唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

咸亨五年・上元元年(674年.天武三年)

2007-02-28 19:38:21 | Weblog
二月劉仁軌が新羅を伐った。
新羅は百済故地に侵攻し、高麗の叛乱を煽っていた。
三月嶺南に流していた武元爽の子承嗣等を赦した。
九月故長孫無忌の官爵を復した。
十一月東都へ向かった。
十二月蔣王が自殺した。
謀叛を誣告された事を懼れたためである。
于閬・波斯国王が入朝した。
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咸亨四年(673年.天武二年)

2007-02-27 15:07:12 | Weblog
正月皇族の元老鄭王元懿が亡くなった。
三月許敬宗が曲筆していた国史を訂正させた。
閏五月李謹行が高麗残党を大破した。
八月高宗は病となり皇太子が監國した。
十月皇太子が妃を迎えた。
十二月西域の弓月・疏勒国王が入朝した。
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咸亨三年(672年.弘文元年・天武元年)

2007-02-26 18:26:03 | Weblog
正月姚州蠻が反したので伐った。
昆明蠻二万戸が内附して殷州など三州を置いた。
吐谷渾は吐蕃の侵攻から逃れ、靈州に安楽州を設けてもらい避難した。
吐谷渾の故地は吐蕃に没した。
八月佞臣許敬宗が死んだ。
十一月長安に戻った。
十二月高麗の残党が蜂起し、新羅はこれをたすけた。
新羅対策として、致仕していた劉仁軌が宰相に戻した。
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咸亨二年(671年.天智十年)

2007-02-25 08:40:07 | Weblog
正月食糧難のため東都へ向かった。
六月武后の甥武敏之が淫乱のため流された。
武后は一族といえども反抗した者に対する処罰は容赦なかった。
九月皇族の重鎮徐王元禮がなくなった。
十二月東都より戻った。
この年も不作が続いた。
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總章三年・咸亨元年(670年.天智九年)

2007-02-24 09:06:48 | Weblog
正月遼東の地を州縣として内地化した。
三月佞臣許敬宗が致仕した。
彼は唐初の史実を改竄したことで有名。
四月吐蕃・于閬が反し、安西四鎭を落とした。
そのため薛仁貴等が吐蕃を討った。
高麗で残党が蜂起した。
七月薛仁貴は吐蕃に大敗した。
巻き添えを食った吐谷渾は吐蕃に滅ぼされ、国王が亡命してきた。
閏月武后の祖先の尊貴化が続いた。
この年霜害・蝗害が相次ぎ全国的に饑饉が起こった。關中は特に厳しかった。
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總章二年(669年.天智八年)

2007-02-23 17:43:44 | Weblog
正月諸王の子を皆郡王とした。
五月高麗の三万戸を強制移住させ内地諸州に分置した。
六・七月各地で津波・大水が起こり被害が大きかった。
七月吐谷渾が吐蕃の攻撃を受けたため、契苾何力を送り支援した。
九月鳳翔へ出向いた。
十二月功臣李勣がなくなった。

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乾封三年・總章元年(668年.天智七年)

2007-02-22 23:18:43 | Weblog
二月李勣は高麗軍を大破した。
九月勣は平壌を陥し、ついに高麗を滅ぼした。その戸数は69万であった。
跡地には安東都護府を置いた。
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乾封二年(667年.天智六年)

2007-02-21 18:47:37 | Weblog
六月楊武・戴至徳・李安期・張文?などを宰相に補し、
宰相インフレの時期が始まった。
この夏旱天が続いた。
吐蕃の侵攻は続き、西部の羌達は次々と征服されていった。
李勣の高麗征討は続いている。
この年、嶺南洞獠が叛乱を起こしている。
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乾封元年(666年.天智五年)

2007-02-20 19:58:01 | Weblog
正月~四月泰山での封事が続いた。
六月高麗の実力者泉蓋蘇文が死に、継承の内紛のため
子の男建や孫の獻誠が帰服してきた。
高麗の国王は傀儡であり実権は泉氏が握っていた。
八月武后は気に入らない異父兄武惟良・懷運達を殺した。
十月李勣が内紛により衰弱した高麗討伐に向かった。
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麟二年(665年.天智四年)

2007-02-19 17:57:06 | Weblog
正月吐蕃が河源の地を要求してきた。
二月東都へ向かった。
春、弓月・疏勒・吐蕃が于閬を攻めた。唐は于閬を支援した。
八月旧百済の地に前太子扶餘隆を都督として復帰させた。
しかし一度亡んだ百済の統治はうまくいかなかった。
十月より泰山を封じた。

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麟元年(664年.天智三年)

2007-02-18 09:28:23 | Weblog
正月から辺境の都督府の再編が行われていった。
十二月高宗は武后の専断を憎み排除しようとしたが失敗し、
その謀議に預かっていた宰相上官儀が殺され、廃太子忠も巻き添えで殺された。
宰相劉道も連座して失脚した。
武后は完全に朝廷を支配することになった。
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龍朔三年(663年.天智二年)

2007-02-17 08:56:07 | Weblog
正月鄭仁泰が鐵勒を平定した。
四月宰相李義府が悪質な収賄のため流された。
武后には利用価値がなくなり、復活することはなかった。
六月吐蕃と吐谷渾が争い、唐は吐谷渾を支援した。
九月孫仁師が白江に百済・倭を破り、百済は完全に亡んだ。
日本は唐の攻撃を懼れて太宰府付近の防禦を図った。
十二月西域で弓月を討った。

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龍朔二年(662年.天智元年)

2007-02-16 17:59:59 | Weblog
二月蛇水で高麗討伐軍が敗れ、総管龐孝泰が戦死した。
三月鄭仁泰が鐵勒を破ったが損害が多かった。
四月長安に戻った。
十月宰相許圉師が子の不法を摘発され失脚した。
七月百済討伐が開始されたが、百済は倭に支援を求めた。
龜茲の残党が蜂起したため蘇海政に討たせた。
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顯慶六年・龍朔元年(661年.斉明七年)

2007-02-15 17:53:57 | Weblog
正月から高麗への攻撃が開始された。
三月には旧百済で蜂起が起きた。
四月には宰相任雅相が総帥となり大軍が高麗に向かった。
局地戦には勝ったが戦果は上がらなかった。
武后は宰相の私邸を次々と訪問しご機嫌取りを繰り返していた。
十月に東都へ向かった。
鐵勒が反乱したため鄭仁泰に討たせた。

年代記全体は以下のページで再編中です
http://www.occn.zaq.ne.jp/cuaez600/tou/
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顯慶五年(660年.斉明六年)

2007-02-14 09:41:54 | Weblog
正月蘇定方が賀魯部残党を平定した。
高宗は太原に向かった。
これは武后の郷里を訪問する目的であった。
三月蘇定方は新羅王とともに、高麗と同盟する百済を討伐した。
五月阿史那實が契丹を伐った。
百済・契丹討伐は高麗の羽翼を絶つために行われた。
八月蘇定方は百済を滅ぼした。
跡地に熊津など五都督府が置かれた。
十二月契苾何力・蘇定方等は高麗討伐にむかった。
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