吐蕃=太宗時は唐に従っていましたが、高宗・則天時には隴右や西域に侵攻してきました。玄宗時には唐が押し気味でしたが、安史の乱に乗じて隴右を奪い、一時は代宗を京師から逐って占領することもありました。その後も關内に侵攻し唐の悩みの基[防秋]でした。劍南[四川]地方では崔寧・韋皐などが雲南蠻と連合して対抗し、やがて吐蕃は内寇により弱体化しましたが、西域もすっかり奪われてしまいました。
雲南蠻・南詔=唐、ついで吐蕃の下位についていましたが、勢力を増すと唐と連合して吐蕃を攻撃します。唐末には安南など嶺南地域や劍南に侵攻して唐の悩みの基になりました。
新羅=百済・高句麗制圧には唐に従い、その滅亡後は大半を自領にしてしまいます。そのため一時は唐に攻撃されますが、表面上は謝罪し、実利はしっかり得ています。太子や王子を長安に常駐させるなど唐の配下国としては高い地位を占めています。
渤海=一時対立しますが、大半の期間は配下国として友好関係にあり、郡王→国王に封ぜられ、やがて河北三鎮が間にできたために希薄な関係になります。
日本・倭=百済征討時には対立しますが、やがて唐に歸順します。唐からいえば群小のどうでもよい国の一つです。ただ文化程度は少し高いと思われていたようです[使節の評価から]。
ですから、唐が「新羅」より「日本・倭」を下位に置くのは当然であって、もちろん「吐蕃」より下、また唐軍を西域で破っていた「大食」より下です。回紇などは唐の兄弟分ですからはるか上です。古麻呂が抗議しても儀典にうるさい唐の官僚からいえば「無知な蛮夷がなにをほざく」程度の扱いでしょう。馬鹿にされた古麻呂が帰国して「妄言」を吐いたというのが実情でしょうね。
新羅が日本に朝貢[実際は日本の妄想に近いですが]していたのは、唐と一時関係が悪化したため、挟撃されるのを懼れて、日本のご機嫌取りをしたという所でしょう。唐と改善した後は頭を下げる必要はないわけです。
雲南蠻・南詔=唐、ついで吐蕃の下位についていましたが、勢力を増すと唐と連合して吐蕃を攻撃します。唐末には安南など嶺南地域や劍南に侵攻して唐の悩みの基になりました。
新羅=百済・高句麗制圧には唐に従い、その滅亡後は大半を自領にしてしまいます。そのため一時は唐に攻撃されますが、表面上は謝罪し、実利はしっかり得ています。太子や王子を長安に常駐させるなど唐の配下国としては高い地位を占めています。
渤海=一時対立しますが、大半の期間は配下国として友好関係にあり、郡王→国王に封ぜられ、やがて河北三鎮が間にできたために希薄な関係になります。
日本・倭=百済征討時には対立しますが、やがて唐に歸順します。唐からいえば群小のどうでもよい国の一つです。ただ文化程度は少し高いと思われていたようです[使節の評価から]。
ですから、唐が「新羅」より「日本・倭」を下位に置くのは当然であって、もちろん「吐蕃」より下、また唐軍を西域で破っていた「大食」より下です。回紇などは唐の兄弟分ですからはるか上です。古麻呂が抗議しても儀典にうるさい唐の官僚からいえば「無知な蛮夷がなにをほざく」程度の扱いでしょう。馬鹿にされた古麻呂が帰国して「妄言」を吐いたというのが実情でしょうね。
新羅が日本に朝貢[実際は日本の妄想に近いですが]していたのは、唐と一時関係が悪化したため、挟撃されるのを懼れて、日本のご機嫌取りをしたという所でしょう。唐と改善した後は頭を下げる必要はないわけです。