が天雄軍觀察使となり鳳翔
より独立した。
・咸通7年吐蕃の叛将拓抜懷光が来寇したが延心はこれを撃滅し、吐蕃は完全に潰乱し姿を消した。
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陳許忠武軍節度使 その4

2012-12-06 16:47:05 | Weblog
・危機に瀕した陳州趙犨は救援を求め忠武周岌、武寧時溥、宣武朱全忠が来援したが勝てず、
中和4年[884年]沙陀李克用が河東より南下して巢を大破した。
・11月鹿晏弘はその狭量と宦官田令孜の策動により王建・韓建等配下が離脱したため山西を棄て、
山南劉巨容を逐い、12月故郷の許州に戻り周岌を逐って自立し節度使と称した。
・光啓元年[885年]巢の残党を引き継いだ秦宗權は河南南部を制覇し、陳州犨は宣武朱全忠にたよった。
・光啓2年7月宗權は許州を陥し、晏弘を敗死させた。
・龍紀元年[889年]全忠は宗權を執えて誅し、犨を忠武軍節度使とした。治所は陳州に移った。
・犨はすぐ卒し、弟の昶が嗣ぎ、乾寧2年[895年]さらに弟の珝が嗣いだ。
・天復元年[901年]全忠に同華節度使韓建が降伏し、忠武に移され、珝は同州節度使となった。
この時治所は許州に戻った。
・その後は全忠の勢力圏として後梁に引き継がれた。

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