唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

黔中経略観察使 武泰軍節度使 その2

2012-10-29 09:01:30 | Weblog
・貞元15年[799年]4月観察使韋士宗は苛酷であったため、將傅近に逐われたが、5月兵を集めて復帰した。
しかし依然として苛政を改めなかったため17年3月放逐され裴佶に代わった。
・元和6年[811年]水害により黔州城が崩れたため、観察使竇羣は洞蠻に修築させたが反乱を招き解任された。
・蠻族が居住する貧困地域であるが、代々の観察使は特産品による利得を追い求め、牙軍は弱体という状態
であるが、直接の外寇がないためそれなりに安定していた。
・ところが咸通14年[873年]南詔が劍南を超えて侵攻すると備えのない観察使秦謀はたちまち城を棄てて
荊南へ奔った。
・文徳元年[888年]秦宗權に荊南を逐われた武将王建肇は黔州を取り、唐朝は武泰軍節度を置き任命した。
・乾寧3年[896年]荊南成汭が勢力を伸ばし。建肇は敗走して王建に頼った。
・天復3年[903年]西川王建は汭が敗死した後をねらい王宗本を派遣して黔中を取った。宗本は高温多湿な
黔州を嫌い治所を涪州に移した。
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黔中経略観察使 その1

2012-10-16 21:57:31 | Weblog
・黔中は溪獠・南蠻が盤踞する地域であり、開元26年[738年]黔州に五溪諸州経略使が置かれていた、
安史の乱に際して天寶14年[755年]守捉が増領され、蛮族出身の都督趙國珍が兵を動員し淮西魯の
指揮下に活躍した。至徳元年[756年]黔中節度使が置かれ、國珍は功績により寶應元年[762年]に
異例の工部尚書へ栄転した。
・節度使は國珍の転出とともに廃止されたようで、経略観察使[領黔夷費思辰叙播南溱珍錦奨溪涪十四州]
として薛舒が後任となり、大暦10年[775年]まで14年間在任した。
・途中大暦4年[769年]に辰州に辰溪巫錦業五州都団練守捉觀察處置使[観察使李昌巙]が別置された。
これは隣道の湖南観察や桂管観察が動揺している治安対策と言える。大暦12年[777年]には辰錦は廃止され、
領州は黔中に戻った。
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武昌軍節度使 その3

2012-10-15 14:48:09 | Weblog
・中和4年[884年]流賊に荒略される中、観察使崔紹が卒し、杭州刺史を武将董昌に逐われた
路審中は募兵し鄂州を乗っ取った。
・光啓2年[886年]審中もまた流賊の攻撃を受けて敗走し、牙將杜洪は岳州を取って自立して
いたが後に入り武昌軍節度使を称した。
・ところが留守の岳州は賊進思に乗っ取られるなどその支配権は弱体であった。
・洪の統治は長く続くが、周辺地域への侵攻をこころざすわけでもなく、管轄諸州の直轄下を
めざすわけでもない消極的なものであり、乾寧4年[897年]より淮南楊行密の侵攻を受け続けた。
・洪は朱全忠に附き延命を図ったが、天祐2年[905年]正月鄂州は陥落し殺された。鄂州は淮南
の支配下に入った。
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鄂岳都団練観察使 武昌軍節度使 その2

2012-10-08 21:20:09 | Weblog
・元和5年[810年]節度使韓皐が去り、郗士美が都団練観察使として赴任した。士美は安州に拠る伊宥を母親
の喪を理由として送還し回収することに成功した。
・その後文官観察使が続いたが、寶暦元年[825年]宰相牛僧孺は敬宗皇帝の無能に辟易し、外鎭に出ることを
求めた。帝の寵遇は得ていた僧孺であるので、鄂岳観察使を武昌軍節度使として昇格させ赴任させてもらった。
・僧孺は沔州を廃止するなど行政の簡素化に取り組んだ。節度使は僧孺が大和4年[830年]に宰相に復帰し、
次の元稹まで続いたが、大和5年崔郾から観察使にもどった。
・その後大中元年[847年]宰相盧商とともに節度使に戻り、2年に観察使、4年に節度使、6年に観察使と頻繁
に制度変更されたが、これは赴任者の格式によるもので、必要性があったわけではない。
・乾符年間[874~880年]は弱小な兵力しか持たない鄂岳地域は王仙芝・黄巣の荒略するところとなった。
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