唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大伴古麻呂と天宝の争長事件

2014-10-26 09:32:09 | Weblog
唐の天寶12年(753)の元旦の朝儀において、日本の大伴古麻呂が、
朝鮮の新羅と席次を争い上位を確保したという「天宝の争長事件」
がある。日韓問題がもめている現在、このような些細なことすら
話題にするものがいる。だが唐史を少しでも知るものにとっては
このようなバカバカしい話しはない。
唐史における外夷の重要さは、突厥・回紇・吐蕃・南詔が最重要で
あり、高句麗・渤海・吐谷渾・黨項・契丹・奚などが次ぎ、新羅も
重視されている。日本(倭)は時折朝貢する小国に過ぎない。
天寶年間においては新羅は唐に忠誠であるので、時期的に格下げに
なることもない。日本の席次は当然として新羅の下であろう。
朝儀にこだわる唐官僚がそれを乱すわけがない。変な事をすれば
弾劾されるであろう。新羅と日本の朝貢関係などは唐にはなんの
関係もないのだ。
明治以降日本が朝鮮を凌駕することが続いたとは言え、韓國等を
嫌悪することがあるとはいえ、歴史的事実を無視することはでき
なない。これは大伴古麻呂の虚言か妄想と判断するしかない。
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武寧軍節度徐泗濠観察處置節度使(感化軍節度)と軍乱

2014-10-09 15:31:32 | Weblog
強大な反朝廷系の淄青平盧軍節度使に対置し、淮南浙江よりの漕運の重要基点の徐州に位置する徐泗濠節度使は、もともと
淄青李納の叔父徐州刺史洧が歸順して成立したものだが、宰相李泌の建議により有能な壽州張建封に濠・泗州を付けて強化
したものだ。臨戦体制が常に維持されたために兵は強く、驕慢である。将帥が有能であれば働くが、文官等では制置すること
困難であった。何度も解体されたが必要のある藩鎮であるので再建された。

①.貞元16年(800)5月張建封卒、子の愔が自立
 朝廷は韋夏卿を後任としたが入れず、淮南杜佑に伐たせたが敗北した。そのため泗濠二州を取り上げて徐州のみを愔に
与えた。愔は元和元年まで統治したが奉還し、東都留守王紹を後任となり、泗濠二州が戻され牙軍は喜んで受け入れた。

②.長慶2年(822)3月武寧軍節度副使王智興逐其節度使崔羣
武寧軍は李愿・李愬に率いられ淄青李師道討伐に活躍したが、淄青が解体されると元宰相の崔羣が赴任した。しかし成
王廷湊が乱し兵乱が続くと武官の王智興が台頭し、羣を逐って自立した。軟弱な穆宗朝廷は漕運を脅かされこれを認めざ
る得なかった。だが智興の牙軍內の立場は弱体で有り、軍士を優待するとともに、宣武李介の自立を討伐したり、横海
李全略を征討するなど朝廷へのすりよりも忘れなかった。

③.大和3年(829)2月捉生兵馬使石雄を壁州刺史に推す。
牙軍內に智興を逐い、石雄を擁立するという気運が高まり、畏れた智興は朝廷に雄を刺史として出すことを求め、その赴
任後与党を誅殺した。さらに雄を殺すことを求めたが朝廷は勇を惜しんで流罪とした。雄はやがて起用され會昌年間昭義
劉稹の討伐に活躍した。大和6年智興は帰順した。

④.大和6年(832)3月新節度使李聴辞退
智興が忠武へ転任し、邠寧節度使李聴(晟の子)が転任したが、牙軍の強暴を畏れて辞退した。やむをえず文官の前忠
武節度使高瑀が赴任したが制することが出来ず、大和7年崔珙が代わりなんとか抑制することができた。

⑤.大中3年(849)5月徐州軍亂,逐節度使李廓。
李廓(宰相程の子)は牙軍を統制できず逐われた。後任の義成節度使盧弘止は都虞候胡慶方を誅して
これを抑えたが、銀刀軍(牙軍)の横暴はやまなかった。

⑥. 大中13年(859)4月武寧節度使康季榮不恤士卒,士卒噪而逐之。
武官の康季榮は牙軍に強く対応したため逐われた。後任の左金吾大將軍田牟は牙軍に徹底して迎合しなんとか勤め上げ
ることが出来た。

⑦.咸通3年(862)7月武寧軍亂,逐其節度使溫璋。
田牟没後、厳正な文官温璋が赴任することを聞いた牙軍は、これを忌避して排除したもので、朝廷は温璋に罪はないとし
て転任させた。

⑧.咸通3年(862)8月新節度使王式、誅牙軍、廃武寧軍節度使
浙東の仇甫の乱を鎮圧した王式(播の子)はその軍を率いて赴任し、武寧牙軍を誅殺した。そして武寧軍節度を解体し、
徐州には団練使を置いた。しかし牙軍の与党は地方に潜伏し盗賊となった。

⑨.咸通9年(868)7月武寧軍節度糧料判官龐勳反于桂州 ~10年9月
解体した牙軍残党が各地で跳梁したため、朝廷は徴募して対雲南蠻対策として嶺西や安南に派遣した。しかし観察使
崔彥曾は交替費用を惜しみ期限を無視して長期残留させたため、龐勳を中心として反乱し徐州に戻った。やがて徐州
周辺の賊や農民を巻き込み使府を陥し、周辺州を攻略した。朝廷は康承訓を將として大軍を送りやっと鎮圧したが、
賊は周辺に散り、やがて王仙芝・黄巣達の基礎となった。

⑩.中和元年(881)8月感化軍將時溥逐其節度使支詳,自稱留後。
黄巣討伐に派遣されることになった牙將時溥、陳璠は反して時溥を逐い、殺した。これより徐州は朝廷の統制をはず
れた。時溥は黄巣・秦宗權討伐には協力した。
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湖南都団練観察處置使(欽化軍・武安軍節度使)と軍乱

2014-10-08 22:49:42 | Weblog
湖南観察使は揚子江以南に位置し、東は江西、北は鄂岳・荊南、西は黔中、南は嶺東・桂管に囲まれる。唐代に置いては内地で
はあるが開発は進まず、特に南部に置いては蠻族が群居する不安定な地域で会った。牙軍といえるほどのものはなく、軍には蠻
族の首領が將として任用されている。

①.大暦5年(770)四月湖南兵馬使臧玠が觀察使崔灌を殺す
 崔瓘は清廉で有能であったが、当時の湖南軍は規律がゆるみ横暴で有り、給与のことで下僚と争い軍乱を起こした。
近隣の諸州より派兵し鎮圧させようとしたが、諸州の將も腐敗し兵も同様に弛緩しており簡単に鎮圧できなかった。
そこで羽林大将軍辛京杲を派遣した。京杲は鎮圧に成功したが、極めて貪婪・強暴であった。

②.大暦5年~建中元年(780) 湖南將王國良反し西原蠻と寇州縣
 観察使辛京杲は、蛮族出身の將王國良の財産を奪うために冤罪を負わせて刑に堕とそうとした。それに抗した國良は、
意に反して西原蠻と通じて反した。その後建中元年まで鎮圧できず、新観察使嗣曹王皐は身を挺してこれを慰撫し帰順させた
(國良は維新と賜名された)

③.大中12年(858)5月湖南軍亂,都將石載順等逐其觀察使韓
 4月嶺南、5月湖南、6月江西、7月容管、8月宣歙と連鎖型に波及した軍乱である。諸管区とも観察使以下が軍人の給与を
削減し、私物化するか中央への献金にあてていたため不満が爆発したもので、相互の連絡などはなく早期に鎮圧された。

④.乾符5年(878)3月湖南軍亂、都將高傑逐觀察使崔瑾
 流賊王仙芝が江西を陥し、与党が湖南各地を荒らし回っていた。その鎮圧に弱体な軍が酷使されたこによる不満とみられる。
都統王鐸は先鋒李係を大軍と共に湖南に入れた。

⑤.乾符6年(879)10月黄巣陥湖南
名将李晟の末である前泰寧節度使係は兵法に通じていたが、実戦では無能で、5万の兵と共に潭州に屯していたが、
流賊黄巣の急襲を受けてたちまち潰滅し遁走した。

⑥.中和元年(881)12月江西將閔勖戍湖南,還,過潭州,逐觀察使李裕,自為留後。
 黄巣の乱ですっかり軍紀の弛緩した唐朝では、文官の使を逐い自立することが横行した。以降は軍人どうしの争闘になる。

⑦.光啓2年(886)6月淮西將黃皓殺欽化軍節度使閔頊。衡州刺史周岳陷潭州,自稱節度使。
 蛮族出身の周岳が、流賊あがりの黃皓に閔頊を殺させて自立

⑧.景福2年(893)12月邵州刺史處訥陷潭州,欽化軍節度使周岳死之,處訥自稱留後。
 閔頊の部下處訥が周岳を伐ち自立

⑨.乾寧元年(894)5月孫儒將劉建鋒、馬殷陷潭州,武安軍節度使處訥死之,建鋒自稱留後。
 淮南を荒らしていた故孫儒の敗残軍が湖南に乱入し、備えができなかった處訥を殺して占拠した。

⑩.乾寧3年(896)4月武安軍亂,殺其節度使劉建峰,其將馬殷自稱留後。
 建峰は部下の妻女を姦したことを怨まれて殺害された。 後任に馬殷が擁立された。
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