唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

乾符二年(875年.貞観十七年)

2006-11-30 17:57:55 | Weblog
正月高駢は西川に入り兵備を整え、雲南蠻を撃退した。
四月浙西観察使では將王郢が戦功を認められなかったことで蜂起し、衆数万を集め大乱となった。
西川では咸通11年の雲南蠻の時、兵備を整えるため高給で募集した突將達が専横を極めていたため、高駢は六月家族を含め数千人を誅殺した。
六月王仙芝の乱は拡大し、天平節度使薛崇は敗北し、塩賊黄巣もまた蜂起した。
同じく六月幽州節度使張公素は暴戻のため逐われ、李茂勳[回紇人]が節度使となった。
七月蝗が大量発生し關中地方は不作となったが、京兆尹楊知至は蝗が荊棘に抱きつき自滅したというふざけた報告を出し、宰相達もそれを認めて祝った。
僖宗は低脳で遊宴を好み、政治は宦官とそれに結託した宰相にすべて任せていた。
十月昭義軍乱、節度使高が逐われた。
十二月平盧節度使宋威が王仙芝討伐の全権を命ぜられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十五年・乾符元年(874年.貞観十六年)

2006-11-30 17:56:34 | Weblog
正月于派が復帰していった。
五月懿宗を諫めて流された劉瞻が復帰し、庶民はこれを歓迎したが、八月宰相劉鄴の招宴後急死した。毒殺といわれる。
十一月雲南蠻は再び西川に侵攻し深く入った。
十二月安南で雲南蠻を大破した高駢が西川節度使となった。
この年、濮州で賊王仙芝が蜂起し、黄巣の乱の端緒となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十四年(873年.貞観十五年)

2006-11-29 18:01:15 | Weblog
仏教はいよいよ盛んで仏骨信仰で大騒ぎであった。
七月懿宗が亡くなり、より無能な第五子普王[僖宗]が宦官達により擁立された。
九月韋保衡がたちまち失脚し流され、十月殺された。
十一月西川節度使路巖もまた失脚し殺された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十三年(872年.貞観十四年)

2006-11-29 18:00:51 | Weblog
正月幽州節度使として有能であった張允伸が亡くなった。
子簡會が嗣いだが、二月たちまち將張公素が簒奪した。
五月懿宗の愛妻郭妃の弟の不正が訴えられた。
懿宗は激怒して訴人一族を処罰し、韋保衡は政敵宰相于派を大量追放し、さらにを殺そうと図ったが、の妻廣公主[懿宗の妹]が流地まで離れなかったため実行できなかった。
八月歸義軍節度使張義潮がなくなり、河西への間接統治も途絶えがちになっていった。
十二月沙陀出身の振武節度使李國昌が専横で、大同軍へ移されたが赴任しなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十二年(871年.貞観十三年)

2006-11-28 18:09:58 | Weblog
正月讒言の大好きな韋保衡は、相棒の宰相路巖も西川節度使に追放した。
巖は庶民に極めて不人気で、出京時に石礫を雨と浴びせられ、吏員もそれを止めることができなかった。
世相を反映して仏教への傾倒が強まり、廃仏の影響は見られなくなっていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十一年(870年.貞観十二年)

2006-11-28 17:48:33 | Weblog
正月~二月雲南蠻は成都に侵攻し陥落寸前となった。
龐を征討した康承訓は、たちまち宰相路巖や韋保衡達から批判され失脚した。
これにより将軍達に保身が強まり、賊を本気に討伐するより表面上をごまかそうとする傾向になっていった。
依然として武寧軍[徐州]のあとには群盗が横行し、六月には徐濠宿観察使を復置して治安対策にあたることになった。
八月魏博節度使で軍乱が起こり、長く続いた何氏の支配が終わり、韓君雄が自立した。
魏博の牙軍の横暴はさらに強まりこれからの節度使はその傀儡でしかなかった。
同じく八月懿宗とその愛妻郭妃の子同昌公主[韋保衡の妻、その権力の源泉]が亡くなった。
懿宗は狂乱し、治療に当たった医師とその親族三百人を投獄した。
宰相劉瞻や諫官達はそれを諫言したが、かえって左遷・流罪となった。
京兆尹温璋は懿宗の無能に絶望して自殺した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通十年(869年.貞観十一年)

2006-11-27 19:05:01 | Weblog
三月元宰相楊収、四月鎭南節度使嚴譔が殺された。
四月以降龐勢力で裏切りがあいつぎ、状況は好転し、やっと九月討滅することができた。
ところが十二月雲南蠻には西川に大挙来寇した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通九年(868年.貞観十年)

2006-11-27 17:57:51 | Weblog
六月李師望は雲南蠻対策として、西川節度使を分割し、嶲州に定邊軍節度使を置くことを提案し実現させた。
七月桂州で雲南蠻対策として武寧軍から派遣されていた龐達が反抗し勝手に帰郷し始めた。
これは三年を期限として派遣される約束が、六年を過ぎても経費不足を理由として交替をされなかった怒りが爆発したものである。
十月達には衆が集まり徐州・宿州を陥落させた。
十一月康承訓達が征討することになったが、の勢力は付近の不満勢力を集めて急速に拡大し敗戦が続いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通八年(867年.貞観九年)

2006-11-26 13:14:08 | Weblog
懿宗は音楽好きで、楽工李可及に新曲を作らせ寵遇していた。
七月懷州で民乱がおき、刺史劉仁規が逐われた。
懿宗の娘婿韋保衡は、信任を利用して弾劾を好んだ。それにより八月宰相楊収が失脚した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通七年(866年.貞観八年)

2006-11-26 09:48:50 | Weblog
三月成徳軍節度使王紹懿がなくなり、甥景崇に無事継承された。
閏月吐蕃が邠寧に寇した。
六月高駢は雲南蠻を大破し、安南を回復した。
その前宦官李維周は高駢を讒言し罷免させていた。
閏六月魏博何弘敬が亡くなり、子の全に継承された。
もはや朝廷は河北三鎭に対する干渉はあきらめ、自立を認めている状態となっていた。
三鎭側も朝廷領域への干渉を行わなかった。
十一月安南に静海軍節度使を置き、高駢が節度使となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通六年(865年.貞観七年)

2006-11-25 15:35:37 | Weblog
五月、南部は暑熱で軍備を集積するには適さないので、江西に鎭南軍を置き軍備蓄積をおこなうことになった。
同じく五月雲南蠻は嶲州を陥落させた。
九月宦官李維周の妨害にもかかわらず、高駢は雲南蠻を大破した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通五年(864年.貞観六年)

2006-11-25 09:20:58 | Weblog
雲南蠻は正月嶲州、三月邕管と攻勢を強めた。
三月康承訓は雲南蠻に大敗したが、勝利したと偽り賞を受けた。
五月元の武寧軍地域では群盗がはびこり、治安対策として徴募して南方に送ることになった。
七月康承訓の偽りが曝かれ左遷された。
新たな雲南蠻征討には高駢[崇文の孫]が選ばれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通四年(863年.貞観五年)

2006-11-24 22:52:42 | Weblog
正月雲南蠻はついに安南を陥落させ、都護蔡襲は戦死した。
二月宋戎・康承訓が征討しとなり奪還を図り、大軍が集結していった。
同じく二月西邊秦州に天雄軍を置き隴右地方の安定化を図った。
十二月昭義軍節度使沈詢は、女と密通した奴隷に殺された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通三年(862年.貞観四年)

2006-11-24 18:04:22 | Weblog
正月雲南蠻が再び安南に侵攻し、都護は王から蔡襲に代わった。
五月対雲南蠻対策として邕管経略使を嶺西節度使とし、提唱者の蔡京が赴任した。
七月恒例の武寧軍乱がおき、節度使温璋が逐われた。温璋には過失はなく牙軍の横暴によるものであり、朝廷はついに仇甫の乱を平定した王式を武寧節度使として制圧させることにした。
八月式は仇甫征討軍を連れて赴任し、牙軍数千人を誅殺し、武寧軍を解体した。
しかし残党は地方に散らばり治安は極端に悪化した。
九月嶺西軍乱、苛政・虐刑をしいていた節度使蔡京が逐われた。
十二月雲南蠻五万が安南都護府を包囲した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸通二年(861年.貞観三年)

2006-11-23 11:25:03 | Weblog
八月以降雲南蠻は邕管・嶲州を攻撃し掠奪した。
邕州では前使段文楚が軍費を横領[宦官に上納し栄転を図る]し兵備を備えず、経略使李弘源は赴任したが守る兵がいなかった。
朝廷は罰として段文楚を再任した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする