唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

(番外)河北三鎭 その4 河北再分離へ

2013-02-28 09:18:19 | Weblog
元和15年[820年]憲宗皇帝が宦官や皇太子周辺勢力により弑殺され、唐朝の積極政策は転換期に入った。無能な穆宗皇帝と、財政再建には熱心だが政略に欠ける官僚型宰相の姑息な手法により河北三鎭は再分離した。
1.成徳.独立性の強い成徳では節度使田弘正は魏博時代からの親兵三千を引き連れて赴任していたが、宰相はその経費を認めず、弘正はこれを戻すしかなかった。兵馬使王廷湊は長慶元年[年]弘正を殺し自立した。
2.幽州.帰服したばかりの幽州に赴任した老練な張弘靖ではあったが、周辺幕僚は河北の旧習には適合せず紛争を起こした。前使劉總が問題人物として京師に送った朱克融等を、宰相は登用の経費を嫌って送り返し、長慶元年[821年]克融等は乱し、弘靖を監禁し自立した。また幽州から分離された瀛莫観察使でも呼応した兵により、観察使盧士玫は監禁された。
3.魏博.成徳の乱を討伐すべき節度使李愬(淮西平定の名将)は重病であり、宰相は若年の田布(弘正の子)を赴任させたが、驕兵である魏博を統率する力量はなく、また宰相の不手際で軍糧が不足し、長慶二年[822年]討伐途中で軍が潰乱する状況になり、布は責任を感じて自殺し、兵の頭目である史憲誠が自立した。

河北三鎭の帰服は軍による征服ではなく、政略による威圧によるものであり、牙軍がそのまま温存されたままで節度使だけが代わるという中途半端なものであったため簡単に再分離したものである。大軍を送り牙軍を解体して中央軍に編入するべきであったが、そのような兵力を唐朝は持たず、力量のある征服者の派遣もできなかったため再統合自体が無理であったともいえる。
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(番外)河北三鎭 その3河北再統合へ

2013-02-27 11:03:53 | Weblog
宗皇帝の貞元年間の姑息な消極により蓄積された財力と鬱屈によるパワーは、短期の順宗を経て若い憲宗皇帝により積極策に転換していった。河北の諸鎭、特に成徳王承宗への数次の征討は失敗の連続であったが、義武や横海といった小藩は経済的な困難もあり唐朝への帰属を求める傾向があった。元和5年[810年]義武張茂昭は易定二州をもって帰国し、三鎭は唐朝勢力により分断されることになり、ついで元和7年魏博で田弘正が立ち、親唐朝体制を取ると、もともと幽州劉一族は消極的ながら親唐朝であったので成徳は孤立することになった。王承宗は淮西呉元濟や淄青李師道と連合して対抗したが、元和12年[817年]淮西が平定されると、13年徳棣二州を上納して帰服し、横海程權もまた滄景二州をあげて帰朝した。15年承宗が卒すると、弟承元は鎭冀深趙四州を返上し、魏博田弘正が成徳に移鎭、魏博には唐朝將李愬が入った。長慶元年[821年]には残る幽州劉總もまた帰朝し、元宰相張弘靖が赴任して河北全域が唐朝の管轄に戻った。
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(番外)河北三鎭 その2河北五鎭時代

2013-02-25 15:13:48 | Weblog
幽州朱・魏博田承嗣・成徳李寶臣に併せて淄青李正巳・淮西李希烈・山東梁崇義という藩鎭全盛期は、まず幽州朱が唐朝に接近し入朝し、大暦14年[779年]に承嗣が卒し、甥の悦が継承して一応恭順の姿勢を示すことにより崩れた。
大暦年間の蓄積により自信を取り戻した唐朝は徳宗皇帝の強硬方針により藩鎭抑圧の体制を示した。まず建中2年[781年]最弱の山東梁崇義が平定され、3年李寶臣没後の成徳李惟岳が誅された。
しかし戦後の処理のまずさから、恒冀王武俊・魏博田悦や淄青李納(正巳の後継)・幽州朱滔(の弟)や淮西李希烈が反して大乱となり、入京していた朱の反乱により京師より遁走する始末となった。
乱の慰撫(平定とは到底いえない)後は、幽州・成徳・魏博の三鎭に加えて、成徳より分離した義武軍[易定二州.張氏]・横海軍[滄州.程氏]の五鎭体制となった。多少の成果としては山東の回収と、淮西の縮小が見られるだけであった。
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(番外)河北三鎭 その1河北六鎭時代

2013-02-24 13:23:11 | Weblog
安禄山-慶緒-史思明-朝義と続いた安史の乱後に河北で半独立体制をひいた藩鎭を「河北三鎭」と呼ぶ。普通は幽州盧龍軍(李懷仙)・恒州成徳軍(李寶臣)・魏博天雄軍(田承嗣)であるが、副元帥僕固懷恩が河北を平定した時には「河北六鎭」が安史の残党であった。相衛昭義軍(薛嵩)・滑州永平軍(令狐彰)・汴州(張獻誠)であり、平盧軍系の諸鎭と併せて河北・河南を占有し唐朝の指令はほとんど届かない地域であった。ところが
1.汴州張獻誠(守珪の子)は領域の狭さに加え、唐朝の旧臣としての意識が強く、廣徳2年[764年]に領域を返上し、山西節度使に移り唐朝の完全な配下となった。
2.滑州令狐彰は半独立の体制は維持したが、貢納には応じ、吐蕃対策の派兵には協力していた。そして大暦8年[773年]の没後に、子孫には継承させず領域を唐朝に返上し、文官李勉に引き継がせた。
3.相衛薛嵩(相衛邢洺貝磁)は他の三鎭とともに半独立の体制を維持したが、大暦8年に卒し、子の平は継承を拒否し、弟崿が継承した。そのどさくさを魏博田承嗣につけ込まれ、10年將裴志が乱して崿を逐い承嗣についた。唐朝はこれを討伐したが結果として、相衛貝の三州は魏博に入り、邢洺磁の三州は澤潞昭義軍(李抱眞)の管轄として唐朝に回収された。
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使相とその會要記事 その8敬宗

2013-02-04 22:57:15 | Weblog
幼稚で粗暴な少年皇帝と無責任宰相(李逢吉や牛僧孺)という取り合わせで、昭義や横海などの諸鎭もあぶなくなってきました。
會要はあいかわらずずさんです。
○李光顏 忠武.横海.河東.
○劉悟 昭義
○烏重胤 天平.横海.
[記載漏れ]
牛僧孺(文官)武昌
裴度(文官)山西
王播(文官)淮南
杜元穎(文官)西川
李程(文官)河東

使相文官の赴任地は淮南・荊南・西川・河東・宣武・河中・山東・山西である。牛僧孺の武昌は特任(他にもう一人いるが)
であり、あとには鳳翔や鎭海も赴任地となっていった。
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使相とその會要記事 その7穆宗

2013-02-03 22:39:49 | Weblog
無能な皇帝と小心な宰相達により再び河北三鎭が失われる時代です。肅代宗や宗初期ほど危険な状況ではありませんが、
トップの資質は大きいですね。使相は文官が抜けている程度です。文官を排除してという方針でもないようで、宣宗以降
には大量に記載されます。しかも宰相データもいい加減なものです。
○劉總 盧龍.天平
○田宏正 魏博.成徳
○李光顏 邠寧.鳳翔.忠武.横海
○李愬 昭義.魏博
○劉悟 昭義.盧龍
[記載漏れ]
張弘(文官)宣武.盧龍
李夷簡(文官)淮南
韓弘 河中.忠武
段文昌(文官)西川
王播(文官)淮南
裴度(文官)河東.淮南.東都
杜元潁(文官)西川

使相が一時期中央に入り、短期間で使相に戻ることがある。その場合も中央の政治には関与しない。
韓弘や大和年間の李載義などの例が見られる
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