天祐元年8月簒奪を計画した朱全忠[後梁の太祖]により、昭宗が殺害されました。即時に奪位するのは困難であったので、幼い昭宗九子輝王が擁立されます。もちろんなんの実權もない傀儡です。四年三月朱全忠に位を譲り曹州に幽閉され、翌年二月殺害されました。名実ともに唐朝は滅んだわけです。一応瞬間皇太子です。
昭宗は即位したもの実権は宦官楊復恭が握り、唐朝の大部分は軍閥が支配して、京師近郊しか支配権は及びません。まだ骨があった昭宗は楊復恭を追放しますが、鳳翔節度使李茂貞に京師を追われて、華州韓建の元に逃亡します。横暴ですが多少は学があった韓建は古例により皇太子を立てようとして、乾寧4年昭宗の長子德王祐を立太子します。実に敬宗以来です。光化3年12月酒乱の昭宗が宦官により廃位されると擁立されて即位しますが、翌天復元年正月宰相崔胤等により昭宗が復位すると、廃位され德王に戻されます。その後天祐2年朱全忠により殺害されました。
僖宗は唐代最低の皇帝で、宦官田令孜や楊復恭の完全な傀儡で、何一つ主体性はありません、白痴というのが言い過ぎならば魯鈍という所でしょう。黄巣に京師を追われて、剣南の成都に逃れ、その後も李克用や朱玫に京師を追われて山西を徘徊します。やっと京師に戻った文徳元年3月に27才で死んでくれました。もちろん皇太子など定まっていません。さすがにそのバカさかげんには辟易していた楊復恭達は、少しはみどころのある懿宗七子の壽王傑[昭宗]を皇太弟として擁立します。これも一瞬皇太弟です。
懿宗は無能であり我が儘で、妻の郭妃の言いなりで、宦官や腐敗した宰相達に政治を任せて仏教や遊興にふけりました。仇甫、龐勗の乱や南詔の侵攻がありましたが、宣宗の余光がまだあったのでなんとか体制は維持されていました。
皇太子は決められておらず、懿宗の死後、神策中尉劉行深、韓文約は、白痴的で幼少な五男普王儼[僖宗]を擁立しました。これも一瞬皇太子です。唐朝滅亡の始まりです。
皇太子は決められておらず、懿宗の死後、神策中尉劉行深、韓文約は、白痴的で幼少な五男普王儼[僖宗]を擁立しました。これも一瞬皇太子です。唐朝滅亡の始まりです。
宣宗は無能な長子の鄆王[懿宗]より、弟の蘷王滋を後継にしたいと思っていました。しかし長幼の順を乱すことを憚り、また宦官勢力に遠慮して立太子をせず、信愛する内樞密使王歸長や馬公儒等が蘷王を擁立することを望んでいました、しかし軍權を握る神策中尉王宗實は鄆王を擁立し即位させ、王歸長等を殺害しました。蘷王は殺されることはなく、4年後に卒しました。これも一瞬皇太子の形をとります。
武宗は廃仏政策により仏教の影響を受けた歴史家に誹謗されていますが、宰相李德裕を用いて唐朝の権威を高めました。しかし唐朝の悪い習慣である道教に凝り金丹などを服用したため頓死しました。武宗の子は幼く、宦官の神策軍中尉馬元贄は憲宗の子光王怡を擁立しました。武宗からみると「叔父」にあたり「皇太叔」という不思議なことになります。光王は表面上愚鈍にみえたため、宦官達は自由に操作できると考えたのかもしれません。そして傍系からの即位のため、自分達に恩義を持ってもらえると思ったのでしょう。ところが光王[宣宗]は「小太宗」と言われる名君でした。唐朝の国力も皇帝の実権も小さくはなっていましたが、国政を掌握しようと努力しました。唐朝は宣宗の死で終わり、あとは付け足しだと言われています。もちろん「皇太叔」は一瞬でした。