唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

使相とその會要記事 その6憲宗

2013-01-31 21:14:42 | Weblog
唐の再統一をほぼ成し遂げた憲宗。在位中に淮西・淄青・魏博・義武・横海を帰服させ、成徳や盧龍もまた従うが、宦官により殺害されたため完全統一を為しとけることができなかった。その過程において多くの使相が任命された。會要記事はここでも記載漏れが多い。
○劉濟 盧龍 継続
○李師古 平盧 継続
○張茂昭 義武-河中 継続
○吳少誠 淮西 継続
○王士真 成徳
○田季安 魏博
○高崇文 邠寧
○裴均  荊南
○王鍔 河東
○劉總 盧龍
○田宏正 魏博
[記載漏れ]
于頔 山東 継続 →入相
韓弘 宣武-河中-忠武
裴度(文官)彰義
李吉甫(文官)淮南
武元衡(文官)西川
杜鴻漸(文官)河中
袁滋(文官)西川
張弘(文官)宣武
李夷簡(文官)淮南

李吉甫(中書侍郎)武元衡(門下侍郎)裴度(門下侍郎)など中央の宰相職を保持したまま使相となる
例が多くなってきた。この時代と文宗開成期によくみられる。意味としては皇帝の信認が厚いというこ
とであろう。
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使相とその會要記事 その5順宗

2013-01-27 21:01:09 | Weblog
長い皇太子生活を送った順宗は、宗没時にすでに重病であった。革新の抱負はあり若手官僚
が王叔文に率いられて始動したが、半年ほどで子の憲宗が即位することとなった。
短期間の在位中の使相は
 劉滋  継続.劉濟の誤記
○韋皋 継続.西川
○李師古 継続.平盧
○張茂昭 義武
○吳少誠 淮西
と誤りは特にない
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使相とその會要記事 その4宗

2013-01-25 12:03:35 | Weblog
即位当初の建中年間に藩鎭抑圧に失敗し、京師を逐われて奉天で苦闘した経験から、その後貞元年間には姑息な慰撫策に転じて多数の使相を作った。會要記事はあいかわらず脱落が多い、特に河東副元帥馬燧や文官が抜けているのは解せない。
○郭子儀 副元帥 
○朱 鳳翔盧龍
○李寶臣 成徳
○李正己 平盧
○李忠臣 
○梁崇義 山東
○李希烈 淮西
○李懷光 副元帥 
○陳少遊(文官) 淮南
○李抱真 昭義
○張孝忠 義武
○王武俊 成徳
○劉元佑→玄佐 宣武
○渾瑊 河中
○李納 平盧
○嚴震 山西
○田緒 魏博
×劉滋 → 幽州劉濟の誤記
○韋皐(文官) 西川
○李師古 平盧
[補足]
馬燧(?) 河東
崔寧 京畿朔方
張延賞(文官) 西川
李勉(文官) 永平
張鎰(文官) 鳳翔
韓滉(文官) 鎭海
董晉(文官) 宣武
杜佑(文官) 淮南

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使相と唐會要記事 その3 代宗

2013-01-22 15:46:40 | Weblog
代宗時代は弱体な再編期間であり、内外有力藩鎭を慰撫する政策を取り,使相は多かった。誤記は少ない。
○郭子儀 継続
○李光弼 継続
○僕固懷恩 朔方副元帥
○李懷仙 検校侍中
○王縉 河南副元帥.河東.盧龍
○辛雲京
○杜鴻漸 山劒.河南副元帥
○裴冕  河南副元帥
○田承嗣
○朱
○李正己
○李寶臣
○李忠臣
○李抱玉
○來瑱
△崔圓  淮南節度として左/右僕射知省事
△馬璘  原節度として左僕射知省事
 もし僕射知省事を使相として認定するならば、汴宋節度田神功や侯希逸はどうなるのか?
×崔寧 平章事任命は次の宗時代
?薛嵩  平章事任命記録はないが、相衛節度として任命された可能性はある。
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使相と唐會要記事 その2 肅宗

2013-01-20 15:48:28 | Weblog
混乱した時期ではあるが、會要はあまりに雑な記録である
×裴冕 宰相ではあった
○郭子儀 朔方
○李光弼 河中・河東他
×崔渙 地方派遣はされたが節度使とはなっていない
△崔圓 すでに劍南節度は交替している 
○張鎬 河南
×王璵 宰相辞任後短期の淮南・浙東節度
×呂諲 宰相罷免後荊南節度
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使相と唐會要記事 その1

2013-01-19 19:01:07 | Weblog
使相のリストをしているのは「唐會要」の帝號であるが、極めて不正確なものである。
まず玄宗(會要では元宗)の使相として8名
×源乾曜 節度使をやったことがない 
○張説
○王
×張嘉貞 河東節度使であるが宰相は兼任していない
×王琚  節度使でも宰相でもない
○杜暹
○蕭嵩
○哥舒翰
そして
薛訥(開元2)
李林甫(開元26~天寶11)
牛仙客(開元26~28)
楊國忠(天寶11~15)
が抜けている。
ちなみに安禄山は左僕射になっているが、開元以降は僕射は宰相ではないので使相ではない。
微妙なところに 劍南節度使崔圓がある。劍南へ逃亡中の玄宗が任命した時には劍南を兼帯
していた。その後肅宗の元に行き宰相専任となったが厳密に言うと使相の範疇に入る。
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使相 はじめ

2013-01-18 19:54:28 | Weblog
使相とは節度使が宰相職(同中書門下平章事や侍中や中書令)を兼帯する場合であり。名誉職的なものであって実際に宰相の業務を行うわけではない。使相に任ぜられるのは有力藩鎭に付随する場合(幽州・魏博・成徳等)や有力武将に付随する場合(郭子儀・李懷光・李希烈等)、中央宰相職より転出する場合(淮南・西川・河中・山東等)が大半である。しかし中和年間以降の唐末には乱発されて藩鎭の大半が使相になった。
使相の歴史的経過をみると、玄宗の開元年間に張説や王など節度使+平章事がみられるが、この宰相職は実質的で一時的なものであり、宰相が辺境への征討・鎭撫にあたるという意味であった。大暦の王縉・元和の裴度・大中の白敏中などもこれに含まれる。
次ぎに開元~天寶年間の李林甫・牛仙客・楊國忠などの場合は宰相が節度使を遥領する場合で、現地には実権をもった留後職が置かれていた。
実質的な使相は天寶末の安史の乱の副元帥哥舒翰に始まり、郭子儀や李光弼など有力部将の厚遇策として活用されていく、郭子儀や李晟・馬燧・李忠臣など節度使を離れる場合もあるが、その場合も実質的な宰相業務にはつかず、顧問的な役割しか果たさない。
やがて文官にも拡大されることとなり、平章事→兼侍中→兼中書令とランクが高くなっていく。他に三公(司空・司徒・太尉)や三師(太傅・太保・太師)を兼帯する場合もあったが、河東王思禮の例を除いて事前に平章事に任ぜられていた。
観察使・節度使は付帯官として、侍御史・御史中丞(弱小方鎭)御史大夫(主要方鎭)などの憲官を兼ねる場合が多い。そしてその有力な場合は使相となり、御史大夫は付帯しない(少数の例外あり)。これは憲官としての権限の上級版として平章事に引き継がれていると考えられる。
以降、使相を整理していく。まず河北方鎭に見られる例より随時詳述していく。
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ゆう[巛+邑]州管内経略使 その1

2013-01-07 12:22:56 | Weblog
・邕州管内経略使が置かれたのは天寶14年[755年]である。領域十三州はすべて暑熱の蠻族の混在する地域であり、
経略治安対策に重点が置かれ、江南道や嶺南節度の領域を防禦する役割を果たしていた。
・史料は極めて乏しく、方鎭表でも貞元9年[793年]までの経略使は記載されていない。
・方鎭としての格式は低く常に反乱の警戒を要する地域で有り、利得が少なく劣悪な環境であるため下位の文武官の
赴任地であつた。
・元和11年[816年]西原蠻が蜂起し欽・横・巖等州を陥しなかなか鎮定できなかった。
・また大和年間[827-835年]にも黄洞蠻が蜂起し鎮圧が困難であった。正史では鎮定と記載されているが慰撫してい
るだけである。
・會昌[841-]以降記録が欠除し経略使が不明な場合が多い。
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宣歙観察使 寧國軍節度使 その2

2013-01-06 11:48:10 | Weblog
・大中12年[858年]都將康全泰の軍乱により観察使鄭薫が逐われた。これは江南道に連鎖して起こった軍乱の一環であり、
収奪に励む官僚と冷遇される軍人との紛争であるが、弱体な牙軍の反乱でありすぐ鎮定された。
・乾符年間[874-879年]に入ると流賊が管轄諸州を荒らし、荒廃した。
・中和2年[882年]元賊の和州刺史秦彦は観察使竇潏を逐い自立した。彥は光啓3年[887年]淮南高駢の後を占有し、趙鍠に譲った。
・龍紀元年[889年]盧州楊行密は宣州を陥し鍠を殺した。そして寧國軍節度の號を得た。景福元年[892年]行密は淮南を制圧して
移り、その將田頵が嗣いだ。
・頵は行密配下とは言え、積極的に自勢力拡大につとめ、勝手に浙西への侵略を行い、行密との軋轢が生じた。
・天復3年[903年]行密は頵を討ちこれを殺し、臺濛や子の楊渥を置いた。
・行密没後、渥のあと勇将王茂章が嗣いだが、やがて反し錢鏐のもとに走り、ついで朱全忠の將となった。
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