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邠寧[ひんねい]節度使の歴史
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①.至德元年[756]
「別置關內節度使以代採訪使,徙治安化/順化郡」
關内道で京畿以外を管轄した關内採訪使[採訪使権限=六條檢察非法;擇賢刺史領之。非官有遷免,則使無廢更。惟變革舊章,乃須報可;自餘聽便宜從事,先行後聞]を節度使に編成替えしたもので、後記の邠寧節度使と領域が重複するのですが混乱期なのでやむをえないでしょう。
7月京師が陥落し、肅宗が朔方軍により擁立され、前蒲州刺史兼蒲關防御使呂崇賁が關内節度使兼順化郡太守となります。これはドタバタ中の一時的なものです。
12月兵部尚書王思禮が關内節度使となり実質的に成立します。
至德二年[757]9月に潞沁節度史程千里が賊に捕らえられて以降はこれを兼任します。
②.乾元二年[759]朔方節度使より分離する
「置邠寧節度使領州九:邠、寧、慶、涇、原、鄜、坊、丹、延」
③.上元元年[760]渭北節度使が分離します。
「罷領鄜、坊、丹、延」
④.上元二年[761]關内節度使は廃止される。
「廢關內節度使,罷領單于大都護,以涇、原、寧、慶、坊、丹、延隸邠寧節度,麟、勝隸振武節度。」
7月王思禮は河東節度使に転じる。②の乾元二年は上元元年[760]の誤りでしょう。
上元元年正月対吐蕃防衛の為に邠寧[桑如珪]鄜坊[杜冕]がそれぞれ副使となり、京師にいる郭子儀が両節度使を兼任するという体制となりました。しかしこれは肅宗・宦官李輔國が、郭子儀の軍權を取り上げて敬遠するという方策であり、軍備の弱体化を招き、廣徳元年[764]の吐蕃による京師陥落を招く原因となりました。
邠寧節度使は絶えず吐蕃の侵攻を受け、原州・慶州等は実質存在ていません。
⑤.大暦三年[768]
「罷邠寧節度使.朔方節度增領邠、寧、慶三州」
「置涇原節度使,治涇州。」
吐蕃の連年の侵攻は絶えず京師を脅かし、邠寧節度使[馬璘]単独の力では防禦力が不足していました。そのため河中府で強力な兵力を擁していた郭子儀に邠寧慶三州を与え[河中.朔方.振武.邠寧を兼任し兵馬副元帥である]て防禦の責任を与えました。
馬璘は分離した涇原節度使に転任となりました。
従来の邠寧軍はさらに貧寒で危険な涇原への移転を拒否して軍乱をおこしそうになりましたが、留後の段秀實等の努力によってなんとか移転することができました。
邠州には郭子儀の代理の武将が常駐し、涇原と協力して対吐蕃防衛にあたることになりました。
⑥.大暦十四年[779]
「復置邠寧慶節度使」
「朔方節度、析置河中、振武、邠寧三節度」
5月德宗皇帝が即位し、絶大な武力を握っていた郭子儀を太尉に祭り上げ、河中邠寧は李懷光に、振武は渾瑊に、朔方は常謙光に分領させることなり、邠寧慶節度使が復活しました。
8月李懷光は指揮に従わぬ邠府宿將史抗、温儒雅、龐仙鶴、張獻明、李光逸等を粛清しました。
⑦.建中二年[781]
7月邠寧河中李懷光は朔方節度使を兼任し、成德・魏博等の征討に向かい、4年10月の奉天の役には急行して来援し大功を上げました。しかしその後陥れられ反したにされました。
邠寧軍は河中に移る李懷光派と、邠州に残る唐朝派に分裂し、邠州派は興元元年4月韓游瓌の指揮を受けることになりました。
⑧.継承時の軍乱
邠寧節度使は京師に隣接し、吐蕃から北方を防衛する重要拠点のため強力な兵力が置かれていました。節度使の継承には牙軍の支持が必要で、継承の度に紛争が起こりました。
貞元四年[788]韓游瓌が失脚、左金吾将軍張獻甫の継承時に軍乱 誅二百
貞元十二年[796]張獻甫卒、楊朝晟の内部昇格の為騒乱無し
貞元十七年[801]楊朝晟卒、定平兵馬使李朝寀が任じられるが入れず。牙軍が推す高固が就任
元和二年[807]高固が離任、西川節度使高崇文が都統として就任
これより継承時の騒乱がみられなくなりました。
邠寧節度使は原則として神策系の武官が就任していきます。
⑨.大中三年[849]
「邠寧節度以南山平夏叛,徙治寧州,及內附,復徙故治。」
大中五年[851]
「增領武州=蕭關」
會昌年間[842~846]回紇帝国が崩壊し、吐蕃も弱体化。慶州付近に移住していたチベット系の黨項[タングート]が騒乱を起こすようになってきました。
三年七月邠寧節度使張君緒は吐蕃の故地蕭關を取り、他にも次々と河西の旧領が回復されていきました。
そのため邠寧節度使を邠州から寧州に前進させてその統治にしました。
⑩.大中五年
黨項の騒乱の鎮定のため宣宗皇帝は、宰相白敏中を司空同平章事充招討黨項行營都統制置等使南北兩路供軍使兼邠寧節度使として派遣し慰撫させました。
次期節度使の畢瑊の努力もあって、慰撫は成功した模様で、六年四月には敏中は西川へ転任しました。
宣宗や令狐綯に敬遠されていたのか宰相には復帰できなかったようです。
⑪.廣明元年
黄巣が京師を陥すと、神策軍とともに軟弱化していた邠寧軍も崩壊し、將王玫は黄巣に、朱玫は李存禮を節度使に擁して唐朝にと分裂しました。
⑫.光啓元年[885]
「邠寧節度賜號靜難軍節度」
その後朱玫が節度使に任ぜられ京師回復に功績がありました。
しかし宦官田令孜の専権に反発して、
光啓二年令孜とその傀儡の僖宗皇帝を興元に逐い、
嗣襄王を皇帝に擁立します。
その後共謀した鳳翔李昌符と対立し、
部下の王行瑜に裏切られて殺されます。
王行瑜が継いで邠寧節度使となりましたが、
鳳翔李茂貞・華州韓建と組み、昭宗皇帝を圧迫して支配しようとします。
ところが乾寧二年[895]沙陀出身の河東節度使李克用の攻撃を受けて敗死します。
やがて邠寧節度使は李茂貞の支配下に入り、
甥の李継徽[楊崇本]が節度使となり、五代に入ります。