唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

鄂岳都団練観察使 奉義軍節度使 その1

2012-09-27 22:56:55 | Weblog
・乾元2年[759年]揚子江中流域の要衝鄂州に鄂岳沔都団練守捉使が置かれた。主要な目的は防禦ではなく、
淮南・浙江からの租庸の京師への漕運を確保するためであったようだが、まともな記録はない。
・永泰元年[765年]に都団練観察使に昇格した。これは経済官僚の穆寧の赴任にあわせたものであり、
その後も文官が続いた。
・大暦12年[777年]に防禦観察使となったが、大暦14年行政整理のため廃止された。
・興元元年正月[784年]淮西李希烈軍が鄂州を急襲したが、刺史李兼は防衛に成功し都団練観察使と
なった[方鎭表では建中4年[年]であるが誤記]
・元和元年[806年]鄂岳觀察使韓皋は奉義節度使を兼任し、伊愼が領していた安黄二州を管轄するよう
になった。しかし愼の子宥は安州刺史兼安州留後としてとどまり完全な回収はできなかった。
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大同節度使 雁門節度使 代北節度使 その2

2012-09-26 11:59:01 | Weblog
・國昌・克用は征討されたが、沙陀の武力は強く、敗戦により疲弊した河東・昭義節度使には軍乱が続いた。
南からの黄巣の侵攻と北の沙陀の叛乱により唐朝は混乱した。
・廣明元年七月[880年]幽州李可擧は藥兒嶺で沙陀を大破し、國昌親子は達靼へ逃亡し乱は治まったが、
12月京師は黄巣によって陥落した。
・京師回復をねらう都統王鐸等は黄巣の拠る京師を包囲したが、地域戦では敗北を重ねていた。そして強い
打撃力を求めて沙陀等の蕃族を導入したが統率することができなかった。
・そのため中和元年[881年]國昌・克用父子を赦したが、河東節度との紛争が続いた。
・中和2年忻代二州に拠る克用を雁門節度使とし、京師回復を命じた。方鎭表では「更新大同節度使為鴈門
節度領左神策軍天寧鎭遏観察使徒治代州」である。
・中和3年克用は南下して黄巣を追いはらい京師を回復した。その功績により7月河東節度使を与えられ、
8月國昌は鴈門節度使を改称した代北節度使を与えられた。
・光啓3年2月[887年] 國昌は卒し、領域は河東克用の支配下に併合された。
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大同都防御使 大同節度使 その1

2012-09-25 15:26:00 | Weblog
・會昌2年[842年]衰亡して潰乱した回紇の一部は南下して河東・振武・天徳に侵入してきた。
8月雲州に来寇し刺史張獻節は籠城し、地元の党項・吐谷渾など蕃族は避退した。
方鎭表では「置大同都団練使治雲州領雲朔蔚三州」と記載されている。河東節度使の管轄下
にあったとみられる。
・會昌3年、方鎭表では大同都防御使に昇格したとされるが、やはり河東管轄下であろう。
・通鑑では大中13年[859年]3月、割河東雲、蔚、朔三州隸大同軍という記事がある。
・咸通10年[869年]沙陀の朱邪赤心[賜名されて李國昌]が徐州龐の叛乱鎮定に大功があっ
たため、大同軍を節度使に昇格して任じたが、召見時に左金吾上將軍として京師にとどめ、
やがて振武節度使としたため実際の変更はなかった。
・咸通13年[872年]振武節度使李國昌は功を頼み、勝手に官吏を殺したため、大同軍防御使に
格下げされたが、病気と称して赴任せず振武に居座った。
・乾符5年[878年]正月 國昌の子克用を中心とした沙陀の不満分子は、大同防御使段文楚の失政に
乗じて軍乱を起こし、文楚を殺した。唐朝は太僕卿盧簡方を鎮定に派したが失敗し、
振武節度使國昌を大同節度使[方鎭表で防禦使より節度使に昇格]に移鎭させて慰撫しようとしたが
國昌は両鎭を親子で治める事を求めて動かなかった。
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豐州 天徳軍都団練防御使

2012-09-24 22:04:28 | Weblog
・貞元12年[796年]黄河屈曲部の豐州に天徳軍都団練防御使が置かれ、河東行軍司馬の李景略が任用された。
これは当時まだ強力であった回紇から畏敬の念をもたれていた景略の有能さを懼れた河東節度使李説
の巧みな追い出しであった。
・永貞元年[805年]厳酷な景略がなくなると、軍士は寛仁で知られた判官の任迪簡を擁立した。
・その後天徳は河東と協調して動き、対回紇の最前線として、武将の赴任する所となった。
・會昌元年[841年]軍使田牟[弘正の子]の時、衰亡し分裂した回紇が南下し唐領に侵入し始めた。牟はこれ
を撃つことを求め、會昌2~3年に石雄[旧武寧將]を將として河東・幽州軍とともにこれを殲滅した。
・石雄は代わって軍使となり、會昌三年[843年]昭義劉稹の征討に活躍した。
・その後乾符2年[875年]までは記載があるが、その後は記録はない。
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渭北ふ[鹿+オオザト]坊丹延節度使 保大軍節度使 その2

2012-09-14 12:11:18 | Weblog
・その後武官系の節度使[論惟明-王栖曜-劉公濟-裴玢-路恕--]と続く。強力な牙軍は形成されず
京師の脅威とならないために、帰属した外藩の子孫の赴任地[宣武の韓公武や韓充.成徳の王承元.
魏博の史孝章]としても多く利用された。
・唐末になると多くの夷狄が住み、また侵入してくるこの地域は動揺していった。黄巣の乱には
節度使李孝章・東方逵は奮戦したがどちらかといえば敗戦続きであった。
・中和2年[882年]に保大軍節度と賜號された。
・光啓2年[886年]夏綏を支配していた党項の拓抜思恭の弟思孝が鄜坊を占拠し節度使となった。
・その後、拓抜家の支配は光化2年まで続き、その後は鳳翔李茂貞の支配下となった。この移行経
過はよくわからない。
・天復3年[903年]朱全忠の鳳翔攻囲に際し、節度使李茂勳[茂貞従弟]は来援したが、かえって
留守の鄜州を全忠軍に奪われ降った。
・その後鄜坊は全忠支配下になった。
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渭北ふ[鹿+オオザト]坊丹延節度使・都団練観察使 その1

2012-09-10 10:26:07 | Weblog
・上元元年[760年]坊州に渭北鄜坊節度使が邠寧節度使と同時に置かれた。領州は鄜坊丹延の四州、
關内と河東の境界及び京師北邊を守護する目的であった。
・実際は朔方郭子儀の兵権を奪い、李光弼に与えた後処理である。子儀は京師に籠居し、
邠寧・鄜坊両節度使を併任するという形をとったが、実権はなく、また兵備も整っていなかった。
そのため廣徳元年[763年]の吐蕃の京師侵攻には対処できなかった。
・その後武将が赴任していた。廣徳2年節度使杜冕は同華周智光に逐われて逃亡するなど弱小藩鎭であった。
・大暦14年[779年]の行政整理により都団練観察使になったが、建中4年[783年]朱の反乱により、
観察使李建徽は節度使となり鄜州へ移治したが、敗戦が続きさしたる働きはできなかった。
・そのため渾瑊や李晟など他の武将の麾下にされることが多く、都団練観察防禦使に降格された。
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滄州 義昌軍節度使 その4

2012-09-03 10:12:54 | Weblog
・大和3年[829年]齊徳滄節度使として再出発した。その後は武官を中心とした唐朝派遣の
節度使がさしたる事件もなく統治していった。
・大和5年[831年]義昌軍節度と賜號された。
・義昌は領域は広いが痩せ地であり、製塩や漁業などもみられるが経済的には貧困地帯であった。
・中和4年[884年]京師回復に功績があった義成王鐸が義昌に移鎭することになった。しかし途次
魏博樂彥貞の子従訓に襲撃されて掠奪虐殺されるという事件が起こったが唐朝は衰微していて追及できなかった。
・事件は前帥楊全玫が交替を嫌って依頼したものであったが、さすがに評判は悪く。
彥貞も全玫も失脚する原因となった。
・將盧彥威は光啓元年[885年]全玫を逐い自立した。
・勢力が微弱な彥威は唐末の戦乱の中ではさしたる動きをみせることはできず、光化元年[898年]
幽州劉仁恭の攻撃を受けて逐われ、仁恭の子守文が帥となり五代に至った。
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