・貞元二年[786年]劉玄佐は浙江韓滉の勧めにより入朝し、唐朝で主要な地位に就くことを志したが、
滉の死によりあきらめ歸鎭した。
・貞元八年[792年]玄佐が卒すると、唐朝は陝虢呉湊を送り込もうとしたが、
玄佐の子士寧が擁立されたため断念した。
・貞元九年[793年]士寧の失政のため、將李萬榮がこれを逐い自立した。
・貞元十二年[796年]萬榮もまた卒し、子迺が自立しようとしたが、將惟恭達は不満であり、
唐朝はそれに乗じて東都留守董晉を送り込むことに成功した。
・晉は巧みに將士を慰撫していたが、行軍司馬陸長源は功をあせり、統制を強化しようとしていた。
貞元十五年[799年]2月晉が卒し、長源が後任となると牙軍により殺された。
・唐朝は牙軍の黒幕である宋州刺史劉逸準[賜名されて全諒]に乱を収めさせ節度使としたが、
全諒は淮西と連携し自立を図った。
・ところが8月全諒は卒し、牙軍は玄佐の甥韓弘を擁立することにした。
弘は全諒より唐朝側であり、節度使として承認された。
滉の死によりあきらめ歸鎭した。
・貞元八年[792年]玄佐が卒すると、唐朝は陝虢呉湊を送り込もうとしたが、
玄佐の子士寧が擁立されたため断念した。
・貞元九年[793年]士寧の失政のため、將李萬榮がこれを逐い自立した。
・貞元十二年[796年]萬榮もまた卒し、子迺が自立しようとしたが、將惟恭達は不満であり、
唐朝はそれに乗じて東都留守董晉を送り込むことに成功した。
・晉は巧みに將士を慰撫していたが、行軍司馬陸長源は功をあせり、統制を強化しようとしていた。
貞元十五年[799年]2月晉が卒し、長源が後任となると牙軍により殺された。
・唐朝は牙軍の黒幕である宋州刺史劉逸準[賜名されて全諒]に乱を収めさせ節度使としたが、
全諒は淮西と連携し自立を図った。
・ところが8月全諒は卒し、牙軍は玄佐の甥韓弘を擁立することにした。
弘は全諒より唐朝側であり、節度使として承認された。