・乾元2年[759年]揚子江中流域の要衝鄂州に鄂岳沔都団練守捉使が置かれた。主要な目的は防禦ではなく、
淮南・浙江からの租庸の京師への漕運を確保するためであったようだが、まともな記録はない。
・永泰元年[765年]に都団練観察使に昇格した。これは経済官僚の穆寧の赴任にあわせたものであり、
その後も文官が続いた。
・大暦12年[777年]に防禦観察使となったが、大暦14年行政整理のため廃止された。
・興元元年正月[784年]淮西李希烈軍が鄂州を急襲したが、刺史李兼は防衛に成功し都団練観察使と
なった[方鎭表では建中4年[年]であるが誤記]
・元和元年[806年]鄂岳觀察使韓皋は奉義節度使を兼任し、伊愼が領していた安黄二州を管轄するよう
になった。しかし愼の子宥は安州刺史兼安州留後としてとどまり完全な回収はできなかった。
淮南・浙江からの租庸の京師への漕運を確保するためであったようだが、まともな記録はない。
・永泰元年[765年]に都団練観察使に昇格した。これは経済官僚の穆寧の赴任にあわせたものであり、
その後も文官が続いた。
・大暦12年[777年]に防禦観察使となったが、大暦14年行政整理のため廃止された。
・興元元年正月[784年]淮西李希烈軍が鄂州を急襲したが、刺史李兼は防衛に成功し都団練観察使と
なった[方鎭表では建中4年[年]であるが誤記]
・元和元年[806年]鄂岳觀察使韓皋は奉義節度使を兼任し、伊愼が領していた安黄二州を管轄するよう
になった。しかし愼の子宥は安州刺史兼安州留後としてとどまり完全な回収はできなかった。