唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣武軍節度使 河南節度使その4

2012-03-31 10:37:39 | Weblog
・貞元二年[786年]劉玄佐は浙江韓滉の勧めにより入朝し、唐朝で主要な地位に就くことを志したが、
滉の死によりあきらめ歸鎭した。
・貞元八年[792年]玄佐が卒すると、唐朝は陝虢呉湊を送り込もうとしたが、
玄佐の子士寧が擁立されたため断念した。
・貞元九年[793年]士寧の失政のため、將李萬榮がこれを逐い自立した。
・貞元十二年[796年]萬榮もまた卒し、子迺が自立しようとしたが、將惟恭達は不満であり、
唐朝はそれに乗じて東都留守董晉を送り込むことに成功した。
・晉は巧みに將士を慰撫していたが、行軍司馬陸長源は功をあせり、統制を強化しようとしていた。
貞元十五年[799年]2月晉が卒し、長源が後任となると牙軍により殺された。
・唐朝は牙軍の黒幕である宋州刺史劉逸準[賜名されて全諒]に乱を収めさせ節度使としたが、
全諒は淮西と連携し自立を図った。
・ところが8月全諒は卒し、牙軍は玄佐の甥韓弘を擁立することにした。
弘は全諒より唐朝側であり、節度使として承認された。
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河南節度使 宣武軍節度使その3

2012-03-30 10:24:19 | Weblog
・淮西李忠臣は勇将であるが,好色であり部下の妻女を犯すという悪癖があり、また軍政も妹婿の
張惠光に委任せた。そのため將士には不満が高まり。大暦14年[779年]族子の希烈が決起して忠臣
を逐った。唐朝は忠臣の功績を評価して宰相として遇し、希烈を淮西節度使とした。
・漕運の要地であり富裕な汴州は忠臣の功績に対する恩賞であったので、淮西節度使は蔡州に戻されて、
永平李勉が汴州に移治してきた。当然淮西藩鎭には強い不満が生じた。
・建中4年[783年]淮西李希烈が叛すると、その攻撃対象は河南の汴滑陳許州や東都であり、
文官の李勉では対処できず、汴・滑・鄭州などは希烈の支配下となった。
・唐朝は淄青李納に対抗するため、建中二年[781年]正月宋州に宋亳潁節度使を置き劉洽[賜名されて
玄佐]を任じ、二月に「宣武軍」と賜號した。玄佐は納と対等に戦い、希烈の圧迫に耐えていた。
・興元元年[784年]11月玄佐は陳州で希烈を大破し、希烈に降っていた滑州李澄[旧永平將]が復帰する
とともに攻勢に出て、汴州を回復した。
・貞元元年[785年]6月宣武軍節度使劉玄佐は汴州を与えられ、移治して汴宋亳潁四州を領する有力な藩鎭となった。
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河南節度使 宣武軍節度使その2

2012-03-29 10:24:49 | Weblog
・寶應元年[762年]父史思明を殺した朝義の勢力は縮退し、その將張獻誠は汴州をもって降り、
河南地域は回復されていった。
・河南節度使が汴州に復置され汴宋曹徐穎兗鄆濮八州を管轄するようになり、
降將の獻誠が節度使となった。
・しかし重要地域である河南道を降將に任せることは危険であり、獻誠もまた強硬な賊黨では
なかったため、廣二年[764年]山西節度使に移し、平盧軍あがりの武将田神功を節度使とした。
・隣鎭の永平令狐彰[降將だが従順]・淄青侯希逸[同じ平盧軍出身]などとともに連携し神功
が大暦9年[774年]に卒するまで、河南は安定していった。9年より11年までは弟神玉が後任とな
ったが、魏博田承嗣の反乱の影響が徐々に及んできていた。
・大暦11年[776年]神玉が卒すると、將李靈耀が承嗣の支援を受けて自立しようとした。
唐朝は淮西李忠臣・淄青李正己・永平李勉らに征討させた。
・反乱は内部分裂と、李忠臣の勇戦により鎮定されたが、徐鄆曹兗濮州は平盧の領州となり、
宋泗二州は永平に、汴州は忠臣に与えられ、河南節度使は廃止されて、
汴州は淮西節度使の本拠となった。

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河南節度使 宣武軍節度使 その1

2012-03-28 10:00:56 | Weblog
・天寶14年11月[755年]安禄山の南下に対して急遽陳留郡に河南節度使が設置された。
治所は汴州で.陳留睢陽靈昌淮陽汝陰譙濟陰濮陽淄川琅邪彭城臨淮東海の13郡を管轄する
巨大藩鎭であるが実態はなく、節度使に任ぜられた張介然は防戦の暇もなく、
禄山軍の強襲により12月に敗死した。
・天寶15年[756年]に入っても、1月には李隨、2月には嗣呉王祇、5月には嗣虢王巨、
10月には賀蘭進明と節度使が変わるが、管内諸郡は次々と陥落し、
孤立した諸城が抗戦するのみであった。
・至徳二年[757年]8月指揮の混乱を憂えた宰相張鎬はみずから河南節度使を兼任し
河南道回復に努めた。
・乾元元年[758年]、無能な肅宗皇帝は張鎬を更迭し、実態のなくなった河南節度使
は廃止され汴州都防禦使となった。
・乾元二年[759年]史思明の攻撃により再び東都や河南は陥落し、都防御使許叔翼は賊に降った。
・上元元年~二年[760~761年]副元帥李光弼が河南で史思明と戦っているが、
基本的に賊地であった。
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陝虢都団練観察使 保義軍節度使 その3

2012-03-19 13:40:37 | Weblog
・重盈は河中とともに京師回復に一定の働きはしたが小鎭のため限界のあるものであった。
・中和三年[883年]節度使に昇格した。
・光啓元年[885年]重盈は使相となった。この時期唐朝は使相を乱発しているので価値はない。
・光啓三年[887年]河中重榮が殺されると、重盈は急遽河中に移り継承した。陝虢は子の珙に嗣がせた。
・龍紀元年[889年]陝虢節度使は保義軍節度と號された。
・乾寧二年[895年]重盈が河中で卒し、後を養子の珂が嗣ぐと、実子の珙達は不満で、鳳翔李茂貞や
邠寧王行瑜、鎭国韓建と組んで河中を攻撃しようとした。しかし珂には舅である河東李克用が附き大乱となった。
・乾寧4年[897年]・光化元年[898年]の攻撃はいずれも敗退し、光化2年[899年]6月には珙は横暴を
怒った將李璠に殺され、さらに11月將朱簡により璠も殺された。簡は全忠の配下に入り、友謙と改名した。
・以降陝虢は全忠の支配下となった。
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陝虢節度使 陝虢都団練観察使 その2

2012-03-17 22:31:58 | Weblog
・貞元元年[785年]7月都知兵馬使達奚抱暉鴆は乱を起こし張勸を殺した。やっと李懷光の乱が鎮定でき、
淮南からの漕運が回復できるようになってきた状況での反乱に唐朝は動揺した。
・宗皇帝は信頼する謀臣李泌を都防禦觀察陸運使に任じて事態の収拾を図った。泌は巧みに軍乱を鎮め抱暉鴆を
河北に逃がして最小限の動揺で事態を抑えた。
・京師では兵士への給養もままならず。再び動乱が起きる可能性が有り。泌は京師への漕運の回復に努めた。
・貞元3年[787年]泌は宰相となった。
・その後陝虢は財政に明るい文官の赴任地となった。牙軍の動きもなくなり漕運中心の安定した方鎭となっていった。
・太和3年[829年]には都防禦観察使より陝州防禦使に格下げになったが、開成元年[836年]には復された。
・咸通10年[860年]民乱により觀察使崔蕘が逐われた。
・乾符4年[877年]軍乱により観察使崔碣が逐われた。(咸通10年との記事混乱が見られる)
・廣明元年[880年]黃巢の侵攻により陝虢も一時崩壊し、中和元年[881年]に復し汾州刺史王重盈(河中重榮の兄)が赴任した。

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陝虢節度使 陝虢都団練観察使 その1

2012-03-16 22:11:41 | Weblog
・陝西節度使・防禦観察使・都防禦観察陸運使・都防禦使など多様な形態を持つ。京師と東都の中間に有り、
江南からの漕運が黄河を遡及し、陸運での運搬に転換する位置にある。また関東よりの防禦地点にもある重要
な方鎭であるが、地味は痩せて豊かな税収は望めない地域である。
・乾元元年[758年]陝虢華節度使が置かれ、二年三月河西節度使の來瑱が任じられた。相州での唐軍の大敗を受け、
京師防衛の為に配置された。
・上元元年[760年]瑱は山東へ移り、節度使は防禦観察使となって右羽林大將軍郭英乂が後任となり、
神策節度使衛伯玉と共に史思明軍の攻撃を防いだ。
・寶應元年[762年]東都の回復とともに、英乂は權知東京留守となり、廣徳元年には右僕射として転任した。
宦官魚朝恩はここに麾下の神策軍を置き、配下の皇甫温を節度使とした。
・大暦五年[440年]温は代宗皇帝が朝恩を嫌うのを察知し、宰相元載と結び朝恩を失脚させ保身を図ることに成功した。
・大暦九年[774年]温は浙東へ移動し、李國が任じられたが10年[775年]軍乱により逐われた。
陝虢の牙軍は小鎭ではあるがその位置の重要性と神策軍の伝統により強力であった。
・大暦14年[779年]防禦観察使は廃止されたが、建中二年[781年]には防禦使として復活し文官が赴任したが、
4年[783年]宗が奉天に逃れると武将張勸が節度使となった。

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昭義軍節度使 澤潞磁節度使 その8

2012-03-15 22:23:57 | Weblog
邢*磁の*という字がでないようですね、さんずい+名(めい)なんですが。
・澤潞系昭義節度使は克用弟の克修によりうまく統治されていたが、大順元年[890年]
3月酒乱の傾向がある克用は潞州を来訪しその接遇に怒り克修をむち打った。そのため克修は憤死した。
・克用は弟克恭を後任としたが無能であり、將士は不満を抱いていた。
・5月朱全忠に唆された唐朝は宰相張濬を都招討使として克用討伐を始めた。その最初の目標は潞州であった。
・同じく5月將安居受は克恭を殺し、全忠に附いた。7月全忠は將葛從周を潞州に入れた。
・しかし克用の攻撃を守り切れず從周は撤退し、9月克用將康君立が入った。
・乾寧元年[894年]酒乱の克用は太原にやってきた康君立を些細なことから殺し、薛志勤を留後とした。
・光化元年[898年]薛志勤が死ぬと、不満を募らせていた澤州李罕之が潞州を奪い全忠に附いた。
・罕之は病んでいたので、光化2年[899年]河陽丁會と交替させられたが途次に死んだ。
會は克用の攻撃に耐えられず潞州を棄てた。
・克用は汾州刺史孟遷(邢州で克用に降った)を留後とした。
・ところが天復元年[901年]遷もまた叛し、全忠に附いた。遷は河陽に移され(反覆を憎まれすぐ殺された)、
丁會が再び入った。
・閏6月両昭義節度使が丁會のもとに合一された。
・天祐3年[906年]全忠の北伐の背面を襲い、克用は潞州を攻撃した。丁會はなぜか抗戦せず克用に降った。
名目は全忠が昭宗を弑したことであるが、実質は不明である。
・克用は李嗣昭を留後とし、その後後梁の世となっても潞州の攻防は続いていく。

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昭義軍節度使 邢洺磁節度使 その7

2012-03-12 10:43:40 | Weblog
・昭義軍節度使は澤潞と邢洺磁に分立したため、まず邢洺磁の流れを記述する。
・李克用は昭義を統合しようとして光啓2年[886年]邢州を攻め数県を陥したがならず、
安金俊を領邢州刺史として戻った。
・龍紀元年[889年]再び克用は邢州を攻めた。方立は朱全忠の援軍を得たが、魏博羅弘信は支援せず。
洺磁州は失われた。5月絶望した方立は自殺し、弟遷が嗣いだ。
8月[大順元年[890年]二月説あり]遷はついに克用に降った。
・克用は2月將安金俊を邢洺團練使[安知建説あり。2月に金俊が雲州で戦死しているという記述が
あるのでそれを嗣いだのか]となった。
・ところが大順元年[890年]6月安知建は邢洺滋三州をもって叛し、朱全忠についた。
・大順2年[891年]克用はこれを攻めて逐い、李存孝を後任とした。しかし景福元年存孝もまた諸将
との不和から叛し全忠に附いた。
・乾寧元年[894年]克用は邢州を陥し存孝を殺し、將馬師素を邢洺節度使とした。
・光化元年[898年]全忠は邢洺磁を陥し將葛従周を入れた。克用は反撃したが回復できなかった。
・光化3年[900年]克用は危機に瀕した幽州劉仁恭支援のため邢州を攻めた。
・天復元年[901年]孟遷が潞州を以って全忠に降ったため、両昭義軍が全忠麾下となり形式上は合一
したことになったが、実質は分立したままであった。邢州は張歸覇が団練使として統治した。
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澤潞節度使 昭義軍節度使 その6

2012-03-11 11:03:19 | Weblog
・平定の後は盧鈞が招撫し、徐々に驕兵を鎮静化させていった。
・その後は中級の文官・武官の赴任地となり大中・咸通年間は特段の大事件は発生しなかった。
・咸通4年[863年]節度使沈詢が妾と密通した奴隷に殺されるという事件があった。
・乾符年間に入ると天下の情勢は不穏となり、2年[875年]將劉廣が節度使高を逐って
自立しようとしたがならなかった(この記事は中和元年の軍乱と混同している疑いがある。
乾符年間の正史の記述は信用度が低い)。
・4年[877年]節度使曹翔は反乱した沙陀李國昌・克用等を伐つため軍を率いて河東節度
使に移ったが急死した。
・後任の李鈞は5年[878年]洪谷で沙陀と戦い敗死した。
・中和元年[881年]高潯は黃巢軍と戦い敗走し、將成麟(別に劉廣と記載あり)により殺
された。潯は潞州に入り自立しようとしたが、將孟方立に殺された。方立は自立し唐朝から派
遣された元宰相王徽は入ることが出来なかった。
・中和2年[882年]方立は邢州に移治した。潞州の兵民はこれに不満で河東李克用に働きか
け、中和3年[883年]その弟克修を擁立した。
これにより昭義軍は澤潞と邢洺磁に分立することになった。
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澤潞節度使 昭義軍節度使 その5

2012-03-10 10:27:36 | Weblog
・會昌3年[843年]従諫が亡くなると、甥の稹が継承を求め自立した、しかし強硬派の宰相李裕は
それを認めず。通常は収賄により軟弱路線をとる宦官勢力も従諫に対する反感からこれを支持して
討伐することになった。
・まず裕は昭義を孤立させるため、成徳や魏博に対してその半独立の特殊性を認め、昭義は唐朝の
領域にあることを認めさせた。そして成徳や魏博にも征討に参加することを求めた。
・武寧李彥佐・河東劉沔・忠武王宰(智興子)・河陽王茂元(鍔子)が招討使となったがいつもの
ように逗留し成果はあがらなかった。
・しかし王智興に追放された旧武寧将の石雄を招討使に起用すると、攻撃は進展し、東部邢洺磁州は
魏博・成徳に降り、昭義は窮地に陥った。
・會昌4年[844年]形成不利とみた昭義兵馬使郭誼は稹を殺して降ったが、裕は赦さず誅した。
・甘露の変より避難していた元宰相達の一族もすべて誅された。
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澤潞節度使 昭義軍節度使 その4

2012-03-09 10:23:59 | Weblog
・元和6年[811年]郗士美が嗣ぎ成徳王承宗征討にあたるがはかばかしい戦果はなかった。
・元和15年[820年]淮西の功労者武寧節度使李愬が転任してきたが、すぐ田弘正のあとの
魏博へうつった。そして淄青李師道を裏切った劉悟がその功績により入った。
・悟は最初は恭順であったが、長慶元年[821年]河北三鎭が再び叛し、専横な監軍劉承偕を
囚えた頃より自立を図るようになったが宝暦元年[825年]卒した。
・悟の子従諫は事なかれ主義の宰相李逢吉や、宦官王守澄に贈賄することで継承を認めても
らった。彼は学問好きな文治主義者であった。
・従諫は成徳王廷湊や横海李同捷の乱に対しては唐朝側に立っていた。
・従諫は太和6年[832年]入朝し宦官の専横や宰相間の党争に呆れ果て自立を強めることになった。
・太和9年[835年]甘露の変後、宰相達を殺した宦官の勢力が極大になるのをみた従諫は宰相王涯
等の罪名を正式に問うた。過剰な殺戮をした宦官仇士良達は懼れ、李石や鄭覃などの宰相達に遠慮するようになった。
・従諫は甘露の変の関係者をかばって一族を潞州に住まわせた。宦官達はそれを憎んだがなすすべはなかった。
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澤潞節度使 昭義軍節度使 その3

2012-03-08 10:01:22 | Weblog
・建中2年[781年]抱眞は河東馬燧とともに魏博田悦を臨洺で破った。その後幽州朱滔や成徳王武俊
らが次々と反して形勢が不利となっても一貫して馬燧とともに唐朝側にあった。
・興元元年[784年]抱眞は功により使相となった。5月王武俊とともに經城で朱滔を大破して敗走さ
せ河北の乱を収めた。
・貞元10年[794年]抱眞は卒し、その子緘は自立を図ったがならず、步軍都虞候王延貴[賜名され
虔休]が後任となった。しかし行軍司馬元誼は納まらず洺州をもって自立した。
・貞元12年[796年]形勢不利となった元誼は兵を引き連れて魏博に奔った。
・貞元20年[804年]李元淳(虔休の次)が卒すると兵馬使盧從史が嗣いだ。
・従史は成徳王士眞や盧龍と通じ自立を図っていたが、唐朝に対しては河北を図る策を献ずるなど
両端を持していた。
・元和4年[809年]成徳王承宗を伐つため、招討使吐突承璀(宦官)が派されてくると表面上は協力し、
陰では内通していた。当然討伐は効果があがらなかった。5年承璀は兵馬使鳥重胤の協力を得て従史を
捕らえて京師に送った。後任には河陽節度使孟元陽が就任した。
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澤潞節度使 相衛節度使 昭義軍節度使 その2

2012-03-07 10:31:28 | Weblog
・大暦8年[773年]薛嵩が卒すると、子平は世襲を嫌い京師に逃れた。叔父崿が継承した。
しかしその統治は不安定で有り、巨大な軍備による財政難に苦しむ隣鎭魏博田承嗣は旧知の
將達に働きかけ相衛の併呑を図った。
・大暦10年[775年]兵馬使裴志清は崿を逐い承嗣軍を誘い込んだ。唐朝はこれを認めず、
華州刺史李承昭を送り込んだが領州は次々と奪われた。
・承嗣征討により邢磁二州だけが唐朝側に残り、相衛洺貝四州は魏博領となった。大暦11年
[776年]承昭は疾を称して辞し、澤潞留後の抱眞が磁邢二州留後を兼任することになった。
・大暦12年[777年]抱玉が卒し、抱眞が懷澤潞邢磁を継承し、14年[779年]節度使となった。
・昭義軍は魏博や成徳と対面する大行山脈の東邢洺磁州と、西の河東と東都を結ぶ懷澤路州
を支配し、抱眞が弓兵を中心とする兵備を強化したこともあり唐朝が河北三鎭を抑える
重要な藩鎭となった。
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澤潞節度使 相衛節度使 昭義軍節度使 その1

2012-03-06 18:46:11 | Weblog
インフルエンザにかかってしまったため、更新する気力がありませんでした。

・昭義軍節度使は複雑な経過を経て形成され、複雑な末路を経た方鎭である。
・南下する安禄山軍に対して天寶15年[756年]潞州に上黨/潞沁節度使が置かれ程千里が節度使
となり防御態勢がひかれた。
・至徳二年[757年]九月千里は包囲していた賊將蔡希の挑発に乗って捕らえられたが、
潞州自体は陥ちなかった。
・急遽關内節度使王思禮が兼任して防衛にあたった。
・乾元二年[759年]王思禮は河東節度使に転任し、元帥李光弼麾下の鄭陳節度使李抱玉が澤潞節度使
となったが状況は不明瞭であった。
・寶應元年[762年]李抱玉が本格的に入部し方鎭の形ができてきた。
・11月史朝義配下の鄴郡節度使薛嵩が相衛洺邢の四州を以て降伏してきた。廣徳元年[763年]
閏正月嵩は相衛邢洺貝磁六州節度使に任じられた。
・相衛節度使は幽州・魏博・成徳・永平と並び河北の半独立方鎭として存在し、澤潞は唐朝麾下に留まっている。
・廣徳二年[764年]抱玉は鳳翔節度使を兼任し対吐蕃防衛の前線に赴いた。澤潞の留守は從弟の抱真
が守ることになった。
・大暦元年[766年]相衛節度使は昭義軍の號を与えられた。
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