唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

同中書門下三品について

2013-10-28 09:36:49 | Weblog
唐朝の宰相は尚書・門下・中書の長官である尚書令・侍中・中書令であったが、尚書令は太宗が秦王時
についていたため、欠官とされることが多く、次官の左右僕射が宰相とされることが多かった。
そして太宗時には参知政事などが付帯された他官の任用も多く見られた。
高宗初期より同中書門下三品があらわれ、主に中書省・門下省の次官たる中書・門下侍郎や六部尚書な
どに付帯されて宰相任用が行われていった。
やがて則天武帝によって、官僚の大量粛清が行われ、下位の官人を登用するため、六部侍郎に同中書門下
平章事を付帯するなどに変化していった。
ところでこの同中書門下三品の「三品」であるが、官位としての「三品」というより、「三品官以上の」
という意味合いが強い。下記の例にあるようにしばしば上位本官にも付帯されているからである。
理解しかねるのは「侍中・中書令」など正任宰相に付帯されている場合が数例ある。これは誤記載か、
それとも誤任用なのかは不明である。
 [本官官位の記載なしは正三品]
------------------------------------------------ 
 年           事 項                        本官官位
貞觀23 九月乙卯,開府儀同三司參掌機密李勣為尚書左僕射、同中書門下三品。 従二品
永徽2 正月乙巳,黃門侍郎宇文節同中書門下三品。 
永徽2 正月乙巳,中書侍郎柳奭同中書門下三品。 
永徽2 八月己巳,侍中張行成為尚書右僕射、同中書門下三品             従二品
永徽2 八月己巳,侍中于志寧為尚書左僕射、同中書門下三品。             従二品
永徽3 正月己巳,同州刺史褚遂良為吏部尚書、同中書門下三品。 
永徽3 三月辛巳,兵部侍郎韓瑗守黃門侍郎、同中書門下三品。 
永徽3 九月,守中書侍郎來濟同中書門下三品。
永徽4 九月甲戌,吏部尚書三品褚遂良為尚書左僕射、同中書門下三品,仍知選事。      従二品
顯慶1 三月丙戌,戶部侍郎杜正倫為黃門侍郎、同中書門下三品。 
顯慶1 七月癸未,中書令崔敦禮為太子少師、同中書門下三品。              従二品
顯慶4 四月丙辰,左僕射三品于志寧為太子太師、同中書門下三品。              従一品
顯慶4 乙丑,守黃門侍郎許圉師兼檢校左庶子、同中書門下三品。 
顯慶4 五月己卯,守黃門侍郎兼檢校左庶子三品許圉師為中書侍郎同三品。 
顯慶4 丙申,兵部尚書任雅相同中書門下三品
顯慶4 八月壬子,普州刺史李義府兼吏部尚書、同中書門下三品。 
顯慶4 癸亥,度支尚書參知政事盧承慶同中書門下三品。
龍朔2 八月壬寅,右相許敬宗為太子少師、同東西臺三品,仍知西臺事。          従二品
龍朔2 十月庚戌,西臺侍郎上官儀同東西臺三品。 
麟2 三月甲寅,司戎太常伯姜恪同東西臺三品。 
乾封2 六月乙卯,西臺侍郎楊武戴至同東西臺三品。
乾封2 六月乙卯,東臺侍郎李安期同東西臺三品。
乾封2 六月乙卯,司列少常伯趙仁本同東西臺三品。                 正四品
總章2 二月辛酉,東臺舍人參知政事張文瓘為東臺侍郎同東西臺三品。 
總章2 二月辛酉,右肅機李敬玄為西臺侍郎同東西臺三品。 
總章2 三月丙戌,東臺侍郎郝處俊同東西臺三品。
咸亨3 十二月,金紫光祿大夫致仕劉仁軌為太子左庶子、同中書門下三品。         正四品
上元2 八月庚子,東臺侍郎三品張文瓘 為侍中 同中書門下三品。             正二品
上元2 八月庚子,東臺侍郎三品郝處俊 為中書令 同中書門下三品。         正二品
儀鳳1 三月癸卯,黃門侍郎來恆同中書門下三品。 
儀鳳1 三月癸卯,中書侍郎薛元超同中書門下三品。 
儀鳳1 四月甲寅,中書侍郎李義琰同中書門下三品。 
儀鳳1 六月癸亥,黃門侍郎高智周同中書門下三品。 
儀鳳2 四月,太子左庶子張大安同中書門下三品。                      正四品
永隆1 四月戊辰,中書侍郎王真同中書門下三品。
永隆1 四月戊辰,黃門侍郎裴炎同中書門下三品。
永隆1 四月戊辰,黃門侍郎崔知溫同中書門下三品。
開耀1 七月甲午,劉仁軌罷左僕射,以太子少傅同中書門下三品。              従二品
弘道1 戊寅,黃門侍郎平章事劉景先守 侍中 同中書門下三品。              正二品
弘道1 戊寅,兵部侍郎同承受進止平章事岑長倩兵部尚書同中書門下三品。 
弘道1 戊寅,檢校太子右庶子平章事郭待舉左散騎常侍同中書門下三品。 
弘道1 戊寅,吏部侍郎同承受進止平章事魏玄同黃門侍郎同中書門下三品。 
光宅1 正月癸巳,左散騎常侍韋弘敏為太府卿、同中書門下三品。 
光宅1 二月丁丑,中書侍郎、豫王府司馬劉禕之為中書侍郎、同中書門下三品。
光宅1 閏五月甲子,禮部尚書武承嗣為太常卿、同中書門下三品。
光宅1 十月丁亥,左肅政臺御史大夫騫味道檢校內史、同鳳閣鸞臺三品。         ?
垂拱1 庚戌,檢校內史同鳳閣鸞臺三品騫味道 守內史 同三品。             正二品
垂拱1 二月乙巳,禮部尚書武承嗣同鳳閣鸞臺三品。
垂拱1 二月乙巳,右肅政臺御史大夫韋思謙同鳳閣鸞臺三品。 
垂拱1 二月乙巳,秋官尚書裴居道同鳳閣鸞臺三品。 
垂拱1 壬申,鳳閣侍郎平章事韋方質同鳳閣鸞臺三品。 
垂拱1 六月,天官尚書韋待價同鳳閣鸞臺三品。
垂拱2 六月辛未,納言蘇良嗣守文昌左相、同鳳閣鸞臺三品,            従二品
載初1 戊寅,左肅政臺御史大夫平章事王本立同鳳閣鸞臺三品。 
載初1 十月丁卯,春官尚書范履冰同鳳閣鸞臺平章事。
載初1 十月丁卯,鳳閣侍郎邢文偉同鳳閣鸞臺平章事。
天授1 一月戊子,納言武承嗣為文昌左相同鳳閣鸞臺三品。                従二品
天授1 一月戊子,内史岑長倩為文昌右相同鳳閣鸞臺三品。                従二品
延載1 四月壬戌,夏官尚書武威道大總管王孝傑同鳳閣鸞臺三品。 
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唐朝に「左遷」なし

2013-10-20 20:39:01 | Weblog
「左遷」の語源を引くと「中国では「右」を尊び「左」を卑しむ観念があり、官位の降格を「左遷」といった。」と出てくる。
日本では「右大臣は左大臣より下位とされ、右が左よりも下位」であり、中国とは文化が違うのだと言い立てる。
ところが日本の律令制の模範となった唐朝では「左が右より上である」
その実例を宰相府の尚書省の次官である左右の僕射に基づいて証明する。
尚書省の長官は尚書令だが、太宗皇帝が秦王時に任ぜられたため、その後大半の時期は欠員とされ、僕射が実質の長官であった。

[僕射の左右移動例]
裴寂  武徳6 右僕射→左僕射 
蕭瑀  武徳9 右僕射→左僕射
魏元忠 神龍2 右僕射→左僕射
蘇瓌  景雲1 右僕射→左僕射
韋安石 景雲2 右僕射→左僕射
竇懷貞 先天1 右僕射→左僕射
張説  開元17 右僕射→左僕射
 裴耀卿 天寶1 左僕射→右僕射
崔圓  大暦2 右僕射→左僕射
田神功 大暦3 右僕射→左僕射
賈耽  貞元16 右僕射→左僕射
韓皐  長慶2 右僕射→左僕射
杜悰  會昌4 右僕射→左僕射
崔鉉  大中9 右僕射→左僕射
令狐綯 大中12 右僕射→左僕射
杜悰  咸通2 右僕射→左僕射
路巖  咸通11 右僕射→左僕射
裴徹  光啓1 右僕射→左僕射
杜譲能 文徳1 右僕射→左僕射
裴樞  天祐2 右僕射→左僕射
 一例を除き、すべて右→左 であり、内容的にも昇格といえる。
 尚書左右丞でも同様の例がみられ、唐朝においては「左」が上位であることは疑いない。

 
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背徳の皇帝 唐太宗失政年代記 その1

2013-10-18 20:45:43 | Weblog
秦王李世民は武徳九年、皇太子である兄建成と弟齊王元吉を宮城北の玄武門に襲撃して殺害し
高祖皇帝に迫って立太子させ、やがて幽閉して即位しました。その際建成と元吉の子供をこと
ごとく殺した事については、元々唐家が蕃族である鮮卑人であるため、いたしかたがないと思
います。まあ皇太子に仕えていた家臣団を虐殺しなかったことで、助かった魏徴などの佞臣が
彼を褒め称えているのはご愛敬ですが。

武徳9年7月即位
8月北の蕃族国家突厥が問責に南下、対抗できない太宗は莫大な貢物を差し出し和約を結ぶ。
  これも正史では太宗が活躍したことにごまかしている。
  さすがに恥辱と思ったのか軍備充実を宣言している。
10月煙たい存在である前帝の名門宰相[梁朝の蕭瑀、陳朝の陳叔達]を追い出す
  功臣達に實封を大盤振る舞いする
11月煙たい親戚である皇室諸王の王爵を下げて勢力削減をし、大盤振る舞いの資本を回収

貞觀元年1月仲が悪かった燕郡王李藝を挑発し殺す
4月武功がある梁州都督長楽郡王幼良を殺す
6月宰相封彙が死ぬが、旧悪を蒸し返し削封
9月幽州都督王君廓[即位時に盧江郡王瑗を陥れるのに功績]を使い捨てて殺す
12月太宗派ではなかった武臣李孝常・劉徳裕等を殺す

貞觀二年6月10年以上前の煬帝弑殺に荷担したとして、功績のある辰州刺史裴虔通等を除
  名して流す。弑殺の元凶である宇文化及の弟士及は優遇して処罰しない二重基準
10月廣州都督を引き受けない盧祖尚を殺す

貞觀三年正月妖言をした者と付き合ったとかの些細な件で、建国の功臣裴寂を逐う、
 さらに処罰して流す
3月高祖を大安宮に移す
8月約を破って冷害で疲弊した突厥を攻撃する

貞觀四年2月李靖、突厥を破る。
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使相整理(方鎭別)6 幽州盧龍軍節度使

2013-10-18 11:40:41 | Weblog
安史の乱を引き起こした幽州節度ではあるが、朱滔などの一時期を除いては
唐朝に融和的である。遠隔であることと、辺境防衛の必要性からか。
節度使は劉氏以外の長期の世襲は少なく実力本位である。
安禄山以降を記述する。蕃族(下線)である。[ ]は使相以外
*[安禄山]
*李光弼 至徳1~2 河東より形式的転任、不任 平章事→至徳2司空
*[史思明]
*李光弼 乾元1~2 再任だが不任。司空平章事
*李懷仙
 雑胡.廣徳1~大暦3 史朝義を裏切って殺し節度使を与えられる。検校侍中。専権し朱希彩等に殺される。
*王縉 大暦3 門下侍郎平章事.李懷仙後の幽州回収を図るが、希彩に威圧されすぐ撤退。 
*[朱希彩]
*朱 大暦7~建中2 希彩を殺し自立。大暦9対吐蕃防衛を志し入朝し鳳翔節度を兼任。弟滔を留後とする。
建中2滔に盧龍節度を譲る。その後滔や部下の原節度の反乱に擁立され叛し誅。大暦11平章事.建中1中書令
*[朱滔]
*[劉怦]
*劉濟 貞元1~元和5 父怦の短期の統治を受け継ぎ長期政権。原則として唐朝に融和的で、成徳・魏博を圧迫する。
 貞元12.平章事→元和1.侍中→5.中書令 子總に毒殺される。
*劉總 元和5~長慶1 父や兄を殺し自立。唐朝には融和的であり、自責の念から出家することを望み、幽州を分割して
 唐朝に返納し、天平節度へ移るが途次に死去。元和11.平章事→長慶1.侍中.天平節度へ
張弘靖 長慶1 元宰相として幽州節度となるが、統御に失敗して朱克融に幽閉される。平章事
*[劉悟]
*[朱克融]
*[朱延嗣]
*李載義 寶暦2~大和5 朱延嗣を殺し自立。唐朝に融和的で、李同捷討伐に協力。楊志誠に逐われるがその功績を評価
 され、山西節度へ 大和3.平章事→5.太保
*[楊志誠]
*[史元忠]
*張仲武 會昌1~大中3 史元忠を殺し自立。唐朝に協力し回紇を破る。大中1平章事
*[張直方]
*[周綝]
*張允伸 大中4~咸通13 周綝卒後自立。唐朝に融和的。大中13平章事→咸通7.太保→11.侍中
*張公素 咸通13~乾符2 允伸子簡會を逐い自立。咸通14平章事。李茂勲に逐われて入朝したが貶 
*[李茂勲]回紇人
*李可擧
 乾符3~光啓1 父茂勲の短期政権の後を継ぐ。唐朝に協力して沙陀[李國昌・克用]を伐つ。
 義武軍を攻めるが敗北し、將李全忠に裏切られ自殺。廣明1.侍中?平章事説も
*[李全忠]
*李威 光啓2~景福2 成徳王鎔を助けて李克用と戦う。弟匡籌に逐われ王鎔を頼るが、乱して殺される。
 任平章事は不明。
*[李匡籌] 平章事になった可能性はあるが記録なし
*劉仁恭 乾寧2~天祐4 幽州を征服した李克用に任用されたが裏切り自立。魏博・成徳を圧迫し、滄景を制圧したが
 朱全忠に敗北し、子守光に幽閉される。
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使相整理(方鎭別)5 成徳軍節度使

2013-10-06 10:02:08 | Weblog
成徳軍は最も反唐朝的な方鎭で、節度使のほとんどは蕃族(下線)である。[ ]は使相以外
牙軍は強いが世襲的な色彩が強い。
*李寶臣 奚族 寶應1~建中2 唐朝とはつかず離れずで、子惟岳に世襲させようとして諸将に叛される 大暦11より平章事→司空 
*[李惟岳] 奚族 
*[張孝忠] 奚族 
*王武俊 契丹族 建中3~貞元17 自立を認められてからは唐朝に協調的であり幽州朱滔を破った。 興元1から平章事→中書令
*王士眞 契丹族 貞元17~元和4 唐朝に協調的 元和1から平章事
*[王承宗] 契丹族 
*田弘正 元和15~長慶1 中書令 魏博より転任したが牙軍により殺される
*[王庭湊] 回紇族 
*王元逵 回紇族 大和8~大中9 父庭湊は反唐朝で徹底していたが、協調的姿勢に転換。昭義劉稹討伐に協力して使相となる。 會昌3から平章事 
*[王紹鼎] 回紇族 
*[王紹懿] 回紇族 
*王景崇 回紇族 咸通7~中和3 唐朝との共存 咸通11から平章事→中書令
*王鎔 回紇族 中和3~ 平章事は不明→乾寧2より侍中→中書令 李克用に攻められ敗北を重ね、幽州李威の支援を得て鎭を保つ、その後は朱全忠の麾下に入る。すでに武将と言うより文人となっていた。

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使相整理(方鎭別)4 魏博節度使

2013-10-04 23:42:07 | Weblog
河北三鎭の一つ魏博節度使は自立が続き、唐朝から言うと外様にあたる。格式は高い。[ ]は使相にならず。

*田承嗣 廣徳1~大暦14 勢力拡大に努め、常に叛心を抱き、姑息な唐朝は慰撫し続けた。大暦8より平章事→司空→太尉
[田悦]
*田緒 興元1~貞元12 叔父悦を殺して自立、立場が弱く独立心が低下した。貞元12より平章事
*田季安 貞元12~元和7 降嫁した公主の養子ということもあり、一応恭順ではあった。元和1より平章事
*田弘正 元和7~15 傍系より嗣いだこともあり唐朝に忠順であった。成徳王承宗や淄青李師道を威圧し、淄青を解体させた。帰順した成徳軍へ移った。 元和14より平章事→侍中
*李愬 元和15~長慶1 中央より派遣された。李晟の子であり、淮西呉元濟を平定した名将であるが、既に病身であり太子少保に移った。平章事
[田布]
*史憲誠 長慶2~大和3 牙軍の頭目として、前使田布を自殺に追い込んだが、唐朝に心を寄せる息子と自立を志向する牙軍の間を揺れ動いた。牙軍の圧迫に耐えかね、魏博を二分割(魏博貝と相衛澶)して唐朝に引き渡し、自分は河中節度に移ろうとしたが軍乱により殺された。大和1より平章事
[李聴]不入
[何進滔]
*何弘敬 開成5~咸通7 反唐朝的な姿勢をとり続けた父進滔と違い、一応恭順であった。會昌4より平章事→中書令
*何全 咸通7~11 惰弱で牙軍(韓君雄)に殺された。咸通10より平章事
*韓君雄・允忠 咸通11~乾符1 牙軍の頭目である。咸通14より平章事
*韓簡 乾符1~中和3 允忠の子、黄巣の乱に乗じて勢力拡大を謀り南下し、河陽を取り、天平を攻めたが失敗し、牙軍(樂行達)に裏切られ殺された。乾符3より平章事→侍中
*樂行達・彦瑋 中和3~文徳1 牙軍の傀儡であり、子従訓を使って実権を得ようとしたが失敗し殺される。平章事にはなったはずだが記録はない。
*羅弘信 文徳1~光化1 牙軍に擁立される。朱全忠・李克用に侵攻され揺れ動く。平章事→侍中だが初任の記録がない。
*羅紹威 光化1~ 弘信の子。牙軍を粛清するが、弱体化し、朱全忠麾下に入る。光化2より平章事→侍中
 
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使相整理(方鎭別)3 劍南(西川)節度使

2013-10-03 14:32:55 | Weblog
唐朝の最終避難場所である成都には劍南西川節度使がおかれた。
 *は文官
*楊國忠 天寶10~14 遥領、対雲南蠻戦で敗績
*崔圓 至徳1~2 楊國忠の手下として劍南を統治、避難してきた玄宗に謁して中書侍郎平章事となる。肅宗麾下へ
*杜鴻漸 大暦1~2 宰相として節度使郭英乂を敗死させた崔寧の乱の鎮定に赴く、ひたすら慰撫して事変を収め、
 2年崔寧に西川を委ねて戻る。 黄門侍郎平章事.副元帥
崔圓 大暦2~14 西川を強力に統治し対吐蕃戦にも一定の戦果を得る。14年入朝し平章事
*張延賞 大暦14~貞元1 崔寧後の唐朝直轄に努力、宗奉天避難時は支援し宰相へ.興元1より平章事 
*韋皐 貞元1~21 長期に渡って西川を強力に統治、雲南と協力して対吐蕃戦に勝利。貞元12より平章事、17年より中書令、そして卒
*袁滋 永貞1 自立した劉闢を征討するために任命されたが忌避し罷免
*武元衡 元和1~8 韋皐・高崇文の後、西川を唐朝の直轄下に戻すため宰相より、門下侍郎平章事として准現任、任務を果たして戻る
*段文昌 長慶1~3 宰相より 平章事
*杜元潁 長慶3~大和3 宰相より 平章事 雲南の侵攻を招き貶
*段文昌 大和6~9 荊南より復任、平章事 卒
*李固言 開成2~會昌1 宰相より 平章事 右僕射へ
*崔鄲 會昌1~大中1 宰相より 平章事 卒
*李回 大中1~2 宰相より 平章事 坐李裕で貶
*白敏中 大中6~11 元宰相.邠寧より 平章事 荊南へ
*魏暮 大中11~12 宰相より 平章事 疾辭、吏部尙書へ
*夏侯孜 咸通1~3 宰相より 平章事 宰相に戻る
*蕭鄴 咸通3~5 元宰相 荊南より 平章事 雲南の侵攻を招き貶山西
*李福 咸通5~7 刑部尚書より 平章事 貶
*路巖 咸通12~14 宰相より 平章事→侍中・中書令 貶荊南、その後殺
陳敬瑄 廣明1~大順2 宦官田令孜の兄、黄巣の乱に僖宗を受け入れ 平章事→中書令 正官の太尉になったかも
 令孜失脚後追討を受け王建に滅ぼされる。
王建 大順2~ 元忠武将、陳敬瑄を滅ぼし自立、平章事→中書令→司徒 前蜀を建国
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使相整理(方鎭別)2 河東節度使

2013-10-02 18:25:58 | Weblog
 *は文官 下線は非漢族
*牛仙客 開元26~28 宰相の遥領
李光弼 至徳1~乾元2 朔方軍より郭子儀に推薦され河東防禦に派遣される。副元帥となり朔方へ
王思禮 乾元2~上元2 三公である司空に平章事なしで任ぜられた初任
辛雲京 寶應1~大暦5 節度使景山が殺害された軍乱の黒幕。まもなく帰順したため褒賞として平章事
*王縉 大暦3~5 雲京没後、中央から宰相として派遣し河東の掌握を図った。まもなく帰京。平章事
馬燧 大暦14~貞元3 河北三鎭の乱の征討に活躍 平章事→侍中 対吐蕃策に失敗して軍權を失う
王鍔 元和5~10 宦官に贈賄し平章事を得た。没
*張弘靖 元和11~14 名門貴族であり、河東における宰相後の使相初例となった。幽州節度へ 平章事
*裴度 元和14~長慶2 淮西征討の功労者。宰相より皇甫鎛に逐われるが隠然たる影響力を持つ.東都留守へ 平章事
李光顔 宝暦1~2 もともと河東出身の武将。忠武節度として淮西討伐で活躍。没  司徒兼侍中
*李程 宝暦2~大和4 宰相より.平章事 河中節度へ
李載義 大和7~開成2 元幽州節度使、軍乱で逐われるが唐朝は優遇。没 太保兼平章事
*裴度 開成2~3 東都留守より敬遠され再任。司徒兼中書令。帰京して没
*李石 會昌3~4 荊南節度より昭義劉稹征討のために任命。軍乱により逐われ免。平章事
 以降長期間使相はみられない。
康承訓 咸通10~11 徐州龐勒征討の功績で平章事。しかしすぐ讒言され貶
 乾符年間より軍乱が頻発し節度使が殺されることが多い
*李蔚 乾符6 元宰相。軍乱を抑えるために派遣されたが赴任してすぐ没 平章事
*鄭従讜 廣明1~中和3 現任宰相より軍乱を収めるために派遣され成功する。李克用に譲り帰任 平章事→侍中
李克用 中和3~ 沙陀。黄巣討伐に功績があり恩賞として与えられる。 平章事→侍中→太師.中書令 
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使相整理(方鎭別)1 朔方節度使

2013-10-02 15:53:19 | Weblog
使相(節度使が宰相職である同中書門下平章事・侍中・中書令を兼任する。名誉職で有り中央の行政に関与
するわけではない)を方鎭別に整理してみる。
*は文官 下線は非漢族
*王  開元11免 兵部尙書同中書門下三品より朔方節度を兼ねる、12月有罪、貶蘄州刺史
*李林甫 天寶10~11.4 中書令より兼任、配下李獻忠が叛し辞任
郭子儀 至徳1~乾元2 安史の乱に唐軍の主力となる朔方軍を支配 平章事→司空→左僕射→司徒.中書令
李光弼 乾元2~上元2 郭子儀の棚上げにより代わる 平章事→太尉中書令→侍中 敗績により河中へ
郭子儀 寶應1 司徒.中書令 僕固懷恩に譲る
僕固懷恩 寶應1~廣徳1免 太保.中書令 河北を平定するが讒言により反
郭子儀 廣徳2~大暦14 河中・邠寧・朔方 河中府に主力を移し朔方も領した 司徒.中書令
崔寧 大暦14~建中2 京畿・鄜坊・朔方  西川を返納して入京.実権はない. 平章事
李懷光 建中3~興元1免 河中・邠寧・朔方 河北征討や奉天の役に活躍、讒言され反 平章事→太尉中書令
渾瑊 興元1~貞元15卒  河中に屯し朔方・邠寧も副元帥として管轄 平章事→侍中→中書令
 朔方節度使としては杜希全・李欒などが赴任
 郭子儀が河中に屯した以降は辺境の朔方の地位は低下し名目的な兼任にすぎないが、名門であるため官位
 は高かった。渾瑊以降はまったくの邊鎭となり使相には任ぜられなかった。

  
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