・貞元15年[799年]4月観察使韋士宗は苛酷であったため、將傅近に逐われたが、5月兵を集めて復帰した。
しかし依然として苛政を改めなかったため17年3月放逐され裴佶に代わった。
・元和6年[811年]水害により黔州城が崩れたため、観察使竇羣は洞蠻に修築させたが反乱を招き解任された。
・蠻族が居住する貧困地域であるが、代々の観察使は特産品による利得を追い求め、牙軍は弱体という状態
であるが、直接の外寇がないためそれなりに安定していた。
・ところが咸通14年[873年]南詔が劍南を超えて侵攻すると備えのない観察使秦謀はたちまち城を棄てて
荊南へ奔った。
・文徳元年[888年]秦宗權に荊南を逐われた武将王建肇は黔州を取り、唐朝は武泰軍節度を置き任命した。
・乾寧3年[896年]荊南成汭が勢力を伸ばし。建肇は敗走して王建に頼った。
・天復3年[903年]西川王建は汭が敗死した後をねらい王宗本を派遣して黔中を取った。宗本は高温多湿な
黔州を嫌い治所を涪州に移した。
しかし依然として苛政を改めなかったため17年3月放逐され裴佶に代わった。
・元和6年[811年]水害により黔州城が崩れたため、観察使竇羣は洞蠻に修築させたが反乱を招き解任された。
・蠻族が居住する貧困地域であるが、代々の観察使は特産品による利得を追い求め、牙軍は弱体という状態
であるが、直接の外寇がないためそれなりに安定していた。
・ところが咸通14年[873年]南詔が劍南を超えて侵攻すると備えのない観察使秦謀はたちまち城を棄てて
荊南へ奔った。
・文徳元年[888年]秦宗權に荊南を逐われた武将王建肇は黔州を取り、唐朝は武泰軍節度を置き任命した。
・乾寧3年[896年]荊南成汭が勢力を伸ばし。建肇は敗走して王建に頼った。
・天復3年[903年]西川王建は汭が敗死した後をねらい王宗本を派遣して黔中を取った。宗本は高温多湿な
黔州を嫌い治所を涪州に移した。